――翌朝。
微かな眠気の中、ヒスイはゆっくりとまぶたを開けた。
視界に映るのは、昨日と変わらない、白い天井と鉄格子。
整然と整ったベッドの上、ヒスイはパジャマ姿のまま、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
「……夢じゃなかったんだ」
ぼそりと呟いた声は、独房の静けさに吸い込まれていった。
顔くらいは洗おうと、壁際の蛇口に手を伸ばして捻る。
しかし――カラン、という空虚な音が響くだけで、水は一滴も出なかった。
「……はあ」
肩を落としつつも、ヒスイは重い足取りで鉄格子の前に立つ。
扉は、昨日と同じく鍵がかかっておらず、静かに押すと音もなく開いた。
ひやりとした床の感触が、裸足の足裏に染み込む。
外に出ても、誰もいない。
ただ、どこまでも続くような無機質な白い廊下――
左右には、いくつもの独房の扉が並んでおり、そのすべてに鍵はかかっていなかった。
どの部屋も不気味なほどに綺麗に整えられ、生活の気配すら感じられない。
まるで“人がいなくなった後に、わざわざ掃除された”ような、妙な違和感。
ヒスイは足を進めながら、鉄製の階段をゆっくりと降りていく。
――そして1階。
かつての面影を残しつつも、明らかに人の手が入った食堂に足を踏み入れると、
調理場側のカウンターに佇む一人の女性が、ヒスイに気づいたように顔を上げた。
「おはよう。52番」
灰色のノースリーブに、黒いスカート。
髪を後ろでゆるくまとめた葉加瀬冬雪は、冷たいジュースの缶を手にしながら、無表情でそう言った。
ヒスイは一瞬ぎこちなく頷き、口を開いた。
「……部屋、すごく綺麗でした」
すると葉加瀬は、無造作にジュースを置きながら答える。
「C区画だけはね。業者入れて掃除してるから」
あくまで事務的な口調。
だが、その声には微かに、過去を懐かしむような響きが混じっていた。
葉加瀬はそのまま、食堂の椅子から立ち上がると、
「こっち」とだけ言い残して、足音も立てずに外へと歩いていく。
ヒスイは少し迷ったあと、その背中を追った。
鉄の扉を抜け、外に出た途端――
ヒスイの頬に、鋭く切り裂くような山の風が吹きつけた。
「……っ、さむっ」
反射的に腕を抱え込む。
冬の空は澄みきっていて、青く高く、それがかえって冷たさを際立たせていた。
目の前に広がっていたのは、よく整地された草原。
かつてはここで朝の訓練が行われていたのだろう、無駄な起伏もなく、枯れた芝が地面に貼り付いていた。
その草原の先に、境界線のようにそびえ立つ――鉄の柵。
その上には有刺鉄線が何重にも張り巡らされており、まるでこの世界と外界を隔てる結界のようだった。
ヒスイは、思わず足を止めて柵に近づき、指先でそっと触れた。
その冷たさと、微かな錆の匂いに、背筋が粟立つ。
「……よく、子供の住む施設に、こんな危ないもん置いてたもんだ」
吐き出すように呟くと、すぐ後ろから軽い足音と、からかうような声が聞こえた。
「私達、昔は半袖でこの風受けて働いてたんだぞ?」
振り返ると、葉加瀬冬雪が笑いもせず、当たり前のように立っていた。
「確かに長袖のインナーはあったけどさ。長袖着てて凍えるなんて……」
ひょい、とヒスイの肩を叩きながら、軽く眉を上げる。
「流石に老いてるぞ、52番」
「老いじゃなくて、まともになったって言ってください」
ヒスイは少しだけ睨むような視線を葉加瀬に送るが、その手はまだ鉄の柵に触れたままだった。
「……でも、ホント危ないですよ。こんなの…子供でも迷い込んだら」
柵を見上げるヒスイの顔は、どこか他人事のように曇っている。
そんな彼女の横で、葉加瀬は無言で空を仰ぎ、それからぽつりと言った。
「お前は今も子供だろ」
ヒスイは渋い顔をして、葉加瀬を見返す。
