ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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カミカゼの断罪
旱天慈雨


「……天使。」

 

 新東京ポート中学・高等学校――

 都心の喧騒の中に佇む、ガラスと鋼鉄が交錯するような未来的な校舎。高層のメインビルからは湾岸の風が吹き抜け、生徒たちの制服の裾を揺らしていた。

 

 その静謐な廊下を、銀色の十字架のペンダントを胸元に揺らしながら、一人の黒髪の少女が歩いていた。

 長く艶やかな黒髪が背中で波を打ち、蒼白い肌と鋭い目つきが、その小柄な体躯とは裏腹に強烈な存在感を放つ。ジャケット代わりに羽織った黒いパーカーに、清潔感のある制服が、異様なまでの統制感を醸しているようにも感じる。

 

 その一言が、静かな廊下に響いた。

 

 少女は足を止める。呼びかけたのは、群衆の中でも一際目を引く長身の男子生徒だった。

 黒く長い髪を後ろで束ね、整った顔立ちと筋の通った制服姿。彼の視線は、鋭さの中にどこか慈悲を含んでいた。

 

 少女は振り返ると、その視線を一瞬で切り裂くような目で睨みつけた。

「気安く呼びかけてくんなよなぁ、大した用もないのに。」

 

 吐き捨てるように言い放つその声は、まるで冬の風のように冷たく、静かに、鋭く胸に突き刺さる。

 

 男子生徒は表情を変えず、低く語るように答える。

「教官達が君の勝手を許しているのは、君の腕に期待しているからだ。神に祈る前に、まずΣの隊員であることを忘れるな。」

 

 それに対して少女はニィッと笑みを浮かべ、だがその瞳孔は異様なまでに開いていた。

「あんまり私に逃げられっと、お上に何て言われるか解らないっすもんねぇ。」

 

 挑発的な言葉とともに、一歩前に踏み出す。

「まあそん時は、世怜女の鬼にでも頼めば良いんじゃないすか?あいつの方が私より強くて従順っすからねぇ。」

 

 唇の端を吊り上げて、毒を含んだ笑みを浮かべたまま、少女は男子生徒に背を向けてスタスタと去っていく。銀の十字架が微かに揺れ、音もなく廊下の奥に姿を消す。

 

 その様子を見ていた、隣にいた眼鏡の生徒が気まずそうに男子生徒の方を見ると、彼は肩をすくめて苦笑した。

「……腕だけは誰よりも良いんだけどな。」

 

 声は呆れと、ほんの少しの羨望、そして理解不能な何かへの諦めが滲んでいた。

 新東京ポート校において、彼女は――誰よりも遠く、近づきがたい「天使」だった。

 

 喧騒が街の隅々にまで染み込むように響き渡る。

 車のクラクションや人々の会話、歩道に鳴る革靴の音が無秩序に重なっていた。

 

 その中に、黒髪の少女の姿があった。

 

 新東京ポート高校の門を抜け、制服の上からリュックを背負いながら静かに歩く。手元のスマホにちらりと目を落とし、何かを確認すると、胸元にかかっていた銀の十字架のペンダントをゆっくりとシャツの中へしまい込んだ。その仕草には、どこか儀式めいた慎重さと、周囲の目を無意識に避けるような冷静さがあった。

 

 長い黒髪は整いすぎたように美しく、端正な顔立ちは街行く人の目を引くが、誰も声をかけようとはしない。

 少女の背中からは、何か――触れてはならない、近寄ってはならない、淡い毒のような空気が漂っていた。

 

 そんな彼女が、交差点をいくつか渡り、繁華街から外れた裏通りに入る。

 人通りがまばらになり、チェーンの飲食店や古びた建物が並ぶその先で、ひとつのファミリーレストランの前で足を止めた。

 

 自動ドアが開く。

 中は、外とは対照的に暖かく、照明の下では学生らしき若者たちが談笑していた。

 

 すると――

 

「らめ先輩〜!」

 奥のテーブルから手を振る少女の声。明るく、はっきりとした呼びかけに、店内の空気がふわりと和んだ。

 

 黒髪の少女は、その声に顔を上げると、先ほどまでの近寄りがたさが嘘のように崩れ去る。

「お待たせ〜! ごめん、待った〜!?」

 ぱっと笑顔が咲き、声のトーンは高く、朗らかに響く。

 まるで街の空気を脱ぎ捨てたかのように、肩の力が抜け、目尻が柔らかく下がる。さっきまでの冷たく張り詰めた雰囲気は、そこには一欠片も残っていなかった。

 

 彼女は、チグサのもとへ小走りで向かう。

 その姿は、どこにでもいる普通の高校生――いや、チグサにとってのらめ先輩、空星きらめとしての顔だった。

 

