風を切る音と、低く唸るエンジン音。
葉加瀬の運転するスクーターの後部座席で、ヒスイはぎゅっとリュックを抱えながら、流れゆく景色にぼんやりと目をやっていた。
「そういや、夜見って人……どんな人なんですか」
前を見据えたまま、葉加瀬はぽつりと答える。
「かなり尖ってるやつだけど、意外とああ見えて繊細で考え込む奴なんだよね。普段は椎名ママとか笹木先輩んとこいたりして、あんま会社とか学校にはいないからアレだけど……あ、あと鍵外したのアイツだから感謝しなよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒスイの意識が一気に過去へと引き戻される。
――あの昼下がり、喫茶店「アルカナ」の店先。
窓越しに見た、内部の賑わい。仲間と肩を寄せ合いながら話す笹木咲。
そして、その中にいたひときわ目立つ少女――
赤い、鮮やかな目。
涼しげで、それでいて何か底知れないものを秘めたまなざし。
スプーンでパフェを混ぜながら、静かに微笑んでいた――あの少女。
……アイツか!
ヒスイは手に力を強める。
「……あの子が……加賀美ハヤトのもう一つの愛刀……」
道の端には畑が広がり、道路標識の漢字もどこか古風で、見たことのない地名が並ぶ。
夜見……もう一度、その名前を思い浮かべた。
思えば任務中、あの赤い瞳に見られていたような気もしてくる。その確かな記憶が、胸の奥で不気味に疼く。
(この先、何が待ってるんだろう……)
スクーターは速度を落とし、ゆるやかに曲がっていった。
夢だった。
……けれど、それはあまりにも生々しく、肌の奥から滲むような寒さを伴っていた。
視界の端に、うっすらと揺れる白い香煙が見えた。
(ここは……)
重たく沈んだ空気。天井から垂れ下がる白布。
どこかの葬儀場のようだった。
経を唱える僧侶の低い声と、木魚の乾いた音が静寂を震わせる。
線香の煙が幾重にも重なり、空気を鈍く濁らせていた。
祭壇の中央――棺の前に、緑色の長い髪を持つ女性が立っていた。
顔は見えない。いや、見えないはずなのに、彼女の肩に宿る絶望だけは、確かに感じ取れた。
ただ静かに、まるで時間が止まったかのように立ち尽くすその姿。
誰かの死を、受け入れられずにいる者の背中。
――何故だろう。知らないはずの情景なのに。ヒスイは、心の奥にじくじくとした不安を覚えた。
冷たい汗が背中を伝う。葬儀場の空気は、冬の朝のように乾いて、冷たい。
嫌だ。
次の瞬間、ヒスイの幼い体が勝手に動き出していた。
カタ、と小さく足音を鳴らし、葬儀場を飛び出す。
――経の音が遠ざかっていく。
視界が暗くなる。光のない廊下。永遠に続くかのような、どこまでもどこまでも先が見えない通路。
薄暗く、誰の気配もない廊下を、ヒスイは裸足のような足取りで走っていく。
息が切れそうだ。それでも止まれない。
心臓が胸を突き破りそうなほどに早鐘を打ち、不安と恐怖が肺を圧迫する。
なにかが、追ってくる。
誰もいないはずなのに、何かが、確実に背後に存在している気配。
走っても、走っても、終わりのない回廊。
どこにも逃げ場がない。
足音だけが反響し、冷たい壁に跳ね返る。
不意に、先の方に一つの扉が現れた。
ヒスイはそれに向かって、必死に手を伸ばす――
――どこかで、鍵の軋む音がした。
ゆっくりと瞼を開けると、天井には見慣れぬ白い蛍光灯。
整然とした灰色の天井板が、静かに視界に広がっていく。
ヒスイはしばらくぼんやりと天井を見つめ――そのまま、ゆっくりと身を起こした。
(……ここは)
周囲を見渡すと、そこは鉄格子に囲まれた独房だった。
けれど、その印象はどこか違和感があった。床も壁も無駄に清潔で、ベッドのシーツはきちんと整えられており、棚には何も置かれていない。
まるで「誰かがいつか使うために用意された部屋」のようだった。
鉄格子の外に目を向けると、薄暗い通路の向こうから声が響く。
「おはよう、52番」
寄りかかるように鉄格子の横に立っていたのは、葉加瀬冬雪だった。
その顔には、呆れと苦笑が入り混じったような表情が浮かんでいる。
「……なんで、私……」
ヒスイはまだ少し寝ぼけた声で呟いた。
「スクーターに乗ってた、はず……」
「信じらんない……お前、うちのスクーターで寝てたんだよ」
葉加瀬は深くため息をつきながら、ぼそっと付け加える。
「走行中に、だよ?」
ヒスイの顔が真っ青になった。
「えっ、ええっ!?」
「すれ違った軽トラの運転手が二度見してたし、マジで通報されかけたっつーの……あのまま寝落ちして落っこちたら、今頃棺桶の中よ」
葉加瀬は頭を軽く掻いて、そして視線を鉄格子越しの外へと移す。
夜――すっかり日が暮れ、月の光が独房の小窓から細く差し込んでいる。
「おはよう、そして…ヴァルテスにようこそ」
その言葉はどこか静かで、けれど重みを孕んでいた。
ヒスイはベッドの縁に手を置きながら、しばらく言葉を失っていた。
――夢と現実の境目。
記憶の断片と、この夜の冷たさが、心の中でゆっくりと混じり合っていく。
その日の夜は、静かだった。
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タワーマンションの高層階、都会のネオンが遥か下で滲むように瞬いていた。
静まり返った深夜のリビングルーム――
