「……ここから、歩いたりするの?」
エンジン音が止まり、辺りの静けさが戻ると同時に、ヒスイが不安げに問いかける。
葉加瀬はヘルメットを外しながら、いつもの調子で言った。
「まだこっからよ」
そして、当然のようにファミレスの自動ドアをくぐる。
ヒスイもそれに続き、戸惑いながらも同じように席に着いた。
自動ドアのベルが鳴り、二人は店内に足を踏み入れる。
「3名で。一人後から来ます」
葉加瀬が店員にさらっと言い、ヒスイはその横顔を一瞬、不思議そうに見上げた。
案内されたのは、窓際の4人掛けのボックス席。店内は静かで、数人の客がスマホを見ながらハンバーグを食べている。
席に着くなり、葉加瀬は注文用のタブレットを手に取り、画面をタップしながら言った。
「適当に頼んでいい?」
「……え、ちょっと」
ヒスイは身を乗り出し、葉加瀬の顔に近づいて小声で問う。
「誰か来るんですか?」
その問いに、葉加瀬は口元に薄く笑みを浮かべた。
「まあ、それはお楽しみってことで」
そう言うと、ヒスイの返答を待たずにタブレットをピッピッと操作し、勝手に料理を数品注文する。
「ドリンクバー頼んであるから、取ってきていいよー」
「ちょ、ちょっと……葉加瀬さん!」
ヒスイはとうとう語気を強めて口を挟んだ。
葉加瀬は、わざとらしく長いため息をついて、タブレットを置いた。
「……なんか、私に言うことあるでしょ」
その声には、皮肉や怒りではなく、少しの期待と、わずかな苛立ちが混ざっていた。
ヒスイは視線を逸らし、膝の上で手を組み直す。
そして、ぽつりと――
「……仕方ないじゃないですか。私だって……お腹空いてたんだし」
声は小さく、でもちゃんと届くように。
葉加瀬はその言葉を聞くと、ふいと目を逸らし、窓の外の暗くなり始めた空を見た。
「……まあ、いいや」
その背中には、拗ねたような、でもどこか嬉しそうな空気が滲んでいた。
ファミレスの自動ドアが、再び音を立てて開く。
「おっ……来たねえ」
柔らかく、それでいてどこか大人びた声が近づいてきた。
声の主――少し年上に見える女性が、迷うことなく葉加瀬たちの席へと歩み寄る。
カーキ色のコートを羽織り、片手には持ち慣れた様子のファイルケースを下げていた。
ヒスイはちらと横目でその女性を見て、困惑を隠せずに葉加瀬へ尋ねる。
「……誰ですか?」
葉加瀬はその質問に、少し懐かしそうな顔をしながら応じた。
「荒木先生」
そう言って、すっと席を立ち、隣を譲るように横にずれる。
「ヴァルテスの元職員の人だよ。覚えてない?」
ヒスイは眉をひそめた。
記憶を手繰ろうとするが、頭の中はもやがかかったように曖昧で、像を結ばない。
「……いえ。すみません、全然……」
そのまま葉加瀬の隣に座った荒木は、にこやかにヒスイの顔を覗き込んでくる。
「まあ、覚えてないのも無理ないわ。あなた、あの頃小さかったもんね」
ヒスイは苦笑するしかなかった。
しばし沈黙が落ちたのち、ヒスイは気になっていたことを口にする。
「……加賀美ハヤトは、ヴァルテスを“見たくもない”って言っていたそうですが」
そう言って、目の前に座る荒木に視線を向ける。
ヒスイにとっては、なぜこの女性がここに来て、葉加瀬と親しげに話しているのか、そのつながりが掴めなかった。
葉加瀬は、苦笑しながら肩をすくめる。
「まあ……先生とは色々あってさ」
それに続くように、荒木も口元を緩めて――しかしその目は笑っていなかった。
「私もね、あんなキモい組織は二度とごめんだけど。いくら金が良くてもね。」
その言葉には、どこか棘があった。
テーブルを挟んで向かい合った荒木先生は、ふとヒスイを見つめると、懐かしそうに目を細めて言った。
「久しぶりだね、52番」
ヒスイはぴくりと眉を動かした。ヒスイを見て、着ている制服に目をやり、彼女はふと口元をほころばせた。
「へぇ……君、防弾制服着てるってことは、Σの兵士になったんだぁ! すごいねぇ」
その声は妙に明るく、まるで親戚のおばさんが久しぶりに再会した親族を褒めるような温度だった。
「しかも……“世怜女”ってことは、井ノ原のとこだよね?」
ヒスイの顔色が変わる。
「……どうして、その名前を……?」
荒木はくすっと笑いながら、さらに踏み込む。
「あいつ、むっちゃ部屋散らかすでしょ! 家とか行ったことある? 机の上、飲みかけの缶ばっかりでさ〜」
ヒスイの目がまん丸になる。完全に気を抜かれていた。
その様子を見かねて、葉加瀬が割って入る。
「先生、今はΣ本部の高官だからね」
「えっ……!」
ヒスイは慌てて背筋を伸ばし、直立不動になった。
