ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

3 / 56
油断大敵

 ―翌日の東校舎、朝の教室。

 

 重たい空気と張りつめた静寂が支配する中、教室の窓際で北小路ヒスイは頬杖をつきながら、窓の外をぼんやりと見ていた。

 視線の先には、西校舎へと続く遠い中庭。あの柵の向こうには、昨日もサンゴがいた。

 

「……ねぇ、セイラ。ちょっと聞いていい?」

 

 隣の席に座っていた同級生――狙撃手のセイラに、ヒスイは声をかけた。

 

 セイラは東の制服の袖をたくし上げ、腕の筋を伸ばしながら振り向く。

 白銀の髪を三つ編みにした端正な顔に、にこりとした笑み。

 

「なに、また恋バナ?」

 

「違うわバカ」

 

 即答したヒスイに、セイラは「え~、ヒスイ恋バナ好きじゃん」と笑って肩をすくめる。

 それでも、どこか期待したような目をしていた。

 

「……最近さ、西の生徒が絡んでくるんだよね。私に。たぶん……“普通の友達”みたいに」

 

 セイラは机に肘をつきながら、にやにやと笑う。

 

「良いじゃん青春って感じで!

 ほら、そういうのって、心が浄化されるっていうかさ~?

 ヒスイも友達作ってさ、ちょっとずつ人間らしさ取り戻すみたいな?」

 

「……相談する相手、間違えたわ……」

 

 ヒスイは頭を抱え、ゆっくりと机に突っ伏した。

 

「解ってるでしょ、セイラ……私たちはああはなれないの」

 

 ぽつりと呟いた声には、苦味と諦めが混じっていた。

 

「“あっち”は、笑っていられる。泣いたって、誰かが慰めてくれる。

 でも私たちは……私たちには、ここしか居場所はない。

 東校舎っていう、“ここ”以外には――何もない」

 

 セイラは無言でヒスイを見つめていた。

 

「……まるで世界を分かつ境界線みたいでしょ、あの柵」

 

 ヒスイは、顔を上げて窓の外に目を向ける。

 中庭を区切る東西を分かつ金属柵。

 その向こうには、朝陽の中を歩く生徒たちの明るい笑顔がある。

 

「越えられないよ、あんなの。私たちには。

 名前も、顔も、過去も“任務”に塗り潰された私たちが……“友達”とか、冗談みたいでしょ」

 

 その言葉に、セイラは一瞬だけ笑みを消し、目を伏せた。

 そして、そっと静かに呟いた。

 

「……でも、それでもさ。ヒスイが“境界線”を気にしてる時点で――

 もしかしたら、もう向こう側をちょっとだけ、見ちゃってるのかもね?」

 

 ヒスイは何も言わなかった。

 ただ、目だけが再び窓の向こう――柵の向こうを、じっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 午後の東校舎、重く乾いた空気の中を、ヒスイは一人、廊下を歩いていた。

 ブレザーの裾を少し揺らしながら、重たい足取りで無言のまま前を見つめていた。

 

(……やっぱり、あの時殺しとくべきだったか……)

 

 思い浮かぶのは、あの夜の廃ビル裏――銃口を向けたまま、引き金を引かなかったあの瞬間。

 

(中途半端な情け、命取り……“東”の生徒としては失格だよね、こんなん)

 

 そしてもう一つ、今朝の教室でのやり取りが頭をよぎる。

 

(相談する相手、セイラじゃなくてアスカにしときゃよかった……)

 

 そんなことをぼんやり考えながら中庭へ差しかかった時、金属製の柵の向こう――

 西校舎の歩道の上に、制服姿の周央サンゴの姿が見えた。

 

 今日のサンゴは、クールな雰囲気に戻っていた。

 目の奥には、昨日までの抜けたような笑みも、茶化した様子もなく、ただ静かにヒスイを見つめていた。

 

 ヒスイはわずかに眉をひそめて立ち止まり、投げやりな口調で声をかけた。

 

「……今度は何の用?」

 

