公園の蝉の声が、二人の間の緊張をいっそう際立たせていた。
ビルの影に沿って、サンゴとヒスイは車庫の出入口からE8ゲートを目指して進んでいた。
上を見上げれば、無数の窓が並ぶビルの外壁。ガラスは反射で眩しく、太陽光を弾き返している。二人はその視線に映り込まぬよう、細心の注意を払いながら影から影へと移動した。
上層階の窓は規則正しく並び、その視線の死角に入るように、サンゴとヒスイは建物の影を縫うようにして移動していく。
足元はコンクリートが剥き出しの車庫へ続いており、排気の匂いとオイルの混ざった独特の空気が漂っていた。
車庫の中はコンクリートがむき出しで、ひんやりと湿気を含んだ空気が漂っていた。
駐車スペースには黒いワゴン車や古びた軽トラックが並び、タイヤ痕が何重にも重なって黒く擦れている。
壁には換気口がいくつも設けられており、奥からは低いモーター音が絶えず響いていた。
壁際には段ボールや資材のケースが積み上げられ、どこか雑然とした雰囲気だ。
サンゴは眼鏡の奥で鋭く視線を走らせ、低く呟いた。
「――ここからE8に行くには、まずF9ゲートを通らなきゃいけない」
F9は職員専用の出入口。内壁を抜けるためにどうしても通過が必要になる。
二人は無言のまま合図を交わし、慎重に進む。
やがて視界の先に、作業着姿の男たちが見えた。
腰に工具袋を下げ、床にしゃがみ込みながら配線やパイプを点検している。
溶接機の火花が散り、鉄の焼ける匂いが車庫の中に広がる。
サンゴは小さく息を吐き、ヒスイの耳元にささやいた。
「普通の人もいるから……あんまり音沙汰立てたくないね」
しかし、その直後。
足元のコンクリートに散らばっていた小さなボルトを、サンゴの靴が踏みつけてしまった。
カラン――と乾いた音が響く。
作業員の一人が顔を上げ、周囲を見回す。
二人は咄嗟に資材の影に身を滑り込ませ、息を殺した
サンゴが息を止めて固まる中、ヒスイは冷静に状況を分析するように低く囁いた。
「……やっぱり、先に私がF9までのルートを確保しに行った方が良さそうね」
彼女の目は真剣で、迷いはなかった。
「C15ゲートの辺りからなら……F9の隣のD10まで誰にも逢わずに行ける。そこまで行ったら、待ってて」
そう告げると、ヒスイは息を整え、壁際を滑るように走り出した。
サンゴは背を壁に預け、地図アプリを眼鏡越しに確認しながら、資材の影を縫うようにしてD10ゲートまで身を移した。
蛍光灯の薄暗い光が、コンクリートの床をぼんやりと照らしている。息を潜めながら、手元の地図に指先でなぞりを入れる。
「……本当は、E7かE1から行くA24ゲートだったら楽そうなんだけどなぁ」
小さくぼやく声は、わざと軽く装ってはいるが、その奥には焦燥がにじんでいた。
だがすぐに首を振る。
E7ゲートはあまりに遠い。回り道すぎて時間を浪費するのは明らかだった。
E1は管理者用の非常扉。そこへ通じる道はすでに封鎖され、鍵もかけられている。仮に辿り着けても、厳重な電子ロックを解除しなければ入れない。
そしてA24ゲート――あれは何年も前から使われていない“開かずの扉”だ。
「……やっぱり無理、か」
苦い息を吐いた瞬間、脳裏にフラッシュバックのように蘇る。
――地下駐車場。鉄の匂いに満ちた空気、床に広がる血溜まり、倒れていた影。
胸の奥がひやりと締め付けられ、指先が小さく震えた。
見てるだけじゃ、足手まといだ。そう自分に言い聞かせ、サンゴは決意を固める。
手にした端末を操作し、ヒスイに素早くメッセージを打ち込んだ。
《スピちゃん、E1に繋がる道に来れる?》
送信ボタンを押すと同時に、サンゴは眼鏡を押し上げ、音を立てないように一歩踏み出した。
湿ったコンクリートの壁に沿って歩きながら、視線を鋭く前に向ける。橙の非常灯に照らされながら、彼女はE1へと続く暗い道へと足を進めていく。
サンゴはE1へ繋がる通路にたどり着き、目の前で無骨に封鎖された鉄扉を指さした。
錆びついた鎖が何重にも巻かれ、上には電子ロックが埋め込まれている。
「……あそこに行きたいんだけど」
声を潜めつつも、瞳には迷いがなかった。
後から追いついたヒスイは、その方向を見て小さくため息をつく。
「無茶言うな……」
眉をひそめてしばらく考え込んだが、やがて決意したように顔を上げる。
