ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

35 / 56
鬼気森然

 風を切る音と、低く唸るエンジン音。

 

 葉加瀬の運転するスクーターの後部座席で、ヒスイはぎゅっとリュックを抱えながら、流れゆく景色にぼんやりと目をやっていた。

 

 「そういや、夜見って人……どんな人なんですか」

 

 前を見据えたまま、葉加瀬はぽつりと答える。

 

 「かなり尖ってるやつだけど、意外とああ見えて繊細で考え込む奴なんだよね。普段は椎名ママとか笹木先輩んとこいたりして、あんま会社とか学校にはいないからアレだけど……あ、あと鍵外したのアイツだから感謝しなよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ヒスイの意識が一気に過去へと引き戻される。

 

 ――あの昼下がり、喫茶店「アルカナ」の店先。

 窓越しに見た、内部の賑わい。仲間と肩を寄せ合いながら話す笹木咲。

 そして、その中にいたひときわ目立つ少女――

 

 赤い、鮮やかな目。

 涼しげで、それでいて何か底知れないものを秘めたまなざし。

 スプーンでパフェを混ぜながら、静かに微笑んでいた――あの少女。

 

 ……アイツか!

 

 ヒスイは手に力を強める。

 

 「……あの子が……加賀美ハヤトのもう一つの愛刀……」

 

 道の端には畑が広がり、道路標識の漢字もどこか古風で、見たことのない地名が並ぶ。

 

 夜見……もう一度、その名前を思い浮かべた。

 

 思えば任務中、あの赤い瞳に見られていたような気もしてくる。その確かな記憶が、胸の奥で不気味に疼く。

 

 (この先、何が待ってるんだろう……)

 

 スクーターは速度を落とし、ゆるやかに曲がっていった。

 

 

 

 

 

 夢だった。

 

 ……けれど、それはあまりにも生々しく、肌の奥から滲むような寒さを伴っていた。

 

 視界の端に、うっすらと揺れる白い香煙が見えた。

 

 (ここは……)

 

 重たく沈んだ空気。天井から垂れ下がる白布。

 どこかの葬儀場のようだった。

 

 経を唱える僧侶の低い声と、木魚の乾いた音が静寂を震わせる。

 線香の煙が幾重にも重なり、空気を鈍く濁らせていた。

 

 祭壇の中央――棺の前に、緑色の長い髪を持つ女性が立っていた。

 

 顔は見えない。いや、見えないはずなのに、彼女の肩に宿る絶望だけは、確かに感じ取れた。

 

 ただ静かに、まるで時間が止まったかのように立ち尽くすその姿。

 誰かの死を、受け入れられずにいる者の背中。

 

 ――何故だろう。知らないはずの情景なのに。ヒスイは、心の奥にじくじくとした不安を覚えた。

 

 冷たい汗が背中を伝う。葬儀場の空気は、冬の朝のように乾いて、冷たい。

 

 嫌だ。

 

 次の瞬間、ヒスイの幼い体が勝手に動き出していた。

 

 カタ、と小さく足音を鳴らし、葬儀場を飛び出す。

 

 ――経の音が遠ざかっていく。

 

 視界が暗くなる。光のない廊下。永遠に続くかのような、どこまでもどこまでも先が見えない通路。

 薄暗く、誰の気配もない廊下を、ヒスイは裸足のような足取りで走っていく。

 

 息が切れそうだ。それでも止まれない。

 

 心臓が胸を突き破りそうなほどに早鐘を打ち、不安と恐怖が肺を圧迫する。

 

 なにかが、追ってくる。

 

 誰もいないはずなのに、何かが、確実に背後に存在している気配。

 

 走っても、走っても、終わりのない回廊。

 

 どこにも逃げ場がない。

 

 足音だけが反響し、冷たい壁に跳ね返る。

 

 不意に、先の方に一つの扉が現れた。

 

 ヒスイはそれに向かって、必死に手を伸ばす――

 

 ――どこかで、鍵の軋む音がした。

 

 ゆっくりと瞼を開けると、天井には見慣れぬ白い蛍光灯。

 整然とした灰色の天井板が、静かに視界に広がっていく。

 