「昔の罪から走って逃げるくらいには、ガキだ」
その声に怒気はなかった。ただ、静かで――真っ直ぐだった。
ヒスイは視線を葉加瀬に向け、また、その向こうに広がる何もない空地を見つめる。
冬の風を避けるように、ヒスイは無言で施設の中へと戻った。
葉加瀬は何も言わず、その後をついてくる。
床はよく磨かれ、壁も埃一つ見当たらない。誰も使っていないはずの廃施設にしては、異様なまでに整っている。
「……ほんとに、誰も住んでないの?」
ヒスイの問いに葉加瀬は返さない。ただ、微かに鼻で笑ったような気がした。
C区画の廊下を歩いていくと、途中に見慣れた扉があり、ヒスイは何の疑問もなくそれを開けようとした。
「そこ、男子トイレだよ」
その一言に、ヒスイは手を止め、振り返りざまに頬を膨らませた。
「早く言ってくださいよ……」
引き返そうとすると、葉加瀬は肩をすくめながら歩いてきて、ぽつりと呟く。
「私が綺麗にしても綺麗にしても、男どもが小便漏らすから困るんだよねぇ……」
まるで過去の光景を懐かしむような、ぼやきの混じった声。
ヒスイはその愚痴に返す言葉もなく、足早に別の部屋へと向かう。
次の部屋は、白いタイル張りの床と薬品の匂いが印象的な、簡素な空間だった。
金属製の硬いベッドが二台、壁際には薬品棚が並んでいる。
「……ここは?」
「医務室だね」
葉加瀬が答えながら、中に入り、棚の前に立つ。
「私ここでサボってたんだよね。
実験用の薬品も大体くすねてたんだけど、減りが早いから結構苦労したんだよ。
どっかの誰かさんが飲んじゃうからねぇ……」
くるりと振り返り、ジト目でヒスイを見る。
「……」
ヒスイは目を逸らした。
石畳が続く細い通り、煤けたレンガ造りの建物が並び、通りには旧世代の車の影もちらほら。まるで時間が巻き戻されたかのような旧時代の街並みを、夜見とコハクは並んで歩いていた。
「……なんか、ここだけ時代が止まってるみたい」
コハクがそう呟くと、夜見はくすりと笑って、「でしょ〜?」と返す。
しかし、その古風な景観を切り裂くように、街の先に、ひときわ目を引く建物が現れた。
光を反射するガラスと金属が交錯し、天に向かって鋭く立ち上がるドーム状のフォルム。
まるで未来都市の一部を無理やりこの場所に埋め込んだような――その名も「時計台アリーナ」。
「あれは……」
コハクが視線を奪われながら尋ねると、夜見は歩きながら答える。
「時計台アリーナって言うんだよ。かっこいいでしょ」
その声は、どこか誇らしげだった。
「上の階は、主にカードゲームの大型大会で使われてるんだって。
ステージの中央に1対1のテーブルが置かれて、観客席が360度ぐるっと囲むんだよ。
で、選手の動きがリアルタイムでモニターに映ってさ――」
夜見の話す内容は、どこか現実感がないほどのスケールだったが、その目はキラキラと輝いていた。
「……この街の雰囲気には、明らかに合ってないけどな」
コハクが呆れたように言うと、夜見は「それがいいんだよ〜」と小さく笑いながら、アリーナへ向かって足を速めた。
歩くごとに、アリーナとの距離が近づいていく。
未来と過去が交錯するような、不思議な空間。
「で、何でまたこんな娯楽施設に?」
夜見はコハクの問いに、くるりと振り返って答えた。
「地下には射撃場もあるんだよ。流石に日本だし、実弾じゃないけどね」
「……マジで?」
「うん。しかも、そっちは一般開放してるからね。コハクちゃん、絶対気にいると思って~」
嬉しそうに語る夜見の後ろ姿。
その声は弾んでいたが、どこかでコハクの“欲するもの”を理解しているような、そんな響きがあった。
白く磨かれた石畳の道を歩き続けるうちに、二人はやがてその全貌を現した巨大な建造物――時計台アリーナの正面にたどり着いた。
