ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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合縁奇縁

 ―ある時、朝の東校舎

 

 冷えた空気に足音が連なり、薄曇りの空の下で、訓練生たちが整列しながら走り込みを行っていた。ヒスイはその中の一人。汗ばんだ額に髪が張りつき、息を整えながら前を見据えて走り続ける。

 

 周囲の生徒たちも皆、無駄口ひとつ叩かず、規則正しく地を蹴っていた。東校舎では、走るという行為すら訓練の一部であり、気配や脚力、意識の制御まで評価される。

 

 だが、その時――

 

 ふと、ヒスイの視線が横の鉄柵の方へ逸れた。柵の向こう、東と西を隔てるわずかな距離の先。そこに、世怜音女学院の制服を着た少女が立っていた。

 

 ――周央サンゴ。

 

 眼鏡をかけ、どこか物静かな面持ちで、じっとこちらを見つめていた。東の制服とは異なる、見た目だけは瓜二つの武装に適していない西校舎の制服。その姿に、ヒスイは思わず内心で呟く。

 

 (あいつ……)

 

 だが立ち止まることなく、ヒスイはそのまま視線を前に戻し、走り込みを続けた。決して口には出さないが、喉元まで出かけた言葉は、「なんでそこにいるの?」だった。

 

 走り込みを終え、汗を拭いながら校舎の裏へ回り込んだヒスイは、静かに靴音を殺してサンゴの背後に回る。

 

 相手が何をしに来たか、ただ立っているだけなのか、確認する必要があった。だから――声をかけた。

 

 「……今度は何の用? こんな変装までしてさ」

 

 サンゴは、肩越しに振り向き、首を少しだけかしげた。

 

 「変装?」

 

 その一言で、ヒスイは目を細めた。

 

 「……じゃあ、何? 変装じゃないって言うなら、なんで“世怜音女学院”の制服着てるのよ」

 

 するとサンゴは、まるで「何を今さら」とでも言いたげに、微笑を浮かべながら答えた。

 

 「ここが僕の学校だからだよ。世怜音女学院・西校舎の中等部1年、周央サンゴ。

それが僕の“一面”だからね」

 

 ヒスイは、しばらく言葉を失った。サンゴの眼は嘘を語っていない。表情も、その姿も、完璧に“西の生徒”として存在していた。

 

 「……別におかしな話じゃないけど」

 

 言葉を絞り出すように言いながら、ヒスイの胸には別の思いが渦巻いていた。

 

 (こいつ……“自分の学校”に捕まってたのか……)

 

 東と西――同じ学園に属しながら、全く異なる運命と宿命を背負う場所。それの渦中にある一人の少女の存在に、ヒスイはうっすらとした同情と、言いようのない不気味さを感じていた。

 

 「……あんたがどういう立場なのか、ますます分かんなくなってきた」

 

 そう呟くと、サンゴはどこか嬉しそうに目を細めた。

 

 

 

 

 ―またある時、西校舎の昼下がり。

 

 少し蒸し暑さの残る校舎内にて、ヒスイは制服の襟を少し開きながら、棒付きの飴を口にくわえて廊下を歩いていた。

 

 (……これ、ほんとは東校舎じゃ買えないんだよなあ……)

 

 購買部の棚の奥で偶然見つけたレトロな飴玉。無機質な訓練漬けの毎日の中では貴重な「甘さ」だった。西の校舎に紛れ込むのも一苦労だったが、今は人目も少なく、何とか自然に戻れそうだった。

 

 だが、ふと背後に気配を感じる。

 

 ……付いてきてる。しかも、ぴったりと。

 

 曲がり角を曲がるたびに、その気配は変わらずついてきた。ヒスイは顔をしかめて、飴を口の端に寄せた。

 

 はいはい、来たよ

 

 廊下から人気のない資料室の裏手へ入ると、すぐに気配の主が現れた。

 

 ――サンゴ。西校舎の制服を着たまま、静かに立っていた。

 

 「……ちょっと。

 

 ヒスイが振り返ると、サンゴは一歩近づき、低く、まるで会話のように見えない声で呟いた。

 

 何のつもり」

 

 「暗殺に使うなら、グロックにサプレッサーをつけるよりも――

 消音に特化した拳銃を選んだ方がいい。

 例えば、.22口径。発砲音は極めて小さく、対象に気づかれにくい。アメリカのマフィアでも、静音処理に使われた定番だよ」

 