 そして、きらめは席に着きながら、あっという間に日常の会話へと混ざっていく。

 それはまるで、あの銀のペンダントと一緒に、もう一人の自分をシャツの中にしまい込んだかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――世怜音女学院・東校舎。

 

 かつて放送部が使っていたが、今ではほとんど人の出入りもない古い小さな放送室。

 

 色褪せた木の扉には「放送室」の教室札が掛かっているが、その上から無造作に貼られた裏紙には、走り書きで「演劇同好会 仮教室」と記されていた。インクは少しかすれ、安っぽさと場違いな熱意を同時に漂わせている。

 

 中に入ると、埃をかぶったミキサー卓や、ガラス越しの録音ブースが静かに眠っていた。

 その中央、折り畳み椅子に腰掛けているのは――囚人服姿の周央サンゴ。

 眼鏡の奥の目を垂らし、膝の上に広げた台本を読み上げるように視線を落としていた。

 

 対して、奥のソファには西園チグサ。

 お菓子の袋を片手に、足を投げ出して寝転がり、スマホの画面を親指で器用にスクロールしている。ときどき口にポイっとスナックを放り込み、咀嚼音だけが小さな部屋に響いた。

 

 その音にサンゴはちらりと顔を上げ、眼鏡の位置を直す。

 台本を閉じると、わずかに眉をひそめて、呆れたように問いかけた。

 

 「……やる気あるの?」

 

 囚人服姿の少女の冷ややかな視線に、チグサは一瞬だけスマホから目を離し、頬にスナックを詰め込んだまま曖昧に笑った。

 

 サンゴは台本を閉じ、ため息をひとつついた。

 「せっかく、いろんな人の助けも借りて、なんとか部室を間借りできてるんだから……真剣に練習しないと、意味ないでしょ」

 

 囚人服姿のまま冷静に言い放つサンゴの声には、呆れと諦めが半分混じっている。

 

 チグサはソファに寝転がったまま、肩をすくめてスナックを口に放り込みながら答えた。

 「えー?でもさ、せっかく部室って場所ができたんだし……こうやってソファでごろーんとくつろぐのも、なんか部活っぽいじゃん?」

 スマホの画面をタップしながら、のんきな笑顔を浮かべている。

 

 サンゴはじっとその姿を見つめ、眼鏡の奥の目を細める。

 「……どうせ、あの自主練だってさ。例の“らめ先輩”と遊んでただけなんでしょ?」

 

 チグサの指がぴたりと止まる。

 「……」

 

 サンゴはわずかに視線を落とし、ぼそりと呟いた。

 「先輩やチグちゃんの悲願って、こんなことだったの?」

 

 その言葉に、チグサは反射的に窓の外へと目を逸らした。

 夕陽が差し込むガラスの向こうに、どこか落ち着かない視線を泳がせる。

 

 そして、ひと呼吸置いて――小さな声で答えた。

 「……わかったよ……」

 

 そう言うと、ソファから体を起こし、真面目に腰掛け直した。

 彼女の手からスマホが静かに離れ、机の上に置かれる音だけが、放送室の空気に響いた。

 

 チグサが「……わかったよ」と言って台本に手を伸ばそうとしたそのとき。

 

 ――コンコン。

 

 放送室の古びた扉を叩く軽快な音が響いた。

 

 「……あれ?」

 チグサが顔を上げる。

 「そういえば今日……誰か来るって言ってたっけ?」

 

 スマホを机に置いたまま立ち上がり、扉に近づく。

 ギィ、と蝶番が軋む音とともに扉を開けると――

 

 そこには、東校舎の制服を着た女子生徒が立っていた。

 顔を真っ赤にし、落ち着きなく視線を泳がせながら、両手に抱えた小箱を差し出す。

 

 「あ、あのっ……こ、これ……コハク様に……!」

 

 押しつけるように渡されたのは、リボンで飾られた高そうなチョコレート。

 チグサは目を瞬かせながら、反射的にそれを受け取った。

 

 「えっ、えっと……?」

 

 説明を聞く間もなく、女子生徒は「す、すみませんっ!」と叫ぶように言い残し、踵を返して走り去っていく。

 廊下の向こうからは、すぐに複数の黄色い悲鳴が響き渡った。

 

 「キャーッ!」「見た!?今の!」

 

 にぎやかな歓声が遠ざかる中、チグサはチョコレートの箱を両手に抱えたまま、口を半開きにして唖然と立ち尽くした。

 そしてゆっくりと扉を閉め、背中を預けるようにして振り返る。

 

 「……な、なにこれ……」

 