「し、失礼しました……!」
荒木は大げさに手を振って、気にする様子もなく笑う。
「いやいや、そんな畏まらなくていいのに〜。今日は役職の話をしに来たんじゃないし」
その言葉に、ヒスイは少しだけ肩を緩めた。
荒木はコーヒーを一口飲んでから、再びヒスイの方へ目を戻す。
「……で、なんでヴァルテスなんか行きたいの?」
「え?」
「井ノ原にパシられてるうちに、マゾにでもなったの?」
「なっ……」
口を開こうとするヒスイを制するように、葉加瀬が横から言った。
「それ聞くのやめた方がいいですよ。こいつ、嘘つきなんで」
「おぉぅ……そっち系か……」
荒木は肩をすくめながらも、興味を失った様子はなく、スプーンをくるくると回しながら言った。
「まあいいや、話してみ」
促されて、ヒスイは一度深く息を吸う。
「……自分には、家族と呼べるような存在がいません」
「……」
「ヴァルテスに来る前の記憶がないんです。だから、ほんの少しでもいい、何か手がかりが欲しくて」
その言葉に、荒木はほんの僅かに表情を変えた。
柔らかさでもなく、同情でもない、もっと――懐かしさに似た感情。
そして、葉加瀬が改まった声で口を開く。
「……どうです?先生」
荒木はうーんと唸りながらコーヒーをもう一口飲み、言った。
「まあ……21番が言わんとしてることは、分からんでもない」
その一言に、ヒスイの中で張りつめていた何かが、わずかに緩んだ気がした。
「……その“自分のルーツが知りたい”ってのはさ」
荒木は、ストローでアイスティーの氷をかき混ぜながら、淡々と言った。
「お前の“本心”じゃないんだよ」
その一言に、ヒスイは目を瞬き――ゆっくりと首を傾げた。
「……どういう意味ですか?」
荒木は返事をせず、代わりにふっと笑うような息を漏らしてから、視線をテーブルの端へ落とす。
「ちなみに、お前の“生物学上の母親”なら、今もまだ働いてるよ」
「……え?」
「昔からの格式高い“踊り子”だ。今も同じ店にいる。昔は浴びるほどのチップもらってたらしいけど――ある日、仕事中に仕事で出会った旦那が、うっかり逝っちまったんだって」
「……」
「そんで恋愛にすっかり絶望して、手元にいた“お前”を、ヴァルテスに売ったんだよ」
ヒスイは、言葉を失っていた。
まるで自分の記憶が――知らない誰かのストーリーとして、口にされているような感覚。
確かに身体がその話に反応しているのに、心はまったく追いついていなかった。
荒木は腕を組みながら、少し揶揄うように付け加える。
「それくらい聞けば、井ノ原も教えてやっただろうに。あいつ、何も言わなかったの?」
ヒスイは口を開こうとして、しかし――言葉が出ない。気持ちが、どこか遠い。
求めたはずの「答え」を、今まさに与えられているのに――胸の奥ではモヤモヤとした霧が立ちこめている。
その様子を見た荒木は、ため息混じりに肩をすくめて言った。
「ほらな。“嘘ついてる”って21番が言ってんのは、そういうことだよ」
「……え……?」
「頭では“知りたい”って思ってるけど、心は違う。“知ってどうすんの”って思ってる。だから、言ってることと気持ちがズレてんの」
ヒスイは、テーブルの木目を見つめたまま、微動だにしなかった。
荒木は椅子の背にもたれかかり、大きく背伸びをした。
「ま、鬼なんて呼ばれる生徒が生まれるような学園だ。それだけ、52番の情緒がおかしくなってても不思議じゃないよね〜」
その言葉に、ヒスイはわずかに眉をひそめる。
すぐ隣で、スプーンをパフェに突き刺していた葉加瀬が、飄々とした声で応じた。
「ま、その“鬼”の頼みで、わたし来たんだけどね〜。今頃きっと、私の家で夜見とゲーム三昧よ」
「夜見……誰?」
まるでテンポが掴めない会話の中で、ヒスイだけが置いていかれているような気がした。
荒木は、どこか微笑ましそうにそのやり取りを見てから、静かにヒスイの目を見る。
「行ってきなさいよ、ヴァルテスに」
「……え?」
「もしかしたら、その“モヤモヤ”も晴れるかもよ」
そう言われても、ヒスイは思わず視線を伏せ、ぎゅっとスカートの裾を掴む。
――でも
何のために行くのか。
もう理由が分からなくなっていた。
自分のルーツを知りたいと思っていたはずだった。
でもそれは“本心”じゃなかったと突きつけられた。
じゃあ、自分は一体何を求めているのか――
「……でも」
その言葉に被せるように、荒木は席を乗り出して言い放つ。
「なら、上官として“命令”しよう。――行け」
ビシッと指をさされたヒスイは、一瞬きょとんとして、次の瞬間には姿勢を正した。
「……わかりました」