未来的な光沢を放つガラスと金属の外壁に、電光掲示板が色とりどりの広告を瞬きのように映し出している。上部には、アナログ式の巨大な時計が存在を主張するように設置され、その名の由来を物語っていた。
「ここが、時計台アリーナ〜!」
夜見が両手を広げ、コハクの視線を誘導するようにアリーナの前に立つ。
コハクは小さく目を見開きながら、その異様な建築を見上げる。
この街の景観から浮きすぎているほど、異質で、完璧に整いすぎていた。
だが――
「兼、シヴィルト跡地〜」
夜見が、コハクの背後からまるで風に紛れるように、小さく囁く。
その言葉は、コハクの心の奥に刺さるように届いた。
「……っ」
反射的に振り返る。
夜見はあっけらかんとした笑みを浮かべていたが、その眼差しは何かを見透かすような深さを宿していた。
「まあまあ、お気になさらず〜」
そう言って、夜見はまるで何事もなかったかのようにコハクの背中を押す。
掌の圧力は軽いはずなのに、不思議と逆らえない。
まるで既に、この場所に立ち入ることを――運命づけられていたかのように。
入口の自動扉が、ひとつ、静かに開く。
時計台アリーナの入り口から直通のエレベーター。
冷たい金属の壁と、低く流れる電子音が、未来の建造物らしい無機質さを醸し出していた。
「ちょっと…!」
乗り込んだ途端、コハクは夜見に詰め寄るように言った。
「ここがシヴィルトの跡地ってどういうこと!?」
夜見は少し首を傾げたが、特に慌てるでもなく、涼やかな指でエレベーターのボタンを押す。
「そう。ここが今のシヴィルト。私の故郷だよ」
あまりにも軽く、過去を語るその声音。
それがかえって、コハクの心に重く響く。
「……ごめんなさい。何も知らなくて」
思わず漏れた言葉に、夜見は少しだけ目を細めて笑った。
「それはお互い様でしょ?」
瞬間、エレベーターの扉が静かに開く。
目の前に広がっていたのは、照明の落ち着いた射撃場。
金属とコンクリートの床に、列をなす射撃ブース――まるで病院のように整然としている。
人影はまばらで、銃声すら響かないほど閑散としていた。
「今日は空いてるね〜。ラッキー」
夜見は自販機のような券売機の前で手際よく操作し、チケットを二枚、取り出す。
そしてそれをコハクに一枚渡すと、二人で無人の改札ゲートを通過し、ブースへと足を踏み入れた。
無人の射撃ブース。足元に敷かれた吸音マットが、二人の足音すらも飲み込んでいた。
夜見は壁際に設置された銃の自動販売機の前に立ち、ぴっとさっきのチケットをかざす。機械の中には拳銃からライフル、ショットガンまで、さまざまなモデルが整然と収まっている。
「さっきのチケットかざして、ここから好きな銃借りれるからね」
機械が軽い電子音を立て、棚の一つが開いた。
「エアガンだけど、割と本格的で威力あるからね」
夜見が取り出したのは、艶やかな黒のライフル。
それを軽々と抱え、指定の位置に立つと、照準を合わせずにそのまま軽快に引き金を引いた。
――バシュッ。
乾いた空気を裂く音と共に、弾が宙を走る。
が、的のどこにも当たらずに、後ろの遮音パネルに吸い込まれていった。
「こんなもんかあ……」
夜見は銃を抱え直して、首を傾げる。
「やっぱり、コツとかあるのかな……」
銃の先を眺めながら独り言のように呟く姿は、まるでおもちゃの扱いに困る子供のようで、どこか微笑ましくもあった。
それを後ろから見ていたコハクは、無言のまま夜見の背後に立ち、その細い肩に手を添えた。
「夜見さん、構えが高すぎ。肘、もっと下げて」
「え、こう?」
「違う。左足をもう少し前。体重を少しだけ前に。ブレるから」
夜見の両腕に手を添え、肩の位置を正し、指先にそっと触れて引き金の感覚を教える。
その手つきは静かで迷いなく、どこか凛としていて――一発の射撃に命を懸けてきた者の所作だった。
