旧ヴァルテスの食堂には、今もどこか「生活の名残」が漂っていた。椅子や机は整然と並べられているが、壁の色褪せや割れた時計が、時間が止まっていたことを物語っている。
ヒスイが空っぽの厨房を見渡していると、コンビニのビニール袋をぶら下げた葉加瀬が戻ってきた。
「ここもうガス通ってないから」
そう言って、葉加瀬は袋からオムライスのパックを二つ取り出すと、一つをヒスイの前に、もう一つを自分の前に置いた。
蓋を開け、付属のスプーンでひと口すくうと、そのまま無言で食べ始める。
ヒスイもスプーンを取り、ゆっくりと黄色い卵をすくった。
一口食べた瞬間、ふっと鼻をくすぐるケチャップの香りと共に、過去の光景がよみがえる。
「……なんだかんだ、ここに一番長い間いた気がする…」
小さく漏らした言葉に、葉加瀬はため息まじりに答える。
「“気がする”じゃなくて、いたんだよ」
そして、スプーンを止めて、嫌味な笑みを浮かべながらヒスイの方を見る。
「厨房で盗み食いして、適当に働いて、人の薬盗んでな」
ヒスイはばつが悪そうに目を伏せたが、それでもオムライスを一口、また一口と食べ進めていく。
すると、自然と胸の奥が熱くなり、目の奥がじんわりと滲んできた。
「……うまい」
掠れた声でそう呟くヒスイ。
涙をこらえるように、オムライスを必死に口へと運ぶ。
そんな様子を見ながら、葉加瀬はふっと笑って、少しだけ真面目な声音で言った。
「星川さんの言ってたことがわかったか?」
ヒスイは返事をせず、ただ口いっぱいにオムライスを詰め込んだ。
「……そういうもんだよ」
それは、温かいご飯のひと口に宿る、何よりも大きな救いの感覚だった。
オムライスの容器を空にして、ヒスイはスプーンを静かに置いた。
腹が満たされても、胸の奥の空白は埋まらなかった。
きっと、自分の過去を探すことに、格別な意味なんてなかったのだ。
意味があったとしても、それに価値を与えるには、あまりに自分は空っぽで――。
ふと脳裏をよぎったのは、サンゴとセツカ。
血の繋がりがなくとも、確かにそこにあった師弟のような結びつき。
そして、セツカとコハクの間にある、歪だけど、どこか断ち切れない姉妹のような情。
それに比べて、自分は――
自分には、誰もいなかった。
ヒスイは立ち上がり、無言のまま背を向け、食堂の鉄格子の向こうへ視線を送った。
外の空は、どこまでも薄い青で、寂しさを映し出す鏡のようだった。
「……私の家族って、誰なんでしょうか」
ぽつりと、こぼれる言葉。
その声は、誰に届くでもなく、風に溶けるように静かだった。
「葉加瀬さんは、私の家族になってくれるんですか?」
しばらくの沈黙のあと、葉加瀬はあっさりと言い放った。
「嫌だ」
椅子の背もたれに体を預けたまま、つまらなさそうに続ける。
「薬泥棒と家族なんてお断り。どの口が言ってんのよ」
ヒスイは少しだけ肩を落としたが、それでも続けてくれる言葉を待っていた。
案の定、葉加瀬は間を置いて言った。
「星川さんはなんて言ってたんだよ」
ヒスイは目を伏せたまま、遠い記憶を辿った。
「……『姉になる』って」
それは、静かだけど確かに胸に残った言葉だった。
あのときの星川の笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
葉加瀬は鼻を鳴らすように笑い、ヒスイの横顔を横目で見た。
そして、少しだけ柔らかい声で告げる。
「ゆっくり考えな」
「お前にとっての家族が……誰なのか」
その言葉はまるで、温かい毛布のようだった。
決して抱きしめてはくれないけれど、それでも確かに寄り添ってくれる、そんな言葉だった。
静かな廊下。
落ちる足音が、今のヴァルテスの静寂を際立たせていた。
葉加瀬の背を追いながら、ヒスイは少しだけ微笑んで言葉を漏らす。
「葉加瀬さんって……もっと、怖い人だと思ってました」
「昔、ヴァルテスで見たあなたと……随分違うので」
ぽつりと落とした言葉は、ただの感想だった。
だが――その背中はぴたりと止まった。
「ふぅん……」
その呟きが、風のように冷たく、廊下をなぞる。
「私、実はあんたがビーカーで飲んでた薬に……何混ぜてたかまでは覚えてないんだよね」
歩きながら、唐突に告げられるその言葉に、ヒスイの背筋がすうっと冷える。
