「……ねえ、ヒスピ」
袋を閉じながら、チグサがふと顔を上げる。
「何の話をしてたの?」
ヒスイは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに表情を整え、肩をすくめてみせた。
「んー……まあ、コハックみたいに優秀な子が他の学校にもいてさ。ちょっとその子が気になるって話」
それ以上は言えない。さっき聞いた“天使”のことを、無邪気なチグサにそのまま伝えるわけにはいかなかった。
「へぇ……」チグサは特に深く考えずに相槌を打ち、ふと思い出したように声を弾ませる。
「あ、私、新東京なら友達いるから聞いてみよっか?」
「……え?」
ヒスイは思わず目を瞬かせた。
新東京ポート――Σ(シグマ)の訓練校。
東西で分かれている世怜女とは違い、一般入試など存在しない。身寄りのなく、戦うしかない兵士たちしか入れない閉鎖的な場所だ。
「……どっかの高校と間違えてない?」
ヒスイは慎重に声を落とした。
「外の生徒が、気軽に友達作れるような場所じゃないと思うけど……」
だがチグサはケロリとした顔で、首を横に振る。
「いやいや、一人いるよ? 確かに学校には入ったことないけど……水色のネクタイとグレーのベストのとこだよね?」
ヒスイの表情が固まる。
――特徴は、間違っていない。
(……まあ、Σの訓練校にしては、意外と自由な場所って話も聞くしな)
ヒスイは心の中で苦く呟いた。
だが同時に、疑念も胸をよぎる。
(西の普通の生徒であるチグサが、なんでそんな子と……? それに、民間人にこれ以上首を突っ込ませるのも……)
逡巡のあと、ヒスイは静かに息を吐き、チグサに微笑みかけた。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん、任せて!」
チグサはにかっと笑い、あっけらかんと頷いた。
その笑顔を見て、ヒスイはわずかに視線を逸らす。
――チグサはあくまで民間人だ。
軽口の裏で、彼女を危険に近づけてしまうのではないかという不安が、ヒスイの胸に重く残っていた。
夕暮れが迫り、窓から差す光も赤みを帯びていた。
チグサとサンゴが「また明日ね」と手を振って去った後、部室にはヒスイと、入れ替わるようにやって来たコハクの二人が残っていた。
机を挟んで向かい合うと、ヒスイはしばらく言い淀んだ末に口を開いた。
「……コハク、“天使”のこと、知ってる?」
その名を出した瞬間、コハクの表情は暗く陰った。
「またその話するんだ……」
深く息を吐き、目を伏せる。
「……“天使”はね。基本的に誰にも属さない。決まった居場所を持たない……そんなイメージがあるよ」
ヒスイは腕を組み、視線を落としたまま呟いた。
「……私が、彼女と同郷だから」
「それでちょっとだけ……彼女が何を感じて、どう生きてきたのかに興味があるんだ」
その言葉に、コハクは顔を上げ、鋭い目でヒスイを見据えた。
「……それは嫉妬じゃない?」
ヒスイの肩がわずかに揺れる。
「自分と同じ境遇で生きてきたからって、実力に差があることを憂う必要はないと思う」
コハクの声には、珍しく優しさが滲んでいた。
「ヒスピにはヒスピの良いところがあるし……忍者みたいなことは、天使にはできない」
ヒスイは小さく笑みを浮かべ、首を横に振った。
「……分かってる。でもね、天使への印象で……恐怖以外の感情は東校舎からは出てこないんだ。……それは、私も同じ」
言葉を切り、机に肘をついて続ける。
「それでも……葉加瀬さんは、彼女に会いたがっていた」
コハクは即座に否定するように手を振った。
「あの子は、あくまで“見たい”ってだけでしょ。そこまで意味はないと思う」
「昔の同級生の“今”を見てみたい……ただの気分だよ。それ以上の意味はないって」
ヒスイはその説明に耳を傾けながらも、窓の外の赤い空に視線を漂わせた。
「……今も一人でいるのかな」
繁華街の一角にある小さなハンバーガー屋。
地下に降りると、薄暗いランプの光に包まれたテーブル席が並んでいた。
客足はまばらで、ポテトと油の匂いがほのかに漂う。
その奥まった一角で――チグサと素の性格のきらめが、紙袋を抱えて向かい合っていた。
「じゃーん!持ってきたよ!」
「うわっ、私もめっちゃ持ってきた〜!」
机の上に次々と積み上がる同人誌の束。
開けばすぐに笑い声が弾け、二人はページを指差しながら、あまり周囲に迷惑がかからない程度に盛り上がっていた。
その横では――サンゴがストローでシェイクをちゅう、と吸いながら、つまらなさそうに一冊をぱらぱらとめくっている。
やがて眉をひそめ、眼鏡を指で持ち上げた。
「……確かに、最近は“多様性の時代”とは言うけど……」
