―翌日の東校舎、朝の教室。
重たい空気と張りつめた静寂が支配する中、教室の窓際で北小路ヒスイは頬杖をつきながら、窓の外をぼんやりと見ていた。
視線の先には、西校舎へと続く遠い中庭。あの柵の向こうには、昨日もサンゴがいた。
「……ねぇ、セイラ。ちょっと聞いていい?」
隣の席に座っていた同級生――狙撃手のセイラに、ヒスイは声をかけた。
セイラは東の制服の袖をたくし上げ、腕の筋を伸ばしながら振り向く。
白銀の髪を三つ編みにした端正な顔に、にこりとした笑み。
「なに、また恋バナ?」
「違うわバカ」
即答したヒスイに、セイラは「え~、ヒスイ恋バナ好きじゃん」と笑って肩をすくめる。
それでも、どこか期待したような目をしていた。
「……最近さ、西の生徒が絡んでくるんだよね。私に。たぶん……“普通の友達”みたいに」
セイラは机に肘をつきながら、にやにやと笑う。
「良いじゃん青春って感じで!
ほら、そういうのって、心が浄化されるっていうかさ~?
ヒスイも友達作ってさ、ちょっとずつ人間らしさ取り戻すみたいな?」
「……相談する相手、間違えたわ……」
ヒスイは頭を抱え、ゆっくりと机に突っ伏した。
「解ってるでしょ、セイラ……私たちはああはなれないの」
ぽつりと呟いた声には、苦味と諦めが混じっていた。
「“あっち”は、笑っていられる。泣いたって、誰かが慰めてくれる。
でも私たちは……私たちには、ここしか居場所はない。
東校舎っていう、“ここ”以外には――何もない」
セイラは無言でヒスイを見つめていた。
「……まるで世界を分かつ境界線みたいでしょ、あの柵」
ヒスイは、顔を上げて窓の外に目を向ける。
中庭を区切る東西を分かつ金属柵。
その向こうには、朝陽の中を歩く生徒たちの明るい笑顔がある。
「越えられないよ、あんなの。私たちには。
名前も、顔も、過去も“任務”に塗り潰された私たちが……“友達”とか、冗談みたいでしょ」
その言葉に、セイラは一瞬だけ笑みを消し、目を伏せた。
そして、そっと静かに呟いた。
「……でも、それでもさ。ヒスイが“境界線”を気にしてる時点で――
もしかしたら、もう向こう側をちょっとだけ、見ちゃってるのかもね?」
ヒスイは何も言わなかった。
ただ、目だけが再び窓の向こう――柵の向こうを、じっと見つめていた。
午後の東校舎、重く乾いた空気の中を、ヒスイは一人、廊下を歩いていた。
ブレザーの裾を少し揺らしながら、重たい足取りで無言のまま前を見つめていた。
(……やっぱり、あの時殺しとくべきだったか……)
思い浮かぶのは、あの夜の廃ビル裏――銃口を向けたまま、引き金を引かなかったあの瞬間。
(中途半端な情け、命取り……“東”の生徒としては失格だよね、こんなん)
そしてもう一つ、今朝の教室でのやり取りが頭をよぎる。
(相談する相手、セイラじゃなくてアスカにしときゃよかった……)
そんなことをぼんやり考えながら中庭へ差しかかった時、金属製の柵の向こう――
西校舎の歩道の上に、制服姿の周央サンゴの姿が見えた。
今日のサンゴは、クールな雰囲気に戻っていた。
目の奥には、昨日までの抜けたような笑みも、茶化した様子もなく、ただ静かにヒスイを見つめていた。
ヒスイはわずかに眉をひそめて立ち止まり、投げやりな口調で声をかけた。
「……今度は何の用?」
サンゴは、柵の向こうからそっと目線を下げてから答える。
「東の校舎の先生に会いたいんだけど……」
その言葉を言い終える前に、ヒスイが即座に遮る。
「できるわけないだろ」
吐き捨てるように言いながら、ヒスイは柵に背を向けようとする。
だが、なぜか足が止まり、思わず口が動いた。
「……なんで、そんなに私たちに関わろうとすんの?」
振り返らずに言葉を続ける。
「いい加減、分を弁えろよ。
“東”の生徒が、どういうことしてんのか――お前、もう十分わかってるだろ」
少しの沈黙。
その言葉を受けて、サンゴは静かに、深く考え込むように目を伏せた。
やがて、小さく息を吐き、ぽつりぽつりと語りはじめる。
「……僕さ、普段関わってるのって――大人ばっかりなんだよね。
仕事の相手も、依頼主も、相談相手も、全部“大人”。」
目を細め、遠い空を見るように話し続ける。
「大人ってさ、案外気楽なんだ。
犯罪に手ぇ出すにしても、でかい金賭けるにしても、命がけのことしてても――
責任を問う人間はいても、“叱る”人間は誰もいないんだよ。
それが“大人”の自由ってやつなんだろうけど……」
サンゴは一度言葉を止めてから、ゆっくりとヒスイの方に視線を戻す。
「でもさ――それってあくまで“大人”の話であって、子供の場合は全然違う。
普通、子供が危ないことやったらさ……誰かが止めるだろ?
