ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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傷天害理

 環崎の準備室。

 書類と機材が無造作に置かれた机の向こうで、環崎は椅子に深く腰を下ろし、腕を組んでいた。

 その視線の先――壁際に立つきらめは、陽だまりのような笑みを浮かべている。

 

 「……どういうことか、説明してくれないか?」

 環崎の低い声が静かに響く。

 

 きらめは軽く肩を竦め、いつもの調子で返す。

 「何、単純なトリックっすよ」

 

 「“普段は話を聞かないような人に聞いてみるといい”。それが、あの問題――『カミカゼの断罪』のヒントなんすよ」

 

 その言葉を受けても、環崎は表情を変えず、静かにきらめを見つめ続けていた。

 きらめは目を細め、まるで退屈を持て余すように机の角を指で叩きながら言葉を続ける。

 

 「壁に張り付く蛾には鳥の愛嬌は分からないし、鮫には鯨の悩みはわからない」

 「空を舞う者、海を生きる者、それぞれの良さがあるのに、それを解ろうともしないで死んでいくこの世界は――実に……」

 

 ふと、きらめの動きが止まった。

 ゆっくりと環崎の方へ歩み寄り、笑みが消えていく。

 その表情はいつもの軽さとはかけ離れ、まるで何かを断罪するような冷たい光を宿していた。

 

 「……気持ち悪い」

 

 吐き捨てるように言う。

 声は低く、鋭く、部屋の空気を一瞬で凍らせた。

 

 環崎はその視線を真正面から受け止め、眉ひとつ動かさずに返す。

 「――それが、我々の調査に協力しない理由か?」

 「ヒスイは、“天使”は共和国に世怜女を駆り出さなかったのを憎んでいるようだと言っていたが」

 

 その問いに、きらめはわざとらしく目を瞬かせた。

 そして、先ほどまでの緊張を霧散させるように、つまらなそうな声で答える。

 

 「いや、全然」

 「思い出したから言っただけっすけど」

 

 口調は軽く、どこか飄々としている――だが、その瞳の奥に残る氷のような冷たさは、環崎を一瞬も油断させなかった。

 

 ヒスイが部室を出て行き、扉が静かに閉まる音が響いた。

 部屋に残ったのは、サンゴとチグサだけ。

 カーテンの隙間から差し込む光が、机の上に薄く帯を描いている。

 

 サンゴはしばらく無言のまま、その光を指でなぞるように見つめていたが、やがてぽつりと口を開いた。

 「……チグちゃんは、どうしたいの?」

 

 チグサはソファに腰を下ろしたまま、返事をしなかった。

 どこか考え込むような顔。

 その沈黙に構わず、サンゴはゆっくりと続ける。

 

 「知ってるでしょ」

 「スピちゃんが、誰に振り回されてるか」

 

 チグサの指がソファの布地を軽く掴む。

 小さく息を吸い、そしてため息と一緒に吐き出した。

 

 「……やっぱり」

 そのまま両腕を伸ばして大きく伸びをすると、天井を仰ぎながらボソッと呟いた。

 「私が、悪いのかな」

 

 サンゴはチグサの方に顔を向け、眼鏡の奥の視線を少し柔らげる。

 「まずね、大前提として聞いてほしい」

 「東の子たちとやってることは“危ない”。だから、僕らの話にチグちゃんを巻き込みたくない」

 

 その声は淡々としていたが、どこか切実でもあった。

 

 チグサは少し目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げる。

 「……でも、それ言ったらンゴだって“西の子”じゃん」

 

 その言葉には、抑えきれない感情が滲んでいた。

 「どうしてンゴは、東のみんなと当然のように付き合って、何もかも知ってるの?」

 

 そう言いながらチグサは立ち上がり、静かに距離を詰めていく。

 机越しに、サンゴの顔をまっすぐ覗き込む。

 

 「――そういうのって、“隠せるもんじゃないよ”」

 

 サンゴは微動だにせず、その視線を受け止めていた。

 だが眼鏡の奥の瞳は、わずかに揺れていた。

 

 部室の中は、冬の日差しが窓の縁をかすめるだけで、薄暗かった。

 サンゴは机の上に置いた手を軽く握りしめたまま、視線を逸らしていた。

 

 「……僕だって、好きで関わったわけじゃない」

 声は震えてはいないのに、どこか弱さがあった。

 「知り合いに頼まれて、それで仕事をしてるうちにスピちゃんに会っただけだよ」

 

 チグサの眉がぴくりと動いた。

 「じゃあ――昔からそういうことしてたってことじゃん!」

 言葉に熱がこもる。

 「スピちゃんがいなくても、コハックと会わなくても!」

 

 チグサは勢いのままに一歩詰め寄り、サンゴの両肩に両手を置いた。

 その手は震えているのに、目はまっすぐだった。

 

 「ンゴほど頭が良ければ誰もいらないってことなの?