ページに描かれた、男性同士のかなり近しい距離での恋愛表現に目を止める。
「これはちょっと刺激が強すぎる……。例え男女の恋愛でも、ここまでのものはあんまり見ないよ……?」
その呟きに、きらめが顔を覗き込みながら、真剣な目で語りかけてくる。
「男同士だからできることもあるんだよ……」
サンゴはぎょっとしてページを閉じかけるが、きらめはさらに顔を近づけ、囁くように続ける。
「結構、作者さんごとに癖が違うんだよ……こう、例えば――近親でとか!」
「……近親!?親とするのかい……!?」
サンゴは思わず息を飲み、椅子をきしませながらきらめを引いた目で見つめた。
隣ではチグサがポテトを口に放り込みながら、のんきにと笑っている。
サンゴは再び同人誌を机に伏せ、片手で眼鏡を押し上げながら心の中で呟いた。
……何しに来たか忘れそう……
だが隣で楽しそうに笑うきらめの姿を眺めると、ふと口を開いた。
「……君が、“らめ先輩”だよね」
きらめは頬にかかった前髪を指先で払いながら、肩をすくめる。
「私の方が二つくらい年下だけどね」
チグサはポテトを口に放り込みながら、にへらと笑って補足する。
「当時はお互いにあんまり友達もいなくてさ。何だか二人で戯れあってたら、仲良くなってたんだよね〜」
「らめ先輩も世怜女に用事があること、そこそこあるらしくて……この辺でこうしてじゃれてるんだ」
サンゴは肘をつき、腕を組みながらその話を黙って聞いていた。
そして――眼鏡の奥で視線を細め、冷ややかに告げる。
「正直に言うと、私は“監視”に来た」
チグサが「えっ?」と声を詰まらせる間もなく、サンゴは続ける。
「絶対チグちゃん、“自主練”って言いながら、らめ先輩と遊んでるでしょ」
その一言に、チグサは肩をびくりと震わせた。
「っ……!」
きらめは涼しい顔で、ストローを咥えながらスラリと答える。
「まあ、それは確かにそうだね」
「らめ先輩〜!!!」
チグサはわざとらしくテーブルに突っ伏し、きらめの腕に抱きつく。
「この裏切り者〜!」
きらめは困ったように笑いながらも、そのままチグサの頭を軽くぽんぽんと撫でた。
ポテトの袋が半分空になった頃、サンゴはふと、きらめに向き直った。
「そういえば――演劇同好会に、新しく部室ができたんだよ」
きらめは目を丸くし、ぱっと表情を明るくする。
「へぇ〜!ついにできたんだ!」
嬉しそうに身を乗り出し、その反応はまるで自分のことのように喜んでいるようだった。
だがサンゴは、言いよどみながら付け加えた。
「でも……僕たちが使ってる場所じゃなくて、その……あんまり出入りしない場所にあるんだよね」
言葉を探し、指先でストローをいじる。
「なんていうか……柵の向こう側にある……」
それを聞いたきらめは、すぐに察したように頷いた。
「あー……じゃあ、あんまり遊びに行けそうにないね」
声色は軽やかだったが、その即答ぶりには妙な影が差していた。
サンゴは思わず目を瞬かせる。
(……柵の向こう、ってだけで理解できるのか……? 東校舎の事情も、ある程度は知ってる……?)
彼女の情報力に、不意に背筋が冷たくなるのを感じた。
しかしチグサは、そんな空気にも気づかず、勢いよく身を乗り出して笑顔で言った。
「大丈夫だよ!私たちも今は入れてるし、きっと許してもらえるよ!」
その言葉に、きらめはにっこりと笑みを浮かべ――次の瞬間には、きっぱりと切り捨てるように声を落とした。
「それはチグサちゃんが“世怜女”の生徒だからだよ」
チグサの肩に軽く手を置き、目を細めて微笑む。
「私に変な気使わなくていいからさ。ね?」
その声音は優しく響いたが、どこか境界線を引くような硬さがあった。
きらめはそのまま肩をぽんぽんと叩き、視線をスマホに落とす。
モバイルオーダーの画面を指先で滑らせながら、もう話題を切り替えたという態度を示す。
ハンバーガー屋の薄暗い地下で、ポテトの袋や同人誌の山に囲まれながらも――
きらめの世怜音女学院との距離感だけは、誰も触れられないほど固く閉ざされていた。
きらめはスマホの画面に視線を落とし、指先で軽快にスクロールしていた。
表情は明るいが、どこか「話はここまで」と切り上げるような雰囲気を漂わせている。
その様子を横目で見ながら、サンゴは肘をついて腕を組み、無言で考え込んだ。
結構、こう見えて真面目な子なのかなぁ。
そんな思いがふとよぎる。東校舎に入ってはいけないのは西校舎の鉄則だ。真面目な子であれば、招かれてもいないのに東校舎に入るのは野次馬同然で、確かにあまりいい気はしない。
しかし、それはあくまで理由もなく――ということであって、本校の東校舎を使っている生徒に誘われていれば話は別だろう。
となれば、考えられるのは……
……まさか、世怜女を避けてる……?
