ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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秘められしアゾート
開天闢地


 冬のある日。

 セツカの大きなお屋敷、その書斎と思しき一室は、外の冷気とは裏腹に静かで穏やかな空気に満たされていた。だが、その空気は一瞬で張り詰める。

 

 「お前、自分が何言うとるんか解っとんのか!?」

 

 怒声と共に、樋口楓が私服姿で立ち上がり、セツカの胸倉を掴み上げていた。

 整った眉がきつく寄せられ、目は怒りに燃えている。

 

 セツカは、胸倉を掴まれたまま顔をしかめ、しかし怯むことなく睨み返した。

 

 「うっせえな……ギャーギャー言うんじゃねえよ」

 

 低く押し殺した声に、本性の滲む鋭さが混じる。

 その目には、一切の迷いもなく、楓の怒気を受け流すどころか、ぶつけ返す勢いがあった。

 

 「何のために準備してきたと思ってんだ」

 

 その言葉には重みがあった。

 積み重ねた計画と覚悟、その全てを背負うような声。

 

 「どの道、ここでやらなきゃ沢山の子供が犠牲になる」

 

 楓の手を無理に引き剥がし、セツカは一歩後ずさりして椅子に腰を落とす。

 乱れた服の襟を整えながら、静かに深く息を吐いた。

 

 楓の眼光はなおも鋭く、まるで今にも再び胸倉を掴まんばかりの勢いだった。だがその前で、セツカはふっと目を伏せ、落ち着いた所作で襟元を指で整える。

 

 「それにもし、アゾートの一件でΣが動くなら――」

 整った声色は、先程までの荒々しさから一転して、どこか優雅ですらあった。

 

 「奴らを潰すまたとないチャンスになりますわ」

 

 柔らかな口調で語られるその内容は、決して穏やかではない。

 むしろ、非情な計算が練り込まれていることを、楓は敏感に感じ取った。

 

 「……お前の妹やサンゴちゃんも巻き込むんか……?」

 

 楓の声が震える。怒りか、哀しみか、それとも別の感情か――その揺らぎが、言葉の端々ににじんでいた。

 

 セツカは一拍置き、顔を上げると、静かに、しかし確かな意志を込めて言った。

 

 「あんな人殺し、妹だと思ってませんもの」

 

 その言葉の冷たさは、凍てつく冬の空気すらかすむほどだった。

 そしてその瞬間、楓の怒気とは違う意味で、部屋の温度が一気に下がったような錯覚を覚えさせた。

 

 

 

 

 

 

 

 冬の夕焼け。

 

 街の灯りが色づき始め、サンゴの家の近所でも、家々の軒先にはイルミネーションが飾られ始めていた。ツリーのシルエットやトナカイのモチーフ、ちらちらと瞬くライトが、寒空の下できらびやかに揺れている。

 

 サンゴはマフラーをふわっと外しながら玄関を開け、眼鏡を外したまま、弾むような声で叫んだ。

 

 「お母さンゴ、ただいま〜!」

 

 靴を脱ぐのもそこそこに、そのまま廊下を駆け上がり、リビングへ。

 

 台所では、菊芽がエプロン姿で皿洗いをしていた。振り返りもせず、いつもの穏やかな声をかける。

 

 「おかえり、サンゴ。……クリスマス、何か予定あるの?」

 

 唐突な問いかけだったが、サンゴは間髪入れずに笑顔で答える。

 

 「何もないから、家で動画見てるよ!」

 

 その返答を聞いた瞬間、菊芽は深いため息をついた。

 

 「クリスマスにねぇ……」

 

 ぽつりと、洗い物の音に紛れて漏れた小さな呟きが、サンゴの心に刺さった。

 

 ――グサリ。

 

 言葉では説明しにくい、不意打ちのような痛みだった。

 

 「な、何が悪いのか!!」

 「クリスマスに動画見てて何が悪いのか!!」

 

 やけくそ気味に反論するサンゴの声は、若干裏返っていた。

 

 だが、菊芽はどこ吹く風といった様子で、淡々と続ける。

 

