ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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多感多愁

 夕暮れの空が、街の高層ビルに淡い橙を落としていた。

 ビルの下、コンクリートの隙間から夜の気配がじわじわとにじみ出す頃、黒塗りの車の傍に二つの影が立っていた。

 

 一人は、白衣を肩から羽織った銀髪の少女。

 彼女は無言のままビルを見上げている。その瞳は冷たく、けれどどこか迷いのようなものも混じっていた。

 その隣には、赤と黄を基調とした滑稽な衣装に身を包んだピエロ姿の男が、帽子を押さえながら笑っている。

 

 「いやあ、姉御も大きくなられましたね~。背だけじゃなくて、威厳も、すっかり……」

 

 男の口調はふざけているようでいて、どこか真摯な響きを持っていた。

 だが、少女はその言葉に答えない。無言のまま、しばしの沈黙。

 

 やがて、ぽつりと独り言のように呟いた。

 

 「……こんなとこまで来て……まったく、あいつもここまで無茶する子じゃなかったんだけどな」

 

 その言葉に、男が面白そうに笑う。

 口元に浮かぶのは道化の仮面ではなく、どこか誇らしげな、師を思う者の微笑だった。

 

 「ふふ……我が弟子も中々やるようになったもんですな」

 

 銀髪が、ビル風にふわりと揺れた。橙から群青へと変わっていく空の色が、彼女の輪郭を静かに染めていく。

 

 運命に抗う開戦の狼煙が、上がろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 東校舎の寮棟。夕方の光が廊下の窓から斜めに差し込み、床のタイルに淡い橙色の影を落としていた。外では蝉がまだしぶとく鳴き続けているが、その声も日が傾くにつれてどこか物悲しく響いている。

 

 クオンは一人、廊下を歩いていた。靴音がやけに大きく響き、人気のない寮の空気を震わせる。

 

「……周央サンゴのことを話していたはずなのに……」

 

 ぽつりと呟く。

 気づけば、さっきまでの会話は彼女から遠ざかり、ヴァルテスやシヴィルトといった暗い記憶の話に流されていた。

 

 ――かつての子供たちがまた犠牲になるなんて、そんなことは絶対に避けなければ。

 

 夕陽が廊下の壁を照らし、橙と影が複雑に交錯する。

 クオンの胸中には、重く湿った感情がのしかかっていた。

 

 その時、不意に角を曲がった先で影と影がぶつかる。

 

「――っ!」

 

 出会いがしら、そこに立っていたのは北小路ヒスイだった。

 制服姿の彼女は、真っ直ぐにクオンを見上げ、口を開く。

 

「……考え込むなんて、先輩らしくないですね」

 

 その声は、どこか驚きと皮肉を半分混ぜたような調子だった。

 クオンは一瞬視線をそらし、「何でもない」とだけ短く告げると、その場を通り過ぎようとした。

 

 だが、ふと――サンゴとよく一緒にいたヒスイの姿を思い出す。

 足を止め、背を向けたまま問いを投げかけた。

 

「……人身売買をしていた施設の噂に、心当たりはあるか?」

 

 ヒスイがきょとんとした顔をするのを横目に、クオンはその返答を待たずに続けた。

 

「――ヴァルテスと、シヴィルト。二つの施設だ」

 

 夕陽に染まる廊下で、クオンの声は低く反響する。

 

「こんなことを言える立場じゃないけれど……想像するだけで嫌な気持ちになる。子供たちが……どんな生活をさせられていたのか」

 

 自分でも驚くほどに、素直な気持ちが口からこぼれ落ちていた。

 言葉を吐き出してから、ふとヒスイの顔を見る。

 

 ヒスイは――いつものように、感情をあまり浮かべない無表情だった。

 しかし、その瞳には曇りもなく、ただ当たり前のように口を開く。

 

「……それ。私がいた施設ですよ」

 

 夕暮れの光が、二人の間に冷たい影を伸ばしていた。

 クオンの心臓が、一瞬止まったように重く沈む。

 

