会議室の空気は重く、夏でも冷房の効いた部屋の中はひやりとした緊張感に包まれていた。壁際の大きな窓には薄いカーテンが掛けられ、外光がわずかに漏れている。
机上には積まれた書類、会計報告のファイル、グラフのついた資料などが散らばっていた。環崎は腕を組み、ゆっくりと息を吐き出してから、穏やかながらも冷徹な口調で口を開いた。
「……では、不本意ではありますが。」
「来年度からこの経費の不足分は部活動の経費削減により賄うという形で、よろしいですか?」
その声が会議室に響いた瞬間、今川教頭が眉を寄せて鋭く視線を返す。背筋を伸ばし、正面から環崎を見据えると、抑えた声ながらも切り込むように反論した。
「ですが、部活動の経費削減となると、生徒達の反感を買うことにもなります。」
「また、以前の演劇部のように世玲音女学院の本分である部活動を統廃合するとなると、来年度以降の受験者数にも響きます。」
静かに紙をめくる音が響く中、年齢を感じさせる落ち着いた声で宮城校長が言葉を継いだ。
「受験者が減れば、いくら世玲音が名門校とはいえ、評判も良くはならない。」
「それについては、どう考えますか?」
一瞬、空調の音がやけに大きく聞こえた。環崎は視線を落として資料を確認する素振りをした後、まっすぐに二人を見返す。
「……では、東校舎の減らされた資金はどこから調達すればよろしいのですか?」
「設備の減らされた費用は現在、訓練の上で提携している国営団体からの寄付や、事実上一部の施設を閉鎖し、維持費を停止することで賄われています。」
「我々の費用ではなく、寄付で賄われている以上、不安定な収入でもあります。」
その声は感情を抑えていたが、硬い響きがあった。今川は小さく頷き、言葉を選ぶように指を組んだ手を動かしながら、間を置いてから反論する。
「……費用とは言っても。」
「東校舎の費用の用途については不明な部分が多いです。」
「親元のない生徒達の手に職をつけることは大切だと思いますが、そこまで費用がかかるものでしょうか?」
会議室の時計の秒針が、鋭い音を立てて進む。宮城校長は二人のやり取りを黙って聞き、視線を行き来させながらわずかに眉を下げた。
環崎は一度目を閉じ、次の言葉を探すように沈黙した。そして、吐き捨てるようではないが、はっきりとした調子で返した。
「東校舎の生徒達は、単なる学費免除を受けた寄宿生とは違います。」
「ただの授業ではなく、生活管理、心理ケア、訓練、進路指導まで含めれば、人件費は跳ね上がる。」
今川はすぐに返さず、目を細めて口を結んだまま黙った。宮城校長も目を閉じて深く息をつき、その声がかすかに震えるように部屋に響いた。
「……それでも、世玲音もまた学び舎です。」
「子供たちが希望を持つための場である以上、余計な不信感を生むような真似はしたくないのです。」
その言葉に、会議室には再び重い沈黙が落ちた。資料の紙が小さく震え、外の蝉の声すら届かない。
「……少し、よろしいですか?」
会議室の中の空気が、また一段と冷え込んだように感じられた。
不意に開いた扉の向こうに立っていたサンゴは、黒縁の眼鏡を押し上げ、どこか冷ややかな目をしていた。制服の襟をきちんと整え、髪も乱れていない。周囲の大人たちの気配を意にも介さず、しんとした声で言った。
その声に、会議机を挟んだ今川は、目を丸くし、口を開く。
「周央さん、今は会議中です。用事なら後にしていただいてもよろしいですか。」
ぴしゃりとした拒絶の響きだったが、その隣で環崎が口元だけで笑った。眼鏡の奥の目が光を弾き返すように鋭い。
「構わんよ。座れ。」
机の脇にある一脚の椅子を無造作に指し示す。サンゴはそれを一瞥し、目線を移動させて無言で腰を下ろした。
今川は「環崎教頭!」と机を叩く勢いで身を乗り出す。「こんなこと、困ります!」
その騒ぎを抑えるように、宮城校長が穏やかながらも圧のある声で言葉を落とした。
「今川教頭……彼女は特別なんです。」
宮城の皺の深い目が、まるで何もかも見透かしているように細められた。今川は言葉を詰まらせ、唇を引き結んだまま椅子に背を預ける。
サンゴは一礼もせずに椅子を引いたまま立ち、ゆっくりと深い呼吸をする。そして、今川に冷静に目を向け、声を低く落とした。
