環崎教頭がンゴに執着する理由が詰まってます。
あと、かなりンゴ虐です。
おまけ:ヴィルヘルムの暗闇
――廃ビルの空間には、時折吹き抜ける風が埃を巻き上げ、微かに軋むガラス片の音が響いていた。
サンゴは依然として壁にもたれたまま、後ろ手に縛られたままの姿勢で座り込んでいた。冷たい床の感触と、コンクリートの湿気が身体を這う。だが、その表情は恐怖ではなく、ただ無言で状況を観察しているような、静謐なものだった。
やがて、外から聞こえていた車の音が止まり、タイヤが砂利を噛む音が消えると、次いでコツ、コツと乾いた足音が階段を上がってきた。
そのリズムが途切れることなく、ついに部屋の入り口で止まる。
「大丈夫?こんなところで怖かったよね~」
明るく響いたその声に、サンゴは目だけで入口を見やった。そこに立っていたのは、水色の短髪に、世怜音女学院の制服――白いブレザーに青のライン、やや短めのスカート――を着た少女だった。
央崎セイラ。その表情は親しみやすさに満ちており、まるで旧知の友人に話しかけるような自然さがあった。
「びっくりしたよね、急にこんなとこ連れてこられてさ。……あ、でもその縛り方じゃ痛いよね」
セイラはしゃがみ込み、手早くサンゴの後ろ手の縄を解いた。だが、安心したのも束の間――
「ごめんね、後ろ手で歩くと脱臼しちゃうかもしれないから」
そう言って、セイラは躊躇なくサンゴの手首に手錠をかけた。金属の冷たさが一瞬にして現実を引き戻す。
「これで少しは動きやすくなったかな」
笑顔で言うその口調に、敵意はなかった。ただ、その腰に吊るされたホルスターに収まる拳銃が、すべてを語っていた。
サンゴは制服に目をやった。同じ制服――少なくとも、西校舎のそれと見分けのつかないそれ。だが、明らかに“違う”。空気も、振る舞いも。
(僕の学校に、こんな“秘密”が……)
思考の波が静かに、けれど確実にサンゴの中で広がっていく。
廃ビルの階段に、サンゴの靴音が乾いた音を立てて響く。両手には手錠、背後からは銃口の感触――軽く、だが確かに命を預けている実感がそこにはあった。
「歩いて。余計なことしたら、殺すからね」
その声は先ほどまでの親しげな調子とは打って変わって、冷え切った水面のように冷ややかだった。
サンゴは無言で歩を進める。足元にはひび割れたコンクリート、時折軋む鉄骨の音。下へ降りるたびに、空気が次第に現実味を帯びてくる。
やがて一階へとたどり着き、外へ出る。夕焼けがかすかに地平を照らしていたが、それ以上に視界を支配したのは、そこに止められていた地味な灰色の軽自動車だった。窓にスモークが貼られたその車は、街の喧騒に紛れるにはうってつけの存在だった。
「乗って」
セイラに促され、サンゴは後部座席へ身体を滑り込ませた。彼女が乗り込んでサンゴの隣に座ると、運転席のドアが開き、ポニーテールの少女が乗り込んできた。
その制服も、東校舎のもの。淡々と無言のままハンドルに手をかけたその横顔は、訓練された兵士のそれだった。
「出ていいよ〜」
セイラの軽い調子の声と共に、エンジンがかかり、車は静かに動き始めた。サンゴは窓の外を見つめながら、しばらくの間何も言わなかった。だが、その沈黙に耐え切れず、小さな声で問いかけようと口を開く。
「あの……」
その瞬間、セイラの目がサンゴを射抜く。
「話したら殺すよ。口閉じて俯いてて」
短く、鋭く。言葉というより、処刑宣告のようだった。
サンゴはすぐに視線を逸らし、膝の上に目を落とした。小刻みに揺れる車内の空気に、彼女は何も言わず、ただじっと沈黙の闇に身を委ねた。コンクリートの街を抜け、軽自動車は静かに、しかし確実にどこか“向こう側”へと進んでいく。
車内の空気は変わらず静まり返り、エンジンの微かな振動と、タイヤがアスファルトを滑る音だけが耳に残っていた。
サンゴは言われた通り俯いたまま、黙していた。やがて、視界の端に流れる街並みに、どこか既視感が芽生える。見慣れた標識、見慣れた歩道、見慣れた通行人――
