車内には、蝉の声も届かないほどの静けさがあった。セツカは窓の外に目を向けたまま、姿勢を崩さず座っていた。
緩やかに流れる白い日傘、氷ののぼり、冷やし飴の看板。そのすべてを通り過ぎる風景として、ただ黙って見ていた。
そのとき。
コン、コン――
車の窓が控えめにノックされた。
振り返らずとも、セツカは誰かを察していた。
扉が開き、緑の髪と中性的な顔立ちの青年が、ひょいと体を滑り込ませるように中へ入ってきた。
白シャツの袖を少し捲り、涼しげな笑顔を浮かべながら座席に腰を下ろす。
セツカは視線を窓に向けたまま、静かに言った。
「こんなところまで来てもらって、申し訳ありませんわ」
ゆるく笑って、手をひらひらさせる。
「いいよ、別に。力一さんよりはちょっとだけ付き合い長いし」
「それに……奢ってもらえるなら、どこからでも来るよ」
軽やかな声音には、どこか人懐っこさと気遣いが滲んでいた。
セツカはわずかに頷き、運転手に向かって言葉を投げる。
「……発進して。もう、出ましょう」
「子供なら、少し運動した方が健康に良いでしょう」
セツカの声音は冷ややかだったが、どこか冗談めいた響きもわずかに含んでいた。
「二人とも、そんなに柔な身体じゃないでしょう」
それで十分だと判断したのか、運転手は静かにアクセルを踏み込む。
車は再び、街の中へと滑るように走り出した。
青年は少し首を傾げて、窓の向こうに小さくなっていく鰻屋を見やる。
「……うなぎ、食べるんじゃなかったの?」
セツカは正面を見つめたまま、淡々と答える。
「子供は、子供同士の方がいいでしょう」
その声には、優しさも寂しさも含まれておらず、ただ事実を述べるような、凪のような静けさがあった。それ以上何も言わず、口元だけで「ふーん」と呟いて、背もたれに身を預けた。
車内には、エアコンの風が静かに吹いていた。外はまだ昼下がり、真夏の日差しが街のコンクリートを白く照らしつけている。商店街を離れ、車は幹線道路に出ようとしていた。
窓の外をちらりと見てから、軽い調子で言った。
「それなら、隣町にいい感じのお店あるんだけど、行かない?」
視線はセツカの方を見ているが、声色はあくまで自然体。少しだけ弾むような誘い方だった。
だが、セツカはすぐに返す。
「……まだ昼ですもの。車内で酔われても困りますわ」
それは遠回しな拒否だったが、やんわりとした調子で角を立てない。少し肩をすくめ、頬を膨らませるように息を吐いた。
「……せめてさ、先生の墓参りに行くなら誘ってくれればよかったのに」
目を伏せるようにして呟く。
「菊芽さんにも、一人で会いに行ったんでしょ? ずるいよ、それ」
セツカは無言のまま前を見つめていた。表情を変えず、声も発さず、ただ静かに聞いている。
少し口を尖らせ、斜めを向いて呟くように続けた。
「あの子も、今年受験だから中々みんなで集まれないしさ……」
視線を落としながら、もっと小さな声で漏らす。
「先生のお孫さんが気になるのは、分かるけど」
「……たまには構ってくれないと、こっちだって寂しいよ」
その最後の一言には、ほんの僅かな本音が滲んでいた。それでも、どこか笑ってごまかすような緑仙らしい優しさがある。
セツカはそれでも黙っていた。けれど、わずかに視線だけが彼の方へ向いていた。表情は読めないままだったが――その瞳には、ほんのわずかな温度が宿っていた。
食事を終えたサンゴは、肝吸いの椀をそっと戻しながら、満足げに小さく息をついた。
ふわりとした満腹感と、うなぎの余韻が口の中に残っている。店内は依然として混み合っており、次々と客が入っては、席に案内されていた。
ふと、サンゴの視線がカウンター席の方へ向いた。
一番端の席に、私服姿の女性がひとり、肘をついたままうつ伏せになって寝ていた。
髪は淡い色でふんわりとカールしており、シンプルな白いシャツに、やわらかい素材のロングスカート。細身の体を投げ出すように預けて、テーブルには空になった酒瓶と、飲みかけのグラス。
その背中を見たサンゴは、なんとなく呟いた。
「……大人でも、夏休みってあるのかな」
隣のコハクは茶を啜りながら、何でもないことのように答えた。
「子供ほどはないけど、あるところはあるよ」
「それに、大人になると有給休暇の制度もあるし……昼間から飲んだくれてるからって、職がないとは限らない」
サンゴは少しだけ眉をひそめながら、苦笑する。
「そこまで言ってないけど……」
それでも興味をそそられたように、再びそっとカウンターの女性に目をやる。
女性の顔は半ば隠れていたが、時折ずれた髪の合間から見える輪郭に、どこか見覚えがあった。
視線を凝らす。記憶の片隅にある、柔らかく落ち着いた印象――
やがて、サンゴは小さく首を傾げた。
「……栞葉さん?」
そう呟いた瞬間、確信に変わる。
あの、どこかマイペースで、物腰柔らかな声――
店を出た二人は、真夏の日差しの中を並んで歩いていた。木製の暖簾の影が背後に揺れ、炭火の香りがまだ衣服に残っている。