 それとも、私が邪魔だから……そうやって距離置いてるの?」

 

 サンゴはその視線に気圧されるように、一瞬だけ息を詰まらせた。

 しかし、やがて絞り出すように答えた。

 

 「……チグちゃんを危ない目に合わせたくないんだ」

 

 それは言い訳ではなく、祈りのような言葉だった。

 だが、チグサの目には涙が浮かび、頬を伝い始めていた。

 

 「そう思うなら――せめて今みたいに話してよ!」

 声が震える。

 「私は全然怖くない!

 演劇同好会を救ってくれたンゴを、私の命よりも大切な“居場所”を救ってくれた周央サンゴに、目を背けて生きるなら――死んだ方がマシだよ!」

 

 言葉を重ねるたびに、チグサの胸が大きく上下する。

 その顔には怒りでも悲しみでもなく、ただ真っ直ぐな信頼だけが宿っていた。

 

 「せめて……サンゴが大人達にそうしてるみたいに、私にも話してよ!」

 「大人達だって、みんながみんな秘密を全部知ってるわけじゃないでしょ!?」

 「ンゴのためなら――私、大人になるの、怖くないから!」

 

 涙の粒が落ち、サンゴの手の甲に弾けた。

 サンゴは何も言えず、そのまま俯いたまま硬直していた。

 チグサの言葉が、胸の奥の柔らかい場所を突き刺したまま離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼下がり。

 東校舎の一階は、人の声もなく、冬の乾いた風が窓の隙間を抜けていく音だけが響いていた。

 

 その廊下を――コハクが歩いていた。

 

 歩幅は一定で、姿勢に一片の無駄もない。

 足音の間隔はまるで機械のリズムのようで、だがそれが人間離れした冷たさを漂わせていた。

 

 彼女は廊下の突き当たりにある古びた扉の前で立ち止まり、無言のままノブを掴む。

 ――演劇同好会の部室。

 

 ギィィ…

 扉が軋む音とともに開く。

 

 「チグちゃん」

 名前を呼ぶ声は、普段の柔らかさを失っていた。

 低く、芯のある声。

 

 中ではチグサが、元放送席の古い椅子に腰かけ、スマホを片手にだらけていた。

 不意の来訪に、チグサは肩を跳ねさせて振り返る。

 

 「な、何……?」

 その声には少し怯えが混じっていた。

 

 コハクは答えず、まっすぐ歩み寄る。

 距離を詰め、チグサの正面に立つと、無言で彼女の顔を覗き込んだ。

 

 「――小学校のいじめの問題、知ってるでしょ」

 

 その言葉は、まるで尋問のように鋭かった。

 チグサは瞬きを繰り返し、何を言われているのか理解できない様子で固まる。

 目を逸らし、唇を開きかけて――何も言えずに閉じた。

 

 コハクの目は一切逸れない。

 その真剣さに、チグサは圧を感じてついに小さく呟いた。

 

 「……“カミカゼの断罪”のこと?」

 

 コハクは少しだけ眉を上げた。

 「……カミカゼの断罪?」

 

 チグサは小さく頷き、ゆっくりと説明する。

 「とある小学校でいじめが起きた。

 いじめを受けた児童は自殺した。

 でも――子供たちは、いじめが起きていたことを知らなかった。

 ……ってやつでしょ?」

 

 コハクはその説明をじっと聞いていたが、やがて小さく息を吐く。

 「……その子を“いじめてた”のって、きっとすごく“か弱い子”だったんじゃない?」

 

 チグサは目を瞬かせる。

 「……か弱い子?」

 

 コハクは言葉を選ぶように、淡々と続けた。

 「自分の立ち回りや性格――その“あり方”によって、自分が火に抱かれて焼かれる。……だから、“神風”なんでしょ」

 

 チグサは黙ってそれを聞き、やがて少しだけ寂しげに笑った。

 「うん……そうだね」

 視線を落とし、静かに呟く。

 「らめ先輩も――そう言ってたよ」

 

 「――らめ先輩って……空星きらめ、だよね?」

 

 コハクの声は低く、確認というより確信に近かった。

 チグサはソファの肘掛けにもたれかかりながら目を瞬かせる。

 

 「うん そうだよ……」

 

 「知らなかった。まさか――“新東京のエース”と顔馴染みだったなんて」

 

 コハクの表情は冗談めかすこともなく、ただ真っ直ぐ。

 その真顔に、チグサは少しだけ口角を上げて笑ってみせた。

 

 「へへ、ちょっと見直した?」

 

 その明るさはほんの一瞬で、すぐに「なんてね」と苦笑いに変わる。

 「ただの友達だよ……お互い話も合うし、一緒にいると楽しいから」

 

 小さく息を吐き、背中をソファに預ける。

 「でも、らめ先輩にも“秘密”があるなんて知らなかったな」

 「コハックが言う“エース”ってのも何のことか分からないし、私からしたら――普通の女の子にしか見えないから」

 

 そう言うと、チグサはゆっくり横になり、ソファに寝そべった。

 窓の向こうの白い光が、彼女の髪の先を照らす。

 

 「……まあ、ちょっとね」

 天井を見上げながら、チグサはぽつりと呟いた。

 「らめ先輩に、ンゴが最近付き合い悪いって相談したんだよね」

 

