夕暮れの川面に、橋の欄干が長い影を落としていた。人通りのない橋の上に、きらめはぽつんと立ち尽くし、遠くのビル群の輪郭をじっと見据えている。風が銀の十字架を揺らし、彼女の黒髪をさらわせるたびに、横顔が冷たく光った。
サンゴは欄干に寄りかかり、静かに口を開く。声は小さく、けれど確かな重みを帯びていた。
「…まさか君が、Σのエージェントだったなんてね。」
きらめは微動だにせず、背中越しにその言葉を受け止める。しばらく沈黙が流れたあと、サンゴは自分の胸の奥を抑えるように続ける。
「最初は、ただ――僕や世怜音のみんなを出し抜くために、チグちゃんに近づいてるだけだと思ってたんだ。共和国の一件で、らめ先輩の友達が殉死したのなら、その原因は、世怜女の出兵をわがままで拒んだ僕にあるかもしれない。」
言葉は途切れ、サンゴは俯いて視線を外す。息が白く、寒さが胸に冷たく染みる。どこかで自分を責める音がするようで、謝罪の声がしぼり出る。
「ごめん…僕があんなこと言わなければ」
その謝罪に対して、きらめはゆっくりと顔を上げた。真横から見る彼女の表情は、先ほどまでの軽やかさを残しながらも、芯に鋭い刃を隠している。目が合うと、彼女は一瞬、凍てつくような視線を投げつける。サンゴはその視線に、胸の奥がざわりとするのを感じたが、顔には出さないように努めた。
きらめは一歩、歩み寄る。欄干越しに近づくと、顔が間近に迫る。瞳孔がやや開き、銀の十字架が裸光を帯びて瞬く。
「あんた、嘘つきっすね。」
声は平然としている。けれど、その平静の底にある冷たさは、言葉よりもずっと重く響いた。
「本当は“悪い”なんて、微塵も思ってないっすよね。内心、死ぬのが北小路ヒスイや“鬼”だったらって思って、ちょっと心の隅でホッとしてるんすよ」
その言葉の先端は鋭く、サンゴの胸を突いた。唇が震え、反論の言葉が喉に詰まる。だがきらめは追い打ちをかけるように、さらに近く、声を落として囁いた。
「だったら、黙っておかないと──死んだ時に地獄に落ちるっすよ。」
その表情は、冗談や脅しを軽く越えていた。口元は淡々としているが、目は冷たく、覚悟が宿っている。橋の風が二人の間を吹き抜け、遠くで自動車の音が低く鳴るだけだった。
サンゴはぎりぎりと歯を噛みしめ、指先がわずかに欄干に食い込むのを感じた。謝りたい気持ちと、否定できない何かに押しつぶされそうな恐怖。
だが同時に、きらめの言葉の裏にある深い憤りや痛みも見え隠れしている──それが、さらに胸を締めつけた。
夕方の橋の上。
風が川面を渡り、金属の欄干をかすかに鳴らしていた。
きらめの鋭い言葉が胸に刺さったまま、サンゴはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
次の瞬間――眼鏡を外し、ふと表情がやわらぐ。
声の調子も、“周央サンゴ”に戻っていた。
「……そうだよ。」
目を伏せながら、小さく、でもはっきりと。
「ンゴは、自分のことしか見えてないの。スピちゃんもきっとそう。コハたんは……わからないけど。」
言葉が途切れるたびに、風が髪を揺らした。
「だからチグちゃんがどれだけ疎外感を持ってるか、わからなかったんだ。」
「共和国の件も……きっと、コハたんがいれば、たくさんの人が助かったんだよね。」
今度は、まっすぐにきらめの目を見て言った。
遠くで自転車のブレーキの音、夕鳥の鳴く声。
沈みかけた陽が、二人の間の影を伸ばしていく。
「ごめんね。」
サンゴはかすかに笑いながらも、瞳の奥は真剣だった。
「でもやっぱり、政治家や宗教家じゃないから……ンゴには自分のことしか考えられないんだ。」
「世怜女のみんなが戦争に行かなくて良かったって……本当は、そう思ってる。」
「本当は……不謹慎だし、あんまり言いたくないけど……」
その“素直さ”には、罪悪感も、誠実さも同時にあった。
きらめはしばらくサンゴを見つめたまま、目を細め――そして小さく微笑んだ。
「……サンゴちゃんも、私みたいに“元の自分”を隠して生きてるんだね。」
優しく、どこか慈しむように言う。
「じゃあ私たち、似たもの同士だったんだ。」
ほんの一瞬、穏やかな空気が流れた。
だが、次の瞬間――
パシンッ
乾いた音が、夕暮れの橋に響いた。
きらめの手が、サンゴの頬を打っていた。
「……っ!」
驚いたサンゴが目を見開く。
きらめは表情を崩さず、けれど声には少しの怒りと優しさが入り混じっていた。