 ヒスイは片眉を上げ、呆れたように口の中の飴を転がしながら答える。

 

 「……は? 面倒くさいなぁ…….22口径じゃ防弾抜けないでしょ。任務で使えんっての。そういうのは趣味でやっててよ」

 

 肩をすくめながら、ヒスイはその場をすり抜け、足早に廊下を離れていった。飴の包み紙がポケットの中でしゃらっと鳴る。

 

 そして、資料室の影に取り残されたサンゴは、口元に手を当てながら、ぽつりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 昼下がりの教室、窓際の席で周央サンゴは静かにノートを取りながら、チョークの擦れる音を背後に受けていた。教壇の教師が何を喋っているかは理解していたが、内容はすでに頭に入っており、耳は開いていても心は別の場所を彷徨っていた。

 

 ――それは、東校舎。

 

 毎朝、登校するたびに校舎の一部が見える。遠くから見れば西と大差ない外観。だが、観察を続けていれば分かる。建材の継ぎ目、監視カメラの角度、非常口の位置、そして何よりも空気が違う。

 

 (東校舎は……こうして見ると、やっぱり“学園”っていうより、“兵士の訓練場”って感じの作りをしてるな)

 

 西校舎に通う一般の生徒たちは、たぶん誰も気づいていない。西と見た目を似せるために、意図的に設計はなされている。でも――

 

 (それでも、普通の学校には絶対ないような“増築の仕方”がされてる。裏の配管経路、屋上の床材、地下への出入り口の気配……全部、実戦を想定した構造だ)

 

 ペンを止めたまま、視線は教室の外へと泳いだ。教室内の誰もが普通の生活をしているこの空間と、柵の向こうにある“もう一つの学園”のコントラストが、サンゴの胸に沈殿していく。

 

 (……ヒスイは、何を思ってあんな仕事をしてるんだろう)

 

 彼女の無表情な横顔、鋭く研ぎ澄まされた動き、躊躇いのない手口――それらはまさに兵士そのものだった。けれど、一緒にいたほんの短い時間で、サンゴは知ってしまった。

 

 あの子の奥には、何か痛みのようなものがある、と。

 

 (……セイラさんも。好きであの仕事をしてるって感じじゃなかった)

 

 自分を担当した担当官の少女も、どこかで人間としての“割り切れなさ”を抱えていた。ましてや、ヒスイのような子どもが――命をかけることを“当然”とされていることに、サンゴは言葉にしようのない引っかかりを感じていた。

 

 (僕は……確かに、ずっと前から知ってた。国防のための秘匿組織があるのは、頭では分かってたけど――)

 

 そこにいるのはてっきり、軍人を引退したおじさんたち。年金じゃ足りない人たちが、古い肩書を盾にのし歩く、そんなものだと思っていた。

 

 (でも……あんな風に、子どもたちも命をかけてる。しかも、“感情を押し殺す”のが当然だと教え込まれて)

 

 サンゴはふと、拘束されたあの廃ビルの夜を思い出す。手を縛られ、銃を向けられていたあの時。普通なら恐怖すら感じる状況で、なぜか不思議な――親近感に似たものが芽生えていた。

 

 (あの時から、どこか気になってたんだよな……)

 

 彼女の目にある、他人には見せない“芯”。生きることに対してどこか諦めのような、でも最後まで逃げない覚悟のような。

 

 サンゴはペンを再び持ち、ノートに落書きのように線を引く。その線は、教科書の内容とはまったく関係のない輪郭を描いていた。

 

 サンゴはそっとノートを閉じた。

 

 ―暴力団の臨時集会所。

 ―朝の東校舎。

 ―西校舎の昼下がり。

 

 「……なかなか、うまくいかないな……」

 

 眼鏡の奥の瞳はわずかに寂しげで、けれどその奥で、何か別の“方法”を思案するように光が瞬いた。

 

 (……どうすれば、ヒスイと友達になれるんだろ)

 

 教科書に視線を落としつつ、脳内には午前中のやりとりが再生されていた。無言で飴をくわえて歩き去るヒスイの背中――防御を解こうとしない、あの目。

 

 無理に距離を詰めるのは逆効果

 

