ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

20 / 56
千篇一律

 その瞬間――

 

 「あー、ダメだよ。そんなことしたら。」

 

 サンゴはすっと涙を止め、ケロリとした表情に戻った。まるで今までの泣き顔が嘘のように、涼しい顔で腕を引きはがしながら口を開く。

 

 そして呆れたようにため息をつき、肩をすくめる。

 

 「取り調べ室でそれやったら、上官に怒られるよ? 話も聞けないし、犯行の経緯もわからない。」

 

 チグサは涙目のまま、「え……」と固まり、頬を赤くしながら「え、え、え……」と何度も口を動かした。

 

 ヒスイはそれを見て、溜め息をつきながらも、小さく口元を緩めた。

 

 「……まぁ、チグサらしいけど。」

 

 お菓子の皿や机の脚がきしむ小さな音までが異様に響く中、先ほどまで泣き笑いしていた空気はすっかり変わっていた。

 

 チグサは涙をぬぐいながらも、頬をまだ赤くしたまま、ヒスイの方を見て声を上げる。

 

 「じゃあ、今度はヒスピがやってみてよ!」

 

 「せっかく、ヒスピのためにこのシチュエーションにしたんだしさ!」

 

 サンゴも「うん、うん」と頷きながら、期待の眼差しで見つめる。ヒスイは軽く溜め息をついて、渋々と立ち上がった。

 

 「あんまり、お芝居でやるの得意じゃないから、普通にやるよ。」

 

 気乗りしない声でそう言いつつ、サンゴの反対側の椅子に座る。目は冷たく、背筋は軍人のようにまっすぐだった。

 

 サンゴはまた囚人役に入り込み、膝の上で手を握りしめ、顔を伏せて小さく震え始めた。

 

 ヒスイは一瞬黙り、目を細めたままサンゴを見据えると、低い声を落とした。

 

 「あんたさあ、自分の立場分かってんの?」

 

 声は柔らかくはなかった。吐き捨てるような鋭さが滲んでいた。

 

 サンゴは弱々しく首を震わせ、泣きそうな声を絞り出す。

 

 「やっぱり私……ここで死ぬんですか……?」

 

 ヒスイは眉一つ動かさずに返す。

 

 「まず、こっちの目を見て話せ。」

 

 サンゴはビクリと肩を揺らすが、視線を上げられずにただ涙を落とす。

 

 ヒスイの瞳は鋭く光り、声を低く沈めた。

 

 「……見ろっつってんだろ。」

 

 バシ、と机を鳴らして立ち上がり、サンゴの襟元を掴む。椅子がギシリと軋む音が響く。

 

 「いつもそうやって泣いてれば、誰か助けに来てくれるとか……思ってんじゃないわよ?」

 

 サンゴの肩が小刻みに震え、目からはぽろぽろと涙がこぼれる。

 

 「お母さんに会いたいです……もうこんなところ嫌だ……」

 

 弱音を吐くサンゴに、ヒスイは冷たい笑みを浮かべた。

 

 「お母さん?」

 

 「お母さんなら、もう死んだわよ。」

 

 声は刺すように冷たく、部屋の空気を張り詰めさせた。チグサが小さく「え…し…死んだ?死んだって何?」と息を呑む。

 

 「……あんたが帰る場所なんて、もうどこにもない。」

 

 そう吐き捨てるように言うと、ヒスイはサンゴを乱暴に椅子に押し戻すように放った。サンゴは小さく「痛い……」と涙声を漏らし、ぐしゃりと座り込む。

 

 ヒスイはそのままサンゴを見下ろし、顔を近づけて首を掴む。その声は氷のようだった。

 

 「さっさと吐け。」

 

 無感情な瞳でサンゴの恐怖を映し取るように、逃がさない。

 

 チグサはそのやり取りを見て、息を詰め、唇を震わせた。顔色を失いながら、か細い声で言葉を漏らす。

 

 「や……やめてあげなよ……そんな、まだ子供なのに……」

 

 声は震え、怯えが滲んでいた。ヒスイの冷たい声が部屋に残響のように漂う。

 