 「クリスマスにねぇ……」

 「いやぁ……まぁ……ンゴだけじゃなくて、セツカもそうだけど……クリスマスにねぇ……」

 「一人で画面に向かってねぇ……」

 

 そのたびに、サンゴのこめかみに怒りが蓄積されるようだった。

 

 「――あああああああああああ!!!!!」

 

 ついに悔しさを爆発させ、全力で発狂するサンゴ。

 その叫びは、静かな冬の夜に、見事なエコーをかけて響き渡った。

 

 「ンゴはこんなに可愛いのにねぇ……」

 「なんでだろうねぇ……」

 

 淡々と、それでいて地味に刺さるその呟きが、洗い物の音とともにサンゴの耳に届く。

 

 「……あああああああああ!!」

 

 ついにサンゴは再度の絶叫をあげ、キィッと床を蹴ってリビングを飛び出す。

 廊下を全力で駆け上がり、階段を踏み鳴らしながら自室へ。

 

 「もぉ~~~~~~~っ!!!」

 

 バタンッ! 勢いよく扉を閉めると、サンゴは手に持っていたバッグを放り投げる。

 ソファの上にあったクッションが跳ね飛び、部屋の隅でカランと何かが転がる音がしたが、もう気にも留めない。

 

 「うるさい!黙れ黙れ黙れ黙れぇ!!」

 

 叫びながら、その小柄な身体をベッドにダイブさせる。

 顔を枕にうずめたまま、足をばたんばたんと上下に蹴りつけ、布団がぐしゃぐしゃに乱れていく。

 

 「なんでぇ……!なんでそんなこと言うのぉ……!」

 

 声は涙こそないが、完全に“悔し泣き寸前”のそれだった。

 

 何度も足をばたつかせ、枕をぐしゃぐしゃに抱きしめ、頭をベッドに押し付けて――

 そのまま、しばらくの間、布団の上でサンゴは全身で抗議を続けた。

 

 やがて、静寂。

 ゼェゼェと少しだけ荒い息が部屋に満ちる中、サンゴはぷいと顔を横に向け、開き直ったような声を出した。

 

 「……もういいよ!」

 

 その言い方は、まるで世界に向かって宣言するようだった。

 「一人で遊ぶよ!」と勢いよく言い放つと、勢いそのままに棚からゲーム機を引っ張り出す。

 

 電源を入れ、画面が起動し、ピロリと軽快な効果音が鳴る。

 

 その瞬間、サンゴの目元には、涙こそないが、明らかな“意地”が灯っていた。

 

 「一人でも! 全然楽しいし!!」

 

 サンゴは布団に包まったままゲーム機を握りしめ、画面を睨みつけていた。

 キャラクターが敵にやられても、タイミングをミスしても、ひたすら不機嫌そうに操作を続けていた。

 

 ピコン。

 

 スマホが小さく震え、サンゴは視線だけでそれをちらりと見た。

 

 《らめ先輩といるんだけど、この後カラオケ行かない?》

 

 送信者――西園チグサ。

 

 サンゴは瞬間、目を細めて冷ややかに息を吐いた。

 

 「……頼むから練習してくれ……」

 

 小声で吐き捨てるように呟き、スマホをそっと画面下向きに伏せた。

 そのままゲーム画面に視線を戻すも、操作する指に力が入らない。

 

 チグサは相変わらず演劇の練習をサボり、らめ先輩と遊んでばかり。

 なのに、なぜかそれが――少しだけ、羨ましかった。

 

 画面のキャラがまたやられ、ゲームオーバーの音が虚しく鳴る。

 

 サンゴはふと、何かに気づいたように目を見開いた。

 ゲーム機をぽすんと横に置き、スマホを勢いよく手に取る。

 

 そのままベッドからガバッと飛び起き、制服のまま鏡を一瞥し、

 

 「……っ」

 

 無言でクローゼットを開け、私服に着替え始めた。

 髪を軽く整え、マフラーを首に巻きながら、バッグにスマホと財布を突っ込む。

 

