ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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サラトガの海底
雲竜風虎、鬼面嚇人


 冬の風は乾いていて、肌を撫でるたびに熱を奪っていく。雲ひとつない空は、どこまでも澄み切っていて、それだけに陽の光さえ冷たく感じられた。

 

 校舎より少し離れた、ガラス張りの待合室――その屋上は、ちょっとした秘密の場所だった。誰も来ない時間帯を見計らって、ヒスイはそこに佇んでいた。

 

 冬の陽射しがガラス越しに屋上へ差し込む。地面は昼の間に少しだけ温められた名残を保っていたが、空気は容赦なく冷えていた。ヒスイは制服の上に羽織ったロングコートの襟元を軽くつまんで首筋を隠すと、ふと髪の毛に触れた。

 

 風にふわりと舞う少し長めの碧い髪――知らぬ間に伸びきったそれが、目にかかるたびに鬱陶しく感じられる。

 

 「……切ろうかな、そろそろ」

 

 小さく呟いた声は、澄んだ冬の空気にかき消された。

 

 指先に絡む髪をいじりながら、ヒスイはぼんやりと遠くの街並みに目をやる。乾いた風が吹き抜け、どこかで電車のブレーキ音が響いた。時間の流れが、少しだけ遅く感じられる冬の午後。

 

 ヒスイはポケットから携帯端末を取り出し、時刻を確認する。

 

 「……そろそろ時間だな」

 

 静かに告げると、彼女は踵を返し、屋上の鉄扉へと歩き出す。凍ったような空気の中、足音だけが小さく響いた。

 

 階段を一段ずつ下りながら、ヒスイはコートのポケットに手を入れた。開いている扉の外からは、制服姿の生徒たちのざわめきが遠く聞こえる。

 

 ガラス張りの屋上から階段を降りて、ヒスイは無言のままガラスの扉を押し開ける。乾いた風が最後に背中を撫でていく。指定のコートの裾が少し舞い上がり、彼女のローファーが階段の床を小さく鳴らした。

 

 待合室の一階――少し前まで通学路として賑わっていたその場所には、今はひとけがなく、冬の静けさが支配していた。その一角に、東堂コハクがベンチに座っていた。

 

 彼女は手元の温かい紙カップを見つめながら、ヒスイの足音に気づくと顔を上げ、緩やかに目を細めた。

 

 「来た来た、寒くなかった?」

 

 「まあ、多少は……でも、気分転換にはちょうどよかったよ」

 

 ヒスイは手袋を外しながら答え、ベンチの隣に腰を下ろす。ガラス越しに差し込む陽はもう弱く、空の色も淡い灰に染まりかけていた。

 

 しばしの沈黙のあと、コハクはふと思い出したように口を開いた。

 

 「……ひすぴに、ちょっと会わせたい人がいてね」

 

 「……人?」

 

 「うん。最初に出会ったのは、私が仕事で加賀美インダストリアルに行ったときかな……」

 

 語る口調はゆっくりと、思い出を手繰るようだった。

 

 「加賀美ハヤトの懐刀ってだけで、当時からかなり恐ろしいイメージだったし。正直、あんまり良い評判も聞いたことなかったからさ……」

 

 紙カップを持つ手を見下ろし、少しだけ自嘲気味に笑う。

 

 「もっと……常識の通じない化け物かと思ってた。解剖学や薬学に長けたギフテッドって話もあったし。指の二、三本は抉られて帰されるんじゃないかって、わりと本気で覚悟してたよ」

 

 ヒスイは思わず目を見開き、笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 

 「……それ、コハックでもそうなら、私なんか確実に殺されちゃうよ」

 

 コハクは苦笑し、首をゆっくりと振る。

 

 「……ううん、違うの。実際に会ってみたら、結構話しやすい人だった。確かにちょっとズレてるというか……人間味の“配置”が少し違う感じはあったけど」

 

 そして、ふっと目を細め、どこか温かい声で続けた。

 

 「でも、なんだか素敵な人だった。ああ、この人は“優しさ”を研究したらこうなるのかもって……そんな印象」

 

 ヒスイが静かに目を伏せると、コハクは少しおかしそうに笑った。

 

 「きっと、お母さんの教育も良いんでしょうね。なんて、聞かれたら怒られるかもだけど」

 

