ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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鬼瞰之禍

 環崎の準備室は、地下の冷気が残る空気と古びた蛍光灯の光で、外の真夏の気配からは切り離されていた。カーテンの隙間から通気口を伝って吹き込む風だけが、生ぬるい音を立てる。

 

 環崎は、散らばった書類の上に指を組み、無言でサンゴを見ていた。

 

 「……結局、西校舎の部活動の経費削減の話はなくなった訳だが。」

 

 その低い声はいつも通り淡々としていたが、どこか探るようでもあった。

 

 サンゴは、環崎の顔を見ない。机の端に肘をついたまま、視線をカーテン越しの風の動きに落とし、薄く唇を噛む。

 

 そして、小さく吐息を漏らしてから、ゆっくりと口を開いた。

 

 「……いつ、ここを発つつもりなのですか。」

 

 風がカーテンをわずかに膨らませては、しおれるように落ち着く。その音が二人の間を満たした。

 

 環崎は何も言わない。サンゴはその沈黙を押し切るように続けた。

 

 「……あの牢獄の中で、あなたは僕が冬に、Σの機動隊に依頼されて従軍していたことを知った。」

 

 視線を伏せたまま、言葉だけが鋭く、しかしどこか濁るように吐き出される。

 

 「……あの日、本部が何を得ようとしていたか。それを知るために、ヒスイはあなたの命令で僕にマルウェアに感染するWi-Fiを教えた。」

 

 環崎の瞳がわずかに細められる。サンゴは声を絞る。

 

 「オリバー・アンソル。先の“ミスター”の一件で……唯一足取りが掴めなかった、あの男が行っている犯罪行為を潰えさせる。」

 

 環崎の頬の筋肉がわずかに動いた。しかし彼女は何も応えない。

 

 サンゴは机を指先で叩くようにし、やがて手を止めた。そして震えるほどの小さな声で、でもはっきりと問いを投げた。

 

 「ミスターを追っていたのも。」

 

 「僕を、易々と手放したのも。」

 

 「オリバーに繋がる手掛かりが欲しかったからじゃないんですか。」

 

 風がカーテンを揺らす音が、やけに大きく聞こえる。サンゴは最後に、視線を下げたまま、まるで呟くように言った。

 

 「オリヴィスを殺すために……どこまで、生徒達を出兵させる気ですか。」

 

 「東校舎の予算が足りなかったことは……本当に、西校舎の不祥事だけが原因でしょうか。」

 

 声は震えていたが、内容は鋭利だった。その問いは、地下室の重い空気を切り裂いて、真正面から環崎の胸を撃ち抜いていた。

 

 ただ、サンゴの言葉の残響だけが、室内に長く尾を引いていた。

 

 地下の準備室は、なおも冷たく重い空気をたたえていた。サンゴの鋭い問いの余韻が消え切らない中で、環崎はゆっくりと背凭れに体を預け、指を組み直した。

 

 「……君は、何か勘違いをしていないか。」

 

 抑揚は少ないが、わずかに低く沈んだ声だった。

 

 「確かに、Σがオリヴィス・アンソルを追っていたのは事実だ。」

 

 環崎の視線は、サンゴを刺すようで、しかし淡々と事実を述べる色だった。

 

 「奴がやっていたのは、新しい“ビジネスモデル”の確立だ。」

 

 サンゴは目を伏せたまま聞いている。

 

 「世界中で、一見するとただの廃材にしか見えないようなパーツを、何百にも分割して製造・出荷する。それを世界各地で組み合わせれば、大量の殺人兵器になる。」

 

 金属製の扇風機が、ぎい、と小さく軋む音を立てた。

 

 「今止めなければ、どれだけの場所で、どれだけの死者が出るか分からない。」

 

 サンゴの口元が僅かに歪む。環崎は続けた。

 

 「先日の件で、マイクと川上は処分され、報酬を受け取れなかった。日本国内で予定されていた部品の発送ルートも潰されたのは、彼にとっては想定外だっただろうな。」

 

 サンゴの指先が机を握る。

 

 「……実際、あの工場の職員は何も知らなかった。家族で住み込みで働いていた人間もいたらしい。」

 

 サンゴは顔を上げかけて、しかしまた伏せた。

 

 「処理班は……子供の遺体も片付けたそうだ。」

 