 玄関の扉が勢いよく開き、パタン、と閉まる。

 

 サンゴは何も言わず、夜の街へと駆け出していた。

 きらめくイルミネーションが並ぶ通りの向こう、彼女の表情は強がり半分、でもどこか――ほんの少し、期待の色も滲んでいた。

 

 カラオケボックスの受付を済ませ、部屋のドアを開けた瞬間――

 

 「来たーっ!これ神引きじゃん!?」

 「うおぉぉ!?おめでとチグサちゃん!!待って、ワンチャン私も……!」

 

 室内には既にチグサと空星きらめの声が響き渡っていた。

 二人ともソファの上に胡座をかき、スマホを手に夢中で画面をタップしている。画面には煌びやかな演出、ガチャの光の演出が映し出されていた。

 

 チグサは満面の笑みでスマホを掲げ、きらめは青いジャージ姿のまま身を乗り出して画面を覗き込む。

 

 「すっげー!限定引いてるし!え、え、待って、サンゴちゃんも引こうよ!このタイミング絶対来てる!」

 

 サンゴは無言でドアを閉め、ぽすんとソファに腰を下ろすと、チグサときらめの熱気に少しだけ押されながら、静かに横目で眺めた。

 

 ……らめ先輩って……Σのエージェントなんだよね。

 

 先日、橋の下で見せた、冷たい目と、あの口調――瞳孔の開いた恐ろしい顔。人の命を重さで計るような、非情で合理的な判断力を持った“天使”の眼。

 

 らめ先輩が、新東京ポートのエースだなんて。そう思いながら、横目できらめを見つめる。

 

 きらめは今もスマホを握りしめ、キラキラした目でチグサにキャラの性能や背景を語っていた。

 小さく笑って、楽しそうに身振り手振りを交えながら、推しキャラの必殺技演出について話している。

 

 その姿は、どこにでもいるような年相応の女の子で――あの日の“裏の顔”など、まるで嘘だったかのようだ。

 

 チグサが「トイレ行ってくる〜」と軽い調子で立ち上がり、ドアが閉まる。

 室内の喧騒が少し落ち着き、BGMと遠くの廊下の足音だけが響く。

 

 きらめはスマホをテーブルに置き、ストローのついた紙コップを手でくるりと回した。

 その横顔は、先ほどまでの無邪気な笑顔が嘘のように、どこか静かだった。

 

 「サンゴちゃん」

 

 ふいに名前を呼ばれ、サンゴはびくりと肩を揺らす。

 

 「……なに?」

 

 きらめは、いつもの柔らかい目つきのまま、しかし言葉は真っ直ぐだった。

 

 「今度、一緒に行こっか」

 

 「……どこに?」

 

 きらめは一拍だけ間を置き、さらりと告げる。

 

 「山」

 

 サンゴの思考が一瞬止まる。

 

 「……山???この季節に?」

 

 「キャンプにはもう寒いよ???」

 

 聞き返す声には半分笑いが混じっていたが、きらめは冗談ではなかった。

 

 「いや……鬼に頼んでもいいんだけどさ」

 

 きらめは視線をテーブルに落とし、紙コップの影が揺れる。

 

 「やっぱり、Σと仕事する以上はね。ちょっとは現場の知識、身につけた方がいいと思うの」

 

 その声には迷いがなかった。

 そして、次の言葉だけは、部屋の温度を一段階下げた。

 

 「世怜女の連中から、もう聞いたかもしれないけど」

 

 きらめは、目だけでサンゴを見る。

 

 「Σはね、足手纏いになるくらいなら――処分するのが鉄則だから」

 

 その言い方には感情がほとんどなく、ただ“事実”として置かれた。

 

 サンゴはきらめの言葉に眉をひそめ、少しだけ身を引いた。

 それでも、目はまっすぐに向けたまま、小さく反論する。

 

 「……でも、市街地で活動するΣに従軍するなら、サバイバル訓練なんて……必要ないんじゃないの?」

 

 その声には疑念と戸惑いが滲んでいた。

 カラオケの部屋には、曲の待機音が流れ続けていたが、二人の間にはまるで空気が凍ったような沈黙があった。

 