「……まず、確認します。」
「西校舎の部活動経費が減らされる要因は、東校舎の経費が元々高額で、しかもその一部が用途不明のまま減らされていることに起因している。……そういう理解でよろしいですか?」
今川は口を開きかけて、目線を逸らすように環崎を見るが、環崎は何も言わない。ただ、机に肘をつき、手を組んだままサンゴを見ていた。
宮城は静かに頷いた。
「概ね、その通りです。」
サンゴは頷きもせず、ゆっくりと机の上に視線を落とす。環崎の前に置かれた分厚い決算報告書のレジュメを無言で手に取り、指でページをめくった。
環崎は止めなかった。宮城も見守るように黙っていた。
紙をめくる音がやけに大きく響いた。サンゴの眼鏡の奥の瞳が、小さな文字を追っていた。彼女の表情は全く動かない。
……数ページ目を通した後、不意にその手が止まった。
しばらく無言。周囲の大人たちも息を潜めていた。空調の風が微かにカーテンを揺らす音すら耳障りになるほど、張り詰めていた。
サンゴは、止めたページを睨みつけるように見たあとで、ほとんど無表情のまま、小さく呟いた。
「……あった。」
その声は、しかしはっきりと会議室全体に届いた。唇の端がわずかに持ち上がり、眼鏡の奥の目が獲物を射止めた猛禽のように光った。
内心で、(ふふ……やっと見つけた。)とほくそ笑む。だが顔にはそれを出さない。
今川が不安げに口を開こうとした瞬間、サンゴはその声を封じるように視線を鋭く投げた。
「今川教頭、まず東校舎の経費が減らされている理由ですが——」
今川は不意に口を挟んだ。声は張っていたが、どこか焦りも滲む。
「昨今の物価高が要因の一つです。」
「特に穀物類は値段も高く、同じ値段で提供するにはどうしても費用が上がってしまうのです。」
「かと言って、東校舎の子供達から徴収することなんて絶対にできません。それなら自ずと、費用は高くなっていってしまうのです。」
今川はそこで一度息をつき、少し優しい声色に変えて付け加えた。
「周央さんも、学食が食べられないほど値上がりするのは嫌でしょう?」
サンゴは一度視線を下に落とし、深く息をついた。それから顔を上げると、その目は氷のように冷たく澄んでいた。
「確かに、うちでも夕食にしかお米を食べられないほど、食料品は値上がりをしています。」
一拍置いて、声のトーンを落として言葉を続ける。
「ですが…東校舎のような養護施設なら、法律上いくらか国や都道府県からの補助金や税金の減免は出ているはずです。」
「一部は申込制ではありますが、それを知らないとはとても思えない。」
今川は顔をしかめて押し黙る。環崎は静かに、しかし鋭い視線でサンゴの口を追っていた。宮城校長はゆっくりと目を閉じ、再び開くと深く息をついた。
サンゴは視線をレジュメに落とし、ページをめくり、狙いを定めたように指を止めた。
サンゴはパサリとレジュメを机に広げた。指先で一箇所をトン、と叩く。
「本当の原因は…これです。」
環崎が目を細め、宮城が身を乗り出す。今川は戸惑った表情でページを覗き込んだ。
そこには「積立費」という項目が、他の支出と比べても大きな数字で載っていた。
宮城が口を開きかけた。
「それは、行事などで使うために積み立てている費用ですが——」
サンゴは即座に首を振った。
「行事などの費用でしたら、上記の『その他』の項目に入っているはずです。」
静まり返った会議室で、ページをめくる音が再び響いた。今川は書類を確認し、思わず言葉を詰まらせた後、必死に声を出した。
「では、一体誰がこんな項目を?費用は全て、経理で管理しているはずです。」
サンゴは眼鏡を軽く押し上げ、鋭い声で問いかけた。
「……その中に、うちではない他の養護施設に関する項目はありましたか?」
——会議室は、しんと静まり返った。
サンゴは書類を指先でトントンと叩きながら、視線を一度伏せ、それから静かに、しかしはっきりとした声で切り出した。
「……これはあくまで推測です。」
会議室に座る大人たちは、息を呑むように耳を傾けた。環崎は腕を組み、無言のままサンゴを観察している。
今川は混乱を隠せない目で資料を見つめ、宮城は目を閉じて眉間に皺を寄せていた。サンゴはその全員を順に見るようにしてから、静かに言葉を紡いだ。