 夕暮れの寮の廊下。窓から差し込む橙の光に二人の影が長く伸びていた。

 クオンは息を飲み、ただ黙り込む。

 

 そんな彼女の沈黙をよそに、ヒスイはあっけらかんとした調子で口を開いた。

 

「――ヴァルテスは、私がいたところですよ」

 

 唐突に言い放つその声音は、まるで日常の雑談のように軽かった。

 

「ご飯、全然くれないんですよね。育ち盛りのガキに酷いと思いませんか?」

 

 悪びれた様子もなく口元を緩めるヒスイに、クオンは返す言葉を失った。

 胸の奥に冷たいものが広がるのを感じながら、ようやく絞り出す。

 

「……薬の実験台に、なったのか?」

 

 短い問い。だが、声には抑えきれぬ震えが混じっていた。

 

 ヒスイは一瞬だけ目を泳がせ、それから肩をすくめて答える。

 

「なんか、そういう子もいましたね」

「まあでも、実際……施設で働くより研究所行った方がご飯美味しいの食べられたりしたんで」

 

 軽く笑いながら続けるが、ふと目を逸らし、間の悪そうな声で言葉を濁した。

 

「私はちょっと……注射とか点滴とか勘弁だったんで! 仕方なく……その……なんというか……」

 

 気まずさに頬をかき、急に慌て出す。

 

「い……いや!でも仕方なかったんです!そう!こ、子供ってそういうもんじゃないですか!」

「ヴァ……ヴァルテスの先生にはどうか秘密に……」

 

 おどおどと勘違いした様子で言い募るヒスイ。

 クオンはその姿を見つめ、喉が詰まるような感覚に襲われながらも、小さく呟いた。

 

「……もう、ヴァルテスはない」

 

 その一言に、ヒスイの動きが止まる。

 

「えっ、そうなんですか!?」

 

 目を丸くして驚いたあと、ほっと肩を下ろすように笑った。

 

「あ~……良かった良かった……つまみ食いバレたのかと思った……」

 

 廊下を渡る夕風が、二人の影をゆらりと揺らした。クオンはその軽すぎる反応に、眼の奥の深い場所がさらに重く沈んでいくのを感じる。

 

 廊下に西日が差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。

 ヒスイは、クオンの沈んだ様子を見て、急にニヤリと笑みを浮かべた。

 

「もしかして、心配してくれてるんですか!?」

 

 わざとらしい大げさな声色で続ける。

 

「クオン先輩優しいですねー!そうなんですよぉ!クオン様はこの卑しい身売りを気遣ってくださるなんて……」

 

 目元を手でこすり、わざとらしく嘘泣きしてみせる。そして、急に明るく振り返った。

 

「じゃあ私の分、掃除当番お願いしますね!」

 

 軽口のつもりで放った言葉。しかし、クオンは静かに目を伏せて呟くだけだった。

 

「……考えておく」

 

 その瞬間、ヒスイの笑みが凍りついた。

 冗談を冗談で流さず、真に受けるようなその返答は、彼女の予想を大きく裏切っていた。

 

「……だ、大丈夫ですか?」

 

 戸惑いを隠せないまま、今度はヒスイが逆に気遣うように声をかけた。

 クオンはすぐには答えず、夕暮れに沈む廊下をしばし見つめ続けた。

 やがて、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。

 

「……私は、父の言われるがまま兵士になった」

 

 夕陽に照らされた瞳に、わずかな揺らぎが映る。

 

「父がΣとして平和を願い、殉職したように……私もまた、Σの戦士として戦えることを誇りに思っていた。――でも君は……」

 

 そこまで言ったとき、ヒスイはふっと笑い、首を傾げた。

 

「先輩……ンゴみたいなこと言うんですね」

 

 窓の外に視線を向けながら、言葉を続ける。

 

「セイラみたいに、去年まで鼻水垂らして遊んでたって奴もいるし。アスカみたいに、立ちんぼで稼いでた時より今の方がマシって言う子もいる」

 