先生とか、親とか……近所の大人とかさ」
指を折って、数を数えるように淡々と語る。
「学校の先生。両親。塾の先生。町内会の人。近所のおばちゃん。上級生。バイト先の店長……」
そこで、サンゴは言葉を濁し、ゆっくりとヒスイの顔を見た。
視線がぶつかる。
その目はいつになく、何かを“言おうとして言えない”ような、微妙な揺らぎを宿していた。
「……」
何かを言いかけて、やめたサンゴ。
それをじっと見つめるヒスイの目もまた、硬さを帯びていたが――
その奥では、聞き捨てならない“何か”が、静かに引っかかりを残していた。
夕暮れが差し込み始め、淡い茜色が校舎を染め始めた中で、周央サンゴは小さく俯いたまま、言葉を繋ぐ。
「……あの夜、さ。銃を突きつけられたあの時」
静かな、けれどどこか震えるような声。
「君の瞳を見て思ったんだ――
『ああ、僕を客観視したら、きっとこんな感じになるんだ』って」
ヒスイは無言でその言葉を聞いていた。
サンゴは目線を上げず、淡々と語り続ける。
「この小さな手で何を守るって言うんだ。
この小さな眼でどれだけの惨状を見てきたんだって……」
その声には、笑いも皮肉もなかった。
ただ、言葉が胸の奥からぽとぽとと落ちてくるようだった。
「死の判決を下す司法ですら、少年に対しては責任をほとんど追及しない。
そんな“幼気な存在”を、地獄の戦場に送るなんて――
許されるわけがない」
一呼吸。沈黙。
「きっと、まともな大人たちは――
僕のことを、ずっとそう見てきたんだって気づいたよ」
言い終えると、サンゴは肩を落とし、小さな影となった自分の足元を見つめた。
しばらくの沈黙を置いてから、ヒスイが口を開いた。
「……あんたと私は違う」
それは拒絶だった。
切り捨てるようでいて、どこかににじむ苦さもあった。
サンゴはその言葉を真正面から受け止めるように、ゆっくりとうなずいた。
「そうだね」
今度ははっきりと、サンゴはヒスイの目を見て言った。
「己が愚行でこの場所にいる僕が――
君と同じ括りにされていいわけがない。
僕は、“なりたくてなった”存在だから」
ヒスイの瞳が少しだけ揺れる。
そしてサンゴは、少しだけ表情を緩めて、
自嘲気味な、それでいてどこか優しげな笑みを浮かべてこう続けた。
「でもさ――『人から見えていた自分』っていうのが、あの時、なんとなく見えた気がしたんだよね」
「銃口を向けられて、“自分の命を抉る脅威”でもなく、“冷酷な殺人兵器”でもなく、一人の“子ども”として君を見ていた……そういう気がしたんだ」
ヒスイは目を伏せた。
それは、否定も肯定もできない。
ただ、胸の奥に刺さって、抜けない言葉だった。
沈黙が、再びふたりの間を包む。
だが今、その柵は、たしかにどこかで“揺れた”ようにも見えた。
夕陽が空を赤く染め、校舎の影が長く伸びていく。
空気にかすかな冷たさが混ざり始めたその頃、北小路ヒスイは柵の前で静かに立ち尽くしていた。
その向こうには、まだ西校舎側に残っていた周央サンゴ。
クールな表情のまま、沈黙を保っていたが、互いの呼吸は微かに合っていた。
しばらくの沈黙の後、ヒスイがぽつりと呟いた。
「……いいよ」
サンゴの目がわずかに見開かれる。
ヒスイは少し視線をそらし、夕空を見上げた。茜に染まった雲が、どこか柔らかく流れていく。
「でも、もう遅いからさ。今日は――うちに泊まってきな」
それは唐突な提案だったが、どこか自然だった。