 かといって放っておくと、こっちから切られる……むずかしいな。

 

 頬杖をついたまま、サンゴは机の下に隠していたスマホをスリーブからそっと取り出した。画面には、匿名通信の暗号化されたやりとりが複数表示されている。“天下無双”宛てのクライアントからのメッセージだった。

 

 

 

 

 

 

 一つ目は、ある男からの依頼。

 

『痴漢冤罪で人生が狂いました。あの女の情報を突き止めてください。証拠ならいくらでも出します。あの女は過去にも何人も嵌めています。』

 

 サンゴは、画面を見つめながら無言で思う。

 

(……こいつ、文面からして常習犯じゃん……被害者の“特定”なんてさせたら、何されるかわかったもんじゃない)

 

 教室の端で教師が板書している間に、サンゴは素早く返信を打つ。

 

『確認に時間がかかります。データ精査後、追って連絡します。』

 

 形式的な返信。時間稼ぎに過ぎない。

 

(後で警察に通報しておこう……メアドとIPはログ取ってあるし)

 

 そして、もう一つの案件へと画面を切り替える。

 依頼者は、数カ月前から断続的に情報提供を求めていた人物だ。

 

『あのマルチ商法のやつ、まだ逃げてます。今度は別の会社名で暗号通貨を扱ってるらしいです。詐欺セミナーに参加した人の連絡先、持ってませんか?』

 

 サンゴはやや顎に指を添えながら考える。

 

(……こないだの違法キャバクラは外れだったしな……そっちは見張りとして東校舎の兵士たちが活躍してたけど、あれはまた別件か……)

 

(似たような話し方と手口で、セミナーやってる奴……どこかに痕跡があるはず)

 

 彼女はスマホを閉じる直前に、ふともう一つ思い出した。

 

(金融庁に登録のない暗号通貨は違法。そこを足掛かりにすれば、仮に本人が見つからなくても“副収入”くらいにはなる)

 

 そう結論づけると、サンゴはスマホをスカートの内ポケットに戻し、何事もなかったように前を向いた。

 指先だけで教科書をなぞりながら、頭の中では次の情報収集ルートと、ヒスイとの距離の詰め方を同時に考えている。

 

(……友達って、どうやって作るんだっけ……)

 

 そんな他愛のない問いが、教科書の数式よりもずっと難しく感じられた。

 

 放課後、チャイムが鳴り終えた教室内に、生徒たちの談笑が広がり始める中――

 教師の一人が、机からノートも閉じずに座ったままの周央サンゴに静かに近づいた。

 

「……周央さん」

 

 サンゴはゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥の瞳をまっすぐ教師へ向けた。

 

「はい?」

 

「勉強熱心なのはいいことですが……学校の授業も疎かにしてはいけませんよ」

 

 やんわりとした注意。だが、教師の声には明らかな“見抜かれた”ニュアンスが含まれていた。

 確かにサンゴは授業中、ほとんど手を動かしていなかった。目線は教科書には向いていても、明らかに思考は別の場所にあった。

 

 だが――

 

「今日の授業は奈良時代でしたね」

 

 サンゴは何の動揺も見せず、落ち着いた声で話し出す。

 

「743年の墾田永年私財法を皮切りに、貴族による荘園拡大が進みました。

 また、当時の仏教政策では聖武天皇が国分寺・国分尼寺の建立を命じて、宗教による国家の統治強化を図ったんです」

 

 教師が「はぁ…」と見慣れたように溜息を吐く。その説明は、教科書以上に明確だった。

 

「……そして、これは授業では触れていませんでしたが――」

 

 と、サンゴは続ける。

 

「近年の研究では、奈良時代の木簡や官人の人事記録から、従来の“貴族中心”という見方が再評価されています。

 地方の下級官人たちも、仏教行事の担い手や荘園管理者として、実務面で重要な役割を担っていたとする論文が出てきてますよ。

 

 教室が一瞬、静まり返った。

 

 教師は軽く口を開けたまま、呆れとも諦めともつかぬ表情を浮かべた。

 

「……奈良文化財研究所の調査報告で「……周央さんが頭がいいのは、もうわかってますよ」

 

 困ったようにため息をつきながら、教師は言葉を続けた。

 

「でもね、“学校で授業を受ける”のも、社会勉強の一つなんです。

 知識だけじゃなくて、集団の中でどう振る舞うか、友達とどう関わるか――そういうのも、学校生活には大事なことなんですよ?」

 

