ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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吃驚仰天

 翌日。

 

 窓から射す陽光に照らされ、井ノ原の準備室は相変わらず散らかっていた。

 机の上には書類の山、床には未整理の箱やケーブルが転がり、整然という言葉からは程遠い。

 

 その様子を、きらめはソファにだらりと身を沈めながら眺めていた。

 頬杖をつき、気のない声でつぶやく。

 

 「……やっぱり、井ノ原教官の部屋って散らかってるんすねぇ〜」

 

 井ノ原は山積みの書類を片手で崩し、もう片方で器用にファイルを差し込んでいく。

 顔は動かさず、声だけ返す。

 

 「人間は生きてるから必要があって汚すんだよ」

 そして口元をわずかに歪め、皮肉を滲ませる。

 「……お前達からご先祖様が奪った“智恵の実”のおかげでな」

 

 きらめの瞳が一瞬、鋭く光った。

 ソファから少し身を乗り出し、唇を吊り上げる。

 「じゃ、荒木少佐も人間じゃないかも知れないっすねぇ」

 

 挑発的な声音。

 瞳孔が開き、淡々とした調子の中に“異様な圧”が混ざる。

 ただ言葉を投げただけなのに、部屋の空気がわずかに冷え込んだ。

 

 井ノ原はしかし、横目でちらりときらめを見ただけだった。

 表情を変えず、淡々と箱を棚に押し込みながら、乾いた声で答える。

 「あいつの言うことは九割嘘だから、信用しない方がいいぞ」

 「所詮は根が悪党だからな」

 

 その軽さは、目の前に潜む“裁きの天使”の異質さをものともしていない。

 きらめの眼差しは鋭く、それを測るように井ノ原の背中を追っていた。

 

 ――しばらくして、井ノ原が書類を机に揃え、ふと話題を切り替える。

 「……今度の模擬戦のプログラム、新東京の教官から聞いたか?」

 

 きらめの表情が変わる。

 口元は笑みを浮かべながら、瞳孔は不自然に開いていく。

 その光景は、まるで獲物を見つけた捕食者のものだった。

 

 「ここで暴れても良いってことっすよね?」

 

 ソファから身を起こし、指先を軽く弾く。

 「まあ……アウェイになるのは、頂けないっすけど」

 そして一拍置き、低く囁いた。

 「鬼をこの手で倒せるなら、それも悪くないっすかねぇ」

 

 その声色は甘く、けれど冷たい刃を含んでいた。

 同じ空間にいるだけで、肌の下を冷気が走るような感覚を与える。

 

 井ノ原はため息を一つつき、手を止めて背凭れに寄りかかった。

 きらめの気配を受け止めながらも、いつもと変わらない調子で言う。

 「……お前に見合う相手なら、鬼くらいは出さないとな」

 

 まるで“当然のこと”として言い切る。

 その余裕と飄々とした態度が、逆にきらめの異様さを際立たせていた。

 

 きらめはソファの背もたれに深く沈み込み、わざとらしく足を組み直した。

 「……まあ、仕事のことばっかりだと飽きるんで。教官にクイズ出してあげますよ」

 

 井ノ原は片眉を上げ、ちらりと視線だけ向けた。

 「……クイズ?」

 

 「そうっす」

 きらめは楽しげに口角を上げるが、瞳は笑っていなかった。

 「――とある小学校で、子供がいじめに遭ってたんですよ。その子、結局死んじゃった」

 

 井ノ原の手が一瞬だけ止まる。

 きらめはさらに声を落とす。

 「で、その後に警察が子供達に聞き取りをしたら、全員が『そんなこと知らなかった』って答えたんです」

 

 「……ふむ」

 井ノ原は腕を組み、考える素振りを見せた。

 「単純に、子供達はいじめっ子からの報復が怖くて、告白できなかったんじゃないのか?」

 

 きらめは首を横に振り、わざとらしくため息をついた。

 「どうもそうじゃないんすよ」

 「その子が“いじめで自死した”って話を聞いた瞬間――子供達は全員、ひどく驚いて大騒ぎになったらしいです」

 

 井ノ原は机に肘をつき、唇に手を当てて沈黙した。その表情を眺めながら、きらめはすっと立ち上がる。

 

 「……本当に分からないなら、普段は話を聞かないような人に聞いてみるといいかもしれませんね」

 

 それだけ言い残し、背を向ける。

 「じゃ、教官。お片付け、頑張ってください」

 

 

 

 

 

 

 放課後の教室。

 窓から差し込む光がオレンジ色に傾き、机の影を長く落としていた。

 

 ヒスイは腕を組み、机に頬杖をついたまま難しい顔をしている。

 その様子に気づいたコハクが椅子を引き寄せて、首をかしげた。

 

 「……何について悩んでるの?」

 

 ヒスイは少し間を置いてから、井ノ原から聞いたあの問題を説明した。

 小学校でのいじめ、自死した子供、そして――誰一人としてそれを知らなかったと語った同級生達。

 

 コハクは真剣に聞き、しばらく考えてから口を開いた。

 「最近だと、いじめって学校だけじゃなくて、インターネットでも起きるから……そういう類いなんじゃない?」

 