サンゴはしばらく柵越しにヒスイを見つめていたが、やがて無言のまま歩き出し、柵の端にある扉の方へ向かう。
鍵はヒスイが開けたままにしてあった。
金属の軋む音がして、東の敷地に一歩足を踏み入れたサンゴは、
ヒスイの側へと歩み寄りながら、ふと微笑む。
「……じゃあ、今日は『また』東校舎にお泊まりするね」
その“また”という言い回しに、ヒスイはすかさず眉をひそめて言い返した。
「……逮捕されてたのを『お泊まり』って言うのやめろ」
夕暮れの風に制服の裾を揺らしながら、二人は並んで歩き出す。
無言の時間が少しだけ続いたあと、校舎の裏手にある東校舎の学生寮が、遠くに見え始めた。
サンゴはじっとそれを見つめ、まるで異世界を覗き込むような表情になる。
「……西校舎にも学生寮あるでしょ……」
「あるよ。でも、遠くから入学した人しか使ってないし、あっちはマンションみたいなラフな感じだからね」
そして、小さく息を吐きながらぽつりと続ける。
「なんていうか……少年院みたいだ。」
ヒスイは少しだけ目を細めて、サンゴの横顔を見た。
言葉の選び方は相変わらず独特で、どこか棘があるようでいて、妙に素直でもある。
それは、彼女が“向こう側”にいる者でありながら、時折“こちら側”を覗いている証のようにも思えた。
「……ま、少年院みたいなもんだけどね」
ヒスイが小さく呟くと、サンゴはふっと笑って「そっか」と返した。
二人の歩く足音が、静かな校庭に溶けていく。
その距離は、まだほんの少しだけぎこちないけれど、確かに――近づき始めている。
東校舎の寮棟、その一室。
鉄筋コンクリートの堅牢な造りの中に、最低限の家具と白いカーテンがあるだけの、簡素な部屋。
だが、その空気には訓練施設独特の緊張感が薄く滲んでいた。
「ほら、入って」
ヒスイが無造作にカードキーを差し込み、サンゴを自室へと招き入れる。
サンゴは軽く頷きながら、荷物もなくふらりと中に入った。
部屋には、二つ並んだベッドのうち片方だけが使われており、もう一つはシーツも掛けられないまま、空のままだった。
ヒスイは上着を脱ぎながら、何気ない調子で言う。
「夜中にいきなり呼びつけられることもあるからさ、その時は留守番よろしくね」
サンゴは小さく肩をすくめて「解った」と返事をしたが、しばらく部屋を見回した後、ふと足を止めて言った。
「……二人用の部屋なのに、ここにはヒスイしかいないんだね」
ヒスイは、少しだけ手の動きを止める。
そして、視線を窓の外に向けたまま、静かに答えた。
「……もう死んだからいない。」
部屋の空気が、ふっと冷えた。
沈黙が落ちる。
サンゴは何も言えず、ただ視線を床に落とした。
そして、小さな声で――
「……ごめん」
その謝罪は、皮肉も茶化しもなく、ただまっすぐだった。
ヒスイは少しだけ微笑んで、肩をすくめる。
「……東だと、よくあることだから」
その言葉に、サンゴは顔を上げた。
そして、目を細めながら、静かに、けれどはっきりと口にした。
「……ヒスイが死んだら、僕は悲しいよ」
「“よくあること”なんて……そんなこと、言わないで」
そう言いながら、そっとヒスイの右腕に身を寄せる。
小柄な体が寄り添ってきたその感触に、ヒスイは一瞬固まる。
「……っ」
そして次の瞬間――
「こらっ!!」
バシンッ!と音を立てて、ヒスイはサンゴの頭を軽くはたき、そのまま背中を押すように浴室のドアへと向かわせる。
「さっさと風呂入って!飯食って!寝ろ!!