(……ここ、僕の通ってる道と同じ……)
ほんのわずかに顔を上げた視線の先には、あの校舎があった。
――世怜音女学院。けれど、そこに広がっていたのは西校舎の明るいキャンパスとは違い、高い鉄柵に囲まれ、外からは一切中が見えない――“東校舎”の影だった。
車がその柵をくぐり、地下のスロープを下る。コンクリートに覆われた静かな空間、わずかに蛍光灯の光が灯る地下駐車場に、車が滑り込むように停まった。カチッという音と共にロックが外れると、セイラがサンゴの側のドアを開け、冷たい銃口をふたたび突きつける。
「降りて」
命令は淡々としていた。サンゴは無言のまま、手錠のかかった両手を少し前に出すような形で車外へ出た。
コツン、と靴音がコンクリートに響く。セイラは相変わらず隣に立ち、銃を構えたまま軽い足取りで歩くように促す。
ふたりは地下駐車場からコンクリートのスロープを抜け、無機質な鉄扉をくぐって校舎の内部へ入った。
そこは、まるで別世界だった。
無音に近い静寂、監視カメラが廊下の天井を絶えず巡回し、白と灰色を基調とした無感情な内装が広がっていた。教室の代わりに並ぶのは金属扉の部屋、壁には認識コードや制限区域の表示。
(……本当に、ここが僕の通ってる学校……?)
サンゴの胸の内で、静かに戦慄が広がっていく。
「真っ直ぐ歩いて。馬鹿なことは考えないでね」
セイラの声が背後から、あまりに平然と届く。少女が少女を連れ、まるで処理施設にでも案内するかのように、ふたりは冷たく長い廊下を進んでいく。サンゴの足音と、セイラのそれだけが、その無機質な空間に響いていた。
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薄暗く静かな部屋の中、サンゴはひんやりとしたパイプ椅子に腰を下ろしていた。床は無機質なタイル張り、壁も灰色で装飾は一切ない。ただ、隅に観葉植物が一つだけ置かれているのが、わずかに“人間らしさ”を残していた。
服装はすでに囚人用の半袖・半ズボン――淡い灰色に統一された簡素なもの。足元は裸足で、両手には未だ手錠が掛けられたままだ。
対面に立っていたセイラは、ふっと息を吐いて銃をホルスターにしまうと、先ほどの冷徹な面持ちから一転し、気さくな笑みを浮かべた。
「お疲れ様!……怖かったよね、ほんと。私もあんな態度取りたくないんだけど、規則だからさ」
彼女はパイプ椅子の背に手をかけ、サンゴを覗き込むように顔を傾ける。その様子はまるで友人に心配をかける少女のようで、数分前に銃を突きつけていた人間と同一人物とは思えなかった。
サンゴはその変化に目を細め、しばらく黙っていたが、やがて低い声で口を開いた。
「……もう、喋ってもいい?」
セイラは軽く頷きながら、手錠がかかったままのサンゴの手をそっと取った。
「うん、いいよ。けど、その前に……」
そう言って、セイラの声色は再びわずかに引き締まる。彼女の瞳が真っ直ぐにサンゴを捉えた。
「――まず、最初に言っておくけど。君は、もうもと居た場所には戻れないよ」
静かに、しかし逃げ場のない現実が語られる。
「ここに来たら、処刑されるか……どこかの施設に“引き取られる”ことになる。それ以外の前例は、今まで一人もない」
その言葉を聞いたサンゴは、すぐには何も言わなかった。ただ、しばらく視線を床に落としたまま、何かを噛みしめるように呼吸を整え――やがて、ぽつりと答える。
「……それなら、この近辺が良いかな。あんまり離れると、仕事に影響も出るし」
その言葉に、セイラは目を丸くした。
「あんまり驚かないんだね、失禁する人とかもいるんだけど……」
セイラはしばらくサンゴの反応を観察していたが、ふいに肩の力を抜き、再び冷めた声で話し始めた。
「まあ普通はさ、ここに連れてくるのって“尋問”のためなんだよね」
その言葉には、どこか感情の熱を削ぎ落とした響きがあった。
「はっきり言って、上の人達は君がどうなろうとあんまり興味ないの。生きてても、死んでても」