「――ちょっと待ってろ」
そう言うと、壁際に走り寄り、むき出しになった配管に両手を掛けた。
金属がわずかに軋む。ヒスイは軽やかに足をかけ、ぐっと腕力で体を持ち上げる。
配管の横にある手すりへ飛び移り、バランスを取るように一瞬静止する。
次の瞬間には、さらに上に突き出た鉄骨に足をかけて跳び、斜めに走る補強梁を使って一気に上階の足場へ身体を引き上げた。
鉄板の足場に着地すると、わずかに膝を曲げて衝撃を殺し、そのまま無駄なく走り出す。
足場から足場へ、わずかな隙間を軽快に飛び越え、途中で崩れかけの板を踏み切りにして空中へと舞う。
空気を切り裂くような静かな動き――その身体は小柄ながら、まるで訓練された獣のようにしなやかだった。
やがてヒスイは封鎖された道の向こう側の柵に手を掛け、勢いを殺さずに飛び越える。
狭い着地点にもかかわらず、猫のように軽やかに膝を曲げて静かに着地した。
そして、平然とした顔で内側からサンゴの方へ歩み寄り、腰の鍵束を取り出して錠前を外す。
錆びた金属がカチリと音を立て、鎖がほどけて床に落ちた。
「――ほらよ」
無造作に呟き、手で扉を押し開ける。
サンゴは思わず息を呑み、眼鏡の奥で目を見張った。
二人は足音を殺しながら薄暗い通路を抜け、螺旋階段を慎重に上った。
コンクリートの壁は湿気を帯びて冷たく、時折遠くで響く換気ファンの音が耳に残る。
やがて辿り着いたのは、E1の重厚な扉。
鋼鉄の表面には頑丈な電子ロックユニットが取り付けられていた。
小さなパネルが青白く点滅し、機械的な電子音を一定の間隔で鳴らしている。
ヒスイはじっとそれを見つめ、首を横に振った。
「……流石にハッキングの真似事なんてできないぞ」
その言葉にサンゴは一瞬、ためらいの表情を浮かべる。
脳裏にセツカの姿がよぎる――あの子なら迷いなく、この扉を開けただろう。
だが今は、自分しかいない。
サンゴは小さく息を吐き、眼鏡を押し上げた。
「……僕がやる」
渋々と呟きながら、持参していた薄型のノートパソコンを取り出す。
膝をつき、扉脇の制御盤を探ると、金属カバーの隙間から基板がのぞいていた。
配線に慎重に触れ、接続ポートを探し出す。
ケーブルを差し込み、ノートパソコンと電子ロックを直結させると、画面に文字の奔流が現れる。
冷たい光がサンゴの顔を青白く照らし、眼鏡の奥の瞳にコードの羅列が映り込んだ。
「……認証プロトコル、三層か……」
小声で呟きながら、指先を震わせつつキーボードを叩く。
パスワードを解除しようと試みるも、何度かアラートの赤文字が画面に走り、サンゴの額にじわりと汗が滲む。
「……違う……、こっちのキーじゃない……」
呼吸を抑え、エラーが積み重なる中、データのバックドアを探る。
ログを追い、隠されたサブシステムを突き止めると、目を細めてキーコードを書き換える。
数分後――。
画面に「Access Granted」の文字が浮かび上がった瞬間、電子ロックのライトが赤から緑へと変わり、機械仕掛けの錠がカチリと外れる音が響いた。
サンゴは大きく息を吐き、キーボードから手を離す。
二人は静かにE1の扉を抜け、埃っぽい通路に足を踏み入れた。
長らく人が通っていないのか、床にはうっすらと灰色の塵が積もり、靴底の跡がはっきり残る。
壁の蛍光灯は点滅し、時折ジジッと不快なノイズを響かせていた。
サンゴは歩きながら、小声でつぶやく。
「……ただ、問題は……」
脳裏に浮かんでいるのは、地図に記されていた“開かずの扉”――A24。
やがて二人はその前にたどり着いた。
他の扉と違い、そこには番号が大きく刻まれていない。
古めかしい鉄の扉で、表面には錆が広がり、かろうじて残る塗装が剥がれている。
しかし中央には不釣り合いな旧式の電子ロックが取り付けられていた。
サンゴは膝をつき、眼鏡を押し上げながらロックの制御盤を探る。
「……接続口は……」
指で配線の隙間を探ったが、すぐに異常に気づく。
金属のポートは完全に錆びつき、さらに今の世代のノートパソコンでは到底繋げない古い規格だった。
下手をすれば、何世代も前の機材でしか対応できない。
「……駄目だ。穴が腐ってる……これじゃ、どうやっても……」
額に汗を滲ませるサンゴを見て、ヒスイが腕を組み、冷静に言い放った。