「興味あるんだよね……」
その背は振り返らないまま、少しずつ語気を強めていく。
「…どうして、あれに毒性のある薬品が入ってないか分かった?」
その声は静かだけれど、棘を含んでいた。葉加瀬の瞳が、暗い照明に照らされて、ほんのわずかに紅く光るような気がした。
「だからお前は、私が願っても願い切れなかったΣの飼い犬になれたのか?」
ヒスイはその言葉に心臓が跳ねた。喉が渇いたように、息を詰める。
「その嗅覚に秘密があるのか? 私の薬にヒントがあるのか?」
その問いに葉加瀬は邪悪な笑みを浮かべ、振り返る。
葉加瀬の顔は、さっきまでの穏やかさとはまるで別人だった。
目に狂気を宿し、口元をつり上げて笑っている――それは悪魔のような嗜虐の笑み。
「うっ――」
何が起きたか理解する間もなく、ヒスイの胸倉がぐっと掴まれた。
「ひっ……!」
顔を引きつらせたヒスイが後退る間もなく、葉加瀬の顔がぐいと迫る。
「いや……本当にどうやって分かったんだ?」
目は笑っていない。
狂気の底から、ただ好奇心だけが溢れていた。
「飲むだけで一生棒に振るような薬も……すぐ近くにあったんだぞ?」
ぞわり、と背筋をなぞる悪寒。
それは「昔のヴァルテス」の、あの異常な日々の記憶を鮮明に引き戻す。
「やっぱり……ちょっと捌かせろお前」
その声は、冗談のようでいて、冗談ではなかった。
目の奥にあるのは、本気の好奇心と、倫理の欠片もない欲望だった。
ヒスイの喉が震える。声が出ない。
安堵しかけていたその心が、いとも簡単に引き裂かれていた。
ひんやりとした空気が漂う、E区画の資料庫。
薄暗い照明と、埃の匂いが充満するこの空間は、かつて「商品」として扱われた子供たちの記録が整然と並ぶ、忘れ去られた墓標のような場所だった。
棚に並ぶ資料をめくりながら、ヒスイの顔は強張ったままだ。
その横で、葉加瀬は資料を片手に軽やかな足取りで歩いていた。
ヒスイは顔を引きつらせながら、無言でファイルを一つ一つ確認していた。
その横で葉加瀬は、変わらぬ調子で書類を捲りながら、ちらちらとヒスイの様子を伺っている。
「……本気にすんなよ」
唐突に呟かれたその言葉に、ヒスイの手が一瞬止まった。
「……」
だが、それに続くように、葉加瀬は無感情にぽつりと呟いた。
「まあ……捌きたい感はあるけど」
ヒスイは慌てて顔を背け、資料棚の奥の方にある「B区画」の棚へと向かう。
口元は引きつり、呼吸は浅く、気配を完全に探るような目つきに変わっていた。
古びたファイルを数冊、無造作に取り出していくうちに、彼女の指が一冊のページで止まった。
「……これ……」
目に映ったのは――「B-17」の管理番号を持つ、一人の少女の記録。
写真には、無表情のままカメラを見つめる、整った顔立ちの少女。
ヒスイの頬からは、血の気が引いていた。
あの研究室で――葉加瀬が話していた「見たかったけど会えなかった子」。
背後から、無遠慮な声が響く。
「あ、そうそうこいつこいつ。資料に残ってたんなら、探せばよかったなぁ」
「こいつ、今何してんのかな……」
ヒスイは、写真を見つめたまま、震える声で呟いた。
「……天使……」
空気が凍りつく。
唇が乾く。喉が震える。
あの目だ。
人ではない何か――裁く者のような眼差しを携えた少女。
新東京ポート高校にいる、"天使"。
資料の中の無機質な写真と、記憶の中の恐怖が重なり、ヒスイの血の気が引いていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あの日、あの時。
周央サンゴが世怜音の兵士の出兵を拒んだあの時。
東欧の小国にて、Σの学生部隊が極秘任務を遂行していた。
任務の対象は、国境付近の村にある古い石造りの教会――オリヴィスの名と共に名を馳せる男の…その指揮する一団が拠点として占拠しているとされる場所だった。
月も雲に隠れ、あたりを照らすのは夜具のように重く垂れこめた闇ばかり。
冷たい空気に、遠く犬の遠吠えだけが響いていた。
教会の裏手。
レンガ造りの外壁の一部にできた亀裂の中、夜目でもわかるほど暗い影が五つ、静かに身を潜めていた。
「Team A, prepare to breach. No gunfire unless engaged.」