 「子供…? 子供だからって何しても良いわけじゃないでしょ?」

 

 睨むようにサンゴを見下ろす目は、氷のように冷たかった。

 

 しかし、

 

 「ちょっと……ちょっと……ギブ……ギブ……」

 

 サンゴが小さく肩を震わせて、泣き真似を止めた。目線を逸らし、半分潤んだ目のまま、小さな声で呟く。

 

 その言葉にヒスイも表情を緩め、ふうっと息を吐く。眉を少し下げて、サンゴの襟から手を放した。

 

 「……ふん」

 

 声色も元に戻り、淡々としたいつものトーンになった。

 

 その一部始終を見ていたチグサは、机の向こう側で目を見開き、唇を震わせたままだった。やっと声を絞り出すように言った。

 

 「なんか……ヒスピちょっと怖いよ……」

 

 その声には怯えが混じっていた。そして、震える手を握りしめ、声を少し強めた。

 

 「てかさ、お話のお芝居なんだからさ! こういうんじゃなくない?」

 

 「これだと私たちが悪役みたいじゃん! 絶対変な国の警察に冤罪かけられた奴じゃん!」

 

 その反論に、サンゴは驚いた顔で目を瞬かせた。しかしすぐに少し頬を赤くして、視線を逸らすように笑った。

 

 「いや……最近チグちゃん、ヴィラン系の役の練習してるから、こういうのもありかなぁって思ってさ……」

 

 言い訳するように呟きつつも、ちゃんとチグサの言葉を受け止めた顔つきだった。そして、囚人服の襟を整え、元気を取り戻したようにパンっと手を打った。

 

 「じゃあ、もうちょっと違う雰囲気のとかやってみる?」

 

 いたずらっぽい笑顔を向けると、ヒスイを軽く押しやりながら、チグサに向かって手を差し伸べた。

 

 「ほら、チグちゃん、もう一回こっち座ってみて!」

 

 チグサは目にうっすら涙を残したまま、唇を尖らせて「むぅ…」と拗ねた声を漏らしつつも、サンゴの手を取って席を立った。

 

 チグサは椅子に座り直すと、さっきより肩の力を抜き、警察の制服をぱたぱたと整えた。深呼吸をして、今度は穏やかな笑みを浮かべる。

 

 「じゃあ、今度は優しい警察さんで行くからね。」

 

 そう宣言してから、真剣にサンゴの目を覗き込むようにして、優しく声をかけた。

 

 「大丈夫。サンゴちゃんは、自分の知ってることを答えてくれれば良いからね。」

 

 さっきまで泣き叫んでいた囚人役のサンゴ。その顔が、一瞬で変わった。

 

「……あ

 

 ぱちりと目を開き、視線を泳がせる。唇が少しだけ開きかけて、けれど言葉は詰まった。そして、どこか遠い目をして、眉をひそめた。肩が少し震える。

 

 …それはちょっとやめてほしい……」

 

 かすれた声で、まるでお願いするように呟いた。拒絶するように首を横に振り、視線を逸らす。

 

 チグサは一瞬きょとんとして、戸惑ったように目を瞬かせた。

 

 「え……? え、な、なんで……?」

 

 訳がわからないまま、サンゴを見つめる。サンゴは何も言わず、ただ机の上に視線を落とし、指先をぎゅっと握り込んだ。

 

 その横で、ヒスイは腕を組んだまま黙っていた。だが、目はサンゴのわずかな変化を捉えていた。

 

 ヒスイはふっと息を吐き、真顔で低く呟くように言った。

 

 「……なるほど。」

 

 その声は鋭くはなかったが、重みがあった。何かを理解し、心の中で整理するような、冷静で静かな響きだった。

 

 ヒスイは腕を組んだまま、黙り込むサンゴをじっと見下ろす。そして苛立ちを隠さず、冷たい声を落とした。

 

 「良いからさっさと続けろ。」

 

 「……あんた、私には無理強いしといて自分は逃げるの?」

 

 その言葉に、サンゴは俯いたまま、しょぼんとした声で返す。

 

 「スピちゃん分かるでしょ……なんとなく……ンゴ嫌なんだけど……」

 