「でも、ダメだよ。あんまり繊細なとこ突いたら。」
「私だって文句はある。でも、共和国の話を決めたのは“環崎教頭”でしょ?」
「何を言ったのかは知らないけど、サンゴちゃんにはその責任はないよ。」
きらめはサンゴの肩に軽く手を置き、少し和らいだ声で続けた。
「まして、Σの人間でもないんだから。」
風がまた吹く。
サンゴの髪が揺れ、頬に残った赤みがほんのりと霞む。
二人の間を沈黙が流れる。
だけど今度の沈黙は、さっきまでの冷たさではなかった。
どちらも――少しだけ、自分の弱さを見せ合ったあとの静けさだった。
朝方の冷気がまだ少しだけ残っていて、風は春のように穏やかで、それでいてどこか張りつめた静けさが漂っていた。
サンゴはきらめの隣に並び、遠くの街並みを見ながらぽつりと口を開く。
「……ねえ、らめ先輩。“神化薬”って……本当にあると思う?」
きらめはゆっくりと振り向いた。
その声の調子は、何かを確かめるような響きを帯びていた。
サンゴはきらめの目を見ずに、欄干に手を置いて話を続けた。
「あんなの、ただの噂話だと思ってたの。」
「でも少し前、特殊詐欺で悪名高かった男が遺体で見つかったんだよね。」
「関係なければいいけど……もし本当にあったら、きっと大変なことになる。」
昼の風が二人の間を抜け、銀の十字架のペンダントがカランと音を立てた。
きらめはそれを見下ろし、少し間を置いてから答えた。
「……そんなもの、ないよ。」
言葉は淡々としていたが、その声には微妙な“引っかかり”があった。
その違和感を察して、サンゴはきらめの横顔を覗き込もうとした。
しかし、きらめはわざとそれを避けるように視線を逸らす。
しばらく沈黙が続いたあとで、きらめはぽつりと呟いた。
「あんなこと言っておいて悪いけど――」
「私は、サンゴちゃんやチグサちゃんには、危ないことしてほしくないんだ。」
その声音は、さっきまでの冷たさが嘘のように柔らかかった。
サンゴが「ンゴは別に……」と口を開こうとすると、きらめは被せるように静かに言った。
「知ってるよ。」
その声には、どこか確信めいた響きがあった。
「おじいちゃんの仕事、継いでるんでしょ?」
サンゴの指先がぴくりと止まる。
きらめは目を逸らしたまま、どこか遠くを見るように言葉を続けた。
「凄いと思うよ。……私、本当はこんな仕事したくないから。」
そう言って、きらめは姿勢を変え、体を軽く伸ばす。
身体の動きは自然だが、その瞳には薄い疲労の影があった。
「だからこそ、あんまり“汚れ仕事”には付き合わせたくないんだ。」
「できれば一生、ね。」
その言葉の“優しさ”が、サンゴの胸に静かに染みた。
けれどサンゴは、何も返せなかった。
何を言っても、きらめの中の何かが壊れてしまいそうで。
風が一度止まり、遠くで鳩の羽ばたきが響く。
きらめはその静けさの中でゆっくりと伸びをして、いつもの気だるげな口調に戻る。
「でも――協力すべきところは、ちゃんと協力してあげるべきだし。」
「仲間外れにしすぎるのも、どうかとは思うけどね。」
それから、ふっと笑って。
しかし次の一言は、笑いとは裏腹に重かった。
「うん、多分あるよ。――“神化薬”。」
その声には、諦めにも似た確信が滲んでいた。
風が再び吹き、二人の髪を揺らす。
夜の帳が降り始めた校舎の一室。
パソコンの液晶が、青白い光を部屋いっぱいに放っている。
監視カメラの映像が無数に並ぶモニターの前に、ヒスイとチグサが肩を並べて座っていた。
画面の明滅だけが二人の顔を照らしていて、外の夕焼けも、すでに完全に沈んでいる。
ヒスイがマウスを動かしながら、何気なく口を開いた。
「……あんたさ。」
「ん?」とチグサが振り返る。
「人に“面倒くさい”って言われたこと、ない?」
その言葉はまるで、画面のノイズみたいに突然で。
チグサは反射的に視線を逸らし、曖昧に笑ってごまかした。
「いや……あんまり……」
ヒスイの顔は無表情のまま。沈黙が続く。
その沈黙に耐えきれず、チグサは小さく汗を垂らして、肩をすくめながら言い直した。
「……ちょっと言われるかも。」
ヒスイはようやく小さく鼻で笑って、マウスをクリックした。
モニターに映る映像が切り替わり、東校舎の渡り廊下を歩く生徒たちの姿が映る。
「でもさ、嬉しいよ。」
チグサは椅子の背もたれにぐったりもたれながら、それでもどこか楽しそうに言った。
「私も何かできたらって……ずっと思ってたからさ。」