 待合室に差し込む淡い陽光の中、二人の会話は静かに重なり、冬の午後の冷たい空気を少しだけ温めていた。

 

 コハクの言葉に、ヒスイは視線を遠くに向けながら、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 「……で、私とその人にどんな関わりがあるの?」

 

 問いかける声は冷静で、それでいてどこか突き放すような強さがあった。コハクは少し肩をすくめてから、紙カップを持った手をゆっくり膝の上に置いた。

 

 「……ひすぴの過去を探す手がかりになるかもしれない」

 

 その言葉に、ヒスイの指先がわずかに止まる。

 

 「今や、ヴァルテスに関する記録や証言を一番持っているのは……彼女かもしれない」

 

 ヴァルテス――

 

 その響きに、ヒスイは自然と口元を動かした。

 

 「……そういえば、今はもうないんだっけ」

 

 曖昧な記憶の底から浮かび上がるのは、鉄の匂いと、ざらついたコンクリートの壁。味のしないスープ。そして、足枷の金属音。

 

 けれど、それよりも前の記憶――“自分がどこから来たのか”という根本的な問いに関しては、まるで濃い霧がかかったように思い出せなかった。

 

 「……わかった。会ってみるよ」

 

 小さく、それでもはっきりと答えたヒスイに、コハクは頷いた。

 

 そのまましばらくの静寂が流れた後、ヒスイはふと思い出したように、隣のコハクに目を向ける。

 

 「……その人って、“ギフテッド”なんでしょ?」

 

 「ええ、そうよ」

 

 「どんなタイプなの?」

 

 その問いに、コハクは少しだけ考えるように視線を落とし、慎重に言葉を選び始めた。

 

 「彼女は“2e型”のギフテッド。――twice exceptionalの略」

 

 「ツーイー……?」

 

 「簡単に言うとね、知的に非常に優れているギフテッドでありながら、同時に発達や情緒面に“何らかの特性”を抱えている子たちのことよ」

 

 ヒスイが黙って聞き入る中、コハクは指先で軽く紙カップを転がす。

 

 「彼女は、高校生とは思えないレベルで薬学と解剖学に精通してるわ。人体の構造や代謝の仕組みを、大学の医学生より理解してるかもしれない。それに、記憶力や空間認識もずば抜けてる。……でも」

 

 コハクの声に、ひときわ慎重なトーンが混じる。

 

 「――その反面、“倫理観”とか“良心”の部分の感覚が……ちょっとズレてるの」

 

 「ズレてる……?」

 

 「うん。私たちが“これは人としてやっちゃいけない”って本能的に思うことでも、彼女にとっては“研究対象として合理的かどうか”が基準なの。ざっくり言うと、自分以外のすべては、トレーの上に並べられたモルモットに過ぎない。だから、初対面の人間に対しても、解剖の話とか平然と始めちゃうし……時々、人を観察対象の一部としてしか見てないことがある」

 

 その説明は、どこか既視感を伴って響いた。コハクは、少しだけ笑って肩をすくめる。

 

 「でもね、不思議と嫌な子じゃない。好奇心に忠実すぎるだけ。怖がらせたいわけじゃなくて、本当に、心の底から人間に興味があるだけ」

 

 「……なるほど。」

 

 ヒスイが軽くため息混じりに呟くと、コハクは小さく笑いながら言った。

 

 「うん。でも、大丈夫。指、持ってかれることはないと思うよ。たぶん」

 

 新幹線の車窓から、冬の陽射しを受けてきらめく風景が流れていく。乾いた空気と低い日差し。電柱の影が、薄く長く地面を這っている。

 

 ヒスイは、窓際の席に身体を預けながら、手元のホットドリンクをひと口すすった。口の中でほのかに甘みが広がる。けれど、その温もりはすぐに空へと散っていった。

 

 「……ところで、どこ行くんですか?」

 

 ふいに隣の席のコハクに問いかけると、コハクは買ったばかりの紙袋を抱えながら答える。

 

 「新大阪駅」

 

 「また……大阪……この前、ライフルの免許取りに行ったばっかりなんだけど」

 

 ヒスイがわずかに目を細めながらそう呟くと、コハクはまるで他人事のように微笑んだ。

 

 「じゃあ、そのときお土産買ってこなかったでしょ? 今度は演劇同好会のみんなに、ちゃんと買ってきてよ」

 