 しおらしく、同情を求めるような声音だった。でもヒスイは眉を一つも動かさずに即答する。

 

 「それ、本人に言っていい?」

 

 その「本人」が誰を指しているか、サンゴはすぐに察した。「ふぇぇ…」と情けない声を漏らし、肩を落とした。

 

 けれど諦めたように、しぶしぶ視線を戻す。

 

 「……分かったよぉ……」

 

 サンゴが再び机の向こう側に座り直すと、チグサはちょっと気まずそうに姿勢を正しつつも、今度は柔らかい笑みを作った。

 

 「サンゴちゃん、こんなところで怖いと思うけど、ちゃんと答えてくれればいいからね。」

 

 一転、サンゴの表情が変わった。目つきが鋭く、口元が歪む。

 

 「……チッ。」

 

 露骨に舌打ちをした。その声が書庫に嫌なほど響いた。

 

 「んだよポリ公。」

 

 「人の税金でふんぞり返ってるくせに、生意気な口聞くんじゃねえよ!」

 

 声が低くドスを効かせ、視線は明確に挑発的だった。チグサは面食らって目を見開き、「え…え…?」と混乱する。

 

 しかしサンゴは止まらない。机を軽く叩きながらガンを飛ばした。

 

 「お前、こんなことで一々人のことパクってんじゃねえぞ!」

 

 「は? 暇人かよ? 税金ドロボーが!」

 

 チグサは完全に虚を突かれていたが、急に眉を寄せて反撃するように机を両手で叩いた。

 

 「はぁ!? 何それ!」

 

 「ちょっと優しくしたからってつけ上がるんじゃないわよ!」

 

 声を張り上げ、サンゴを睨み返す。

 

 「大体、あんたみたいな奴がいるからダメなんでしょ!? ちゃんと反省しなさい!」

 

 机越しに身を乗り出し、勢いよく説教する。サンゴは目を丸くしていたが、段々と表情を緩め、ふっと力を抜いた。

 

 「……いや、ダメでしょ。」

 

 素の声に戻り、半眼でチグサを見た。

 

 「いや、まあ……ンゴはその方がやりやすいけど……」

 

 ぼそぼそと視線を逸らして呟く。けれどそのあと、真面目な顔でチグサの方を見た。

 

 「でもさ。優しい婦警さんで行くなら、相手がどんなでも献身的な方がいいと思うよ。」

 

 その声には少しの遠さと、わずかな温度が混じっていた。ヒスイがそれを横目で見ると、サンゴは視線を落として、どこか誰かを思い出すように言葉を締めた。

 

「……そういうの、知ってる人いるからさ。」

 

書庫の中は、少しだけ静かになった。

 

 

 

 

 

 

----------------------------------------------------

 

 

 

 

 1階のリビングは落ち着いた雰囲気で、観葉植物や小物が飾られ、テレビからはニュースの音が流れていた。サンゴの母親はソファに座り、リモコンをぽちぽちと操作してチャンネルを回していた。

 

 「今日は静かだなぁ……」

 

 階段の方を見上げて、上で練習している子供たちの気配を感じながら、くすっと微笑む。

 

 そのとき。

 

 「ピンポーン」

 

 チャイムの音が家に響く。母親は「はいはい」と立ち上がり、スリッパを引きずりながら玄関へ向かう。ガチャリとドアを開けると、そこに立っていたのは背筋を伸ばした凛とした少女だった。

 

 長めの黒髪を揺らし、涼しげな瞳でこちらを見つめる。

 

 「あら、セツカちゃん……!」

 

 顔をほころばせて声をかけると、セツカは一瞬目を瞬かせた。

 

 「サンゴなら今日は友達と遊んでるわよ?」

 

 そう言われた瞬間、セツカの眉が少し動く。

 

 「……サンゴが、友達と?」

 

 その声はかすかに驚いていた。でもすぐに、先日会った2人の姿が脳裏をよぎる。小さく息を吐くと、どこか間が悪そうに目を逸らした。

 

 「……そうか。俺がいたら邪魔だな。今日は帰る。」

 

 踵を返そうとしたところを、母親は慌てて手を伸ばした。

 