ついでに頭も冷やしてこい!!」
「ええ…今のめっちゃいい流れだったのに……」
「黙れ!!強制入浴!!」
「うわあああ!雑!!雑!!女子扱いしてよ!!」
「するか!!」
バタンッと浴室のドアが閉まる音が響き、そのあとから水の音とともに、
「うぅ、女子力とは…」とぼやく声が微かに聞こえてきた。
ヒスイはソファに倒れ込むように座りながら、小さくため息をつく。
「……ほんっと、あいつは……」
静かな湯の音だけが響く浴室の中、サンゴは首まで浴槽に浸かり、天井をじっと見上げていた。
湯気がゆるやかに舞い上がる中、彼女の表情は、ふだんの冗談まじりの調子とは違い、静かで、少しだけ沈んでいた。
「……ヒスイは、いつも死と隣り合わせな場所にいる」
ぽつりと、浴槽の中で呟く。
「でも……僕は違うと言えるだろうか?」
指先で湯の表面をなぞりながら、サンゴは自問を続ける。
死が“身近じゃない”と……果たして、そう言い切れるだろうか
胸の奥に浮かんでくるのは、いくつもの“もし”の場面。
もし、あの闇バイトの案件で、犯行グループに目をつけられてたら
もし、廃ビルで北小路ヒスイに撃たれてたら……
その可能性が、ほんの少し角度を違えていたら、今の自分はここにいなかったかもしれない。
そして――思いは、自然とあの部屋へと戻っていく。
ヒスイの部屋の、使われていないもう一つのベッド。
「……もし、僕が死んだら――自分の家にあるベッドも、ああやって空っぽになるんだろうか」
湯の中で、心のどこかが静かに冷えていく。
自分の“終わり”を想像してしまった瞬間、胸がきゅうっと締めつけられた。
サンゴは湯船から上がると、バスタオルを肩にかけて、濡れた髪を絞りながら脱衣所へ向かう。
手早くドライヤーを取り出し、鏡の前で髪を乾かしながら、苦笑いをこぼす。
「……ダメだ、考えるだけで、なんか気持ちが寂しくなってくるや……」
風の音だけが、狭い空間に響く。
そして、髪を乾かし終えて部屋に戻ると――
そこにいるはずのヒスイの姿がなかった。
「……あれ?」
少し湿った髪を指で払いながら、サンゴは周囲を見渡す。
ソファにもベッドにも、ヒスイの気配はなく、明かりはついているのに、部屋は静まり返っていた。
「ヒスイ……?」
呼んでも、返事はない。
サンゴが寮の部屋に戻り、静まり返った空間に足を踏み入れた瞬間――
彼女の視線はすぐ、机の上に置かれた食事と、無造作に貼られたメモに引き寄せられた。
ラップに包まれた温かいご飯と味噌汁、焼き魚と漬物が、トレイの上に整っている。
その横に置かれた手書きのメモには、丸っこくて雑な文字で、こう書かれていた。
さっさと食って寝ろ!
どこか胸の奥がざわつく。この部屋の静けさと、ヒスイの姿がないこと――そして、このメモの簡潔すぎる言葉。
(……嫌な予感がする)
じっとしていられなくなったサンゴは、座るなり食事を口に運びながら、
同時にバッグの中から折りたたみ式の携帯型ドローンを取り出す。
そして、さらに奥から薄型のノートパソコンを素早く開き、ログインする。
「……ヒスイのことだから、あんまり派手な任務は避けるはず。
国の機密系エージェントなら、まずは誰も気づかない事件から鎌をかけて……
それから本元の“消したい組織”に仕掛ける……」
口の中でもぐもぐとご飯を噛みながら、サンゴは頭をフル回転させていた。
「……じゃあ、まずは――表に出てない不自然な事件……
ニュースにすらなってない、失踪とか、大量の事故とか……」
手元の操作が一気に加速する。
SNS解析、匿名掲示板、事故報告データ、地方紙のRSS、複数のサーバーを経由した統計的照合。
複数の条件を照らし合わせて、“不自然な静けさ”のある区域を浮かび上がらせる。
しかし――
操作を続けるうちに、突然、まぶたが重くなっていく。
「……ん……?」
頭がふらりと揺れ、タイピングのリズムが途切れた。
「……これ……もしかして……盛られた……?」
ラップに包まれた食事を、ぼんやりと見つめるサンゴ。
(やられた……)
立ち上がろうとした瞬間、膝が抜けたように崩れ――
意識が暗転し―――
まどろみの中、まぶたの裏に光が差し込み――
「寝ろっつっただろ!?」
サンゴはゆっくりと目を覚ました。
視界に入ったのは、ヒスイの部屋のもう一つのベッド。
かつて誰かが眠っていた形跡のまま、シーツも新しいまま使われずにいたはずのその場所に、今、自分が寝かされていた。
(……あれ……?)