 窓の向こうに広がる夕焼けの空を眺めながら、肩をすくめた。

 

「コハクさんだって……もっと遊びたいだろうに」

 

 その声はどこか柔らかく、それでいて残酷な現実を突きつけていた。

 振り返ったヒスイの表情は、淡々としていながらも妙に大人びていた。

 

「要は――人生なんて、何が起きるか分からないですよ」

 

 廊下の外から差し込む橙の光が、彼女の横顔を赤く染めていた。

 クオンはその言葉を聞き、沈黙の中でただヒスイを見つめ返していた。

 

 翌朝――。

 パトカーの中は、わずかなエンジン音とタイヤがアスファルトを滑る音だけが支配していた。

 助手席にサンゴ、後部座席にはヒスイが座り、窓の外を流れる街並みをじっと見つめている。

 朝の光はまだ柔らかいが、二人の顔を照らすときには、どこか張り詰めた空気を浮き彫りにしていた。

 

 ハンドルを握る西川警部が、バックミラー越しに二人へ視線を向けた。

 

「――星川さんらしき人物が最後に姿を見せたのは、この先のビルの最寄駅の防犯カメラだ」

 

 低い声で説明を始める。

 

「さらに、怪しいキャリーケースを持った男、それから警視庁が以前からマークしていた犯罪集団の一人の男が頻繁に出入りしていた記録がある。そこからビルを特定できた」

 

 サンゴは眼鏡の奥でわずかに目を細め、黙って聞いていた。

 ヒスイは小さく腕を組み、視線だけ前に向ける。

 

「……ただし、正面の入口から入れば目立ちすぎる。だから裏口――E8ゲートから侵入する」

 

 西川警部の声は冷静だが、言葉の端には慎重さがにじんでいた。

 

「君たちは星川さんらしき痕跡を見つけたら、渡したポケベルを鳴らせばいい。後は機動隊が全部やる。……退散してくれて構わない」

 

 ハンドルを切りながら、淡々と作戦を告げる。その声音は、二人に余計な無茶をさせないための意図が明確に含まれていた。

 

 車内に一瞬の沈黙が流れる。

 前方の信号が赤に変わり、パトカーは静かに停車した。

 

 そのとき、西川警部はふと横目に後部座席を見やり、ヒスイを見据えた。

 

「で……お嬢ちゃんは何でここにいるんだ?」

 

 不思議そうに眉をひそめながら、問いを投げかけた。

 バックミラー越しに視線を受けたヒスイは、少し気まずそうに目を逸らす。

 

「――あっ! スピちゃん凄いんですよ!」

 

 眼鏡を押し上げながら、早口でまくし立てる。

 

「結構腕っぷしとか強くて! あと、足もすごい速くて!」

 

 言い終えた瞬間、ヒスイが小さく目を丸くしたが、何も言わずに口をつぐんだ。

 西川警部はバックミラー越しに二人を見やり、わずかに苦笑を浮かべる。

 

「……まあ、女の子一人よりは二人の方が良いかもな」

 

 そう呟き、視線を前に戻す。

 

「どの道、今回の一件がバレれば――俺も栞葉巡査もおしまいだ。……期待してるぞ」

 

 頭をかきながら吐き出すように言い、やがて車を減速させた。

 パトカーは近くの公園の前に停まり、二人を下ろす。

 

 ドアを閉めて降り立つと、夏の朝の熱気が押し寄せてきた。

 辺りを見回すと、警部の言った通り、一般人には分からない程度の距離感で、覆面車両や警察関係の車が点々と散見された。

 

 ヒスイはその配置を一瞥し、すぐにサンゴへ顔を向ける。

 

「――被害者の星川さんが最後に確認されてから、もうかなり時間が経ってる。心身ともに疲弊してる可能性が高い。……あまり長居はおススメできない。」

 

 涼しい目で言葉を区切り、サンゴを見据える。

 

「だから――早めにやろう」

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