 サンゴは、柵の向こうからそっと目線を下げてから答える。

 

「東の校舎の先生に会いたいんだけど……」

 

 その言葉を言い終える前に、ヒスイが即座に遮る。

 

「できるわけないだろ」

 

 吐き捨てるように言いながら、ヒスイは柵に背を向けようとする。

 だが、なぜか足が止まり、思わず口が動いた。

 

「……なんで、そんなに私たちに関わろうとすんの?」

 

 振り返らずに言葉を続ける。

 

「いい加減、分を弁えろよ。

 “東”の生徒が、どういうことしてんのか――お前、もう十分わかってるだろ」

 

 少しの沈黙。

 その言葉を受けて、サンゴは静かに、深く考え込むように目を伏せた。

 

 やがて、小さく息を吐き、ぽつりぽつりと語りはじめる。

 

「……僕さ、普段関わってるのって――大人ばっかりなんだよね。

 仕事の相手も、依頼主も、相談相手も、全部“大人”。」

 

 目を細め、遠い空を見るように話し続ける。

 

「大人ってさ、案外気楽なんだ。

 犯罪に手ぇ出すにしても、でかい金賭けるにしても、命がけのことしてても――

 責任を問う人間はいても、“叱る”人間は誰もいないんだよ。

 それが“大人”の自由ってやつなんだろうけど……」

 

 サンゴは一度言葉を止めてから、ゆっくりとヒスイの方に視線を戻す。

 

「でもさ――それってあくまで“大人”の話であって、子供の場合は全然違う。

 普通、子供が危ないことやったらさ……誰かが止めるだろ?

 先生とか、親とか……近所の大人とかさ」

 

 指を折って、数を数えるように淡々と語る。

 

「学校の先生。両親。塾の先生。町内会の人。近所のおばちゃん。上級生。バイト先の店長……」

 

 そこで、サンゴは言葉を濁し、ゆっくりとヒスイの顔を見た。

 視線がぶつかる。

 その目はいつになく、何かを“言おうとして言えない”ような、微妙な揺らぎを宿していた。

 

「……」

 

 何かを言いかけて、やめたサンゴ。

 それをじっと見つめるヒスイの目もまた、硬さを帯びていたが――

 その奥では、聞き捨てならない“何か”が、静かに引っかかりを残していた。

 

 夕暮れが差し込み始め、淡い茜色が校舎を染め始めた中で、周央サンゴは小さく俯いたまま、言葉を繋ぐ。

 

「……あの夜、さ。銃を突きつけられたあの時」

 

 静かな、けれどどこか震えるような声。

 

「君の瞳を見て思ったんだ――

 『ああ、僕を客観視したら、きっとこんな感じになるんだ』って」

 

 ヒスイは無言でその言葉を聞いていた。

 サンゴは目線を上げず、淡々と語り続ける。

 

「この小さな手で何を守るって言うんだ。

 この小さな眼でどれだけの惨状を見てきたんだって……」

 

 その声には、笑いも皮肉もなかった。

 ただ、言葉が胸の奥からぽとぽとと落ちてくるようだった。

 

「死の判決を下す司法ですら、少年に対しては責任をほとんど追及しない。

 そんな“幼気な存在”を、地獄の戦場に送るなんて――

 許されるわけがない」

 

 一呼吸。沈黙。

 

「きっと、まともな大人たちは――

 僕のことを、ずっとそう見てきたんだって気づいたよ」

 

 言い終えると、サンゴは肩を落とし、小さな影となった自分の足元を見つめた。

 

 しばらくの沈黙を置いてから、ヒスイが口を開いた。

 

「……あんたと私は違う」

 

 それは拒絶だった。

 切り捨てるようでいて、どこかににじむ苦さもあった。

 

 サンゴはその言葉を真正面から受け止めるように、ゆっくりとうなずいた。

 

「そうだね」

 

 今度ははっきりと、サンゴはヒスイの目を見て言った。

 