サンゴが眉をぴくりと動かしたのを見て、セイラは言葉を続けた。
「邪魔なら殺せばいいだけだし……今こうして生きてるのは、単に“それを後回しにした”ってだけ。そんな程度にしか思ってないと思う」
言い終えると同時に、応接室に静寂が落ちた。けれど次の瞬間、セイラはわざとらしく大げさに手を振り、「って言うのは、あくまで建前で!」と明るい調子に戻った。
「私はさ……その、君がエージェントとして立派に育ってくれるのを、願ってるんだから!」
にっこりと笑うその表情には、ほんのりとした照れくささすらにじんでいた。
「だって私だって、本当はこんな仕事やりたくないんだよ……スナイパーやってるのも、あんまり目の前で人が死ぬの見たくないからでさ。遠くからだったら、まだ……割り切れるっていうか……」
サンゴはじっとセイラを見つめていた。その視線に気づき、セイラは少し視線を逸らしつつ、しかし口元には苦笑を浮かべた。
「もちろん、命令されたらやるけどさ…」
その言葉には、皮肉も虚勢もない、素のセイラの声があった。冷たい鉄の手錠の感触とは裏腹に、部屋の空気は少しだけ柔らかくなっていた。
セイラは椅子の背にもたれかかりながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、車の中で何か聞きたそうだったじゃん?……何だったの?」
その口調は柔らかかったが、すぐに一変する。
「あ、ちなみに聞かれそうだから先に言っとくけど、逃げたりしようとしたら――殺すからね」
眼差しは一気に氷のように冷たくなり、冗談の余地など微塵もなかった。サンゴはわずかに目を見開いたが、すぐに呼吸を整えて小さく頷く。そして静かに問いかけた。
「……つまり、世怜音女学院の東校舎って……特務組織の、エージェントの養成所になってるってことかい?」
セイラはあっさりと肯定した。
「そうだよ。びっくりした?」
その言葉を受けて、サンゴは目を伏せながら考える。
(こういうのって、軍隊崩れのおじさん達がやってるイメージがあったけど……)
(まさか、子供が働いていたなんて……)
心の中に広がるのは、単なる驚きではない。恐怖でもなかった。どこか――納得に近い、不快感と現実感の入り混じった複雑な感情だった。
セイラはそんなサンゴを見ながら、穏やかに問いかける。
「他に、何か質問は?」
サンゴは少し考え、やがて静かに呟くように言った。
「……なんか、色々思うところはあるけど……要は僕って、これから“消される”んだね」
それに対して、セイラはあっさりと、しかし残酷なほど真っ直ぐに答える。
「そうだよ。君が、余計なことしたせいでね」
その一言は、まるで裁判の判決のように重く、淡々としていた。
そして立ち上がると、セイラは腰のホルスターから銃を抜き、再びサンゴの背に突きつけた。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
その言葉とともに、サンゴは立たされ、冷たい手錠のまま部屋の外へと連れ出された。扉が開き、無機質な廊下の静寂がふたたびふたりを迎え入れた。サンゴの足音とセイラの銃声なき威圧が、その場の空気を支配している。
コンクリートの床を踏みしめながら、サンゴはセイラに背を押されるようにして無言で地下を進んでいた。階を降りるごとに空気は湿り、冷たさが骨の奥まで沁み込んでくる。やがて、重厚な金属扉の先――鉄格子が嵌められた空間が現れる。
正面には簡素なベッドと、最低限の机と椅子。隅には小さな洗面台と金属製のトイレが配置されている。それ以外は何もない、まさしく“地下牢”と呼ぶにふさわしい空間だった。
「ここが君の部屋ね」
セイラが振り返り、やや冗談めかして言ったあと、手慣れた手つきでサンゴの手錠を外した。カチャリという音とともに、金属の感触が消えると、セイラはすぐに腰の鍵束を取り出し、鉄格子の鍵を開ける。そして一歩下がり、銃は抜かずとも目に静かな威圧を宿してサンゴに命じる。