そんな思いもよぎってくる。思い出されるのは、学費云々で揉めていた世怜女の教師たち。
「養護施設」だからと言って、それを校風の乖離からあまり良く思っていなかったり、逆に踏み入ることは心理的瑕疵を要することもあるだろう。
あるいは、そんなに会いたくない人が、世怜女にいるのか……?けれども、きらめの横顔は何もなかったように自然で、ただの雑談を終えた後のようにしか見えない。
だが――どうしても、その「線を引いた」感じがサンゴの胸に引っかかっていた。
スマホを操作する姿をしばらく黙って見つめていると、心の奥にまた別の考えが浮かんだ。
もしかして、“世怜女で私たちと会うのを避けてる”……?
「会いたくない人がいる」よりも、「会いたくない理由がある」――そんな可能性。
何か……世怜女で、私たちと顔を合わせたくない理由でもあるのか……?
考え込むうちに、サンゴの脳裏に一つの記憶が重なった。
――自分がヒスイやチグサを家に呼んだときのこと。
《お母さんが……なんだって?》
普段は取り繕っている“自分”が家庭ではその仮面を外しているため、本来の性格や素行が露わになってしまった、あの瞬間。
目の前のきらめの姿に、その時の自分を重ね合わせてしまう。
(……もしかして……?)
だがすぐに、サンゴは首を横に振った。
いや……違う。“演じる意味”なんてそもそもあるのか?
僕やスピちゃんのように、特に何か危ない仕事をしているわけでもない。ごく普通の中学生だ。
本来の自分と違う自分を演じてまで、一体周囲の何を恐れているんだ?そして世怜女には、それを捨ててまで安心できる人がいるとでもいうのか?
そんなことをするメリット……らめ先輩には、ないはずだ。
そんなぶっ飛んだ推測で動くのは…あまりにも彼女に失礼だ。
しかし、確かめないわけには…
何が正しいかなど、解らない。とりあえず、できることはやってみよう。
胸の奥に巣くう違和感を必死に打ち消すように、サンゴは眼鏡を外した。
すると、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、声色まで呑気な調子に戻る。
「あ!チグちゃん、ンゴお腹空いたから、そろそろ帰るね〜」
急にいつもの調子へと切り替えられ、チグサは目を丸くした。
「ちょ、ちょっと!いいの!?ここ、らめ先輩も……」
だがサンゴは気にも留めない様子で、肩にカバンをかけて笑う。
「そろそろお母さンゴに怒られちゃうんだよ〜……だから、らめ先輩もまたね〜」
声は軽やかだったが、どこか名残惜しそうに視線をきらめに向け、ひらひらと手を振る。
「あ、うん……またね〜……」
チグサは慌ててその背を見送り、振り返ったきらめは訝しげに眉をひそめた。
「……何、今の……」
問い詰められたチグサは、引きつった笑みを浮かべながら、あははと誤魔化すしかなかった。
サンゴは軽快な足取りで階段を上がっていく。
明るい笑顔のまま――ただ、一瞬だけ、振り返る瞳に鋭い光が宿る。
きらめを真っ直ぐ射抜くような“元の目つき”を覗かせ、
すぐにまた無邪気な笑みに戻った。
階段を上り切ると、ちょうど地下に降りてきた客たちと鉢合わせる。
サンゴは手を振りながら朗らかに声をかけた。
「ごめんなさーい!ンゴ上がりたいので開けてくださーい!」
人々が道を空けると、そのまま明るい調子で地上へと姿を消していく。
ハンバーガー屋を出てから、サンゴは商店街の灯りを背にして歩き出した。
夜が深まり、通りを行き交う人影もまばらだ。
ガラス張りの店先から漏れるネオンの明かりが、眼鏡の縁にちらちらと映り込む。
革靴のかかとが、アスファルトを叩くたびに小さな音を響かせる。
自分でも気づかぬうちに吐息が長く伸び、胸の奥で少しずつ呼吸が乱れていった。
駅前を抜けると、灯りは途切れ、住宅街の静けさに包まれる。
薄暗い街灯の下、道端の自販機が低く唸る音だけが耳に残った。
背中のカバンが微かに揺れ、肩に食い込む重さが一層息を苦しくさせる。
やがて、古びたビルの前に立つ。
外壁はところどころひび割れ、窓の枠には錆が滲んでいた。
サンゴは躊躇わず中へ入り、階段を踏みしめて上がっていく。
――ギシッ。
古いコンクリート階段が足音に応える。
段を登るたび、胸が上下し、息が熱を帯びて喉を擦る。
それでも足を止めることなく、一歩、また一歩と積み重ねていった。
手すりに触れる指先は、冷たい鉄の感触を確かめながらも力強い。
足音と呼吸が、狭い階段の壁に反響して自分を追い立てる。
――そして、最後の踊り場を抜け、鉄の扉を押し開ける。
夜風が一気に吹き込み、乱れた呼吸をさらに冷たく刺す。
サンゴは屋上に出て、柵に手をかけながら眼下の街並みを見下ろした。
遠くの街灯や車のヘッドライトが、夜の川面のように散りばめられている。
「……これで何かがわかるとは思ってないけど……」
かすれた声で呟き、乱れた呼吸を押し出すように、長く息を吐いた。