「世玲音女学院は、格式も高く、長い歴史を持つ学校です。」
「西校舎に通う生徒達は、受験戦争を勝ち抜いた、格式高いお嬢様ばかりが集う。」
淡々とした口調に、しかし抑えきれない冷ややかさが滲む。
「ですが……東校舎は、その限りではありません。」
「表向きには、『身寄りのない子供達を引き取る』という名目で、その人生を尊重する校風を掲げている。」
「……しかし、教師の中に、それを吉としない者がいたらどうでしょうか。」
「側から見れば……卑しい親のいない子供達が、何の努力もなしに世玲音女学院という難関高の敷居を跨ぐ。」
「それを良く思わない人間がいるのは、当たり前のことです。」
声は震えず、冷え切っていた。だが、言葉の奥には針のような怒気が含まれていた。
「高貴で格式ある校風にそぐわないと感じる教師がいても、おかしくはありません。」
「そうなれば——名門・世玲音女学院の『大掃除』だと思いながら、生徒達を他の養護施設に送りつける準備をしていても、不思議ではない。」
サンゴは机の上の書類を再び指差す。
「本来、東校舎は養護施設として機能しています。」
「その形態は特殊で、他の養護施設と通じる必要は、本来はないはずです。」
その目は真っ直ぐに今川を射抜いた。
「——それでも、通じている。そう考えるしかないでしょう。」
しんとした沈黙が会議室を満たした。外の蝉の声さえ、ガラス越しに遠く、死んだように聞こえた。
サンゴは眼鏡の奥から冷たい光を放つ目で、大人たちの反応をゆっくりと見渡していた。
会議室の空気は張り詰めたまま、しかし徐々に収束へと向かっていった。
「とはいえ……」
心の中では、環崎を見据えて静かに吐き捨てる。
(はいはい…それが無理なことくらい僕でも分かってますよ。)
(第一、Σの先兵である東校舎の生徒を、他の養護施設になんか渡せるわけがない。)
無関心を装う環崎の目を捉え、挑発するでもなくただ冷たく通り過ぎる。そして、そのまま机に手を添えたまま、軽い調子を装って話を続けた。
今川が複雑な顔をするのを横目で見つつ、言葉を切らさず続ける。
「これはどうも…東校舎云々、というよりも…」
「西校舎のずさんな金銭管理や、意識の問題が背景にあるんじゃないですか?」
今川の口元が引きつり、しかし言い返さずに苦笑いを漏らした。
「…善処します。生徒の周央さんに指摘されては、面目も立ちませんので。」
その言葉にサンゴはゆっくりと眼鏡の奥で目を細めて、柔らかくもどこか刺すような微笑を返した。
「教頭先生。」
「東校舎の費用がかかりすぎだとご指摘されましたが…結構、技能訓練校ってお金がかかるものなんです。」
今川が気まずそうに視線を逸らすのを見て、サンゴはわざとゆっくりとした口調で続ける。
「例えば、プロが使うものと同じものを全員分用意するなら…普通の学校では考えられない程のお金がかかりますし。」
「教室ごとに設備を変えるなら、その設備だけで裕に億を超えることもあります。」
「想像はし難いでしょうが……分かってあげてください。」
その言い方はまるで、長年通った優等生が教員を諭すようでありながら、皮肉を含んだ優しさだった。
宮城校長は小さく頷き、「とりあえず、こちらでも養護施設に通じようとする職員についてはあたってみよう」と落ち着いた声で言い、鞄をまとめて席を立つ。
「…お疲れ様。」
と一言だけ残し、会議室を出て行った。今川も無言のまま、環崎に浅く一礼してから足早に部屋を後にした。
扉が閉まる音が響いたあと、会議室にはサンゴと環崎だけが残った。
静まり返った部屋の中、サンゴはゆっくりと背もたれに身体を預け、書類をぱたんと閉じる。
そして目線を書類から外さずに、わざとらしく小声で漏らした。
「…ライフルとかな。」
環崎は机に肘をついたまま、目を細めてサンゴを見やり、僅かに眉を動かす。
「……ここで言うな。」
その低く鋭い声に、サンゴはあっさりと目を合わせ、眼鏡を押し上げてから、「はいはい」と子供のように口を尖らせた。
クールな顔を崩さぬまま、机をトントンと指先で叩き、まるでどこ吹く風といった態度で次の一言を探していた。会議室の空気は、外の蝉の鳴き声とは対照的に、重く、静かだった。
本日は世怜音女学院のデビュー日です!!
めでたい!!