「中に入って」
サンゴは黙って頷き、小さな足取りで中へ入る。振り返った瞬間、背後でカシャンという音とともに、鉄格子の扉が閉じられた。
セイラは鍵をかけ終えると、肩越しに言葉をかける。
「歯磨き粉は洗面台にあるやつ使ってね。あと、朝起きたら、牢の外にある監視カメラの正面に正座してること。そういう決まりだから」
疲れ切ったように、サンゴはベッドの端に腰を下ろしながら、ため息混じりに言った。
「……今日は、寝ていいかい?」
その問いに、セイラは少しだけ柔らかく微笑んだ。
「良いよ。明日から尋問だから、ゆっくり休んでね」
その一言だけを残し、彼女は足音も軽くその場を去っていった。残されたサンゴは、鉄格子越しの薄暗がりの中、仰向けに倒れるようにベッドに身を投げた。冷たい天井を見上げながら、彼女は今度こそ本当に、深い眠りへと落ちていった。
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翌朝。
鉄格子の外、無機質な天井に取り付けられた監視カメラの真下で、サンゴは俯きながら静かに正座していた。足元の冷たさが皮膚を刺し、手錠の跡がまだ手首に薄く残っている。沈黙の中、微かに階段を下りてくる足音が近づいてきた。
「おはよう、サンゴちゃん。今日は取り調べだからね」
軽やかな声とともに姿を現したのは、セイラだった。だがその手にはすでに鍵束と拳銃、そしてあの無慈悲な“職務”の顔があった。
鉄格子の鍵が開き、セイラは入ってくると躊躇なくサンゴの両手に再び手錠をかける。そして銃口を背に突きつけ、短く命じる。
「立って。ついてきて」
地下牢を出て、ふたりは無言で廊下を進む。やがてたどり着いたのは、昨日の応接室とは異なる、さらに殺風景な部屋だった。中にはパイプ椅子と机が一つずつあるだけ。壁は白く無装飾で、まるで一切の感情を拒むかのようだった。
「これもつけるから」
そう言ってセイラが取り出したのは、銀色の首輪だった。内側には細かい金属端子が並び、通電する仕様であることが一目でわかる。抵抗の隙を与えずにサンゴの首に装着される。
「……」
サンゴはほんの一瞬、肩を震わせたが、やがて無言でパイプ椅子に腰を下ろした。
セイラは無言で部屋を後にし、再び静寂が訪れる。
それからしばらくして、金属扉が開き、黒いスーツに身を包んだ冷ややかな女性が姿を現した。髪はきっちりと後ろでまとめられ、その一挙手一投足に無駄がなかった。
「私は井ノ原。君の尋問を担当する者だ」
彼女はサンゴの正面に座り、机の上のファイルを軽く指先で整えながら、目を細めた。
「周央サンゴ。西校舎の中等部1年だったか……書類を調べるのは楽で助かったがな」
そして、書類を軽くめくってから、冷淡に宣告するように続ける。
「まず初めにだが、原則として君の知っていることは偽りなく答えてもらう。隠したり、偽ったりすれば――その首輪も使わせてもらう。黙秘権はないものだと思ってくれ」
その言葉に、サンゴは肩をすくめるように息を吐き、皮肉気に呟いた。
「……警視庁でやったら、訴えられそうなやり方だな……」
それを聞いた井ノ原の表情は一切変わらなかった。感情の揺れを見せず、ただ淡々と、冷徹に記録を始めようとしていた。尋問の幕は、静かに、だが確かに上がっていく。
井ノ原は資料から目を上げ、静かに言葉を紡いだ。
「まず……どうして北小路ヒスイがスパイだと分かった?」
問いは淡々としていたが、その裏には確かな関心があった。サンゴは少しだけ視線を上げ、落ち着いた声で答え始めた。
「諜報は、身振り手振りや表情、話し方だけで何とかなる訳じゃないんです」
彼女の声音には恐れも怒りもなく、ただ事実を語るだけの静謐があった。
「例えば――歩く時の身体の重心の置き方や、手の返し方。街の人間って、何気ない仕草に“無意識”が染み込んでる。でも彼女には、それがなかった。無駄がなさすぎて……逆に目立つ」
サンゴは少し目を伏せながら、最後にぽつりとつけ加えた。