 チグサはまだチョコレートを抱えたまま、扉の前で呆然としていた。

 そしてぽつりとつぶやく。

 

 「……コハックって、何者なの?」

 

 サンゴは台本を机に置き、眼鏡の奥の視線を細める。

 「……しばらくは、コハちゃん関連の訪問ばっかりになりそうだね」

 どこか遠い目をして言い放つその声音は、諦めとも達観ともつかない響きを帯びていた。

 

 「そ、そんなことないでしょ……」

 チグサは慌てて言い返そうとするが、言葉が続かず、声はしぼんでいく。

 

 ――コンコン。

 

 再び扉を叩く音。

 

 チグサが半ば反射的に扉を開けると、今度は眼鏡をかけた真面目そうな女子生徒が立っていた。

 きちんと背筋を伸ばし、両手に挟んだファイルを差し出す。

 

 「こ、今回の作戦の指南……是非、コハク様にお願いしたくて……!」

 

 有無を言わせぬ勢いに押され、チグサは戸惑いながらも書類を受け取ってしまう。

 「えっ、えっと……」

 

 しかし次の瞬間、サンゴがすっと立ち上がり、チグサの手からその書類を素早く回収した。

 

 「チグちゃん、西の生徒だから、こういうの渡さないでね」

 冷ややかな声音でそう告げ、代わりに自分が書類を抱える。

 「僕から渡しておくよ」

 

 そう言い切ると、サンゴは扉を閉め、ノブに手を添えたまましばらく無言で立ち尽くした。

 廊下の向こうに消えていく足音が遠ざかると、放送室には重たい沈黙が落ちる。

 

 「なんか……コハックの意見箱みたいになってる……」

 チグサはぼやきながら放送室に戻り、ソファに身を沈める。

 

 ――コンコン。

 

 またもやノックの音。

 チグサは天井を仰ぎ、完全に諦めたような声で言った。

 「はいはい、どうせコハックの専用窓口ですよ〜」

 

 そう言いながら扉を開けると――

 そこに立っていたのは、制服ではなく私服姿の栞葉だった。

 

 「……あっ」

 チグサは姿勢を正し、慌てて頭を下げる。

 「す、すみません……」

 

 おずおずと中に通し、振り返ってサンゴに驚いた表情を向ける。

 「ほんとに……呼んでくれたんだね」

 

 栞葉はため息をつきながら室内に入り、肩をすくめてぼやいた。

 「なんで学生に頼まれて学校入るだけで、あんな厳重に監視されなきゃならないんだ……」

 東校舎の監視カメラや専用のゲートを通れず検問を受けたことを思い出し、苛立ったように髪をかき上げる。

 

 そのままサンゴの隣に腰を下ろすと、彼女は眼鏡の奥で真剣な目を向けた。

 「半年前に“取調室のお芝居”の練習をしたんだけど……なんかしっくりこなくてね」

 

 理由を淡々と告げるサンゴに、栞葉は呆れたように眉をひそめ、小声で突っ込む。

 「……別にそれで本業の人間呼ばなくても……」

 「てか、それ言うなら、そもそも取調室って私服で受けるもんだし……」

 

 最後の言葉はぼそりとした愚痴のようで、チグサは聞き取って目を瞬かせ、サンゴは小さく肩をすくめた。

 

 栞葉は椅子を引き、サンゴの正面に座った。

 机を挟んで向き合うと、彼女は少し肩を落として、緊張をほぐすように息をついた。

 

 「でもさ――」

 栞葉はちらりとチグサに視線をやり、軽く笑ってみせる。

 「サンゴちゃんなら、たとえ罪を犯しても……ちゃんと取調には応じると思うけどね。頭もいいし、素直に答えた方がいいことくらい、分かってるでしょ?」

 

 その楽観的な声に、チグサは慌てて身を乗り出し、こっそり囁く。

 「そ、そういうことじゃないんですよ……」

 「別人みたいになっちゃって……なんか、すごいやりづらい感じになるんですよ……」

 

 栞葉は目を瞬かせ、少し間を置いてから小さく笑い、肩をすくめる。

 「……まあ、確かにそうじゃないと練習にならないもんね」

 

 そう言いながら、改めてサンゴの方へ向き直る。

 眼鏡越しにこちらをじっと見つめるサンゴは、既に淡々とした冷徹な雰囲気を漂わせ始めていた。

 

 栞葉は部屋の隅――機材ラック横の小さな衣装ケースを開け、ビニール袋に入ったロープと玩具の手錠を取り出した。

 

 「腰縄は前で結んで、手錠は軽くするね。痛かったら言ってね」

 

 サンゴが短くうなずく。

 

