暖かな灯りのともるその場所は、普段であれば喧騒と煙草の匂いに包まれているが、今日は違う。
店長も、葛葉もいない。いつもより少しだけ寂しい空気が漂っていた。
「さて、と……そろそろ閉めるか〜」
本間ひまわりが裏口に向かって歩きながら、最後の一服を済ませて扉に手をかけようとした、そのとき。
カラン。
「……入っても良い?」
不意に聞こえた声に、ひまわりは驚いて振り向いた。
そこに立っていたのは、私服姿の少女――西園チグサだった。
少し薄手のジャケットに、ラフなジーンズ。だがその目は、明確な目的を帯びていた。
「良いけど……今日は店長お休みだよ? 葛葉君も。今日は、わたしだけ」
ひまわりは少し訝しげに目を細める。チグサはそれを聞いても、ためらいのない声で答えた。
「それでもいいです」
そのまま、コツコツと足音を立てて中に入ってくる。
ひまわりは苦笑しながら、静かにドアを閉め、コーヒーメーカーに向かう。
湯気の立つ空気の中で、チグサは少し間を置いてから言った。
「……うちの東校舎について、知っていることを教えてください」
その言葉に、ひまわりの手がぴたりと止まる。
コーヒーの香りと共に、室内の空気が静かに緊張する。
「へぇ……」
ひまわりはカップに湯を注ぎながら、背を向けたまま言う。
「情報屋は、タダでは動かないんだよ。結構高いよ?」
チグサは一瞬きょとんとしてから、おもむろにがま口の財布を取り出す。
パチンと音を立てて開くと、中には……小銭と、折られた数枚の紙幣。
ひまわりはそれをチラと見て、目を細める。
「……いや、そんなんじゃ足りないけど」
あきれたような声と表情。だが、どこか楽しんでいるようでもある。
チグサはその言葉に、やや不安そうに財布を閉じた。
チグサはがま口財布をそっと閉じると、力なく項垂れた。
そんな様子に、ひまわりは肩をすくめながらも言葉を継いだ。
「そもそも、オタクの学校の東校舎のことなんて知らないよ〜? 学校の七不思議なら他でやりな〜」
軽口のような、だがどこか距離を取る言葉。
チグサはほんの少し、唇を噛みしめるようにして、声を発した。
「……あの……」
おずおずと顔を上げ、ぎこちなく言葉を紡ぐ。
「うち……世怜音女学院っていう東京の高校なんですけど……」
「ふーん、あ〜、なんか聞いたことあるかも」
ひまわりは、まだ気のない風でコーヒーをかき混ぜている。
「その……うちの学校、西校舎と東校舎に分かれてて。西校舎は普通に、受験して入るところなんですけど……東校舎は、身寄りのない子供たちを引き取るための……そういう施設になってて……」
その言葉に、ひまわりの手が一瞬止まった。
「……世怜女って……あー……」
何か思い出したように、わずかに表情を曇らせる。
「確か、今の“天下無双”がいるところだね……」
チグサは、ひまわりのその言葉にハッとしたように顔を上げた。
そして、ぽつりと零す。
「……私の友達なんです!……その……」
どこか迷いを孕んだまま、彼女は言葉を続けた。
「“天下無双”……周央サンゴは、普通の生徒だと思ってたんです。最初は……本当に、普通の……」
声が少しずつ沈んでいく。
コーヒーの湯気の向こう、チグサの影が小さく震えていた。
「でも……東校舎に関わっていくうちに、彼女の……傷つく姿を見るようになっていって……」
視線は、足元へ。
「もちろん……東校舎の子たちも、良い子たちなんです。ヒスピも……コハックも……」
最後の言葉は、消え入りそうだった。
ただ静かに、深夜の情報屋に、コーヒーの香りだけが漂っていた。