「彼女には、もう少し街を歩く人々がどんな動き方をしているか……観察させた方がいいかもしれません」
その回答に、井ノ原は僅かに目を細め、頷いた。
「彼女にはひとしきり、諜報員としての基礎は教え込んでいるつもりだったが……なるほど、それを見抜いたということは、君にもそれなりの“教養”があるのだろう」
そして井ノ原は、真正面から視線を向けた。
「単刀直入に聞くが――それを一体どこで身につけた?」
部屋に再び静寂が落ちた。サンゴはしばらく黙考するように口を閉ざしていたが、やがてわずかに顔を上げ、静かに口を開いた。
「……『天下無双』。それが僕の、情報屋としての名前です」
明晰で、迷いのない声だった。電流の流れる首輪がわずかに鈍く光を放つ中、井ノ原はその答えに眉をひそめるでもなく、ただ静かにペンを走らせる。
井ノ原はサンゴの答えを聞きながら、ファイルの一部に目を落とし、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……その名前は知っている。“天下無双”。政府高官にもファンがいるほどの情報屋だったらしいな。確か、大分前に死んだと聞いていたが」
サンゴは静かに頷きながら、淡々と事実を口にした。
「先代は――僕の祖父でした。彼の死後、その名前を継いで活動しています」
井ノ原の視線が鋭さを増す。だが彼女は即座に動揺は見せず、むしろ冷静に次の疑問を口にする。
「……確かに、それならヒスイの様子に違和感を抱いたのも納得がいく。だが――証拠となるものはあるのか?」
その言葉に、サンゴの内心はざわめいた。
(どうしよう……あんまり手の内は晒したくないなぁ……)
視線を落とし、首に巻かれた冷たい金属――通電式の首輪が目に入る。
(とはいえ、これも痛いだろうしなぁ……)
しばらくの沈黙の後、サンゴはゆっくりと顔を上げた。
「……あなた達は、特務機関の人達なんですよね?」
井ノ原は無言で頷く。その反応を確認したサンゴは、静かに、しかしはっきりと言った。
「では――本部の急襲部隊に所属している、“三浦隊長”に繋いでいただけますか?」
その名前を聞いた瞬間、井ノ原の表情が微かに変わった。慎重な視線がサンゴを測るように動く。
「……三浦か、分かった。繋いでみよう」
緊張と沈黙が漂う中、新たな“扉”がゆっくりと開こうとしていた。
昼下がりの地下牢。薄暗い照明に照らされた冷たい空間に、コツンコツンと軽やかな足音が響く。
正座を続けていたサンゴは、足の感覚が既にほとんどないまま、無意識に首をすくめていた。やがて鉄格子の向こうに、あの特徴的な水色の髪が現れる。
「はい、これ。今日の餌ね」
セイラはそう言って笑みを浮かべながら、手にした金属トレイを鉄格子の中の机の上にコトリと置いた。
トレイには、温かい湯気の立つクリームシチューの入った白い器と、柔らかく焼かれたロールパンが一つ、そして透明なプラスチックのコップに注がれたぬるめの水。スプーンも添えられていた。
サンゴはそろりと体を動かし、痺れた足に表情を歪めながら椅子に腰掛ける。足がじんじんと痺れて、思わず机の端に手をついてしばらくじっとしていた。
(こんな場所だから、空腹だけ紛らわせられれば何でもいいとは思っていたけど……)
温かなシチューの香りが、鼻を掠める。毎日ご飯が美味しくいただけるのは、凄くありがたい。
スプーンを手に取り、サンゴは静かにシチューをすくった。クリームの中にはとろけたジャガイモ、薄くスライスされたにんじん、鶏肉の切れ端。どれもほどよく煮込まれていて、食感と味のバランスが取れていた。
一口含むと、思っていた以上にまろやかな甘みと、ほんのりとした胡椒の刺激が口内に広がる。
サンゴは一瞬、目を細めて、それから無言で次の一口へ。
スプーンの動きは静かだが、確実に。彼女はまるで“生きている実感”を確かめるかのように、淡々とそれを口へ運んでいった。ロールパンも手に取り、シチューに少し浸してから食べる。水分を吸ったパンは柔らかく、クリームの風味が染み込んで一層豊かだった。