 栞葉はサンゴに向かい、まず上体を前気味に座らせると、制服の上から腰の位置にロープを回す。結び目は横にずらし、指二本が入る余裕を確かめてから、前で軽く一結び。続けて玩具の手錠を両手前方で「カチ、カチ」と留める。

 

 「痛くない? 痺れも無し」

 サンゴは小さく首を振り、次の瞬間、か弱い少女の声色に切り替えた。

 「……わ、私……どこに連れて行かれるんですか……?」

 

 栞葉はその問いに、まず両膝を机の下に入れず斜めに座って距離を保ち、柔らかく手のひらを見せた。

 

 「ここは“相談室”。いきなりどこかに連れていったりはしないよ。深呼吸できる?」

 サンゴがこくりと頷く。栞葉はコップの水を差し出し、声を落として続ける。

 

 「震え、息苦しさ、痛いところはある? もし途中で辛くなったら右手を少し上げて合図して。すぐ休憩にするから」

 

 「周央さん、あなたには話さない自由があること、弁護士に相談できること、体調不良のときは中断できることを説明します。わからない言葉はその場で聞いてね」

 

 サンゴはおずおずと「はい……」と返し、視線はなお揺れている。

 

 栞葉は机の上に白紙のタイムライン用紙と、丸い“気持ちシール”を置いた。

 

 「まずは昨日の放課後から“思い出せる順で”話してみて。ぜんぶじゃなくていい。『~かもしれない』でOK。私からは誘導しないようにするね」

 サンゴは胸元で小さく呼吸を整え、震える声で語り出す。

 「えっと……帰り道に、先輩と会って……あの……“やめよう”って言ったんですけど……」

 

 「うん、ここに“先輩と会った”と書くね。場所は? 明るさ、人通り、音……思い出せるものを順番じゃなくポンポンで大丈夫」

 「薄暗くて……踏切の音がしてました」

 「ありがとう。じゃあ“踏切の音(カンカン)”“薄暗い”――ここに『怖』のシール貼ってみようか。その場面を思い出すと、今のサンゴの体はどこが固くなる?」

 「……喉と、指先」

 「今は机の角に手を置いて、指に重さを乗せないで。息は“4で吸って6で吐く”。……そう、そのまま続けよっか」

 

 自由叙述が一段落すると、栞葉は確認に移る。

 

 「いま出てきた“踏切”“先輩”“やめようと言った”――この三つは周央さんの言葉で合ってるね? 私が勝手に足したことはない?」

 「……ないです」

 「OK。少し休憩。水、目薬、手を温めるもの要る?」

 「だいじょうぶ……です」

 

 再開。栞葉は証拠“らしき”ものの提示を模擬する。

 「ここに“防犯カメラの静止画役”があります。周央さんには“ここに立ってた気がする”って言ったね。写真を見て“違う”“覚えてない”も立派な答え。どう思う?」

 

 サンゴは首を傾げ、かすれ声で「……わかりません」と言う。

 

 「わからない、と記録します。いい返事だよ」

 

 終盤、栞葉は“動機”に触れず、被害や危険性の理解だけを確認した。

 「周央さんが“やめよう”と言ったのは、誰かが傷つくかもしれないと“思ったから”で合ってる?」

 「……はい」

 「ありがと。じゃあ、私が今読み上げるメモに、サンゴが“違う”と思ったら止めて直してね」

 栞葉は読み聞かせ、サンゴが二か所だけ言い回しを直す。

 

 「確認おわり。ここに今日の“練習用メモ”としてサインしてくれる?」

 

 サンゴは玩具の手錠を外され、細い指で“周央”と書いた。

 

 椅子から離れた瞬間――サンゴの表情がふっと戻る。

 チグサが肩を落として大きく息を吐いた。

 「……前もそうだけど、ンゴのいじわる! こんな囚人いないよ……」

 栞葉は即座に首を振る。

 

 「そうでもない。少年犯罪は、特に“自分がしたことの重大性”がまだ掴めない子が多いからね。怖さで固まって“わからない”“覚えてない”になるのは普通。今みたいに、体調の確認、権利の説明、誘導しない質問、読み聞かせ確認――全部が“守るため”の手順」

 

 チグサが目を丸くすると、栞葉は穏やかに続けた。

 

 「サンゴみたいな小さい子を、ちゃんと家庭裁判所で裁くにも、警察の少年係や女性警察官、児童心理の専門家、家庭裁判所調査官、弁護士や付添人、場合によっては児相――いろんな専門職の協力が要るんだよ。ひとりでやっちゃダメな領域もあるからね」

 

 サンゴは囚人服の裾を整え、眼鏡を押し上げた。

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