 「そんなこと言わないで!」

 

 軽く腕を掴むようにして止め、柔らかく微笑む。

 

 「子供達も上に篭りきりで、私一人だから……お茶くらい付き合ってよ。」

 

 セツカはしばらく視線を泳がせたが、母親の表情を見て観念したように頷いた。

 

 「……分かった。」

 

 玄関を閉めてリビングに通されると、母親は手際よく急須と湯呑を用意する。セツカは素直に座卓の前に正座し、じっと母親の動きを見ていた。

 

 「ありがとね。」

 

 湯呑を差し出しながら、母親は穏やかに話し始めた。

 

 「サンゴもね、結構……忙しいみたいでね。」

 

 「なかなか家にもいないのよ。」

 

 セツカはその言葉に、少しだけ目を伏せる。

 

 「たまに家に帰ってこないこともあるし……」

 

 母親は苦笑を浮かべながら、手元の湯呑を指先で回した。

 

 「まあ、あの子のことだから、大丈夫だとは思うんだけど。」

 

 「なんだかお爺ちゃんが乗り移ったみたいになっちゃって……」

 

 言いながら、小さく頭を抱える仕草を見せる。その様子に、セツカは無言で視線を落とし、黙って湯呑を手に取った。

 

 リビングのテーブルの上には急須から注がれた湯気の立つお茶が置かれ、テレビの音はすっかり小さくされていた。サンゴの母親は、少し気恥ずかしそうに笑いながら話を続ける。

 

 「何やら、サンゴの学校も大変みたいでね。」

 

 「サンゴのお友達の同好会が無くなっちゃうかもしれないんですって。」

 

 湯呑を手にしたセツカの目がわずかに細まる。黙って一口お茶を含んでから、低く静かな声を落とした。

 

 「……世玲音女学院は文武両道を校訓に掲げてる。」

 

 「その校訓に反するような方針を通すなら、相当な数の人間の反感を買うことになるだろうな。」

 

 母親は「そうよねえ」と言いながら、けれどもすぐに視線を落としてしまう。湯呑の縁を指で撫でるようにしながら、ため息交じりに言葉を続けた。

 

 「でもね……どういう訳か、サンゴもあまり細かいことは話したがらないのよね。」

 

 セツカは目を伏せ、無言でその言葉を噛みしめるようにお茶を飲む。頭の中で、予算の削減理由をいくつか推理する。

 

 だが決定打は出てこない。あの地下での血の匂い。

 

 思い出すのは、妹が纏っていた制服だった。

 

 妹の姿。血に濡れた制服。

 

 セツカは湯呑を置いたまま、ぽつりと小さく呟いた。

 

 「……コハちゃん。」

 

 母親は首を傾げる。

 

 「コハちゃん……?」

 

 セツカは目を伏せて一息つき、静かに説明を始めた。

 

 「……妹だ。」

 

 「昔、まだ分家で暮らしていたころ、いつも一緒にいたんだ。」

 

 母親は目を丸くし、静かに耳を傾ける。セツカの声はどこか掠れ、抑揚を失っていた。

 

 「当時の東堂家には……子供を養うだけの余裕はなかった。」

 

 「それで俺たち二人とも、分家筋の里親に引き取られて育てられた。」

 

 「……でも、その里親が交通事故に巻き込まれて、死んだ。」

 

 「まだ年端もいかない頃だった。」

 

 重苦しい空気が部屋を満たした。テレビの中のニュースキャスターの声さえ遠く感じる。

 

 「事故の後、東堂家に戻る話が出たが……二人を育てるだけの余裕はなかった。」

 

 「結局、長女の俺だけが引き取られて、次女のコハクは施設に預けられることになった。」

 

 湯呑に映る自分の顔をじっと見つめるセツカ。無表情なその瞳の奥に、わずかに滲む後悔。

 

 母親はそっと手を伸ばすようにして、湯呑を包むように握った。言葉は出なかったが、その仕草だけが答えだった。

 

 セツカは目を閉じ、短く息を吐いた。

 

