ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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一別以来

 背中に重力と怒気がのしかかるなか、ヒスイは地面に押しつけられたまま、改めて葉加瀬冬雪の顔を――その、まっすぐすぎる銀の瞳を、しっかりと見つめた。

 

 ほんの少し、視界が滲む。

 

 「……お久しぶりです……」

 

 掠れた声で、ヒスイは弱々しく呟いた。

 

 だがその瞬間――

 

 「おうおうおう! 文化祭じゃあ上手いこと椎名ママから逃げおおせたみてえじゃねえかよ!!」

 

 葉加瀬が胸倉をさらに引き寄せ、鼻先がぶつかるほどの距離に顔を寄せてきた。怒りのボルテージはMAX、目はぎらぎらと光っている。

 

 「しかもよぉ!? 8年くらい会ってなかったのに、なんで挨拶の一つも無しなんだよコラ!?」

 

 そのやりとりの最中――

 

 「……知り合いだったの……?」

 

 駅の方から、コハクが歩いてきた。肩で息をしていた様子だが、今は若干呆れたようにヒスイたちを見下ろしている。

 

 葉加瀬はハッと顔を上げ、即座に笑顔を作って振り向いた。

 

 「連れてきてくれてありがと!!このクソガキ、一発ぶん殴ってやらねぇと気が済まねえんだわ!!」

 

 そう言って、拳をブンと振り上げた。

 

 が、その瞬間。

 

 「戯れ合うのは構わないけど……ここ、道端だからね?」

 

 コハクの淡々とした一言。

 

 ふたりは、はっとなって周囲を見る。

 

 観光客。通行人。ビジネスマン。

 

 ――ちょっとした人だかりができていた。

 

 葉加瀬とヒスイは、同時にぴしっと背筋を伸ばし――

 

 「「すみませんでしたぁ!!!」」

 

 と、深々と頭を下げた。

 

 「……はぁ。なんで私、こんな逃げ方ばっか……」

 

 そのまま、どちらからともなく小走りでその場を離れ、道の角を曲がっていく。

 

 

 

 

 

 

 白く磨き抜かれた床に、天井まで届くようなクリアガラスの壁面。

 

 壁一面に設置された無数のモニターと機材は、規則的に点滅する光を放っていた。だが、不思議なほど室内は静かで、電子音も機械音も、どこか音のない映像のように感じられた。

 

 ヒスイは、隅のソファに座っていた。小さな背もたれのあるグレーのソファ。どこか居心地が悪そうに身体を小さく丸めている。

 

 対する葉加瀬は、自分用のデスクの前の回転椅子にドカッと腰を下ろすと、背もたれにふんぞり返った。

 

 「ふん……」

 

 吐き捨てるように言ってから、面倒そうに腕を組む。

 

 「できればB-17とか見たかったけどさ……なんだよ、私に会いたいやつって、お前かよ」

 

 ヒスイが口を開く前に、葉加瀬は机の引き出しをゴソゴソと漁り始める。

 

 「……ヴァルテスの鍵、だっけ?」

 

 無造作に取り出されたのは、金属の鈍い輝きを放つ鍵束。そのうちの一本を指先でつまみ上げ、ヒスイの方へ軽く放り投げる。

 

 「っと……!」

 

 ヒスイは慌てて両手で受け止めた。

 

 手のひらにあるのは、番号が刻まれた無機質な金属製の鍵――だが、その重みは単なる金属以上のものだった。

 

 「……なに、これ……?」

 

 訳が分からず、ヒスイはしばらく呆然とその鍵を見つめていた。

 

 「今、ヴァルテスの施設の所有権は加賀美インダストリアルにあるから……」

 

 すると、横にいたコハクがフォローするように口を開く。

 

 「……加賀美……インダストリアルって……」

 

 ヒスイはその社名を反芻する。

 

 そして思い出す――待合室で、コハクが言っていた言葉。

 

 加賀美ハヤトの懐刀。

 

 視線をゆっくりと葉加瀬に戻す。今も腕を組んでふんぞり返っている彼女は、ヒスイの視線に気づくと、肘をつきながらニッと笑った。

 

 「凄いっしょ。私のご主人様」

 

 ――その言い方に、ヒスイは思わず背筋をぴくりと震わせた。

 

 「ひっ……」

 

 唇が自然と震え、体が反射的に縮こまる。

 