 きらめは一つ頷いた後、口元を少しだけ引き締めて答える。

 

 「……今回の“神化薬”の一件に、本気で絡むつもりなら」

 

 その目は、先ほどまでのきらめではなかった。

 冗談のかけらもなく、真剣な“現場の人間”の目だった。

 

 「山籠りだけは……覚悟しておいた方がいい」

 

 サンゴが何かを言いかける前に、きらめはさらに言葉を継いだ。

 

 「先日、飯沢って人……遺体で見つかったの、知ってる?」

 

 サンゴは小さく頷く。

 

 「その遺体、見つかった場所がね――人里から何十キロも離れた、山の奥深くだったの」

 「しかも、その近くの廃屋……使われてなかった空き家の机から、神化薬の成分となる薬品の痕跡が見つかってる」

 

 サンゴの手が、無意識に膝の上で拳を握る。

 

 「つまり……神化薬は、シヴィルトやヴァルテスで作られた駄作の大元が持ち出されて、その後、山の中で改造されてたってこと?」

 

 「もしそれが本当に神化薬の素材であれば、そうなるだろうね」

 

 きらめは頷いた。

 

 「テロリストが人目を避けて山を選ぶのは、別に珍しいことじゃない」

 

 そう言うと、きらめは視線を宙に投げながら、静かに口を開いた。

 

 「国際的なテロ組織も、山岳地帯に潜伏してた。日本の宗教集団も、薬品の合成や訓練のために山奥に施設を作ってた」

 

 「誰にも見つからず、しかも物音も煙も隠しやすい。山はね、ある意味で一番安全な拠点になるの」

 

 その口調は、あまりにも落ち着いていて――

 まるでそれが日常の一部であるかのように響いていた。

 

 「もし、そういう連中がこの事件の裏に関わってるなら……サンゴちゃんも、山籠りくらいは、覚悟しておいた方がいいよ」

 

 

 

 

「でさ、このキャラのイベント、次の更新で復刻するかもって噂があってさ〜!」「マジで!?推し引けるチャンスやん!!」

 

 きらめとチグサの笑い声が弾け、カラオケの部屋は一気に賑やかさを取り戻していた。

 サンゴはその背中に視線を向けながらも、どこか遠い目をしていた。

 

 ――山籠り。

 

 きらめが言った言葉が、思考の奥で何度も反響していた。

 自分が踏み込もうとしているものの深さ、重さ――それがようやく、現実として肌に触れ始めていた。

 

 ピリリリリッ――

 

 スマホが突然震える。

 サンゴは小さく肩を跳ねさせて画面を見る。

 

 「……非通知?」

 

 表示されたのは、番号非通知からの着信。

 一度切れても、数秒後にはまた鳴り出す。

 

 ……また、また。

 

 なにこれ……さすがに不審に思い、サンゴは受信履歴を開く。

 すでに十数件以上の不在着信があり、そのしつこさに背筋が冷たくなる。

 

 なんか……気持ち悪い……サンゴはそっとスマホを伏せ、テーブルに置いた。

 

 ふと、以前環崎に言われた言葉が蘇る。

 

 ……肝心なところが抜けている。ヒスイの言う通り。

 

 その時は怒りのままに睨み返していた。でも今は、なぜか胸の奥がざわざわと騒がしかった。

 

 ピコン――今度はメッセージ通知が届く。

 

 無視しようとしたそのとき、視界に映った送信内容に、サンゴの心臓が一瞬止まったように感じた。

 

 《周央さん。夏頃に娘・凜のことを真剣に聞いていただけたこと、感謝いたします。あなたが情報屋であることを知人から伺いました。図々しいのは承知しておりますが、そのことで重ねて相談したいことがあります》

 

 ――凜。

 

 その名前は、忘れようにも忘れられない。

 

 夏の日、水族館の近くで出会った、あの男性。

 施設の職員だと名乗り、優しげに娘の話をしてくれたあの人。

 その時すでに、「亡くなった娘は今、墓で眠っている」と語っていたはずだった。

 