壁際には薄明かりの間接照明だけが灯っており、ソファとテーブルの上には空きかけのスナック菓子と缶のミルクティーが雑に並んでいた。
画面にはファミコン風のレトロなゲームが映っており、電子音が時折、部屋の静寂を破る。
「……冬雪、ゲーム本当に下手だからさ、こういう古いのの方が勝負になるんだよね~」
無邪気な声。
けれどその言葉には、どこかくぐもった愉悦が滲んでいた。
夜見れなは、猫のような目でスクリーンを見つめながら、緩慢に指を動かしていた。
片手には赤いコントローラー。もう片方の指先には、指の温もりで少し湿ったスナック菓子が挟まれていた。
対するソファの隣、東堂コハクは一言も発さず、画面に集中している。
いや――集中しているように見せかけて、どこか空っぽな視線を送っていた。
ピクリとも動かないその横顔は、冷たい石像のようだった。
夜見は、そんなコハクの無言を、まるで待っていたかのように、ふと話し始めた。
「……白竜の里以来だね~」
さらりとした口調。しかし、それは重く、冷たい水面に石を落とすような言葉だった。
コハクは返事をしない。視線はゲームに向いているが、もはや操作も止まっていた。
……シン……と部屋の空気が、見えない糸でピンと張ったように緊張する。
夜見はくすりと笑い、コントローラーを無造作に放ると、横にいたコハクの身体に覆い被さった。
「ねえ、もっと話そうよ~」
「――殺人鬼さん」
コハクの両肩に手を置き、顔を覗き込む。
その表情には笑みがあった。けれど、瞳の奥はまるで氷のように冷えていた。
ふたりの顔は近い。吐息が混じり合う距離。
コハクは眉一つ動かさず、ただ夜見を見返していた。
静寂が、部屋を満たしていく。
――笑っているのは夜見だけだった。
ぴくり、とも動かないコハクの顔を見ながら――
夜見は、そっと腕を伸ばした。
無理に笑顔を作ることもなく、
けれどその瞳には、確かにぬくもりが宿っていた。
「……あんた、本当は――辛いんでしょ」
夜見は、そっと、彼女を抱きしめた。
痩せた肩。
筋肉の張った、けれどどこか緊張しきった背中。
戦いに慣れた人間特有の「硬さ」が、そこにはあった。
東堂コハクは、抵抗しなかった。
腕も動かさず、ただ――
瞳孔を開いたまま、無反応でそこにいた。夜見はそれでも、彼女の身体をぎゅっと、強く抱きしめ続ける。
「……辛くないわけ、ないじゃん」
静かに、けれど確信を持って呟くその声には、
この世界の残酷さをよく知っている者だけが持つ、悲しい慈愛が宿っていた。
――きっと、夜見れなには分かっていたのだ。
この腕で抱きしめたところで、彼女の痛みは癒えないこと。
温もりを注いでも、彼女の心に届くとは限らないこと。
それでも、寄り添いたかった。
誰にも寄りかかれないこの少女に、自分だけは寄り添いたい――
やがて、沈黙の時間が流れた。
コハクは唐突に、小さく呟いた。
「……ここで寝ないでよ」
夜見は、くすっと笑った。
「寝ないよ〜。私、寝る時は結構こだわるんだから」
身体を離し、立ち上がると、指先で軽く髪を整えながら、
ふわりとした足取りでリビングの出口へと向かう。
「お風呂、入ってくるね〜」
その背中には、もういつもの夜見れなの、気だるげで飄々とした雰囲気が戻っていた。
――だが、リビングには、残されたコハクの影が静かに沈んでいた。
抱きしめられていた痕跡の残る両肩を、彼女はただ見下ろし、
何も言わず、何も考えず、ただ天井を見上げた。
その瞳に映るのは、光ではなく――
心の奥に澱のように沈んだ、名も無き闇だった。
リビングには、誰も喋る者はいなかった。
コハクは、ソファに深く寝そべったまま、何も言わず、ただ天井を見つめていた。白く滑らかな天井には、光の粒も影も落ちていない。静かだった。あまりにも。
彼女の瞳は、まだ開いていた。
瞳孔はわずかに開ききったまま、焦点も定まらず、まるで“生きていること”を拒絶しているかのように。
――それでも、心臓は動いていた。
肉体は生を続けている。だけど、魂だけが、ひと足先にどこかへ行ってしまったようだった。
窓の外から、ぱた……ぱた……と音がする。
最初は気のせいかと思うほどの静かな雨。けれど、徐々にその音は強く、鋭くなっていく。
ぱたぱた……ぱた、ぱたたた――
高層マンションの窓に当たる無数の水滴が、夜の沈黙を破っていく。
けれどその音でさえも、コハクの耳には届いているのか、わからなかった。
彼女は、冷たく凍ったように、ただ、そこに“在る”だけだった。
――冷静、というのではない。
それはもはや「静かさ」とすら違う、何も感じることのない、極限の“無”。
多くの命を奪ってきた手。
見世物のように死を見届けてきた目。
罪悪も痛みも全てを抱え、背負ってきた心。
けれど――
ほんの一瞬、彼女の唇がわずかに動いた。
「……難しいよ。私には」
声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
それでも、その一言にだけ、確かに“何か”が込められていた。
泣いているわけではない。後悔しているわけでもない。ただ――そこには、説明のつかない「諦め」のような感情が宿っていた。
部屋には再び沈黙が満ちる。
窓の外には、雨。
ざぁ……ざぁ……と、夜の街に染み入るように、
降り続ける雨の音だけが、彼女の孤独に寄り添うように響いていた。
その音が、優しいのか、残酷なのか――
それすらも、今のコハクには、もう分からなかった。