 それを聞いたサンゴの眉がかすかに震えた。しかし声は出なかった。ただ、苦いような顔で、何かを噛み殺すように目を細めた。

 

 環崎は表情を変えず、机に視線を落としながらも続けた。

 

 「……追わねば、どれだけ無関係な人間が死ぬか、考えるまでもないだろう。」

 

 それは問いかけというより、冷たい宣告のようである。重苦しい空気を引き裂くように、環崎は大きくため息をついた。

 

 「とはいえ、実際のところ、そうしたくはないんだがな。」

 

 背凭れから身を起こし、手を組み直してサンゴを見据える。

 

 「もちろん、優秀な教え子を失いたくないのもあるが。」

 

 少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。

 

 「君がこの間熱弁したように、世玲音女学院は名門校だ。他のΣの訓練校とは訳が違う。」

 

 環崎は目を細め、声を落とした。

 

 「だからこそ、先兵としては使いづらいのだよ。」

 

 サンゴは、じっと黙って耳を傾けていた。

 

 「死体を回収できないような場所で、地元の人間が女学院の制服を着た少女を掘り起こしてみろ。国際問題になるぞ?」

 

 それを聞いたサンゴは、思わず顔を上げ、口を開く。

 

 「じゃあ…」

 

 少しだけ、明るい希望を帯びた声だった。しかし、環崎はすぐにその声を切るように立ち上がり、真剣な顔をして肩を回した。

 

 「とはいえ、先の急襲作戦で人員を割けないとなると、こちらの肩身もかなり狭い。」

 

 どこか疲れたように息を吐く。

 

 「資金提供くらいできれば良かったんだが、それも無理そうならやむを得ない。」

 

 椅子を押しのけ、伸びをするように腕を上げ、骨が鳴る音が小さく響く。

 

 「……まあ、そういうことだ。」

 

 視線を逸らすでもなく、サンゴを真正面から見据えたまま、淡々と告げた。

 

 準備室にカーテン越しの風がひゅう、と吹き込んで、書類を少しだけ揺らした。サンゴは唇を噛み、俯き、返事をしないまま黙ってその揺れる書類を見つめる。

 

 「…いくら必要なんですか?」

 

 指先が震えたまま、環崎の腕を強く掴む。

 

 「何千万でも払う…だから、」

 

 声が詰まり、息が乱れる。

 

 「だから…」

 

 言い切る前に、環崎がゆっくりと口を開いた。サンゴの言葉を制するように、しかし穏やかに、淡々とした声で。

 

 「見ているだけで何もできず、ただ目の前で人が死ぬのを見ていることしかできない。それはとても辛いだろうな。」

 

 その言葉はまるで、長年見続けてきた現実を諭すようだった。サンゴは目を見開いたまま、ぽろぽろと涙をこぼし、膝から力が抜けたようにその場に座り込む。

 

 「スピちゃんを…」

 

 嗚咽混じりに声を震わせる。

 

 「スピちゃんを…連れて行かないで…」

 

 涙で滲む視界の先、環崎は黙ったまま立ちつくし―

 

 

 

 

 

 

 

 不意に、地下室の重いドアの前で声が響いた。

 

 「失礼します。」

 

 サンゴはびくりと肩を震わせ、涙で滲んだ目を扉に向けた。

 

 環崎は視線を外さずにサンゴを見下ろしながら、内心で (今、誰か入れるのはまずいな…) とわずかに躊躇した。

 

 しかし返答を待たず、扉はギィ…とゆっくり開いた。

 

 中に入ってきたのは、蒼い瞳をした少女兵。東堂コハクだった。

 

 彼女は部屋の空気を一瞥しただけで全てを察したように、サンゴをよそ目に見ながら、何事もなかったかのように環崎に歩み寄る。

 

 「急襲作戦ですよね?」

 

 冷静で硬い声。

 

 「お忙しいところ、申し訳ないのですが。」

 

 手には数枚の紙束を持っていた。

 

 「これ…今、出してきたんです。」

 

 無造作に、それを環崎の机の上に置く。環崎はサンゴを一度横目で見た後、書類に視線を落とした。

 

 その一番上の用紙に、大きく書かれていたのは「同好会活動申請書」。

 

 記入欄には、

 

 周央サンゴ、

 北小路ヒスイ、

 西園チグサ

 

 ――そして最後に、東堂コハクの名前。

 