「……味とか、どう?」
セイラが不意に尋ねた。サンゴは器の中を見つめたまま、少しだけ考えてから口を開いた。
「毎日ここで食べてるけど、やっぱり、なんか思ってたのと違う」
言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「“餌”って感じではないよね……こういうの……人権がどうとか、結構うるさい人とかもいるの?」
その問いに、セイラは肩をすくめ、いつもの調子で返す。
「そんなこと、サンゴちゃんは気にしなくていいの。……黙って食べな」
その言葉は優しさとも突き放しとも取れたが、どこか“関わりすぎない距離感”を保とうとする彼女らしい応答だった。
食事を終えたサンゴは、静かにスプーンを置き、器を揃える。シチューはすべて平らげ、パンも最後の一切れまで残さず食べ終えた。
セイラはそれを見て、無言で頷くと、手際よく食器をまとめて鉄格子の外へと引き上げた。
「いつもみたいに、歯磨きする?」
問いかけに、サンゴはわずかにうなずきながら答えた。
「……ちょっと、したい」
「じゃあ早くして。終わったらまた正座してて」
そう言い残して、セイラは足音を響かせながら階段を上がっていった。薄暗い牢に再び静けさが戻り、サンゴは洗面台へと向かい、無言のまま歯ブラシを手に取った。その手には、まだ温もりがわずかに残っていた。
残酷な鉄の壁、冷たいコンクリートの床。手は膝の上にきちんと揃えられ、背筋もまっすぐに伸ばしている――ように見える。だが、その内側では、じわじわと疲労が侵食していた。
室内は常に薄暗く、変わらぬ白色灯が空間を無機質に照らしている。壁も床も同じく冷たく、無表情な灰色。まるで時間の感覚を奪うような、永遠に続く“今”に閉じ込められているような錯覚。
天井の角、監視カメラの黒いレンズがこちらを向いている。動いている気配はないが、それが逆に“常に見られている”という感覚を強く植え付けた。視線を感じる。誰かが覗いている。どんな瞬間も、どんな小さな仕草さえも――全てが記録されている。
……見られてる
そう思うたびに、胸にじわじわと羞恥が広がっていく。拘束され、監視され、与えられた空間の中で“正座させられる”という行為の、滑稽で惨めな重さ。今の自分はただの“被収容者”にすぎない。知性や誇りを切り離された、従順な肉体。
足元は、冷たく、鈍く痺れている。感覚はもうとっくに麻痺しているはずなのに、むしろ“存在していることの不快感”だけが際立っていた。コンクリートの微かな湿気が肌に貼り付き、服の薄さがその冷たさを誤魔化すことはできない。
背筋に汗が伝う。寒さではない。自分自身の身体から、少しずつ“気力”というものが抜けていっているのがわかる。体温が内側から失われていくような、静かな消耗。
目の奥がじんわりと重く、まばたきをするたびに少しずつ視界がぼやけていくようだ。呼吸は浅く、意識はどこか遠く、宙に浮いたような感覚さえある。
だめだ、集中が続かない。精神が――削られていくのが、わかる。
“ただここにいる”という行為そのものが、暴力に近い拷問であることを、今のサンゴは肌で、心で、痛いほど理解していた。地下牢の空間には、いつもと変わらぬ無機質な静けさが広がっている。時計の音も、風の音も、なにもない。あるのは、硬く冷たいコンクリートと、自らの呼吸音だけ。
視線は床に落とし、背筋だけを無理やり保っている。足の感覚はとっくに麻痺し、思考すらも曇りがかっているような感覚。
その沈黙を破ったのは、コツコツと軽い足音だった。
セイラだ。鉄格子の前に立った彼女は、無言のまましゃがみ込み、金属越しに手を伸ばすと、サンゴの顎にそっと指を添え、上向かせた。
「……そろそろ、限界?」
その声は、まるで実験動物に話しかけるかのように冷たく、感情のこもらない調子だった。
「結構、やつれてきた?」