 葉加瀬は椅子にふんぞり返ったまま、顎に手を添え、ちらとヒスイを見た。

 その視線は、先ほどまでの軽口とは打って変わって、真剣なものだった。

 

 「……で、」

 

 低く落ち着いた声。

 

 「なんで、ヴァルテスの中なんかに入りたいの?」

 

 その問いに、ヒスイは少し眉を寄せた。

 

 (……入りたいなんて、一言も言ってないんだけど)

 

 そう思いながらも、胸の内にある“引っかかり”が自分の言葉となって滲み出る。

 

 「……きっかけは、東京の……とあるビルの中で、自分の“仕事”をしたときのこと、かな」

 

 ヒスイの目が少し伏せられる。

 

 葉加瀬は頷きながら、机の上に散らばったモニターを一瞥し、何かを確かめるように言った。

 

 「Σがあそこで何かやったのは知ってる。っていうか、私もちょっと近くまで行ったからね」

 

 ヒスイが反応する前に、葉加瀬は続けた。

 

 「最後の扉、開いてたでしょ? あれやったの、ウチの“もう一人”の奴だから。感謝しな」

 

 その瞬間、ヒスイの背中に冷たいものが走った。

 

 「……え」

 

 額にじわっと汗が滲み、手のひらもじっとりと湿る。

 

 確かにおかしかった。あの何年も使われていない出口。当時は幸運としか思わなかったが、改めて考えると不可解な箇所が多すぎる。

 

 だが、もしそのすべてが加賀美ハヤトの手の人間の仕業だったとしたら―

 

 ヒスイは、眼を見開いたまま固まり、乾いた唇を震わせながら絞り出すように呟いた。

 

 「……ありがとうございました……」

 

 声は小さく、それでいて誠意のすべてを込めたものだった。

 

 「よろしい」

 

 葉加瀬は満足げに椅子を揺らし、再び無造作に机へ肘をつく。

 沈黙がしばらく続く――が、痺れを切らしたように、葉加瀬が片眉を上げて口を開いた。

 

 「……で? そのビルがどうした」

 

 その問いに、静かに呼吸を整えた。目を閉じ、そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

 「……自分の、子供の頃の記憶が……全くなくて」

 

 「……」

 

 「唯一覚えてるのは、まだ小さかった頃……駅の構内で、泣きじゃくっていた記憶だけ」

 

 葉加瀬の目がわずかに揺れる。

 

 声は震えてはいなかったが、どこか虚空に語りかけるような静けさを帯びている。

 

 研究室の静寂は、機械の微かな駆動音と、誰かが息をする音だけに満たされていた。

 

 ヒスイは視線を落としながら、そっと言葉をこぼすように話し始めた。

 

 「……あのビルの中で、芸能人の星川サラと会いました」

 

 葉加瀬は机に肘をついたまま、無言で相槌を打つ。

 

 「その子と話してるうちに気づいたんです。私……“家族”って呼べる存在、何一つ知らなかったんだなって」

 

 その声は、決して感情的ではなかった。ただ事実を淡々と並べるように――けれど、その奥にある静かな渇きが、じんわりと滲んでいた。

 

 「ずっと、“ご主人様”……つまり国のために働いてきて。生きてる意味も、そのためにあった。でも、それだけじゃなくて――」

 

 ヒスイは一度言葉を切り、葉加瀬の方を見た。

 

 「私にも……家族と呼べるような、何かあたたかいものが、過去にあったのか……確かめたいんです」

 

 葉加瀬は、しばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと呟くように言った。

 

 「……お前、なんか嘘ついてない?」

 

 「……は?」

 

 ヒスイは眉をひそめる。思ってもみなかった言葉だった。

 

 「嘘なんてつくわけ……!」

 

 口をついて出そうになった反論を、しかし葉加瀬はあっさりと遮る。

 

 「まあ、いいや」

 

 ヒスイはむっとした顔をしながらも、それ以上言葉を継がなかった。

 葉加瀬はいつもの調子で椅子を転がし、立ち上がると、壁際にあるタブレットに手を伸ばして室内の暖房をスッと切る。

 

 「……どの道、あそこはもう取り壊すんだよね」

 

 「え?」

 

 「社長がさ、あそこ“見るのも嫌”ってことでさ。更地にして、キャンプ場にでもするんだって」

 

 そう言って葉加瀬は、ヒスイが手にしていた鍵をするりと取り返す。

 

 「だから、今のうちに見ておきたいなら……2人で行くか」

 

 そして、何の前触れもなく、さっと研究室のドアへと向かう。

 

 ヒスイは少し呆然としながらも、その背中を追いかけて立ち上がった。

 

 「しっかり掴まってろよー、吹っ飛んでも知らんからなー!」

 

 そんな軽口と共に、葉加瀬がスクーターのエンジンをキュルルと始動させる。

 シートに跨がったヒスイは、戸惑いながらも後ろから背中にそっと手を添えた。

 

 「えっ、ほんとにこれで行くんだ……えっ、えっ……!」

 

 ブオォン――!