「己が愚行でこの場所にいる僕が――

 君と同じ括りにされていいわけがない。

 僕は、“なりたくてなった”存在だから」

 

 ヒスイの瞳が少しだけ揺れる。

 

 そしてサンゴは、少しだけ表情を緩めて、

 自嘲気味な、それでいてどこか優しげな笑みを浮かべてこう続けた。

 

「でもさ――『人から見えていた自分』っていうのが、あの時、なんとなく見えた気がしたんだよね」

 

「銃口を向けられて、“自分の命を抉る脅威”でもなく、“冷酷な殺人兵器”でもなく、一人の“子ども”として君を見ていた……そういう気がしたんだ」

 

 ヒスイは目を伏せた。

 それは、否定も肯定もできない。

 ただ、胸の奥に刺さって、抜けない言葉だった。

 

 沈黙が、再びふたりの間を包む。

 だが今、その柵は、たしかにどこかで“揺れた”ようにも見えた。

 

 夕陽が空を赤く染め、校舎の影が長く伸びていく。

 空気にかすかな冷たさが混ざり始めたその頃、北小路ヒスイは柵の前で静かに立ち尽くしていた。

 

 その向こうには、まだ西校舎側に残っていた周央サンゴ。

 クールな表情のまま、沈黙を保っていたが、互いの呼吸は微かに合っていた。

 

 しばらくの沈黙の後、ヒスイがぽつりと呟いた。

 

「……いいよ」

 

 サンゴの目がわずかに見開かれる。

 

 ヒスイは少し視線をそらし、夕空を見上げた。茜に染まった雲が、どこか柔らかく流れていく。

 

「でも、もう遅いからさ。今日は――うちに泊まってきな」

 

 それは唐突な提案だったが、どこか自然だった。

 

 サンゴはしばらく柵越しにヒスイを見つめていたが、やがて無言のまま歩き出し、柵の端にある扉の方へ向かう。

 鍵はヒスイが開けたままにしてあった。

 

 金属の軋む音がして、東の敷地に一歩足を踏み入れたサンゴは、

 ヒスイの側へと歩み寄りながら、ふと微笑む。

 

「……じゃあ、今日は『また』東校舎にお泊まりするね」

 

 その“また”という言い回しに、ヒスイはすかさず眉をひそめて言い返した。

 

「……逮捕されてたのを『お泊まり』って言うのやめろ」

 

 夕暮れの風に制服の裾を揺らしながら、二人は並んで歩き出す。

 

 無言の時間が少しだけ続いたあと、校舎の裏手にある東校舎の学生寮が、遠くに見え始めた。

 

 サンゴはじっとそれを見つめ、まるで異世界を覗き込むような表情になる。

 

「……西校舎にも学生寮あるでしょ……」

 

「あるよ。でも、遠くから入学した人しか使ってないし、あっちはマンションみたいなラフな感じだからね」

 

 そして、小さく息を吐きながらぽつりと続ける。

 

「なんていうか……少年院みたいだ。」

 

 ヒスイは少しだけ目を細めて、サンゴの横顔を見た。

 

 言葉の選び方は相変わらず独特で、どこか棘があるようでいて、妙に素直でもある。

 それは、彼女が“向こう側”にいる者でありながら、時折“こちら側”を覗いている証のようにも思えた。

 

「……ま、少年院みたいなもんだけどね」

 

 ヒスイが小さく呟くと、サンゴはふっと笑って「そっか」と返した。

 

 二人の歩く足音が、静かな校庭に溶けていく。

 その距離は、まだほんの少しだけぎこちないけれど、確かに――近づき始めている。

 

 東校舎の寮棟、その一室。

 鉄筋コンクリートの堅牢な造りの中に、最低限の家具と白いカーテンがあるだけの、簡素な部屋。

 だが、その空気には訓練施設独特の緊張感が薄く滲んでいた。

 

「ほら、入って」

 

 ヒスイが無造作にカードキーを差し込み、サンゴを自室へと招き入れる。

 