サンゴは何も言わなかった。ただ、揺れる視線を彼女から逸らさぬよう、静かに耐えているだけだった。セイラは微かに目を細め、さらに言葉を重ねる。
「何を期待してるかは知らないけど――誰も助けになんて来ないからね」
その言葉は、刃のように鈍く心を抉る。感情という衣を脱がされていくような感覚に、サンゴの喉が小さく震えた。
「君、なんであんなところにいたの?」
淡々とした問いかけ。だが、サンゴはすぐには答えなかった。唇を閉じ、視線を伏せる。その沈黙を切り裂くように、セイラの声が強まる。
「――言え」
その言葉に、サンゴの肩が小さく震えた。そして、ようやく声を絞り出すようにして言った。
「……あの日は、クライアントの依頼で……お店を見張っていました……」
素直で、弱々しい声だった。だがセイラは続ける。
「どういう依頼だったの?……もしかして、悪い人達に情報とか、横流ししてたんじゃないの?」
再び、サンゴは黙る。言葉が見つからない。心のどこかで、何を言っても無駄なのではないかという思いが、じわじわと広がっていく。
しかし、次の瞬間。
「――答えろ」
ガシッ――
鉄格子越しに、セイラの手がぐいと伸び、サンゴの囚人服の襟元を掴み上げた。顔が引き寄せられ、金属越しに彼女の目が、真っ直ぐにサンゴを射抜く。
冷たく、強く、冷酷なその瞳と共に。
サンゴの目に涙が浮かぶ。恐怖が込み上げ、喉が震え、視線は揺れたままセイラの顔を見つめる。言葉は出ない。ただ、その怯えた瞳が、すべてを物語っていた。閉じ込められ、締め付けられ、心の奥で小さく崩れ落ちるように。
セイラは、怯えて涙を浮かべるサンゴの顔を見た瞬間、はっとしたように目を見開いた。
「あっ……」
セイラはそっとサンゴの囚人服の胸元を整えると、鉄格子越しに腕を伸ばし、優しく彼女の頬に触れた。手袋を外した指が、涙をそっと拭い取る。
「何の依頼でそこにいたの?覚えてる範囲でいいから、私に教えて?」
声は今度は静かで、真剣だった。サンゴの肩に手を添え、目線を合わせて、静かに問いかける。
その言葉に、サンゴはかすかに頷き、小さく「……はい」と答える。
震える声で、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「マルチ商法の犯人を追ってました……そういう依頼を受けていたので……」
セイラは黙って耳を傾けながら、なおも続ける。
「なるほど。証拠はあるの?」
その質問に、サンゴはわずかに顔を上げ、涙のにじむ目で静かに答えた。
「……アンダーヘイル社か……もしくはシティグラウンド社が……その犯人であると推測しまして……」
「ここ何週間か、僕がいたキャバクラに……アンダーヘイル社の職員の会員がいました……」
声は弱々しいが、言葉の中には一貫した筋と事実があった。
「件のキャバクラの名簿を抑えているなら……そこに社の人間であるジューン・スクラウトと谷垣平太がいるなら、それが証拠になります……」
「警察にも、アンダーヘイル社の業務を疑う旨の相談件数は多いので……そちらも問い合わせればわかると思います……」
最後の一言は、もはや懇願のようだった。
「……もう……ご勘弁を……」
サンゴの瞳には涙が浮かび、声は今にも消えてしまいそうなほど小さくなっていた。セイラはその姿を見つめながら、真剣な表情を崩さず、
「……わかった。確認してみるね」
小さく息を吐いてから、静かに立ち上がる。その言葉は最もやさしく、穏やかな響きを持っていた。だが、それだけでは終わらなかった。
鉄格子越しに身を屈め、サンゴの頭にそっと手を乗せて、やさしく撫でながら語りかける。
「……ただ、自分の立場は理解してね。気が滅入ってるのはわかるけど、ちゃんと聞かれた質問には、すぐ答えないと」
撫でる手は優しくても、その言葉には現実がしっかりと含まれていた。
「正直、連絡取ってもらって、なんか交渉してる途中だから、不利になるようなことは言いたくないって気持ちも、分かる」