 サンゴは一瞬だけ目を伏せると、そっと笑った。

 

「……はい、気をつけます」

 

 その言葉がどこまで本心かはわからない。

 けれど、教師はそれ以上追及せず、「じゃあ、帰る前にロッカーを整理していってくださいね」とだけ言って、職員室へ戻っていった。

 

 サンゴは席に残ったまま、窓の外の空をしばらく見上げていた。

 

 その夜、街の喧騒がすっかり静まり返った世界。

 薄明かりのデスクライトだけが灯る小さな部屋の中で、周央サンゴはノートPCの画面をじっと見つめていた。

 

 指先は小刻みにキーボードを打ち、傍らにはスマートフォンが伏せられて置かれている。

 画面には、メッセージ送信後に自動で消去される暗号化チャットアプリが立ち上がっており、

 そこには彼女が数日前、「学生のふり」をして応募しておいた闇バイトの案内が表示されていた。

 

『作業内容:引っ越しの手伝い(現金払い)』

『集合場所:深夜3時、新川橋付近の空き地』

 

 ……と、表向きはなっていたが――

 

 今夜送られてきた新たな指示は、まるで違っていた。

 

『予定変更:某コンビニにて店員が一人になる時間帯を狙い、商品・現金の奪取』

『逃走車両はレンタカー。ナンバーと経路は後送。報酬は指定のATM口座に分割振込』

 

(……やっぱり。)

 

 サンゴは無言で画面をスクリーンショットし、別の端末に保存。

 すぐにその情報をもとにレンタカーの経路と報酬口座の受け取り先を自力で割り出していく。

 

「逃走経路、右折3回で外環に出るつもりか。途中の防犯カメラは2箇所……

 報酬の振込口座、偽名登録だけどドメインのミスで接続元が抜けてる。

 ……“西新宿のホテルWi-Fi”から接続……ふうん」

 

 解析し終えた情報を、一つのファイルにまとめる。

 そして、そのファイルをチャットの別ウィンドウへとドラッグ&ドロップ。

 

 その相手は、以前から“天下無双”に連絡を取っていた別の情報屋。

 いわば“情報ネットワーク仲間”のような存在だった。

 

『例の首謀者。逃走経路付きです。これでいかがでしょうか。』

 

 送信完了。数秒後、「了解」のアイコンが返ってくる。

 

 サンゴは椅子の背にもたれながら、思案げに天井を見上げる。

 

「……顔と住所使わせてもらったおじちゃんにも、報酬の半額振り込まなきゃな。」

 

 そのまま身体を起こし、立ち上がって窓辺へと歩いていく。

 カーテンをそっと開け、窓の鍵を外して開けると、深夜の冷えた夜風が室内へと滑り込んできた。

 

 街の灯りが遠く滲む夜景の中、サンゴはじっと外を眺めながら、

 小さく自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「……一応、僕も行ってみるか。

 実行犯が“釣れる”なら、それもまた情報になるし」

 

 翌日未明、周央サンゴは私服姿でコンビニのある区画へと向かっていた。

 フード付きの薄手のジャケットに、黒のスキニーパンツ。

 一見すれば街に紛れる普通の中学生か、高校生にしか見えないが――

 その目だけは、街灯に照らされながらも冷静に全体を観察していた。

 

(時間はぴったり。指定された“襲撃予定時刻”の15分前)

 

 しかし、そこに広がっていた光景は――あまりにも“整いすぎて”いた。

 

「……ん?」

 

 大通りの歩道の一部が、仮設の工事バリケードで封鎖されている。

「ガス管点検中」の立て札が掛けられ、通行は迂回を促されていた。

 

 反対側には、不自然に数人の男性がスマホを見ながら立ち止まっている。

 その所作に違和感はないが、靴の底の形状、視線の配り方、姿勢の取り方――明らかに職業訓練を受けた人間の動き。

 

(……この角度。待機位置と視線……私服警官。3人はいる。

 コンビニの隣の雑居ビルにも、光をつけて待機してる影……)

 

 すぐにサンゴは結論に至る。

 

(これ、絶対どっかから通報されてるな……)

 

 彼女の足取りが緩やかに止まる。

 