 そう言いながら、紙袋の中から冷えたパックのチョコミントアイスを取り出し、器用に封を破って食べ始めた。窓の外はすでに大阪圏の郊外に差しかかっている。

 

 ヒスイはぼんやりと、コハクのその青と白のアイスを眺める。ふいに、数年前の光景が胸をよぎった。

 

 ――夜の大阪。

 

 ――命を賭けて駆け抜けた、あの“狩り”の夜。

 

 小さく唇が動く。

 

 「……まさか、笹木先輩?」

 

 思わず、そう口に出していた。

 

 隣でアイスを口に運んでいたコハクの手が、ぴたりと止まる。

 

 そして、顔をしかめながらヒスイに目を向ける。

 

 「……誰それ」

 

 それだけ言うと、アイスの残りを一気に平らげ、無言で立ち上がった。足早に車両の連結部へと向かい、新幹線のゴミ箱に食べ終えたカップを投げ入れる。

 

 ヒスイはそれを見送ったまま、微かに眉を寄せた。

 

 笹木咲。

 

 かつて、大阪の作戦で出会った“不思議な子”――

 

 自分と同じように、異なる使命を背負い、どこか無理して明るく振る舞っていた少女。

 

 「あの子も、あんま無理してないといいけど……」

 

 関西任務の合間、“息抜きに”とΣの教官に促されて訪れたのは、郊外の高校で行われていた文化祭だった。名前も覚えていないその学校には、関係者の顔も、任務もなく、ただの娯楽として訪れたはずだった。

 

 とはいえ到着した時間が遅すぎたのか、模擬店はすでに閉まり、教室には「完売」の札ばかりが並んでいた。

 

 (……せめて食べ物くらい……)

 

 ため息交じりに歩き回っていると、最後の催し物として体育館でライブがあるとアナウンスが流れてきた。

 

 それしか選択肢がない以上、仕方なく足を運んだ体育館の中――そこには想像していた以上の熱気があった。

 

 ステージでは三人の女子高生が音楽に没頭し、照明が彼女たちをまるで本物のアーティストのように輝かせていた。

 

 会場全体が熱に包まれ、観客の手拍子、歓声、振動するようなベースの音。思わずヒスイもその空気に飲まれて、気づけばステージに目を奪われていた。

 

 (……ああいうの、ちょっと、いいな)

 

 ほんの少し、羨ましくも思えた。何の縛りもなく、音楽に打ち込むその姿が。

 

 だが――

 

 そのときだった。

 

 ステージからではない。観客の中央、その渦中から。

 

 確かに“視線”を感じた。

 

 ヒスイが気配の主を探して振り向くと、そこには――

 

 桃色の髪を持つ少女が、立っていた。

 

 動きはない。ただ、確かに自分を“見ていた”。

 

 その視線に宿っていたもの――それは、“殺気”だった。

 

 肌が粟立つような感覚。背中を走る冷たいもの。

 

 (……なに、あれ……人間?)

 

 思わず息を詰めた。異質だった。ただの観客の中に混じっているはずがない。ヒスイが直感で“ヤバい”と判断するほどのものだった。

 

 しかし、次の瞬間、少女はもうそこにはいなかった。

 

 消えた。気配ごと、完璧に。

 

 (……やられる……!)

 

 直感がそう叫んだ。

 

 迷う暇もなく、ヒスイは周囲を見渡し、トイレ付近にある床下収納口に目を留めた。迷わずそこへ向かい、蓋を開け、中へと飛び込む。

 

 狭くて埃っぽい収納スペース。その中で身体を小さく折りたたみながら、ヒスイはじっと息を潜めた。

 

 (……あれは、いったい……)

 

 暗闇の中、誰もいないはずの空間で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。目を閉じれば、あの夜の冷たさと、あの桃髪……椎名家の娘の姿が、まざまざと蘇る。

 

 車窓の外では、冬の陽に照らされた街並みが速度をもって後ろへと流れていく。薄曇りの空が新幹線の窓ガラスに淡く映り込むなか、ヒスイは手元のホットココアを少し傾け、隣に座るコハクへと声を向けた。

 

 「……そういえば、“椎名”って家……なんですけど」

 

 コハクは口元に持っていったコーヒーカップをわずかに止め、視線を横に向けた。

 

 ヒスイはそのまま、窓の向こうに視線をやりながら、独白のように語る。

 

