世怜音女学院・東校舎の地下書庫。
高く積まれた書架が薄暗い蛍光灯に照らされ、紙とインクの匂いが空気に濃く漂っている。
クオンは机に広げた山のような書類を、一枚一枚丁寧に整理していた。
眼鏡の奥の瞳は、紙面を追いながらもどこか遠くを見つめている。
頭の中を占めていたのは、数週間前の「オリヴィス・アンソル」の一件だった。
――今回の作戦での損害は、決して無視できるものじゃない。
記録に残された数字が、目の奥に突き刺さる。
戦力の消耗、成果の乏しさ。
もし世怜音女学院が出征していれば、被害はもっと抑えられていたかもしれない。
追っていた核物質の協力者――あの日本人の足取りも、掴めていたはずだ。
無意識に、指先で机を叩く。
規律正しく重ねられた書類の山がわずかに震えた。
クオンは無意識に手を止め、目を伏せる。
もし、世怜音女学院が出征を取りやめた理由が、一人の一般学生にあるとしたら。
唇がわずかに動き、乾いた息がこぼれる。
―――Σの上層部は、どんな顔をするだろうか。
苛立ちか、恐怖か、あるいは冷笑か。
どれを思い浮かべても、背筋に冷たいものが走る。
書庫の窓の外では、蝉が鳴いていた。
クオンは机上の書類を閉じ、深く息を吐くと、再び資料の山に手を伸ばした。
「……私にはよく分かりません」
静かに、しかし確かに届く声で言う。
「世怜音女学院がプライドを捨ててまで、あんな小娘一人の舞台に丸々応じただなんて」
クオンは窓の外に視線を固定したまま、淡々と続けた。
「――あんな小娘のわがままに付き合っただなんて、あなたも人が良すぎます」
言葉の矢を受けても、コハクは表情を揺らさなかった。
深く腰を預け、わずかに肩をすくめる。
「それで……?」
促すような声音に、クオンはようやく振り返った。
眼鏡の奥の目に、抑えた熱が宿る。
「でも正直……次は彼女がどう暴れてくるのかが楽しみにもなっているんです」
「こんな来る日も来る日も変わり映えしない場所で、彼女のような無秩序な暴れ者がいるだけで、ワクワクするんです」
吐息まじりの言葉は、どこか自嘲にも似ていた。
しかしコハクは、その熱を冷やすでもなく、わずかに口角を上げただけだった。
「――そのワクワクを、もう一回味わえるかもしれない」
そう言って、革の鞄から一冊の報告書を取り出す。
厚みのある紙束を差し出されたクオンは、無言で受け取った。
「かつて、ある研究のために裏社会の孤児が“実験体”にされていたことがある」
コハクは窓の外へ視線を投げながら、抑揚のない声で語り始めた。
「違法な人身売買業者どもが流していた子供たち……その記録や押収した報告書をΣで洗っていたんだ」
クオンは書類をめくりながら、眉をわずかに寄せる。
「……で?」
「意外なところから意見が出た」
コハクの声は静かだが、妙に確信を帯びていた。
クオンは目を細め、興味を隠さずに問いかける。
「誰の意見です?」
「聖リリヘイル大学の史学教授――プロフェッサー・エバンス」
「再試験を依頼したのは薬学の教授だが……彼が書類を読み直して、興味深い仮説を唱えた」
報告書の紙が、クオンの指先で音を立ててめくられる。
彼女は視線を走らせながら、淡く笑んだ。
コハクは無表情のまま、ほんの一拍の沈黙を置いてから短く頷いた。
「近いうちにな」
クオンは手にした報告書を指先でなぞりながら、視線を落としたまま呟いた。
「……そんなような団体の噂なら、聞いたことはあります。けれど、ここ数年では全く耳にしませんでした。……あくまで都市伝説だと、そう思っていたんですが」
コハクはその言葉に、静かに首を横に振った。
「違うよ。ある時期までは――確かに実在していた。しかも二つの大きな団体が幅を利かせていてね。裏社会に顧客も多かったし、FBIですらその全容を把握しきれなかった。……それどころか、国営の組織でさえ利用していた時期があったくらいだ」
淡々とした説明に、クオンは小さく息を呑む。
「……そんな規模の組織を、でも……今は音沙汰がない。まさか、自然消滅したと?」
コハクは目を伏せ、どこか遠い記憶をなぞるように言葉を紡いだ。
「いや。執念深いたった一人の人間に、両方とも徹底的に潰されたんだよ」
報告書の紙が、夏の風にぱらりと揺れた。クオンは眉をひそめ、震える声で返す。
「……そんな馬鹿な。到底崩壊させられる規模じゃ……」
コハクはその否定を遮るように、確信を持った声で告げた。
「できる人間が、一人だけいる」
静寂。遠くの蝉時雨が、かえって耳に痛く響いた。
クオンは思わずコハクを見据える。その名を、彼女はあまりに自然に口にした。
「――加賀美ハヤト」
瞬間、クオンの背筋を冷たいものが走った。掌にじわりと汗がにじみ、報告書を持つ指先がわずかに震える。
「……なるほど」
冷や汗をかきながら、かろうじて声を絞り出す。
荒い風が一瞬だけ強く吹き抜け、報告書の端をめくった。コハクはその紙を押さえながら、ふと遠くを見やった。