ぼんやりとした頭であたりを見渡すと、昨夜出したままだったパソコンと携帯ドローンは、どちらもそのままになっていた。
止まった検索画面の中で、未確定のキーワードがちらちらと点滅している。
耳に入るのは、ドライヤーの風と、テレビでも音楽でもない電子音の小さなリズム。
そして――
強めの語気に、サンゴはそちらへ顔を向けた。
風呂上がりのヒスイが、タオルで髪を拭きながらスマホを片手に立っていた。
髪は少し濡れていて、顔は怒っているようで、けれどどこか呆れてもいた。
サンゴは小さく目を細め、寝返りを打つようにして顔を枕に埋めながら呟いた。
「……マイスリーか……」
ヒスイの眉がぴくっと跳ねる。
「正解。カトラリーに塗っといた。あとは皿の表面。
絶対何かやらかすと思ったから」
「戦闘員の家で出された物食うときは気をつけなよ。
うっかり死ぬよ?」
言いながら、ヒスイはドライヤーを止め、タオルで軽く頭を叩いて髪を整える。
その目は、いつになく真剣だった。
「……身勝手な正義感で動くと、返って最悪な結末を招くことになる」
その声は、静かで――重かった。
「変に戦場に出て行って、もし人質にでもなったら……」
ヒスイは少しだけ目を伏せる。
そして、決して感情を揺らさないように、努めて冷静に言葉を続けた。
「そのときは――サンゴの命を優先することはできなくなる」
サンゴは、ようやく少し上体を起こして、ヒスイの目を見つめた。
ヒスイの声は、揺れてはいなかったけれど、その奥には隠しきれない痛みのようなものが見えた。
「……私たちは、そういう判断を――日常的にしてる」
言葉の意味を、サンゴは理解していた。
理屈ではとっくに分かっていた。
でも、それがヒスイの口から語られると――どこか、違って聞こえた。
サンゴは静かに、ベッドの端に座り直してから、ほんの少し口元をゆるめた。
「……そうだよね。
ヒスイは、ずっと“命の重さ”の中で生きてるんだもんね」
朝の陽がカーテン越しに差し込む東校舎の寮の一室。
寝起きのサンゴはまだベッドの端でぐずぐずと座り込みながら、目を半分閉じたまま小さな声で呟いた。
「……朝ごはん……食べたい……朝ごはん……作って……」
声は眠気と甘えが混ざったようなトーンで、まるで子猫が訴えるような弱々しさ。
それに対し、部屋の片隅で制服に袖を通していたヒスイは、深く溜息をついた。
「……さっき“人の家で出されるもん気をつけなよ”って、言ったばかりだろ……」
呆れたようにぼやきながら、冷蔵庫を開けて中を漁る。
「これでも飲んどけ」
そう言って、銀色のパッケージに包まれた栄養ゼリーを無造作にサンゴへ投げた。
「……投げるな~……」
サンゴは胸元でキャッチし、しぶしぶストローを差し込むと、ちゅうと音を立てながら栄養ゼリーを吸う。
「……ふぅ。生き返った」
しばらくして、ほんの少し頭が冴えてきたのか、サンゴは少し真面目な顔になって口を開いた。
「……実はさ。ここ最近、仕事をしててちょっと気になることがあったんだ」
ヒスイが、洗面台の前で髪を整えながらふと振り返る。
「気になること?」
「うん」
ゼリーを両手で抱えたまま、サンゴは窓際に視線をやりながら言葉を続けた。
「まだ断定できるレベルじゃないけど、いくつかの裏取引とか、
資金の流れとか……ちょっとした矛盾が見える場所がある」
「……ふぅん」
「で、それを使って――僕自身を売り込みたいんだ。
東校舎の先生に。“情報屋として”の僕を」
ヒスイは髪をとかす手を止め、そのままサンゴをじっと見つめた。
その目には、かすかに警戒と興味の両方が混ざっている。
「……本気なの? 冗談で言ってるんじゃないよね」
サンゴは軽く首をかしげ、笑いながらも目だけは真剣だった。
「僕は自分の価値を、自分で証明したいだけ。
“可哀想な子供”としてじゃなく、ちゃんと“取引できる相手”として見てほしい」
その言葉には、飾り気のない覚悟がにじんでいた。
ヒスイは数秒の沈黙の後、短く答える。
「……わかった。
じゃあ、“本格的に”その話……始めようか」
ふたりの間に、これまでとは少し違う“距離感”が、静かに形作られていった。