 サンゴは軽く頷きながら、荷物もなくふらりと中に入った。

 部屋には、二つ並んだベッドのうち片方だけが使われており、もう一つはシーツも掛けられないまま、空のままだった。

 

 ヒスイは上着を脱ぎながら、何気ない調子で言う。

 

「夜中にいきなり呼びつけられることもあるからさ、その時は留守番よろしくね」

 

 サンゴは小さく肩をすくめて「解った」と返事をしたが、しばらく部屋を見回した後、ふと足を止めて言った。

 

「……二人用の部屋なのに、ここにはヒスイしかいないんだね」

 

 ヒスイは、少しだけ手の動きを止める。

 

 そして、視線を窓の外に向けたまま、静かに答えた。

 

「……もう死んだからいない。」

 

 部屋の空気が、ふっと冷えた。

 

 沈黙が落ちる。

 サンゴは何も言えず、ただ視線を床に落とした。

 

 そして、小さな声で――

 

「……ごめん」

 

 その謝罪は、皮肉も茶化しもなく、ただまっすぐだった。

 

 ヒスイは少しだけ微笑んで、肩をすくめる。

 

「……東だと、よくあることだから」

 

 その言葉に、サンゴは顔を上げた。

 そして、目を細めながら、静かに、けれどはっきりと口にした。

 

「……ヒスイが死んだら、僕は悲しいよ」

 

「“よくあること”なんて……そんなこと、言わないで」

 

 そう言いながら、そっとヒスイの右腕に身を寄せる。

 小柄な体が寄り添ってきたその感触に、ヒスイは一瞬固まる。

 

「……っ」

 

 そして次の瞬間――

 

「こらっ!!」

 

 バシンッ!と音を立てて、ヒスイはサンゴの頭を軽くはたき、そのまま背中を押すように浴室のドアへと向かわせる。

 

「さっさと風呂入って!飯食って!寝ろ!!

 ついでに頭も冷やしてこい!!」

 

「ええ…今のめっちゃいい流れだったのに……」

 

「黙れ!!強制入浴!!」

 

「うわあああ!雑!!雑!!女子扱いしてよ!!」

 

「するか!!」

 

 バタンッと浴室のドアが閉まる音が響き、そのあとから水の音とともに、

「うぅ、女子力とは…」とぼやく声が微かに聞こえてきた。

 

 ヒスイはソファに倒れ込むように座りながら、小さくため息をつく。

 

「……ほんっと、あいつは……」

 

 静かな湯の音だけが響く浴室の中、サンゴは首まで浴槽に浸かり、天井をじっと見上げていた。

 湯気がゆるやかに舞い上がる中、彼女の表情は、ふだんの冗談まじりの調子とは違い、静かで、少しだけ沈んでいた。

 

「……ヒスイは、いつも死と隣り合わせな場所にいる」

 

 ぽつりと、浴槽の中で呟く。

 

「でも……僕は違うと言えるだろうか?」

 

 指先で湯の表面をなぞりながら、サンゴは自問を続ける。

 

 死が“身近じゃない”と……果たして、そう言い切れるだろうか

 

 胸の奥に浮かんでくるのは、いくつもの“もし”の場面。

 

 もし、あの闇バイトの案件で、犯行グループに目をつけられてたら

 

 もし、廃ビルで北小路ヒスイに撃たれてたら……

 

 その可能性が、ほんの少し角度を違えていたら、今の自分はここにいなかったかもしれない。

 

 そして――思いは、自然とあの部屋へと戻っていく。

 

 ヒスイの部屋の、使われていないもう一つのベッド。

 

「……もし、僕が死んだら――自分の家にあるベッドも、ああやって空っぽになるんだろうか」

 

 湯の中で、心のどこかが静かに冷えていく。

 自分の“終わり”を想像してしまった瞬間、胸がきゅうっと締めつけられた。

 

 サンゴは湯船から上がると、バスタオルを肩にかけて、濡れた髪を絞りながら脱衣所へ向かう。

 手早くドライヤーを取り出し、鏡の前で髪を乾かしながら、苦笑いをこぼす。

 