「回り込んでC7から行くしかない」
だが、サンゴはすぐに首を振る。
「そこはまだ工事中だよ。作業員に見つかったら……」
埃っぽい通路に、張り詰めた空気が流れていた。
ヒスイは扉をじっと睨みつけると、冷たい声で呟いた。
「……それなら、もう殺すしか」
感情を欠いた声音に、サンゴの心臓がどくりと跳ねる。
眼鏡の奥の瞳を揺らしながら、慌てて首を振った。
「そ、そんなのダメだよ……」
必死に否定しつつも、どうすればよいのか分からない。
けれど、せめて――と、サンゴはダメ元で古びた扉の取っ手に手を掛けた。
ぎしり、と鉄の軋む音。
次の瞬間、思わず目を丸くする。
「……あ、開いてる!」
慌てて振り返り、小声でヒスイに呼びかけた。
「開いてるよ、スピちゃん!」
ヒスイは訝しげに眉をひそめ、半信半疑で取っ手を握る。
ゆっくりと力を加えると――確かに扉は簡単に動いた。
「……そんなバカな」
電子ロックはうんともすんともせず、完全に沈黙している。
しかも電源自体が落ちており、鍵もかかっていない。
まるで最初から開かれていたかのように、鉄の扉は静かに軋みを上げて開いた。
軋んだ鉄扉を抜けると、そこには拍子抜けするほど明るい廊下が広がっていた。
床は磨き上げられたタイル張りで、蛍光灯が白々と光を反射させている。
陰鬱な通路から急に人工的な清潔感に包まれ、サンゴは一瞬立ち止まった。
「……何とかして、星川さんの手掛かりを探さないと」
そう呟きながら、鞄から小型のドローンと盗聴器を取り出し、準備を始める。
だが、隣のヒスイは反応が薄かった。
「ええ、そうね……」
上の空で答えながら、そっぽを向き、小型の端末を操作している。
唇がわずかに動いた。
「……どう? 見つかった?」
サンゴが眉をひそめた瞬間、さらに冷たい声が続く。
「そう。なら、その死体から奪えばいいわね」
サンゴの背筋に冷たい汗が流れた。
慌てて顔を向ける。
「……な、何の話?」
問いかけても、ヒスイは完全に無視した。
そのままスタスタとエレベーターに乗り込む。
サンゴは置いていかれるような焦りに駆られ、慌てて追いかけるように同じエレベーターに飛び乗った。
扉が閉まり、密閉された空間に機械音が響く。
サンゴは胸の奥のざわめきを抑えきれず、無理に声を絞り出した。
「……スピちゃんって……西川警部も言ってたけど、なんで僕に付いてきたの?」
ヒスイは無表情のまま、ボタンを押す指先を見つめている。
サンゴは自分を落ち着かせるように、言葉を続けた。
「いや……実際助かったよ。スピちゃんがいなかったら、ここまで来れなかったかもしれない」
だが、言えば言うほど胸が締め付けられる。
息を整えられないまま、つい口を滑らせた。
「……というかスピちゃん、僕が警察から星川さんのことを依頼されたって……よく分かったね」
その瞬間、エレベーターの静けさが異様に重くのしかかってくる。
サンゴの瞳は不安に揺れ、嫌な予感がじわじわと全身を蝕む。
エレベーターの中、サンゴは急に胸の奥がざわつき、眼鏡の奥の瞳が揺れた。
「……ま、まさかスピちゃん! 星川さんのこと!」
ヒステリックに声を上げ、ヒスイに駆け寄る。
だが次の瞬間、ヒスイは眉を吊り上げ、強い力でサンゴを突き放した。
「そんなわけないだろ! ちょっとは頭冷やせ!」
鋭い声が密閉された箱に反響する。
サンゴは壁際に押しやられ、呆然としたままヒスイを見つめた。
ヒスイは深く息を吐き、今度は冷静に言葉を続けた。
「……何の裏も作らずに協力するわけないだろ。でも――星川さんの誘拐事件を解決したいのは、お互い様だ」
その目は真剣で、嘘の色はなかった。
サンゴが口を開く前に、ヒスイはさらに言い放つ。
「利用していいって言ったの、お前だろ。……こんなので戸惑ってたら、お前今日死ぬぞ」
短い言葉だったが、その重さはサンゴの胸を深く打った。
沈黙が落ちる。
サンゴは拳を握りしめ、しばらく視線を落としたまま考え込む。
そして、決意を込めた声で呟いた。
「……わかった」
顔を上げ、眼鏡の奥でヒスイを真っ直ぐに見据える。
「僕がドローンでサポートする。だから、
エレベーターのランプが「24階」を示す直前、
思う存分――暴れてきて」
二人の間に緊張と覚悟が同時に漂っていた。