俯いたままのチグサを見ながら、ひまわりはふっと静かに息を吐いた。
そして、思いついたように口を開いた。
「……天下無双はさ、一度でも“辛い”って、言ってたの?」
その言葉に、チグサはハッと顔を上げる。
「ねえ、聞いたことある? 『もう嫌だ』とか、『逃げたい』とか」
チグサは言葉に詰まった。
……確かに、彼女はそんなこと一度も言わなかった。
ただ、いつだって――笑っていた。
「店長ね、君の友達に会うために、すっごいお金使ったんだよ」
ひまわりは、自分のカップにコーヒーを注ぎながら呟くように話す。
「一千万円だよ? そんなお金、どこから出るのって感じでしょ?」
「……え……」
驚くチグサをよそに、ひまわりはどこか遠くを見るような目で続ける。
「店長にとってね……君の友達は“憧れ”なんだよ。
自分にはできないことをしてる人。自分よりずっと真っ直ぐで、優しくて、強い人」
チグサは胸が苦しくなった。
そうだ、ンゴはいつも自分に笑ってくれた。
どんなときも、演劇の練習に付き合ってくれた。
あんなに明るくて、楽しそうで、優しくて――
でも。
チグサの心の中には、ずっと引っかかっていたことがあった。
……たまに、サンゴはまるで――遺言みたいに話すときがある
「……私ね、あの子が笑ってても、不安になるときがあるんです」
「なんで、そんなふうに未来のことを全部終わったみたいに語るのか……わかんなくて……」
その言葉を受けて、ひまわりは静かに目を伏せた。
そして、ぽつりと空を仰いで呟く。
「まあ……気持ちは分からないでもないけどね」
「こんな仕事してたら、いつ命を落とすかわからないし……」
外の夜空は、静かに瞬く星がぽつぽつと浮かび始めていた。
ひまわりは俯くチグサを見て、少し表情を和らげて言葉を紡ぐ。
「でもさ……“普通の人生”なんて、ないと思うんだよ」
「周りの人が危ない仕事をしてるからって、チグサちゃんが何も考えずに巻き込まれていく必要はないと思う。
……でもね、だからって、失念する必要もないと思うよ」
「全員が主人公で、全員がそれぞれの色を――何かしらの“使命”を持って生きてる」
ひまわりはそう言いながら、チグサの目を真っ直ぐに見つめて問いかけた。
「――君の使命は、何?」
その言葉に、チグサは目を見開き、しばらく何も言えなかった。
ただ、心の奥に浮かんできたものがある。
演劇部。練習の風景。
舞台袖で支えてくれた仲間。
そして――朝日南先輩のこと。
私は……チグサは、ぽつりと呟きかけたが、すぐには続けられなかった。
――でも、今ここで、自分の心と向き合おうとしていた。
店内に沈黙が落ちる。
チグサの「私は…」という言葉が空気に溶け、静けさがひとしきり流れた後――
「……ま、誰にでも“知る権利”はあるよね」
ひまわりはそう言いながら、壁際のリモコンに手を伸ばし、静かにクーラーの電源を落とした。
ぴ、と小さく音が鳴り、機械の唸るような音が止むと、空気がほんの少しだけ生ぬるくなった気がした。
「でもねぇ……」
入口近くの照明のスイッチに手をかけながら、ひまわりはちらりとチグサを振り返る。
「本っ当に知らないよ? 世怜女の東校舎なんて」
「東側に福祉施設がついてるってのも、今初めて知ったし……」
カチッ――と照明が一つ、また一つと落ちていく。
「店長も同じじゃない?」
薄暗くなっていく空間で、チグサは力なくソファに背を預けたまま、小さく呟いた。
「……せっかく、お年玉、前借りして来たのに……」
「……え?」
「ここだって……ンゴのスマホ、ちょっとだけ盗み見て来たのに……」
「――――っ!?」
ばっ!!