 だがヒスイはすぐに首を横に振った。

 「事件が起きたのは十数年前。まだインターネットが普及していない時代だ」

 それに、と付け足す。

 「学校では色々あって、特にその時期は先生達がいじめに目を光らせていた最中だったらしい」

 

 「……じゃあ、学校以外だね」

 コハクは顎に手を当てて考え込む。

 「塾とか、児童館とか……そういう場所でのいじめなら?」

 

 ヒスイは視線を伏せ、即座に否定した。

 「……その子はかなり外交的だった。塾なんてまず行かないし、児童館では必ず取り巻きの同級生と一緒にはしゃいでたらしい」

 

 コハクは小さく唸る。

 「外交的で……常に周りに人がいた子……」

 そして、首を横に振った。

 「そういう子がいじめられてた、なんて……中々考えにくいよね」

 

 教室に静かな間が落ちる。

 夕陽に染まった窓ガラスの向こう、ヒスイの目はどこか遠くを見つめていた。

 

 コハクはちらりと窓の外を見上げた。

 空はすでに群青色に傾き、街の灯りがひとつ、またひとつと瞬き始めている。

 

 「……でもさ、外交的な子だからこその悩みや苦しみもあったのかもしれない」

 独り言のように、けれど確信めいた声で呟く。

 「それこそが、この問いの“真髄”なのかもしれないよ」

 

 ヒスイはその言葉に目を細め、問い返した。

 「外交的な子っていう側面と、いじめっていう真反対とも思える側面……それが鍵ってこと?」

 

 コハクはこくりと頷く。

 「そうかもしれない」

 

 机の上に指先でリズムを刻みながら、しばし考え込む。

 しかし次の瞬間、眉をしかめて嫌そうに息を吐いた。

 

 「……でも、これ出してきたのって“あの天使”なんだよね」

 

 言葉の端に露骨な苛立ちが滲む。

 「こんなの考えて……意味なんてあるんだろうか……」

 

 ヒスイは返す言葉を探しながらも、胸の奥に同じ疑念が芽生えているのを否定できなかった。

 

 コハクが用事で教室を出て行き、静寂が戻る。

 ヒスイは机に肘をつき、井ノ原からの問いを反芻していた。

 (……外交的だからこそ、いじめに気づかれなかった……? いや、でも――)

 

 そのとき、不意に頭上から声が降ってきた。

 

 「やっぱり“鬼”でも、分かんないこととかあるんすねぇ」

 

 はっとして顔を上げると、きらめが机の上に腰を下ろしていた。

 足をぶらつかせ、軽く身を傾けてこちらを見下ろしている。

 

 「……天使……」

 ヒスイは驚きに目を見開き、その存在感に引き寄せられるように一歩踏み出した。

 

 だが、一定の距離まで近づくと、きらめは手を軽く上げて制した。

 「――あんま近寄らないでもらえます?」

 

 冷ややかに、線を引くような声音。

 その一言で、ヒスイの足は止まった。

 

 きらめは視線を外し、ふと呟く。

 「ヴァルテス、行ってきたみたいっすねぇ」

 

 ヒスイは無言のまま、きらめを見つめている。

 沈黙を肯定と受け取ったのか、きらめはさらに続けた。

 「もうすぐ取り壊されるって話じゃないすか。……あんな場所でも、私達の“故郷”っすからねぇ」

 

 冬の冷たい風が、開け放たれた窓から流れ込み、教室の空気を震わせた。

 その風に揺れるきらめの黒髪は光を反射し、輪郭の美しさを際立たせる。

 横顔の線は澄み切っていて、ヒスイは胸の奥でふと――(本当に“天使”みたいな人だな)と感じた。

 

 だがその思考を断ち切るように、きらめは唐突に視線を戻す。

 その瞳は、冷たくも澄み切った光を帯びていた。

 

 「――星川サラの一件、覚えてるっすか?」

 

 ヒスイが息を吸うよりも早く、きらめは言葉を続けた。

 「――あの事件の背景にはね、ヴァルテスとシヴィルト、二つの人身売買施設が絡んでたんすよ」

 

 その声音は穏やかだったが、内容は重く、空気を一瞬で張り詰めさせる。

 「で、どうやら――あの時使われてた薬の“改良品”を作ろうとしてる連中がいるみたいなんすよねぇ」

 

 きらめは机の上から軽く飛び降り、ヒスイの目前まで詰め寄った。

 瞳の奥に宿る光が、まるで何かを見透かすように冷たい。

 「その名も――“神化薬”。」

 

 語る声が次第に強まり、ヒスイを見上げながら一語一語を刻む。

 「遥か昔、マヤ文明に記されていた“神の人格”を宿らせるための儀式。

 人間を――“リセット”する薬っす」

 

 ヒスイは息を呑み、思わず視線を逸らす。

 その間にも、きらめは淡い笑みを浮かべていた。

 「……そんなもの、完成するとは思えない」

 ヒスイがそう呟くと、きらめはぴたりと笑みを止め、急に真面目な顔に戻る。

 