「……私も一度だけ彼に逢ったことがある」
クオンは驚いたように目を見開く。だがコハクは表情を変えぬまま、ゆるやかに続けた。
「私が“鬼”だとしたら……彼は“龍”なのかもしれない」
その声音は淡々としていながら、どこか敬意にも似た響きを孕んでいた。
「正義のために動くわけでもなく、かといって悪しきことを考えるわけでもない。……ただ、どこまでも自分のために舞い続ける存在」
コハクの瞳が、一瞬だけ細められる。
「私が接した時は――好意的に感じた。けれど、それはきっと……数あるコレクションのストレージの一つとして、私を加えたかったからかもしれない」
記憶をなぞるように、静かに言葉を落とすコハク。
クオンは息を飲み、その横顔を凝視する。
「……彼は、力にできる存在なのですか?」
問いは恐る恐る、だが確かに放たれた。
コハクは一瞬の沈黙ののち、きっぱりと首を横に振った。
「――無理でしょうね」
短く、だが迷いのない断言。その冷徹な響きに、蝉の声だけが二人の間を満たした。
コハクは報告書を閉じ、指先で軽く叩くようにしてから静かに口を開いた。
「――ヴァルテスとシヴィルト」
その二つの名を告げられた瞬間、クオンの眉がわずかに動く。
コハクは続けた。
「どちらも子供たちに“洗脳”を施し、職員への服従を強いていた施設だった。ただ……その扱いは大きく異なっていた」
蝉の声の合間に、彼女の低い声が重く響く。
「ヴァルテスは山奥に作られた監獄のような施設で……子供たちには足枷をつけ、名前ではなく番号で呼称していた。商品としての価値は保たれていても、扱いは道具そのものだったと聞く」
淡々と語られる言葉に、クオンは目を瞑り、震える声を漏らす。
「……現代の日本に、そんな施設が残っていたなんて……信じがたい」
その呟きに、コハクは小さく息を吐いた。
「私も噂程度にしか聞かない。けれど――そういう施設に関わらずに生きてこられただけ、まだマシなのかもしれない」
重苦しい風が吹き、報告書の表紙がぱらりと揺れる。
古びた本棚が壁一面に並び、紙と埃の匂いが静かに漂っていた。窓から差し込む西日の光が埃を金色に照らし、薄暗い空間の中で二人の姿を浮かび上がらせる。
報告書を机に置き、コハクはゆるく腕を組んだ。
「――次は、シヴィルトについてだ」
クオンが身を乗り出す。コハクは淡々と続けた。
「シヴィルトは教会を模したような施設だった。職員は“神官”、子供は“修道士”として扱われ、徹底してその“信仰”を強いられていた」
本棚の影に伸びる光が揺れる。クオンは目を細めた。
「宗教施設……?」
「古くは宗派の本家から断絶された団体の、いわば“天下り先”として使われていたらしい。その影響もあってか、洗脳教育で服従を強いることこそあったが、ヴァルテスのように番号で呼び、道具として扱うことはなかった。人として最低限の扱いはされていた、というわけだ」
言葉の端に皮肉を含ませながら、コハクは机に視線を落とす。
「――けれど、どちらの施設も変わらなかった。人体実験の“実験体”として、子供たちを売却していたという事実は」
その声音には、かすかな怒りが混じっていた。
「違いがあるとすれば――それが宗教の奉仕活動と呼ばれたか、奴隷の売却と呼ばれたか。その程度だ」
書庫の静寂の中、重い言葉が落ちる。クオンは唇を引き結び、報告書に視線を落とした。
「……理念の違い、か」
コハクは小さく頷き、声を低める。
「――その“実験の検体”としての情報を得ようとする団体が、かつての被害者であった子供たちを、いま再び狙っている」
書庫の中、積まれた古い帳簿と報告書の束を横目に、コハクは静かに言葉を継いだ。
「――最近、行方をくらましている星川サラ。彼女もまた孤児だ。今は養父と暮らしているらしいが……」
その名を聞き、クオンは小さく息を呑んだ。
「……まさか。ヴァルテスやシヴィルトの……?」
問いかける声には、かすかな震えが混じっていた。
コハクは目を伏せ、机上の報告書を指先で叩きながら答える。
「断定はできない。当時の資料はあまり押収できていないし、証言も曖昧だ。……けれど、“可能性の一つ”としては、十分に考えられる」
書庫に差し込む夕陽が、埃の粒を橙に照らす。クオンは奥歯を噛み、黙り込んだ。
そんな彼女に向かって、コハクは淡々と続ける。
「現在、警察は動いていない。扱いはあくまで“行方不明”……いや、“芸能人の高跳び”程度のものだ。海外に逃げたか、表舞台から降りたか……そんな軽い見立てだ」
コハクの瞳が眼鏡の奥で光を帯びる。
「だが――もし彼女の身柄を狙っている組織が絡んでいるのなら。それは“ただのアイドルの失踪事件”なんかじゃ済まされない」
風が窓を揺らし、カタリと古い本が一冊、棚の隙間で音を立てて落ちた。
その音に、二人の間の沈黙がいっそう深くなっていった。