 ヒスイはしばらくぼんやりと天井を見つめ――そのまま、ゆっくりと身を起こした。

 

 (……ここは)

 

 周囲を見渡すと、そこは鉄格子に囲まれた独房だった。

 

 けれど、その印象はどこか違和感があった。床も壁も無駄に清潔で、ベッドのシーツはきちんと整えられており、棚には何も置かれていない。

 まるで「誰かがいつか使うために用意された部屋」のようだった。

 

 鉄格子の外に目を向けると、薄暗い通路の向こうから声が響く。

 

 「おはよう、52番」

 

 寄りかかるように鉄格子の横に立っていたのは、葉加瀬冬雪だった。

 その顔には、呆れと苦笑が入り混じったような表情が浮かんでいる。

 

 「……なんで、私……」

 

 ヒスイはまだ少し寝ぼけた声で呟いた。

 

 「スクーターに乗ってた、はず……」

 

 「信じらんない……お前、うちのスクーターで寝てたんだよ」

 

 葉加瀬は深くため息をつきながら、ぼそっと付け加える。

 

 「走行中に、だよ?」

 

 ヒスイの顔が真っ青になった。

 

 「えっ、ええっ!?」

 

 「すれ違った軽トラの運転手が二度見してたし、マジで通報されかけたっつーの……あのまま寝落ちして落っこちたら、今頃棺桶の中よ」

 

 葉加瀬は頭を軽く掻いて、そして視線を鉄格子越しの外へと移す。

 

 夜――すっかり日が暮れ、月の光が独房の小窓から細く差し込んでいる。

 

 「おはよう、そして…ヴァルテスにようこそ」

 

 その言葉はどこか静かで、けれど重みを孕んでいた。

 

 ヒスイはベッドの縁に手を置きながら、しばらく言葉を失っていた。

 

 ――夢と現実の境目。

 記憶の断片と、この夜の冷たさが、心の中でゆっくりと混じり合っていく。

 

 その日の夜は、静かだった。

 

 

----------------------------------------------------------------

 

 

 

 タワーマンションの高層階、都会のネオンが遥か下で滲むように瞬いていた。

 

 静まり返った深夜のリビングルーム――

 壁際には薄明かりの間接照明だけが灯っており、ソファとテーブルの上には空きかけのスナック菓子と缶のミルクティーが雑に並んでいた。

 画面にはファミコン風のレトロなゲームが映っており、電子音が時折、部屋の静寂を破る。

 

 「……冬雪、ゲーム本当に下手だからさ、こういう古いのの方が勝負になるんだよね~」

 

 無邪気な声。

 けれどその言葉には、どこかくぐもった愉悦が滲んでいた。

 

 夜見れなは、猫のような目でスクリーンを見つめながら、緩慢に指を動かしていた。

 片手には赤いコントローラー。もう片方の指先には、指の温もりで少し湿ったスナック菓子が挟まれていた。

 

 対するソファの隣、東堂コハクは一言も発さず、画面に集中している。

 いや――集中しているように見せかけて、どこか空っぽな視線を送っていた。

 ピクリとも動かないその横顔は、冷たい石像のようだった。

 

 夜見は、そんなコハクの無言を、まるで待っていたかのように、ふと話し始めた。

 

 「……白竜の里以来だね~」

 

 さらりとした口調。しかし、それは重く、冷たい水面に石を落とすような言葉だった。

 コハクは返事をしない。視線はゲームに向いているが、もはや操作も止まっていた。

 

 ……シン……と部屋の空気が、見えない糸でピンと張ったように緊張する。

 

 夜見はくすりと笑い、コントローラーを無造作に放ると、横にいたコハクの身体に覆い被さった。

 

 「ねえ、もっと話そうよ~」

 

 「――殺人鬼さん」

 

 コハクの両肩に手を置き、顔を覗き込む。

 その表情には笑みがあった。けれど、瞳の奥はまるで氷のように冷えていた。

 

 ふたりの顔は近い。吐息が混じり合う距離。

 

 コハクは眉一つ動かさず、ただ夜見を見返していた。

 静寂が、部屋を満たしていく。

 

 ――笑っているのは夜見だけだった。

 

 ぴくり、とも動かないコハクの顔を見ながら――

 夜見は、そっと腕を伸ばした。

 