「うわ……本気のやつだ……」
夜見はぽつりと笑いながらも、コハクの言葉に従って再びライフルを構える。
――バシュッ。
次の一撃は、的の中心からそう遠くない位置に当たっていた。
「……ほんとだ、当たった!」
瞳を輝かせる夜見に、コハクはどこか呆れたように、だが少しだけ柔らかく微笑んだ。
「このままなら、次は中心狙えるよ。目はスコープじゃなく、両目で照準と的を捉えて」
「ふむふむ……」
二人の間に流れる空気はどこか奇妙で、けれど温かい。
一方は命の取り扱いに慣れすぎた少女、もう一方はそれでもなお、どこか柔らかな好奇心を失わない少女。
射撃という無機質な行為の中に、それぞれの生き方の「違い」が静かに浮き彫りになっていた。
夜見が少し満足げに肩を落とす傍ら、コハクは無言で隣のレーンに立った。
その手に握られているのは、シンプルなリボルバー型のエアガン。
レバーを引き、シリンダーを開くと、まるで慣れきった儀式のように手早く弾を装填していく。
その指先には、無駄な動きが一切なかった。
「……いくよ」
静かに呟いたコハクは、わずかに腰を落とし、両腕を突き出して構える。
引き金を絞った次の瞬間、鋭い音とともに弾が飛び――
――カンッ。
乾いた金属音が、中央の的のど真ん中で響いた。
「うわ……マジでど真ん中……」
夜見が思わず声を上げるも、コハクの顔色は変わらない。
すぐにシリンダーを回し、弾を補充し、次の一撃を繰り出す。
カンッ――また中心。
カンッ――三発目も。
リボルバーの操作とは思えない速度で、次々と正確な弾を送り込んでいく姿は、もはや芸術的ですらあった。
「……やっぱり、あんまり仕事思い出すようなところは来ない方がいいかな」
夜見は、軽く息を吐きながらぽつりと呟いた。
「椎名先輩の時みたいに、ペットショップとか……もうちょっとあったかい気持ちになれたかも」
その言葉に、コハクは的に最後の一発を命中させた後、無言のまま弾を抜きながら答える。
「そんなことないよ」
目を伏せ、カチリとリボルバーのシリンダーを戻す音だけが一瞬響いた。
「……学外の射撃場で撃つのも新鮮だし」
少しの沈黙の後、コハクは的の紙を外して眺めながら、ぽつりと続けた。
「こういう……スポーツ的な場所だと、天使とかにも会わなくて済むし」
その言葉は、どこかに置き忘れたような痛みと、言い訳のような優しさを含んでいた。
夜見は横顔を見つめたまま、銃を机に置いた。
静かに、そっと。
夜見はライフルをゆっくりとラックに戻し、軽く首を傾げながら口を開いた。
「ねぇ、さっき言ってた“天使”ってさ……どんな人?」
その言葉に、コハクはふと眉をひそめる。
「なんか素敵そうな響きだね」と夜見は続けたが、それに対するコハクの返事は、少し間を置いてからだった。
「……天使は天使でも、裁く方の天使よ?」
コハクの声はひどく静かで、どこか震えていた。
その言葉だけで、何かが背中を這い上がるような寒気が夜見の首筋を撫でていく。だが、夜見はそれを楽しんでいるように目を細める。
「新東京ポート高校にいるエージェント。あの人……人、って言っていいのかも怪しいくらい、変な感じがするの」
コハクは視線を宙に彷徨わせながら言った。
「近くにいるだけで、体のどこかがどっと冷たくなるような、妙な感覚になるのよ。思考をズタズタに引き裂かれるような……それでいて、向こうの方は何も感情が感じ取れない。目を見ていると、空っぽの海を覗き込んでるみたいに息苦しくなる」
言葉を紡ぎながら、コハクは自分の両肩を抱くように腕を組み、寒そうに身をすくめた。
「私は……凄く、怖い」
その様子を、夜見は隣でじっと見ていた。
やがて、にやりと唇を歪めると、唇の端を指先で拭いながら呟いた。
「いいね、そういうの……」
まるでぞくぞくするような快感を味わうように。