「Understood. Eyes on the north window. Thermal shows no movement.」
低い声が、ヘッドセット越しに交わされる。
英語での簡潔なやり取り。だが、その緊迫感は肌を刺すように伝わってくる。
「Go on my mark… 3… 2… 1… go.」
リーダーのカウントに合わせて、先頭の学生が手信号を送る。
仲間が即座に反応し、静かに、そして的確に身を起こした。
目星をつけていた亀裂の中、ひび割れた石を押しのけて内部へ――。
音一つ立てることなく、部隊は古びた礼拝堂の裏手へと侵入する。
空間は異様な静けさに包まれていた。
崩れた十字架、割れたステンドグラス、そして何より――死体。
「Contact?」
「Negative… but we’ve got visuals. Multiple bodies. Arrows. Medieval?」
床にはテロリストと思しき武装兵の死体が数体、無造作に転がっていた。
どれも銃を持ったままの姿勢で絶命しており、胸や喉、眼窩には鋭い矢が深々と突き刺さっていた。
「What the hell… Who uses bows nowadays?」
「Stay focused. This could be a trap.」
部隊のひとりが吐き捨てるように呟く。
だが誰も、立ち止まることはなかった。
「Clear the south hall. Stick to the plan. Move silent.」
音を立てぬよう、学生たちはそのまま死体の脇をすり抜け、教会の奥へと進んでいった。
呼吸を潜め、足音を消し、決められた通りに分隊行動を取りながら。
教会の中には、あまりに不自然な「静けさ」と「死」が広がっていた。
まるで誰かが先にここを――狩り尽くしたかのように。
教会の廊下を慎重に進み、空室や階段脇の部屋をそっと確認しながら、学生たちは礼拝堂へと近づいた。ステンドグラスの淡い光が、夜の闇を透かすように壁に模様を映し出している。
リーダー格の男子学生が、ひとり進もうとする仲間を静かに制した。
「Wait. Don’t go in yet.」
彼らは目配せで意思を確かめ合い、息を呑むようにして礼拝堂の入口に張り付いた。
扉の隙間から中を覗くと、ステンドグラス越しに差す光線が赤と紫に混ざり、古びた石床に濃い影を落としていた。光と闇が交錯するその空間には、いくつもの死体が転がっており、血の海が祭壇へと向かってゆるく波打っていた。
壁に沿ってひび割れた木製の長椅子、倒れた十字架、そして床には破れた聖書の断片。
ステンドグラスの色硝子が投げかける彩色の光が、血の中に反射して、まるで祈りの残滓をそのまま凝縮したような、異様に美しく、しかし凄惨な光景だった。
彩色ガラスの紋様が、赤や緑、青を混ぜながら、薄闇に淡い光を投げかけている。その光の中に引きずり込まれるかのように、学生たちは息を呑んだ。
色光が、室内の惨状を鮮やかに彩る。
床には、複数の死体が倒れていた。
血は茶褐色に乾き、衣服は裂け、中には白い肌を見せたまま光に晒されている者もいる。
何人もの武装兵たちが、矢に打たれ、銃を握ったまま絶命していた。
その死体が幾体も、隙間に、聖壇前に、祭壇横に――まるで時間が止まったかのように配置されていた。
光が、赤の血潮を通してガラスの彩りと混ざり合い、まるで絵画のような幻想を形成していた。
だが、その奥底には、痛ましい死の静寂が、骨まで震わせるほど強く沈んでいた。
誰かが息を詰めた。「My God…」と囁く声が、静寂の中で震える。彼らは互いに背を寄せ、動けずに立ち止まる。
――礼拝堂の中心、聖櫃に近い場所に、ひとりの少女がいた。
漆黒の黒髪が肩に垂れ、長くおさえられた前髪が顔を少し隠している。
血に染まった衣服。
その瞳は深く、無言を湛えてこちらを見つめていた。
少女は片手にクロスボウを抱えており、弦の残響か、矢を放った後の緊張が弓身に残っているようだった。
学生たちは、その姿を見た瞬間、息を止めた。
「Angel…」
誰かが、小さく呟いた。
その一言は、重く、静かに礼拝堂の空気に溶けた。
時が止まったように、生と死の境界が揺らぐその場。
学生たちの胸に、恐怖と畏怖、そして戸惑いが同時に渦巻いていた。