ヒスイは視線を画面から外さず、「何か?」と短く返す。
「うん!」とチグサは胸を張って笑顔を浮かべた。
「これからは――“一番先輩のおチグ”が、何でも解決しちゃいますからね〜!」
能天気な声が部屋に響き、モニターの光がその笑顔をきらきらと反射した。ヒスイは眉ひとつ動かさず、静かに言葉を挟む。
「――聞いたわよ、それ。」
チグサの笑顔が一瞬で固まる。
ヒスイは視線を画面から外し、真っ直ぐにチグサの方を見た。
「……要は、死にたいってことね。」
その声には、冷たさではなく、淡い諦念が滲んでいた。チグサは目を泳がせ、手元のマウスを無意味に動かす。
「そ、それは……」
けれど、すぐに自分で息を吸い込み、いつもの調子を取り戻すように言った。
「でも、それくらいの気合いで頑張るよ!」
声は明るく、けれど少し震えていた。
ヒスイはため息をつき、椅子の背にもたれたまま、天井を見上げる。
「……まったく。ほんと、あんたって子は。」
その表情には呆れと、どこかで“守りたい”という色が混ざっていた。
チグサはモニターの光に照らされながら、頬をかすかに赤らめる。
そして、そっと笑った。
どこか怖さを隠すように。
まるで――死地に足を踏み入れる前に、気を張っているように。
モニターの光が、ヒスイとチグサの横顔を淡く照らしていた。
カチ、カチ、とチグサがマウスを動かす音が続く。監視カメラの映像が切り替わるたびに、ヒスイはその光の揺らめきをぼんやりと目で追っていた。
ふと、ヒスイが低く呟いた。
「……自殺した児童。どんな気持ちだったのかしらね。」
チグサの指が一瞬止まる。
ヒスイは背もたれに身を預け、薄暗い天井を見上げながら言葉を続けた。
「自分の“強さ”を山車にされて、それで事実を歪められた。」
「その子に対して、あえて“か弱い対応”を取ったり、被害者としての側面を強めるような立ち回りをして……」
ヒスイの声には、冷たさよりも苛立ちがあった。
「かなり胸糞悪い話だわ。」
「弱い人間の方が生きやすいって、むざむざと見せつけられてるみたい。」
その言葉に、チグサはただ短く息を吐いた。
作り話だと、言い訳のように笑うこともできた。
でも――そうしなかった。
「……そうだね。」
画面に光る監視映像を見つめたまま、チグサは静かにうなずいた。
そして、ぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
「この問題を作った時にね……思ったんだ。」
「“強い人”だけが勝つとは限らないし、“弱い人”が正義とも限らない。」
「でも、強い人にも、弱い人にも――必ず“猛毒みたいな切り札”があるんじゃないかなって。」
ヒスイは少し目を細める。
チグサの言葉には、軽さがなく、まるで自分を語っているような響きがあった。
「なんとなくね……今の私っぽいなって思ったから、らめ先輩に教えたんだ。」
チグサは少し笑って言った。
「多分、“神化薬”なんてものを考えた人も、同じこと思ってたのかも。」
その名前を聞いた瞬間、ヒスイの指先がぴくりと動いた。
しばらく黙っていたが、やがて小さく呟く。
「……神化薬。」
「それについて、知り合いから少しだけ聞いたんだけどさ。」
チグサが驚いたように顔を上げる。
ヒスイは目線をモニターに戻したまま、淡々と続けた。
「何人もの人間が、それらしいものを試したらしい。」
「でも、“完成した”という話は、ひとつも聞かない。」
チグサは唾を飲み込みながら、思わず尋ねた。
「……それって、私に話していいの?」
ヒスイは小さく笑った。
「大丈夫。学校とはまったく関係ない場所の話だから。」
そして、ふと視線を外に向け、少し遠い目で言葉を足した。
「――“赤目で銀髪”の、おっかねぇ施設の先輩から聞いた独り言。」
チグサの顔に緊張が走る。
けれど、ヒスイの表情はそれをからかうような落ち着きに戻っていた。
「神化薬ってのは、あくまで“都市伝説”の話。」
「それに値する薬は、医学界ではまったく別の呼び名で呼ばれてるらしい。」
チグサが息を呑む。
ヒスイは、ほんの少しだけ声を低くしてその名を告げた。
その響きが放たれた瞬間、部屋の空気が一気に冷えたように感じた。
蛍光灯の光がかすかに瞬き、モニターの中の映像が一瞬、砂嵐のように揺らめく。
チグサは息を詰め、ヒスイを見た。
彼女はただ、淡々と画面を見つめ続けていた。
「――“秘められしアゾート”。」