 サンゴは唇を震わせながら、ゆっくりとスマホを手に取る。

 メッセージを読み返し、何度も瞬きをしても、文字は変わらなかった。

 

 家に戻ったサンゴは、自室の明かりをつけることなく、ベッドの上に座り込んでいた。

 窓の外には、近所のイルミネーションがぼんやりと瞬いている。

 その淡い光を背景に、サンゴはスマホの画面だけを見つめていた。

 

 表示されているのは、例の“彼”――水族館の職員を名乗る男性からのメッセージ。

 メッセージの続きが、ぽつり、ぽつりと届くたびに、胸の奥がひどく軋んだ。

 

 《実は、凛は事故死ではないんです》

 

 その一文を見た瞬間、サンゴの指先が震えた。

 目を見開いたまま、画面から目が離せなかった。

 

 《……私の家は、昔からのしきたりが色濃く残る家系でした。男尊女卑が根強く、特に女性には“家を汚すな”という暗黙の圧力がありました》

 

 《凛はそれに耐えられず、ある日、家を飛び出しました》

 

 《ですが――》

 

 《数日後、家の者に見つかり、無理やり連れ戻されたんです。そして、“家に泥を塗った”と絶縁され……シヴィルトに売られました》

 

 《その後、私は彼女の行方を探しましたが……しばらくして、“亡くなった”という報せだけが届きました》

 

 サンゴの指先が、スマホの端を強く握りしめる。

 

 言葉にできないものが、胸の奥で暴れていた。

 それは怒りなのか、哀しみなのか、自責なのか――ただ、涙ではなかった。

 

 ……嫌な予感がする。

 

 ――凛は、事故で亡くなったのではなかった。

 

 身寄りのない子供を預け、その信仰のままに身売りをさせる"シヴィルト"。

 

 同じような組織"ヴァルテス"から来た少女兵のヒスイ。

 

 心優しい、優しすぎるとまで言われていた、そんな東堂コハクのルームメイト。

 

 ――その兵士の名前もまた「リン」であった。

 

 スマホの画面に、再びメッセージの通知が現れる。

 サンゴは震える指でスワイプし、内容を確認する。

 

 《どんな情報でもいい。娘を殺した犯人を知りたいんです》

 

 《人を売る組織なんて今時あるとは思えません。きっと、娘は誰かに殺されたか、あるいは今も生きていると思うんです》

 

 《……例えそれが本家の人間でも、恐れはありません》

 

 その最後の一文に、サンゴは無意識のうちに呼吸を止めていた。

 スマホを握る手から、じわりと冷たい汗がにじみ出る。

 

 「……っ」

 

 全身の力が抜けたように、サンゴはベッドに背を預けた。

 柔らかいマットレスが体を受け止める音だけが、静かな部屋に響く。

 

 視線の先、天井の模様がぼやけていく。

 喉の奥から、絞り出すように言葉が漏れる。

 

 「……どうしよう……」

 

 ベッドの上、静まり返った部屋の中。

 サンゴは、深く息を吸いながらスマホを見つめていた。

 

 真剣な表情で、キーボードをゆっくりと打つ。

 

 《失礼でなければ、あなたの苗字を聞かせていただけませんか》

 

 送信ボタンを押した数秒後、即座に返事が届く。

 

 《物部です》

 

 その一言に、続くようにもう一通。

 

 《こんなことに巻き込んで、ごめんね》

 

 サンゴの指がぴたりと止まり、画面をじっと見つめる。

 

 「……つまり、物部凛……か……」

 

 呟くように言葉をこぼすと、スマホをそっと枕元に置く。

 そのまま両手を力なく広げて、身体ごとベッドに沈み込んだ。

 

 天井を見上げる。

 どこまでも静かな、真夜中の部屋。その静けさが、かえって心をざわつかせる。

 

 思考は巡り、感情は揺れていた。

 でも今はただ、身体が動かない。脱力したまま、サンゴは目を細め、静かに天井を見つめ続けた。

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