ひまわりが勢いよく振り返る音が、店内に鳴り響く。
「……は!? ちょ、ちょちょちょちょっと待って!!」
「あの…あの天下無双の情報見て、ここに来たの!? え、マジで!?!?」
さっきまでの穏やかさはどこへやら、ひまわりは思わず立ち上がり、身を乗り出してチグサを凝視した。
「だ、だって……あの、あの時、たまたまロック解除されてて……その、地図アプリ開いてて……で、気になって……」
チグサはバツの悪そうに視線を逸らし、指先でソファの布をいじる。
ひまわりは額に手を当てて、信じられないという顔で深くため息をついた。
「……店長、知ったらどんな顔するんだろう…」
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午後の陽射しが柔らかく差し込む部室。
窓際の机にヒスイが座り、手元のノートも見ずに視線を宙へ彷徨わせていた。
脳裏に蘇るのは、きらめが冷ややかに言い残して去っていったあの一言。
――「まあ、あの問題も解けないようじゃ、手を貸す気にはならないっすよ」
――「特に共和国にも来なかった“世怜女”の生徒なんかにはね」
その声の余韻がまだ耳の奥に残っている。ヒスイは肘をつき、額に手を当てながら静かに唸った。
その様子をソファに寝転びながら見ていたチグサが、ポテトチップスの袋を抱えたまま笑う。
「ヒスピ、あんまり悩んでも仕方ないよ?」
ヒスイはその言葉にゆっくりと顔を上げる。
「……ちょっと今、真剣なこと考えてるから話しかけないで」
即答。
チグサの笑顔が一瞬で引きつる。
「……えっ、じゃあ私が話してる時は“真剣じゃない”ってこと!?」
ムッとした表情で立ち上がり、机に手をつく。
「てか、新東京ポートの子に聞いてくるからさ!」
勢いよく言い放ち、身を乗り出す。
「いい加減どんな子か教えてよ!」
ヒスイは少しの間ぼんやりとチグサを見つめ――ようやく思い出したように眉を上げた。
「あー……そういえば、そんなんあったね……」
まるで宿題の提出日を今知った学生のような、興味の薄い声。
「……まあ、別に急がなくていいよ」
あっさりとあしらうように言って、またノートに視線を戻す。
チグサは「はぁ!?」と声を上げたが、ヒスイは微動だにしない。
チグサがスマホを握りしめて「もう知らない!」と部室の隅に引っ込んだ後、ヒスイは深くため息をついた。
手元のノートを閉じ、斜め向かいのサンゴに視線を向ける。
「ねえ……どういうことだと思う?」
「“手を貸す”とか“貸さない”とか……マジであいつ腹立つんだけど」
ヒスイの声には苛立ちと、ほんの少しの焦りが滲んでいた。
サンゴはすぐには答えず、目を閉じたまま軽く息を吐く。
「……ああ。中々難しいと思うよ」
「は?」
思わず眉をひそめるヒスイに、サンゴはゆっくりと目を開けて言葉を続けた。
「多分、その子はスピちゃんの知らない“何か”を知ってるんじゃないかな」
「人間誰しも、全知全能ではないけど――ピースを組み合わせれば、それに近い“パズル”は作れるからね」
ヒスイは腕を組み、眉をひそめたまま首を傾げる。
「……そんな“当たり前なこと”言われても……」
するとサンゴは、微かに笑って首を横に振った。
「そう。そこなんだよ」
「“当たり前のこと”すら気づけない。それがきっと……僕らの悪いクセなんだ」
言葉の端が少し沈み、瞳の奥には何かを悟っているような、遠い光が宿っていた。
その様子を見たヒスイは、ふと違和感を覚える。
(……こいつ、何か知ってる?)
ヒスイの視線を感じ取ったのか、サンゴは一拍置いてから、軽く笑って話題を逸らすように口を開いた。
「スピちゃん、明日とかチグちゃんとデートでもしたら?」
「――えっ!?」
部屋の隅からチグサの声が跳ね上がる。
頬を真っ赤にして振り返り、目を丸くする。
「な、何それ!?い、いきなりそんな――!」
「しないからな!」
ヒスイが即座に突っ込み、サンゴは「…そうかい?」と肩を揺らして笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
しかしヒスイの胸の奥には――サンゴのあの“遠い目”の意味が、重く残っていた。