「それに、あんまりプライバシーに足突っ込まれたくないのも理解できる。でもね、こっちだって色々と、事案そのものを動かしてたりするから」
「サンゴちゃんが話したことが、他の調査に関わってくることだってあるの。だから、ちゃんと協力して」
最後にもう一度、サンゴの頭を軽く撫でながら、目線を合わせて静かに問いかけた。
「……わかった?」
サンゴはしばらく伏し目がちに黙っていたが、やがて小さく、はっきりと頷いた。
「……はい」
その返事は弱々しくも、少しだけ“信頼”をにじませていた。セイラはそれに満足したように頷くと、何も言わず背を向け、ゆっくりと階段を上っていった。
鉄格子の向こう、ひとり残されたサンゴの胸には、冷たい孤独とわずかな安心が、重なりながら静かに降り積もっていた。
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薄暗い地下牢の中、サンゴはいつも通り監視カメラの真下で正座し、静かに目を伏せていた。コンクリートの床の冷たさも、今では慣れつつある――そんな時だった。
「電話だよー」
明るい声と共に、鉄格子の向こうにセイラが現れ、固定電話の子機を鉄格子越しに差し出してきた。
サンゴは首を傾げながら立ち上がり、手錠のまま子機を受け取って耳に当てる。
「……もしもし?」
「おうクソガキ!お前今度は何やらかしたんだ!?」
突然の怒鳴り声に、サンゴは苦笑する。
「ちょっとバカやらかしてさ、おっちゃんのとこの人に捕まっちゃったんだよ……どうにかならない?」
くだけた口調に、電話越しの男――三浦隊長は、いつもの調子で返す。
「尋問官は誰だったんだ?」
「……井ノ原さん?って人かな」
「井ノ原か!ああ見えてメンタル弱いから、泣き脅ししときゃ電流流されたりはしねえさ!」
その軽口に、サンゴは呆れたように溜息をついた。
「……これ録音されてたら後が怖いと思うけど」
「……まあ、冗談はさておきだ」
トーンが少しだけ真面目になった。
「俺は機械のことはさっぱり分からん。だから、他の奴に任せておく」
「高嶺隊員は覚えてるか?お前、あいつに変な飴とか貰ってただろ」
「ああ……あの髪にワックスかけてた眼鏡の人か。……あの飴、不味かったな」
「そうだそいつだ。そいつに任せておくから、お前は適当に寝ててくれればいい。困ったら泣いときゃいい、な?」
プツッ。あっけなく通話が切れた。
子機から無音の電子音が響く中、サンゴはため息をつき、無言で子機をセイラに返した。特に言葉を交わすこともなく、ふたたび牢の空気が静けさに戻る。
“適当に寝てろ”――その言葉の余韻だけが、どこか奇妙に温かかった。
数日ぶりの応接室。以前と変わらず殺風景なその空間に、サンゴはひとり座っていた。目の前の机には、押収されていた彼女の私服が丁寧に畳まれて置かれている。グレーの囚人服を脱ぎ、手際よく元の服装へと着替えると、ようやく肌に馴染む感覚が戻ってきた。
そこへ、明るい足音と共にセイラが現れ、手にカバンとスマホを持っていた。
「はい、これ。私物ねー」
それを受け取りながら、サンゴは目を細めてセイラに問いかけた。
「……もういいのかい? 元いた場所には戻れないんじゃなかったのかい?」
その言葉に、セイラは一瞬だけ目を逸らし、ぽつりと呟く。
「まあ、初めてだとは思うけど」
だがすぐに、いつもの調子を取り戻すように顔を上げ、明るく言った。
「そういうことは気にしなくていいから!せっかくだから、今日はたくさん遊んできたら?」
カバンを肩にかけ、スマホの画面を確認しながら、サンゴは小さくため息をついた。
「あぁ……今日はちょっと忙しいかな……」
画面に表示された通知の数に眉をひそめる。
「溜まってるメール、返さなくちゃ……」
その声は、まるで脱力した社会人のようだった。セイラはくすっと笑いながら手を振り、サンゴは東校舎の無機質な扉を背にして、静かに外の光へと歩き出した。
コンクリートの世界から日常へ――だがその影には、誰も知らない“裏の顔”が静かに息を潜めていた。