 「……え?」とコハクが目を瞬かせる間もなく、チグサは肩越しに笑って続けた。

 「まさかそれで、私が適当に作ったクイズを使われるとは思ってなかったけど」

 

 背を向けたままの声は、どこか気恥ずかしそうだった。

 

 コハクは呆れ半分、笑い半分の表情でため息をつく。

 「……あれ、チグちゃんが考えたの?」

 

 「だいぶみんな振り回されてたけど……」

 

 外の風が古い窓を震わせ、カタリと小さな音が響いた。

 コハクはその音に紛れるように、ふっと低い声で口を開いた。

 

 「――もしかして、この“いじめを受けた児童”って自分のこと?」

 

 チグサは一瞬、呼吸を止める。

 コハクは表情を変えず、言葉を続けた。

 

 「自分だけハブられてて気に入らないから、仲間に入れてって?」

 「……調子乗りすぎだろ」

 

 その声は冷たく、まるで刃物のように鋭かった。

 けれど、チグサは怯えなかった。

 拳を膝の上で握りしめ、小さく息を吸って答える。

 

 「……私、みんなの役に立ちたいの」

 「傷ついていくのを、見て見ぬふりなんてしたくない」

 「“関係ないから”って背を向けられるのも、嫌なんだ」

 

 その声には、迷いよりも真っ直ぐな想いがあった。

 

 コハクは黙って見つめていたが、やがてわずかに目を伏せ、少し柔らかい声で言った。

 

 「……でもね、チグちゃん」

 「それでチグちゃんが傷ついても――誰も助けないよ」

 「一つ足を踏み入れたら、もう“知らなかった”じゃ済まされなくなる」

 

 その瞳に浮かぶのは、冷静さと、ほんの少しの痛み。

 

 「――あのセイラって子、見たでしょ? 東校舎の生徒」

 

 「ンゴちゃんが、あの子の前でどれだけ怯えてたかも見てたでしょ」

 

 「ンゴちゃんもね……“東校舎の秘密”を知る中で、いろんな辛いことがあったんだよ」

 

 チグサの喉が小さく鳴る。

 思い出したように、あの時のサンゴの表情が脳裏をよぎった。

 

 コハクは自分の胸に手を当て、静かに言葉を紡ぐ。

 「……隠さず言うね」

 「私――空星きらめが怖い」

 「怖くて、怖くて仕方ない」

 

 その告白は、いつもの冷静なコハクには似つかわしくないほど弱々しく響いた。

 「私だけじゃない。ヒスイちゃんも、同じこと言ってたの」

 「チグちゃんが“怖くない”なら、それは――空星きらめが、きっと気を遣ってくれてるだけ」

 

 静寂が落ちた。

 チグサは俯き、指先をぎゅっと握りしめる。

 自分が何気なく聞いたことを、少し後悔していた。

 

 けれど、その沈黙を破ったのは――彼女自身だった。

 

 「……それでも、私は力になりたい」

 

 小さな声。けれど、その芯は震えていなかった。

 「何もできないかもしれない。ンゴよりできることなんて、きっとない」

 「それでも――私は、みんなのために何かできないかな……」

 

 コハクは静かにその言葉を聞いていた。

 

 部室に静かな光が差し込んでいた。

 コハクは深く息をつき、少しだけ遠い目をした。

 

 「――空星きらめはね、すごい努力家なんだと思う」

 

 その声は穏やかだったが、どこか慎重に言葉を選んでいるようでもあった。

 「学校の集まり……みたいな場所でも指折りの実力者でさ」

 「“新東京ポート”の切り札でもある佐伯イッテツを差し置いて、エースになってるんだから――きっと、すごく頑張ったんだと思うよ」

 

 言葉の端に、ほんの少し“濁し”が混じる。

 それは、知っている事実のすべてを語れない人間の、静かな誠実さのようでもあった。

 

 コハクは伸びをして、柔らかく息を吐くと、チグサの肩をぽんと叩いた。

 「でも――それは、やっぱり“大好きな友達”がいたからかもね」

 

 チグサは驚いたように目を丸くし、それから少しだけ笑みを浮かべる。

 「……そう、なのかな」

 

 「うん」

 コハクは軽く頷き、「わかった」と呟きながらチグサの隣に腰を下ろした。

 机に腕を預け、肩を並べる形で、彼女は静かに続ける。

 

 「私たちも、できることがあったら――チグちゃんの力を借りようかな」

 

 そう言ってから、コハクは一息ついて、少し照れたように笑った。

 「だから……何かあったら助けてくれないかな。私たちのことも」

 

 そして、言葉を区切り、柔らかい声で付け加える。

 「もちろん――“空星きらめ”のこともね」

 

 チグサはその言葉にぱっと顔を上げ、にっこりと笑った。

 「うん!」

 

 その返事は、子どものようにまっすぐで、少しの迷いもなかった。

 その笑顔を見て、コハクも思わず頬を緩めた。

 

 窓の外では、冬の陽が少しずつ傾き始めていた。

 二人の影がゆっくりと重なり、部室の空気は静かに、柔らかく満たされていった。

 

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