 「椎名家って、確か……平安の初期から皇族と深い関係を持ってる霊能力者の一族ですよね」

 

 コーヒーの香りが二人の間に漂う。コハクは何も言わずに頷き、再びカップに口をつけた。

 

 ヒスイは続けた。

 

 「今は表には出てこないけど……もし本気で動いたら、世界の力関係が一気に塗り替わるくらいの影響力がある。あの一族が黙って大人しくしてるから、平和で済んでるだけで」

 

 言葉に僅かな緊張が混じる。そんなヒスイの言葉を受けて、コハクはカップをテーブルに置き、静かに笑った。

 

 「……剣持の一族と、同じね」

 

 その名前にヒスイが俯くと、コハクは肩をすくめてみせる。

 

 「だからこそ、“触らず、近寄らず”が一番なのかもね」

 

 そして、視線を再び車窓の外へ移しながら、コーヒーをひと啜りする。

 

 「……そういうところは、Σと同じかもしれないわ」

 

 ヒスイはコハクの横顔を見つめたまま、黙って頷いた。

 

 走り続ける新幹線の車内で、二人の会話は一度そこで途切れる。だが、窓の外の景色の向こうにある“何か”を、二人とも意識しているようだった。

 

 電車は次第に速度を落とし始め、まもなく「新大阪」のアナウンスが車内に響いた。

 

 新幹線がホームに滑り込んだとき、ヒスイは少し重ためのリュックを背中に調整した。コハクも隣で同じように立ち上がる。外は冬の光が強く反射して、ホームの金属柵や駅構内の標識が淡く光っていた。

 

 ヒスイはコハクの後ろについて、ホームを歩き始める。新大阪駅の新幹線改札へと誘う案内表示が天井からぶら下がっていて、「東海道・山陽新幹線」「改札内」「のりば」の文字が並んでいる。足元のタイルはグレーがかった白で、靴音が跳ね返るように響いた。

 

 改札を入る前に、自動改札機の列が見える。ICカードをかざす人たちが少し列を作っていて、ヒスイは自分のカードを取り出してかざした。ゲートが「ピンポン」と音を立てて開き、改札を抜ける。

 

 そこは新幹線専用のコンコース。案内板に表示が見え、空気が静かになる。人混みはホームよりも少ないが、大きな荷物を持った客が改札を出入りしていて、歩調にバラツキがある。

 

 コハクが声をかける。

 

 「会わせたい人、ここまで来てくれるって」

 

 ヒスイは軽く頷いた。

 

 「じゃあ、そこで待とう」

 

 コハクの言葉に促されて、ヒスイは大きな看板を探しながら進む。

 

 視界には、左右にいくつかの売店、コンビニ、小さな弁当屋、駅そばの店などが並んでいる。壁面にはガラスケースの駅弁の見本、それに列車の時刻表が掲示されていた。蛍光灯の冷たい光と、窓から差し込む陽光が混じりあい、足元に淡い影が揺れる。

 

 リュックのストラップが肩に少し食い込むのを感じながら、ヒスイはコハクの歩幅に合わせて歩いた。そろそろ目印になる店舗が見えるはず――と、自分に言い聞かせながら。

 

 そのコーヒー店は、新幹線改札のすぐ内側の区域にあった。ガラスの外装が少し反射して、通行人の姿が揺れて見える。

 

 ヒスイは前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。改札の近くということもあり、駅のざわめきが少しだけ混ざってくる。

 

 人々が改札へ急ぎ、時折荷物を転がす音、軽く足を滑らせる靴底の音、アナウンスが遠くで繰り返される。流れるような関西イントネーションの混じった声。

 

 「ここだよ」

 

 コハクが指さしたのは、改札内の角にあるコーヒー店。駅のざわめきと混ざるように、ほのかにコーヒーの香りが漂ってくる。入り口には数人の客が出入りし、店内の照明は温かく落ち着いて見えた。

 

 だが、その一歩を踏み出す直前だった。

 

 ヒスイの足が、不意に止まった。

 

 胸の奥に、ぞわりとした“悪寒”が這い上がる。

 

 (……なに、この感じ)

 

 その瞬間、頭の中に、さっきまで忘れていた“言葉”が蘇る。

 

 ――「薬学と解剖学のスペシャリスト」

 

 ――「“2e型”のギフテッド」

 