(あの情報屋も……これだと“金払い損”だな。

 せっかく依頼主に売ったネタも、“空振り”ってことになる)

 

 誰かが先んじて通報していた。おそらくは、あのレンタカーの足取りや偽名口座の解析のどこかから、公安か警察が“本件に本気”で動いた証拠。

 

(――まあ、僕じゃない誰かが通報したってことだ)

 

 それはそれで、予定が狂うだけの話。

 

 サンゴは小さく鼻で息をつき、目の前の交通規制エリアを見限る。

 

(仕方ない。警備が薄い裏道を回ろう)

 

 交差点を一つ曲がり、人通りの少ない荒れた裏道に足を踏み入れる。

 そこは街灯も少なく、壁には古い落書きや剥がれかけたポスターが貼られている。

 どこか昔の都市開発の影から取り残されたような一帯だった。

 

 ポケットから小型のICレコーダーと暗視モード付きのミニカメラを取り出し、無言で起動する。

 

 今度は“傍観者”として。

 情報屋でも、捜査官でも、まして正義の味方でもない――ただの観察者として。

 サンゴは静かに夜の奥へと踏み込んでいった。

 

 街角、裏道の暗がりから、サンゴは遠巻きにコンビニを見やった。

 

(……ん?)

 

 その駐車スペースに、見覚えのある白のワゴン型の車が停まっているのを見つける。

 ごく控えめに車体に泥が跳ねているその様子まで見覚えがあり、サンゴは思わず小さく目を見開いた。

 

(あっ……)

 

 無言で目をそらしながら、彼女は心の中で静かに呟く。

 

(お、お勤めご苦労様……)

 

 ちょっと無理な敬礼のイメージを頭の中で浮かべつつ、そのまますぐにその場を離れた。

 足早に通りを離れ、警戒エリアの外縁を通って、自宅へと帰路を取った。

 

 

 

 

 

 

 帰宅後、部屋着に着替えたサンゴは、眼鏡を机に置き椅子に座り、

 布団に半分くるまりながらパソコンで動画サイトを見ていた。

 

「えっ、マジで?www そこ滑るの!?ww いや無理無理、ウケる~」

 

 くすくすと笑いながら、お気に入りの実況者の新作プレイ動画を見て、コメント欄をのぞきつつポテチを口に運ぶ。

 それはどこにでもいる、普通の学生の夜の風景だった。

 

「……んー、でもやっぱこの人の編集テンポ好きだなぁ……」

 

 そんな風に気を抜いていたところ、リビングの方から母親の声が聞こえてきた。

 

「サンゴ、ごはんできてるわよ~!」

 

「はーいっ!」

 

 ぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングに行き、テーブルに着く。

 今夜のメニューは、母親特製の雑炊と、ちょっとした漬物と焼き魚。

 湯気がほわんと立ち上り、落ち着いた家庭の味が広がる。

 

「……あんまり無理しちゃダメよ」

 

 箸を持ちながら、母親がふっと真面目な声を出す。

 サンゴは一瞬手を止め、顔を上げる。

 

「え?」

 

「サンゴが無理してると、おじいちゃんも浮かばれないでしょ。ね?」

 

 一拍の静寂。

 

「……うん。分は弁えるよ」

 

 サンゴは柔らかく笑って、雑炊を口に運ぶ。

 その表情には、あの夜の裏通りで見せていた冷静さも、抜け目のなさもなく、

 ただ家族としての“サンゴ”が、そこにいた。

 

 食後、再び部屋に戻ると、動画の続きを再生しようとした手を止めて、ふと空を仰ぐ。

 

(……ちょっと、あの情報屋には悪いことしたかなぁ……)

 

 自分だけが回避した“空振り”。

 きっと向こうは多少なりとも金を動かしていたはずだ。

 

「まあ……そういうこともあるよね」

 

 ぽそりと独り言を呟いて、ベッドにごろりと寝転がる。

 

 だがその時――

 

(……仕事……)

 

 不意にその言葉が、脳裏に灯る。

 そして、その次に浮かんだのは――あの、ツンとした目をした少女の姿。

 

「……ちょっと、やってみっか」

 

 起き上がり、髪をくるくると指で巻きながらニヤッと笑う。

 

 その筆跡の軽やかさに、どこか楽しそうな“素のサンゴ”が滲んでいた。

 

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