 無理に笑顔を作ることもなく、

 けれどその瞳には、確かにぬくもりが宿っていた。

 

 「……あんた、本当は――辛いんでしょ」

 

 夜見は、そっと、彼女を抱きしめた。

 

 痩せた肩。

 筋肉の張った、けれどどこか緊張しきった背中。

 戦いに慣れた人間特有の「硬さ」が、そこにはあった。

 

 東堂コハクは、抵抗しなかった。

 腕も動かさず、ただ――

 

 瞳孔を開いたまま、無反応でそこにいた。夜見はそれでも、彼女の身体をぎゅっと、強く抱きしめ続ける。

 

 「……辛くないわけ、ないじゃん」

 

 静かに、けれど確信を持って呟くその声には、

 この世界の残酷さをよく知っている者だけが持つ、悲しい慈愛が宿っていた。

 

 ――きっと、夜見れなには分かっていたのだ。

 

 この腕で抱きしめたところで、彼女の痛みは癒えないこと。

 温もりを注いでも、彼女の心に届くとは限らないこと。

 

 それでも、寄り添いたかった。

 

 誰にも寄りかかれないこの少女に、自分だけは寄り添いたい――

 

 やがて、沈黙の時間が流れた。

 

 コハクは唐突に、小さく呟いた。

 

 「……ここで寝ないでよ」

 

 夜見は、くすっと笑った。

 

 「寝ないよ〜。私、寝る時は結構こだわるんだから」

 

 身体を離し、立ち上がると、指先で軽く髪を整えながら、

 ふわりとした足取りでリビングの出口へと向かう。

 

 「お風呂、入ってくるね〜」

 

 その背中には、もういつもの夜見れなの、気だるげで飄々とした雰囲気が戻っていた。

 

 ――だが、リビングには、残されたコハクの影が静かに沈んでいた。

 

 抱きしめられていた痕跡の残る両肩を、彼女はただ見下ろし、

 何も言わず、何も考えず、ただ天井を見上げた。

 

 その瞳に映るのは、光ではなく――

 心の奥に澱のように沈んだ、名も無き闇だった。

 

 リビングには、誰も喋る者はいなかった。

 

 コハクは、ソファに深く寝そべったまま、何も言わず、ただ天井を見つめていた。白く滑らかな天井には、光の粒も影も落ちていない。静かだった。あまりにも。

 

 彼女の瞳は、まだ開いていた。

 瞳孔はわずかに開ききったまま、焦点も定まらず、まるで“生きていること”を拒絶しているかのように。

 

 ――それでも、心臓は動いていた。

 肉体は生を続けている。だけど、魂だけが、ひと足先にどこかへ行ってしまったようだった。

 

 窓の外から、ぱた……ぱた……と音がする。

 最初は気のせいかと思うほどの静かな雨。けれど、徐々にその音は強く、鋭くなっていく。

 

 ぱたぱた……ぱた、ぱたたた――

 

 高層マンションの窓に当たる無数の水滴が、夜の沈黙を破っていく。

 けれどその音でさえも、コハクの耳には届いているのか、わからなかった。

 

 彼女は、冷たく凍ったように、ただ、そこに“在る”だけだった。

 

 ――冷静、というのではない。

 それはもはや「静かさ」とすら違う、何も感じることのない、極限の“無”。

 

 多くの命を奪ってきた手。

 

 見世物のように死を見届けてきた目。

 

 罪悪も痛みも全てを抱え、背負ってきた心。

 

 けれど――

 

 ほんの一瞬、彼女の唇がわずかに動いた。

 

 「……難しいよ。私には」

 

 声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。

 

 それでも、その一言にだけ、確かに“何か”が込められていた。

 泣いているわけではない。後悔しているわけでもない。ただ――そこには、説明のつかない「諦め」のような感情が宿っていた。

 

 部屋には再び沈黙が満ちる。

 

 窓の外には、雨。

 

 ざぁ……ざぁ……と、夜の街に染み入るように、

 降り続ける雨の音だけが、彼女の孤独に寄り添うように響いていた。

 

 その音が、優しいのか、残酷なのか――

 それすらも、今のコハクには、もう分からなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。