 環崎は無言でその名前を一つずつ目で追った。そして深く、重く息を吐いた。

 

 「なるほど…」

 

 こめかみを押さえ、額を指で揉みながら頭を抱えるように席に腰を下ろす。コハクは机の前で、わざとらしく小さく首を傾げて、演技じみた困り顔を作っていた。

 

 「…ああでも、困りましたねぇ……」

 

 視線は環崎に向けたまま、声色だけは殊勝そうに下げる。

 

 「西校舎の部活動費にいちゃもんを付けた挙げ句、西校舎主導の演劇同好会の会員を二人も海外に連れて行くとなると、もう東校舎としてはこの間のように強くは出れなくなってしまいますね……」

 

 その言葉に、サンゴは涙で滲んだ目を丸くしたまま固まっていた。

 

 コハクはちら、とサンゴの方を一瞥した後、再び環崎に視線を戻して深々と「申し訳ございません」と頭を下げる。

 

 「…では、他の生徒達だけで遠征していただくしか……」

 

 わざとらしいまでに丁寧な物腰で言い切った瞬間――

 

 「ふざけるな。」

 

 環崎の低い声が、地下の狭い部屋に鋭く響いた。

 

 書類を机の上から叩くように払いのけ、立ち上がると、呆れたようにコハクを睨みつける。

 

 「お前抜きで遠征なんか行ける訳ないだろ。」

 

 そして、そのまま頭を振りながらドアの方へ歩き出す。

 

 「中止だ中止! うちからはΣ本部になんか貸さん!」

 

 金属製の扉を乱暴に開けて、バタン、と音を立てて出ていった。

 

 部屋の中は一瞬で静まり返る。冷房の風が書類をはためかせ、コハクの長い髪が少しだけ揺れた。

 

 そして、ぽつんと取り残されたサンゴ。

 

 「え……え…?」

 

 瞳を潤ませたまま、口をぱくぱくとさせて放心していたが――その端の唇が、ほんの少しだけ、ほころぶ。

 

 それを見たコハクは、何事もなかったように髪をかきあげ、

 

 「……さて、と。」

 

 とだけ呟き、落ちた書類を拾い上げて、乱れたスカートを直すように整える。

 

 コハクはにっこりと、しかし少し意地悪そうな笑みを浮かべたまま「ん!」と声を弾ませ、活動申請書をサンゴの目の前に差し出した。

 

 サンゴの顔がパッと明るくなる。

 

 「コハちゃ…!」

 

 思わず手を伸ばしかけたその瞬間、コハクはくいっと手首を上げ、書類をサンゴの頭の上にヒラヒラと持ち上げてしまう。サンゴは一瞬で「……え?」と止まり、手を伸ばしたまま石像のように固まった。

 

 コハクはそんなサンゴを見下ろしながら、わざとらしく小さく首を傾げ、

 

 「サンゴちゃんはさ、先生達のこと見て、どう思った?」

 

 と、今度は真面目な声で問う。サンゴは一拍置いてから、瞳を揺らしながら視線を落とした。

 

 「……よく分からない。」

 

 小さな声でぽつりと答える。

 

 「結局はみんな、学校のために動いた結果、誰も望まないような結末になっている印象を受けた。」

 

 視線を遠くに投げるように続ける。

 

 「環崎さんも、今川教頭も、他の先生達も…世玲音女学院の校風を乱そうとする人は一人もいなかった。むしろ、それを守るために動いていたんだと思う。…それって、結局、演劇同好会を守ろうとした僕たちと何も変わらないんだよ。」

 

 自嘲気味に小さく笑って肩を落とすサンゴ。コハクはそんなサンゴをじっと見つめ、口元を緩めて「ありがとう。」と短く言った。

 

 「じゃあ、これあげるね〜」

 

 そして今度こそ書類をそっと下げてサンゴに差し出す。サンゴが驚いたように顔を上げ、ようやく笑顔を取り戻しながら、今度はしっかりとその書類を受け取る。

 

 コハクはくるりと踵を返し、軽い足取りで部屋の扉に向かう。

 

 サンゴが小さな声で「…ありがとう。」と呟くのを背中で聞きながら、コハクは片手をひらひらと振り、

 

 「じゃ、またね〜」

 

 とだけ言い残して、その場を後にした。




ト ル コ ア イ ス 屋 さ ん
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