 

 言い終わる前に、加速。

 

 白銀のスクーターは滑るように走り出し、新大阪駅前のロータリーをすり抜けていった。眼前には高層ビルとホテル群、人の流れ、駅前の喧騒。信号の音、バスのブレーキ音、自転車のベル、コーヒーショップのスピーカーが混ざりあい、ヒスイの耳をかすめていく。

 

 (早い早い早い!!)

 

 制服のスカートが風に煽られ、髪が後方に流れた。バイクの揺れに合わせて体を何度も後ろに持っていかれそうになり、思わず葉加瀬の制服の裾をきゅっと握る。

 

 街は、あっという間に後方へと流れていった。

 

 ――そして、風景が徐々に変わり始める。

 

 ファストフード店やビジネスホテルが立ち並ぶ大通りを抜けると、マンションの数が減っていき、戸建ての住宅街がぽつぽつと現れる。街灯の間隔も少しずつ開き、道幅が狭くなっていく。

 

 「……こんなに離れるんだ」

 

 ヒスイはヘルメット越しに小さく呟いた。

 

 やがて、住宅街を抜けると、少し錆びたガードレールや空き地が目立ち始める。たまにあるコンビニも年季の入った外装で、窓には手書きのチラシがベタベタと貼られていた。駄菓子屋のような商店も一瞬だけ視界を横切る。

 

 道沿いに並ぶ家々は、どこか無人のような静けさをまとっており、風が通るたびにカラカラと看板が鳴った。

 

 「すげーだろ。ちょっと奥行くとこんな感じなんだよ」

 

 葉加瀬の声が、ヘルメットの外から風に混じって届いた。

 

 遠くに、低く連なる山の稜線が見えてくる。まだ陽はあるが、空はうっすらと茜色に染まりかけていた。

 

 カーブをいくつも曲がり、細い道を抜けた先――

 道の両側に、まばらに立ち並ぶ昔ながらの娯楽施設や、やけに新しいコンビニがぽつんと建っているのが見える。

 

 風は次第に冷たさを増し、ヒスイは思わずリュックのストラップをギュッと握りしめた。

 

 どれくらい経ったのだろう。

 風の冷たさに頬の感覚が薄れ、背中にじんわりと疲労が染み込む頃には、ヒスイはもう時間の感覚を失っていた。

 

 都会の喧騒はとうに遠ざかり、今はただ、スクーターのエンジン音と冷たい風だけが、身体を通り抜けていく。

 

 ふと目を上げると、視界には畑が広がっていた。

 整然と耕された土の上に、冬野菜らしき葉がちらほらと顔を出し、風に揺れている。時折、案山子のシルエットが不意に現れては、すぐ背後へと流れていった。

 

 「……畑?」

 

 ヒスイはぽつりと呟いたが、風にかき消される。

 

 広い道路の脇には、駐車場を備えたコンビニがぽつんと一軒。

 チェーンのはずなのに見たことのない形の看板で、しかも窓の上にはでかでかと、到底コンビニで売るようなものがない商品が手書きで掲げられていた。

 

 信号の数はどんどん減り、すれ違う車の数も激減する。

 標識には、ヒスイが読めるようで読めない、変わった地名が並び始めた。

 

 ほんとに、日本……だよね?そんな疑問すら湧く。

 

 やがて、スクーターのスピードが落ち始め、大通りから分かれて中くらいの道へと入っていく。

 左右には背の高い木々が迫り、舗装もどこか粗く、アスファルトが割れている部分も見える。

 

 そして――

 

 「着いたぞー」

 

 ブレーキの音と共に、スクーターがファミレスの前に停まった。駐車場には一台も車がない。看板のネオンは点いているが、どこか場違いな静けさを帯びていた。

 

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