 ――「初対面の人間に対しても、解剖の話とか平然と始めちゃうし……人を“観察対象”としてしか見てないことがある」

 

 コハクの言葉。何気ないようで、どこか凍るような警告だった。

 

 ――思い出したくなかったはずの記憶が、頭の奥から強引に引きずり出される。

 

 施設の薄暗い廊下。消毒液の匂い。白い蛍光灯。そして、手術灯のような冷たい目で囚人の子供たちを見ていた――銀髪の少女。

 

 ヒスイの記憶にはくっきりと刻まれている。

 

 その子の目は、まさに人間ではなく“構造”を見ているようだった。

 “命”ではなく“素材”を。

 “感情”ではなく“反応”を。

 

 ……違う、まさか、でも……

 

 さらに、思い出す。

 

 ――どうして、xxxはあんたのこと見て震えてたんや!あんた……xxxの何なんや!?

 

 あのとき、椎名家の少女が怒りに満ちた目で吐き捨てた言葉。

 

 名前は思い出せない。けれど、その“震えていた”という感情が、確かに何かを突き刺していた。

 

 ヒスイの背筋に、はっきりとした冷たい“恐怖”が走った。

 

 「ごめん……私、やっぱり帰る!」

 

 絞り出すように言葉を吐くと、コハクの返事を待つことすらできなかった。コンクリートの研究棟、青白い蛍光灯の下で、小さなガラス瓶を並べていた――銀髪の少女。

 

 何かを調合しながら、時折、こちらを“観察する”ような目で見ていたあの子。

 

 

 

 彼女が作っていた薬品を、ヒスイは――

 

 

 

 「えっ、ヒスピ!? はやっ!!?」

 

 文字通り“弾丸”のように走り出す。

 

 駅構内の床がギュンと滑り、リュックがバウンドしながら上下に跳ねる。ヒスイはそれでも一心不乱に走った。自動ドアが開くより早く横スライドで突っ込み、駅員が驚いてマイクで叫ぶのも無視、構内放送の「走らないでください」が追い風のように背中を押す。

 

 まるで人生から逃げる者のように、ヒスイの背中は、冬の新大阪駅に響く靴音と共に小さくなっていく。

 

 駅の自動ドアを抜け、新大阪の街へ飛び出す。冬の風が頬を叩くが、それすらもヒスイの脚を止めることはなかった。

 

 「逃げるしかない……逃げ切らなきゃ……絶対にあの人にだけはッ……!」

 

 背中のリュックがバウンドし、髪が乱れ、息が次第に荒くなる。

 

 ――だが、背後から。

 

 「待てやゴラァァァ!!!!!」

 

 ガチで怒ってる声がした。

 

 (ひいいいいい!!!)

 

 ヒスイは反射的に右に急ターン。脇道に入り、雑踏をすり抜ける。

 

 信号の変わり目を全身の反射神経で渡り、エスカレーターは走って降り、横断歩道は斜めに突っ切る。無駄のない足運び、背筋のぶれない走り、鍛え抜かれたステップ――この瞬間、ヒスイは確かに本気だった。

 

 だが――

 

 角を曲がったその先で、不意に視界の端に“ピンク色”が飛び込んできた。

 

 (――しまった!!)

 

 ガツッ!

 

 鈍い音と共に、彼女の進路をふさぐように立っていたのは、私服にエプロン姿でおにぎりの入った立ち売り箱を抱えるあの椎名家の少女――椎名唯華。

 

 「おお……秋以来やなぁ」

 

 呑気な声と笑顔。しかし箱が邪魔だ。避けられない。左も右もふさがれている。

 

 「……あああ、もう!!」

 

 ヒスイがよろめきながら無理やり左へ抜けようとしたその瞬間――

 

 「椎名ママ、でかした!!」

 

 ズザッ!

 

 背後から全体重を乗せてタックルしてきたのは、銀髪の嵐――葉加瀬冬雪だった。

 

 「うわああああああ!!!?」

 

 完全に体勢を崩し、ヒスイは歩道の植え込みに突っ込む。

 

 「こんの薬泥棒ッ!!」

 

 ぐいっと胸倉を掴まれ、地面に押さえつけられる。

 

 「うぅ……なんでこんなことに……」

 

 ヒスイは地面に転がったまま、冬の空を見上げていた。銀髪が逆光でキラキラしていて、ちょっと綺麗だった。

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