「……ダメだ、考えるだけで、なんか気持ちが寂しくなってくるや……」

 

 風の音だけが、狭い空間に響く。

 

 そして、髪を乾かし終えて部屋に戻ると――

 そこにいるはずのヒスイの姿がなかった。

 

「……あれ?」

 

 少し湿った髪を指で払いながら、サンゴは周囲を見渡す。

 

 ソファにもベッドにも、ヒスイの気配はなく、明かりはついているのに、部屋は静まり返っていた。

 

 

 

 

 

「ヒスイ……?」

 

 

 

 

 

 呼んでも、返事はない。

 

 サンゴが寮の部屋に戻り、静まり返った空間に足を踏み入れた瞬間――

 彼女の視線はすぐ、机の上に置かれた食事と、無造作に貼られたメモに引き寄せられた。

 

 ラップに包まれた温かいご飯と味噌汁、焼き魚と漬物が、トレイの上に整っている。

 その横に置かれた手書きのメモには、丸っこくて雑な文字で、こう書かれていた。

 

 さっさと食って寝ろ!

 

 どこか胸の奥がざわつく。この部屋の静けさと、ヒスイの姿がないこと――そして、このメモの簡潔すぎる言葉。

 

(……嫌な予感がする)

 

 じっとしていられなくなったサンゴは、座るなり食事を口に運びながら、

 同時にバッグの中から折りたたみ式の携帯型ドローンを取り出す。

 そして、さらに奥から薄型のノートパソコンを素早く開き、ログインする。

 

「……ヒスイのことだから、あんまり派手な任務は避けるはず。

 国の機密系エージェントなら、まずは誰も気づかない事件から鎌をかけて……

 それから本元の“消したい組織”に仕掛ける……」

 

 口の中でもぐもぐとご飯を噛みながら、サンゴは頭をフル回転させていた。

 

「……じゃあ、まずは――表に出てない不自然な事件……

 ニュースにすらなってない、失踪とか、大量の事故とか……」

 

 手元の操作が一気に加速する。

 SNS解析、匿名掲示板、事故報告データ、地方紙のRSS、複数のサーバーを経由した統計的照合。

 複数の条件を照らし合わせて、“不自然な静けさ”のある区域を浮かび上がらせる。

 

 しかし――

 

 操作を続けるうちに、突然、まぶたが重くなっていく。

 

「……ん……?」

 

 頭がふらりと揺れ、タイピングのリズムが途切れた。

 

「……これ……もしかして……盛られた……?」

 

 ラップに包まれた食事を、ぼんやりと見つめるサンゴ。

 

(やられた……)

 

 立ち上がろうとした瞬間、膝が抜けたように崩れ――

 意識が暗転し―――

 

 まどろみの中、まぶたの裏に光が差し込み――

 

 

 

 

 

 

「寝ろっつっただろ!?」

 

 サンゴはゆっくりと目を覚ました。

 

 視界に入ったのは、ヒスイの部屋のもう一つのベッド。

 かつて誰かが眠っていた形跡のまま、シーツも新しいまま使われずにいたはずのその場所に、今、自分が寝かされていた。

 

(……あれ……?)

 

 ぼんやりとした頭であたりを見渡すと、昨夜出したままだったパソコンと携帯ドローンは、どちらもそのままになっていた。

 止まった検索画面の中で、未確定のキーワードがちらちらと点滅している。

 

 耳に入るのは、ドライヤーの風と、テレビでも音楽でもない電子音の小さなリズム。

 そして――

 

 強めの語気に、サンゴはそちらへ顔を向けた。

 

 風呂上がりのヒスイが、タオルで髪を拭きながらスマホを片手に立っていた。

 髪は少し濡れていて、顔は怒っているようで、けれどどこか呆れてもいた。

 

 サンゴは小さく目を細め、寝返りを打つようにして顔を枕に埋めながら呟いた。

 

「……マイスリーか……」

 

 ヒスイの眉がぴくっと跳ねる。

 