 リビングには、湯呑を持つ二人の間にゆっくりとした時間が流れていた。外の陽射しは傾き始め、障子の隙間から淡い光が差し込んでいた。視線を落とし、握った湯呑をじっと見つめながら口を開いた。

 

 「……先生や、菊芽さんと会ったのは、その後だから。」

 

 「先生も、コハちゃんのことは知らなかった……と思う。」

 

 その声は少しだけ力なく、断言を避けるようだった。でも、すぐにわずかに眉を寄せる。

 

 「……分からない。」

 

 「本当は知ってたのかもしれない。」

 

 「先生は、いつも何もかも知っていたから。」

 

 薄い唇が震え、声が掠れる。言葉を選ぶように、ひと呼吸置いてから小さく呟く。

 

 「あのリボルバーを遺したのも……もしかしたら……」

 

 その言葉が途切れた時、菊芽は静かに相槌を打つように視線を落とし、手元の湯呑を両手で包むように持った。しばらく黙っていたが、ふと顔を上げると、柔らかい笑みを滲ませて目を細めた。

 

 「……もしかしたら、そうかもね。」

 

 肯定するような、でもどこか寂しげな響きだった。そして、ふっと遠くを見つめるように視線を逸らし、思い出を辿るように話し出した。

 

 「……あのリボルバーさ。」

 

 「グリップがダイヤモンドでできてるのは、知ってる?」

 

 セツカのまつ毛がかすかに揺れる。菊芽はその反応を見て、続けた。

 

 「食べる物に困った人から、買い取ったものなんだって。」

 

 穏やかな声に、少しだけ滲む哀しみ。その声はゆっくりとリビングに広がった。

 

 「お金はね、こんなもので人を傷つけるんじゃなくて、人がご飯を食べて幸せになるために使うべきだって。」

 

 「……お爺ちゃん、そう言ってた。」

 

 セツカはじっと聞いていた。グリップの冷たく硬いダイヤモンドを思い出し、唇を引き結ぶ。

 

 菊芽は、少しだけ視線を落として微笑むように続けた。

 

 「だから、あのリボルバーは先代が自分で細工して、使えないようにしてたの。」

 

 「どれだけ人を守るためでも、撃たなくて済むならそれが一番だって。」

 

 その言葉を聞いたセツカは、わずかに目を伏せて沈黙した。

 

 喉の奥がきゅっと詰まる感覚。あの血に濡れた、冷たい屑鉄。鮮やかな蒼のリボルバーを思い出す。

 

 (もう……細工は外されてる。)

 

 心の中で呟く。でも、口にはしなかった。

 

 (……それは……言わない方がいいか。)

 

 リビングにはまだほんのりとお茶の香りが漂っていた。セツカは湯呑を指で軽く回しながら、遠い目をして小さく呟いた。

 

 「……幸せなお金の使い道、か。」

 

 菊芽が静かに頷くのを横目で見ながら、頭の中で考えを巡らせた。

 

 もしも、学費を削減する理由が「真っ当なもの」だとしたら。それはきっと、コハちゃんみたいな……報われない子供に当てられるような使い道なんだろうな。

 

 心の奥で、リボルバーを構えた妹の横顔が浮かぶ。血に濡れた制服、鋭く冷たい眼差し。

 

 学校みたいな「まともな大人」の目が届かないところで、どこの誰とも知れない大人に首を掴まれて、意のままに操られてる。そんなの、すごく、辛いことだ。

 

 セツカの眉がわずかに寄る。お茶の湯気はもう消えて、冷めた茶が底に溜まっていた。

 

 そのとき、階段から軽快な足音が聞こえた。

 

 「もうみんな帰るからね〜!」

 

 サンゴがチグサとヒスイを連れて、楽しげに笑いながら扉を開けた。その顔はさっきまでの芝居がかった囚人役でもなく、情報屋の仮面でもない、年相応の無邪気さだった。

 

 中にいるセツカを見つけて、目を細めるようにニヤリと笑った。

 

 「足もう大丈夫なの〜?もうちょっと休んでた方が良いんじゃない?」

 

 セツカはそれを聞いて、気怠そうに目線を逸らした。

 

 「……うっせぇな。」

 