目の前の道はゆるやかにカーブしており、バス停を探しながら歩く足取りは、昼下がりののんびりしたものだった。
少し歩いたところで、コハクが横目を向けて尋ねる。
「さっきの……あのカウンターで寝てた人、誰?」
サンゴは一瞬だけ振り返り、軽く笑って答えた。
「あぁ、栞葉さん? ああ見えても警察官なんだよ」
「いつもお小遣いくれたりする西川警部の部下でさ。警部が捜査で手が離せないときは、代わりに話を聞いてもらったりしてる」
コハクは少し考えるように目を細める。
「警部の部下ってことは……巡査部長?」
サンゴは苦笑しながら首を横に振った。
「そんなご立派な役職だったら、電気代の払い忘れとかしないだろうけどね」
「本人は巡査長なんだけど、犬みたいに勘が利くから、西川警部に割とこき使われてるんだよね」
二人はそんな話を交わしながら、道なりに歩き続けた。
やがて、店のあった高台を抜け、坂道を下りていく。潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、視界の先に、海沿いの穏やかな景色が広がった。
木造の民家、洗濯物を干す軒先、ゆったりと走る古い原付。時が少し前で止まったような田舎の風景が、真夏の陽射しの下で静かに佇んでいる。
そんな中、コハクが不意に口を開いた。
「そういえば……ンゴちゃんって、インターネットとかよく見るよね」
サンゴは歩きながら軽く頷く。
「見るけど……どうかしたの?」
潮騒と蝉の声が混じり合う中、二人の声だけが、夏の午後に溶け込んでいった。
午後の警察署。応接室の窓からは、外の強い日差しが薄いカーテン越しに柔らかく差し込んでいる。
冷房の静かな風が流れる中、サンゴは革張りのソファに腰掛け、目の前のテーブルに置かれた書類をめくっていた。
向かい側には、制服姿の栞葉るり。淡い色の髪をきちんとまとめ、胸元の警察章が光を受けて鈍く反射している。表情は柔らかいが、視線は書類の行間を探るように真剣だった。
サンゴは手にした数枚のコピーを見つめながら、眉を寄せる。そこには、SNSのスクリーンショットが並んでいた。
複数の捨てアカウントから、同じ一文――
「ほしかわさら、おわりました」
短いが、無視できない言葉が何度も繰り返し投稿されている。
サンゴは顔を上げて、栞葉に問いかけた。
「……星川サラって……あのアイドルの、星川サラさん?」
栞葉は少し頷き、しかしすぐに慎重な口調で返す。
「この文章だけでは、何とも言えません」
「ただ、事実として――星川さんとは、この投稿が見つかる何日か前から、事務所やマネージャーとも音信不通になっています」
サンゴは目を細め、再び紙面を見下ろした。
「“終わった”なんて……」
「星川さんの方向性が、昔のファンの期待してたものと違って……その失望や落胆から来る感情のひとつかもしれない」
言葉を区切り、ゆっくりと書類を机に置く。
「芸能人なら、これくらいの誹謗中傷なんてザラにありそうだけど……」
サンゴは椅子に深く座り直し、真剣な眼差しで続けた。
「……でも、それで行方不明になってるとなると――黙ってはいられないよね」
栞葉はその言葉に小さく頷き、机の端に置いた手をわずかに握りしめた。
応接室の空気が、少しだけ張り詰める。
栞葉は机の上に組んでいた両手をほどき、視線を少し落とした。
制服の胸ポケットに差したボールペンが、彼女の僅かな仕草に揺れる。
「……あまり警察が大っぴらに動くと、世間的にも大事になってしまうから」
その声は、普段の柔らかな調子のままだったが、どこか申し訳なさを含んでいた。
「本当は、彼女の無事を確認できれば、それでいいんだ」
「それで……言いづらいんだけど――」
一度言葉を切り、栞葉は小さく息をついた。
「無理を承知で……その安否を確認してきてほしい、っていうのが……西川警部からの頼みなんだよね」
視線を合わせられないまま、言葉を落とす。
その横顔は、気まずさと申し訳なさが入り混じった表情だった。
サンゴは椅子に背を預け、目を細める。
「……それ、さすがに“お遣い”の域を超えてない?」
冗談めかして言いながらも、声には少し重さがあった。
応接室の空気が再び沈む。
壁掛け時計の秒針の音だけが、規則正しく響いた。
やがて、サンゴは小さく息を吐き、視線をテーブルの上に戻した。
「……わかった」
その言葉に、栞葉の肩がわずかに動く。
「でも条件がある」
眼鏡の奥の瞳が、まっすぐに栞葉を射抜いた。
「ひとつは――世怜音女学院の資金が、不正に流用されていないかを調べること」
栞葉は何も言わずに頷く。サンゴはさらに続けた。
「もうひとつは……内密なお願い。これはここでは言えない」
しばらく間を置き、静かに言い切った。
「――その二つを呑んでくれるなら、僕が動くよ」
栞葉は少しの間黙った後で、真剣な表情を浮かべて頷いた。