「正解。カトラリーに塗っといた。あとは皿の表面。

 絶対何かやらかすと思ったから」

 

「戦闘員の家で出された物食うときは気をつけなよ。

 うっかり死ぬよ?」

 

 言いながら、ヒスイはドライヤーを止め、タオルで軽く頭を叩いて髪を整える。

 その目は、いつになく真剣だった。

 

「……身勝手な正義感で動くと、返って最悪な結末を招くことになる」

 

 その声は、静かで――重かった。

 

「変に戦場に出て行って、もし人質にでもなったら……」

 

 ヒスイは少しだけ目を伏せる。

 そして、決して感情を揺らさないように、努めて冷静に言葉を続けた。

 

「そのときは――サンゴの命を優先することはできなくなる」

 

 サンゴは、ようやく少し上体を起こして、ヒスイの目を見つめた。

 ヒスイの声は、揺れてはいなかったけれど、その奥には隠しきれない痛みのようなものが見えた。

 

「……私たちは、そういう判断を――日常的にしてる」

 

 言葉の意味を、サンゴは理解していた。

 理屈ではとっくに分かっていた。

 でも、それがヒスイの口から語られると――どこか、違って聞こえた。

 

 サンゴは静かに、ベッドの端に座り直してから、ほんの少し口元をゆるめた。

 

「……そうだよね。

 ヒスイは、ずっと“命の重さ”の中で生きてるんだもんね」

 

 朝の陽がカーテン越しに差し込む東校舎の寮の一室。

 寝起きのサンゴはまだベッドの端でぐずぐずと座り込みながら、目を半分閉じたまま小さな声で呟いた。

 

「……朝ごはん……食べたい……朝ごはん……作って……」

 

 声は眠気と甘えが混ざったようなトーンで、まるで子猫が訴えるような弱々しさ。

 それに対し、部屋の片隅で制服に袖を通していたヒスイは、深く溜息をついた。

 

「……さっき“人の家で出されるもん気をつけなよ”って、言ったばかりだろ……」

 

 呆れたようにぼやきながら、冷蔵庫を開けて中を漁る。

 

「これでも飲んどけ」

 

 そう言って、銀色のパッケージに包まれた栄養ゼリーを無造作にサンゴへ投げた。

 

「……投げるな~……」

 

 サンゴは胸元でキャッチし、しぶしぶストローを差し込むと、ちゅうと音を立てながら栄養ゼリーを吸う。

 

「……ふぅ。生き返った」

 

 しばらくして、ほんの少し頭が冴えてきたのか、サンゴは少し真面目な顔になって口を開いた。

 

「……実はさ。ここ最近、仕事をしててちょっと気になることがあったんだ」

 

 ヒスイが、洗面台の前で髪を整えながらふと振り返る。

 

「気になること?」

 

「うん」

 

 ゼリーを両手で抱えたまま、サンゴは窓際に視線をやりながら言葉を続けた。

 

「まだ断定できるレベルじゃないけど、いくつかの裏取引とか、

 資金の流れとか……ちょっとした矛盾が見える場所がある」

 

「……ふぅん」

 

「で、それを使って――僕自身を売り込みたいんだ。

 東校舎の先生に。“情報屋として”の僕を」

 

 ヒスイは髪をとかす手を止め、そのままサンゴをじっと見つめた。

 その目には、かすかに警戒と興味の両方が混ざっている。

 

「……本気なの? 冗談で言ってるんじゃないよね」

 

 サンゴは軽く首をかしげ、笑いながらも目だけは真剣だった。

 

「僕は自分の価値を、自分で証明したいだけ。

 “可哀想な子供”としてじゃなく、ちゃんと“取引できる相手”として見てほしい」

 

 その言葉には、飾り気のない覚悟がにじんでいた。

 ヒスイは数秒の沈黙の後、短く答える。

 

「……わかった。

 じゃあ、“本格的に”その話……始めようか」

 

 ふたりの間に、これまでとは少し違う“距離感”が、静かに形作られていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。