 小声で吐き捨てるように言ったものの、声には力がなかった。

 

 その空気を和ませるように、菊芽がサンゴを優しくたしなめた。

 

 「サンゴもたまには、お母さんに相談しなさいよね。」

 

 するとサンゴは少しムッとした顔をして、「前に言ったじゃん!」と声を上げる。

 

 「部活の費用、減らされちゃうって!」

 

 そのやり取りを、セツカは黙って見つめた。母親と娘のぶつかり合いのようで、それでいてお互いを気遣っているようにも見えた。

 

 もしも……学校に悪い大人に使われてる子供がいるなら。同じ大人として、どう支えるんだろうな。

 

 セツカの目が少し曇る。それでも、その問いは自分に向けたものだった。

 

 でも……大人としてじゃなくて、

 

 

 

 

 「普通」の人間……だった…ら……

 

 

 

 

 

 そこで、何かに気づいたように、一瞬だけ目が揺れた。でも、その「何か」は言葉にはならなかった。そのタイミングで、玄関から外の声が届いた。

 

 ヒスイの、少しぶっきらぼうな声。

 

 「なんか、うちの担任はまた別のことを聞いた、とか言ってたけど……」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、セツカの目が大きく見開かれた。固まったように動かない。冷めたお茶を握った指先に、かすかに力が入った。

 

そして、何も言えないまま、そのままの姿勢で止まっていた。

 

 

 

 

-----------------------------------------------------------

 

 

 

 書庫の中は昼間でも薄暗く、分厚いカーテンに遮られて外の光がほとんど入らない。四方の壁を埋め尽くす本棚には、参考書や専門書、分厚いファイルがみっしりと並ぶ。クーラーの冷気がひんやりとした空気を満たしていて、夏なのに肌寒いくらいだった。

 

 サンゴは椅子に深く腰かけ、机の上のモニターを見つめながら、黙って顎に指をあてて考えていた。

 

 東校舎との圧力とかは、実際どうでも良い話なのかもしれない。だって、単純に「費用が足りない」ってこと自体は事実なんだから。

 

 目線をモニターの角に落としながら、そこから先を思考する。

 

 私立の学校だ。そんなに経営に苦しむようなところでもない。既存の運営形態なら、部活動の経費くらいは賄えるはず。

 

 サンゴは机に置かれたマグカップを手に取り、冷め切った中身をじっと覗き込む。溜め息を吐き、机に戻す。

 

 つまり、あの経費を別に使う予定がある。例えば……大きなプロジェクト。新しいことをやるとか。

 

 だがすぐに眉を寄せる。

 

 でも校舎の改築や改装をするほど古くもないし、新しい施設を作るにしても、生徒会や保護者会を通さないのは無理がある。

 

 モニターの光が冷たく顔を照らす。その目はどこか上の空だった。

 

 「……元々、格式高い世玲音女学院が、新しいことをするようにも思えないんだよなぁ。」

 

 ぽつりと自分に言い聞かせるように呟き、そのまま天井を見上げる。送風音が機械的に響く。

 

 どこかの電子機器が小さくウィーンと駆動音を立てる。その音に混じって、パソコンの通知音が「ピロン」と間抜けに鳴った。

 

 サンゴは一度目を閉じた。考えが途切れかける。でも、その中で、自分の言った言葉だけが耳に残った。

 

 「……格式、高い……?」

 

 声に出した瞬間、自分の言葉に引っかかるものを感じて目を開けた。

 

 「そういえば……

 

 

 

東校舎の生徒たちって……」

 

 

 

 

 サンゴは急に正面を見据えると、スマホを手に取った。タップ音だけが静かな部屋に響いた。メッセージ画面を開き、ヒスイに送る。

 

 今日、学校戻ったら調べてほしいことがあるんだけど

 

 指を止めて、一度だけ目を閉じた。もう一度、息を整えてから送信ボタンを押す。

 

 スマホを机の上に置くと、サンゴは椅子にもたれかかりながら、ぽつりと吐き捨てるように呟いた。

 

 「……もしそうなら、また大人達の嫌な一面を見ることになりそうだな。」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。