 「……ああ、そういえば見たことないんでしたっけ」

 その声には一瞬、痛みのようなものが滲んだ。

 「大変だったんすよ、あれ。――私なんて、廃人みたいになった友達を助けるために、隣の区画の医務室まで走ったんすからねぇ」

 

 語尾が冷たく、言葉に刺があった。

 まるで、ヒスイに罪を問いただすような目で睨みつける。

 

 だが次の瞬間には、いつもの飄々とした調子に戻って肩をすくめた。

 「ま、どっかの誰かがそれを嗅ぎつけたかは知らないっすけど」

 「――何やら“どっかの同人界隈”で噂になってるみたいなんすよ」

 

 わざとらしく意味を含ませるような笑みを浮かべ、手をひらひらと振る。

 「詳しいやつとか、いればいいんすけどねぇ」

 

 そう言い残すと、きらめは教室の扉を開け、冬の風を引き連れて去っていった。

 残されたヒスイの頬を、冷たい空気が撫でていく。

 

 昼休み。

 西校舎の体育館裏は、昼の日差しが届かず、コンクリートの壁に冬の冷たい空気がまとわりついていた。

 サンゴはその陰に身を寄せ、周囲を確認してからスマートフォンを取り出す。

 

 画面には、情報屋《野武士》の名が並ぶ。

 件名は――「飯沢たかしの件」。

 

 彼女は無言で画面を開いた。

 スクロールする指が途中で止まる。

 そこには短く、無機質な一文があった。

 

 > ……遺体で見つかった。

 

 サンゴは一瞬、呼吸を忘れた。

 目を見開いたまま画面を凝視し、唇がかすかに震える。

 

 ……遺体で……?

 

 風が吹き抜け、彼女の髪が頬にかかる。

 その冷たさに我に返ると、サンゴは無理に息を吸い込み、眉をひそめながらスマホを握り直した。

 気を取り直すように再び画面へ視線を落とす。

 

 その数行下――新たな記述があった。

 

 > 数日前、飯沢は「都市伝説サークル」と名乗る一団と接触していたとの情報あり。

 > 詳細不明。取引の形跡も。

 

 その単語の響きと、最近耳にした話が頭の中で繋がる。

 唇から無意識に小さく漏れた。

 

 「……もしかして、“神化薬”…?」

 

 神になる薬、神化薬。

 

 巷でまことしやかに噂されている、陰謀論者の間で持ち切りな都市伝説の一つだ。

 

 あまり詳しくなく、それ系のことに詳しい西校舎の生徒の話に冗談半分で聞き耳を立てていただけだが、そんな薬があれば世界がひっくり返るだろう。

 

 「いやいや……そんな馬鹿な……」

 

 首を振り、思考を振り払う。流石におかしなカードゲームのうわさでも聞く方がリアリティがある話だろう。

 

 スマホをスリープにし、ポケットへしまう。

 その動作にわずかに力がこもり、サンゴは深く息を吐いた。

 

 体育館裏から離れ、サンゴは歩きながらぼんやりとスマホの画面を見返していた。

 

 ……飯沢たかし。法の裁きを受けることもなく、遺体として発見された……

 

 指先でポケットの中の端末を握りしめる。

 

 野武士さんは……どう思ったんだろう。今回の報告にはどこか、言葉の温度が抜けているように感じた。

 

 風が吹き、校舎の影が長く伸びる。

 

 サンゴが何となく足を向けた先――それは西校舎の弓道場だった。扉の隙間から中を覗くと、弓道部の生徒が一人と……もう一人、見慣れた姿。

 

 ……らめ先輩?思わず小声で呟く。

 

 中のきらめは、あのハンバーガー屋で見せていた明るく砕けた姿とはまるで別人だった。

 無駄のない動きで袴の裾を整え、弓を持ち上げ、静かに呼吸を整えている。

 

 張り詰めた空気。

 きらめの背筋はまっすぐで、指先から弓の弦にかかる力の流れまで、美しく計算されたようだった。

 

 ――そして。

 

 ヒュンッ

 

 矢が放たれる音が、静寂を切り裂いた。

 次の瞬間、的の中心を射抜く鋭い音が響く。

 

 ……らめ先輩、弓道なんてできるのか……

 

 サンゴは呆然と見つめたまま、思考を巡らせる。

 

 弓道部だから……あんまり“ライバル校”には顔出したくないのかなぁ……そんなことを考えながら。

 

 だが、矢を放ち終えたきらめが弓を下ろしたとき、サンゴの胸の奥に冷たい感覚が走った。

 

 銀色の十字架のペンダントが、冬の日差しを反射して淡く光る。その首元に浮かぶのは――どこまでも静かで、冷たい表情。

 

 情熱も、笑みも、何もない。

 

 その横顔を見た瞬間、サンゴの背筋を寒気が這い上がった。

 

 「……なるほど」

 

 小さく呟き、視線を落とす。

 

 「やっぱり、そう……だったのか」

 

 ――その表情が、恐らく本来の性格。その事実に気づいてしまった寂しさと、少しの怖さを胸に、サンゴは弓道場から静かに離れた。

 

 外の風は冷たく、校舎の影がまた少し伸びていた。

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