翌日、サンゴはいつになく緊張した面持ちで、環崎の教頭室の椅子に座っていた。
手元では制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、背筋を伸ばしながらも、どこか所在なげに視線を彷徨わせている。
しんと静まり返った部屋に、控えめな声がぽつりと落ちた。
「……あの……」
環崎は教卓の前で資料をめくりながら、「ん?」と軽く返事をする。
サンゴは視線を伏せたまま、声をさらに小さくした。
「コハちゃんの……昔のルームメイトの名前って……聞けたり……」
その言い方はあまりにも気弱で、今にも消え入りそうだった。
環崎は顔を上げず、ペンを走らせたままあっさりと言った。
「本人に聞けばいいだろう」
あまりに軽いその返しに、サンゴは困ったように眉を寄せる。
「で、でも……」
声はか細く、視線は机の角をただ見つめていた。
その様子を見て、環崎はふっと息を吐いた。
「……まあ、いいか」
そう呟いて資料を閉じ、背もたれに寄りかかる。
「物部凛だよ」
その名前が、部屋の空気を一変させた。
サンゴの呼吸が浅くなり、心臓が強く脈打つ。
「はっきり言って、向いてない。なんでΣのエージェントになったのか解らんような奴だったがな」
「まあ……磨けば光りそうな要素はあったんだが、もう後の祭りだろう」
あまりにも淡々と語られる過去に、サンゴの口から自然と言葉がこぼれる。
「……やっぱり……」
じゃあ、あの人の娘さんを殺したのは。
やっぱり……コハちゃんなんだ。
身体の中の血が一気に冷たくなるような感覚。確かな“事実”がそこにあった。
静まり返った教頭室で、サンゴは一人、深い確信に囚われている。
昼休みの東校舎。
静かな廊下を、サンゴは一人、複雑な表情で歩いていた。
その画面にはまた、彼――水族館の職員だった男性からの新着メッセージが表示されていた。
《何か、分かりましたか?》
短い一文。しかし、それを見るたびに、サンゴの心はぎゅっと締め付けられる。
喉の奥が乾き、胸のどこかがじんわりと痛む。
……答えられない。でも、何も感じていないわけじゃない。
サンゴはスマホをポケットにしまい、目を伏せながら黙々と歩を進めた。
やがて、見慣れた扉の前に立ち止まる。
演劇同好会の部室。誰も使っていない、ひっそりとしたこの場所が、今のサンゴには心の避難所だった。
鍵を差し込み、静かに開錠する。
軋む音を立てて開いた扉の先は、陽が差し込む、静かな空間だった。
誰もいない部室に入り、サンゴは制服のまま、ソファにぽすんと身を投げ出す。
鞄を横に置き、仰向けになったまま、じっと天井を見つめる。
……本当は、ずっと一緒にいたかった。
あの日の光景が、脳裏に浮かぶ。
大好きな親友を、その手で殺めたと聞かされたあの日。
東堂コハクの瞳の奥に、確かに苦しみが滲んでいた。
……あの人の、あの目も。
墓に眠ると聞いていた、あのリンの話をしていた男性の、優しいが、どこか抑えきれない悲しみと諦めを宿したような表情。
――どうすればいいの。
小さく目を瞑り、ひとつ呼吸を吐いた。
「……どうしよう……」
ぽつりと漏れたその言葉とともに、意識がふっと揺らぐ。
心の疲労に導かれるように、瞼は重く閉じられ――
サンゴは、そのまま静かに、眠りに落ちていった。
演劇部の部室には、やわらかな日差しと、サンゴの静かな寝息だけが満ちていた。
空は、血のように滲む深紅の夕焼けに染め上げられていた。
朽ちかけた鉄骨が突き出すその場所――それは、かつて何らかの博覧会が催されていた跡地。だが今は、時間に見放された死地に等しい。
ヒスイは無言のまま、色褪せた案内板の傍を通り抜け、錆びた鉄柵を軽やかに乗り越える。
彼女の足音は、風に乾いた地面をわずかに鳴らすのみ。まるでこの空間自体が、音を拒んでいるかのようだった。
不意に、すぐ傍の朽ちた遊具に停まっていた烏が一羽、鋭い鳴き声とともに飛び立った。
その音に呼応するように、あちこちのオブジェ――半壊したモニュメントや錆に覆われた彫像の上からも、鳥たちが一斉に羽ばたき、重く鈍い羽音を残して空へ舞い上がっていく。
その群れの中には、見慣れぬ猛禽の姿も混じっていた。
鷲。鋭い眼光がわずかにヒスイをかすめ、やがてそのまま群れに紛れて、空の彼方へ消えていった。
ヒスイは、それらに目もくれずに歩を進める。
道は、舗装が剥がれ、草に侵食されていた。
途中で断ち切られた橋、地割れによって崩れた通路、かつての人工構造物が風化と共に牙をむいていたが――
ヒスイの足取りは止まらない。
崩れた段差を、軽やかな跳躍で超え。
斜面となったスロープを、わずかな指先の力でよじ登り。
数メートルの裂け目すらも、地面を蹴って空中を滑るようにして飛び越えていく。
その身体に、迷いも緊張もなかった。
まるで彼女自身が、ここに適応した異物のように自然だった。
歩を進めるにつれ、空を飛ぶ鳥たちの数が次第に増えていく。
最初は数羽だった群れが、やがて十、二十と膨らみ、空を覆うように旋回する。
夕陽を背にしたその黒い影は、不気味なほどに静かで、まるで何かを見張っているようだった。
やがて、ヒスイの視線の先に、それは現れた。
古びた人形館――歪んだ三角屋根、割れた窓ガラス、壁面に剥がれかけた絵柄。
そのどれもが、時間に呑まれたまま置き去りにされたような風情を漂わせていた。
だがヒスイは足を止めない。
黙々と、人形館の扉の前に立ち、きしむ音を立てて中へと踏み入れる。
人形館の扉が、ゆっくりと軋む音を立てて開く。
ひんやりとした空気が中から漏れ出し、ヒスイの髪を揺らした。
中に足を踏み入れると、そこには――静寂と、人形たちの視線だけが満ちていた。
大小様々、年季の入った和洋折衷の人形たちが、所狭しと並んでいた。
磨耗して色あせた頬、片目の取れた顔、首が不自然に傾いた陶器の少女――
それらが、何も語らず、ただ黙ってヒスイを見つめているように感じられた。
その不気味な空間を、ヒスイは一切表情を変えることなく、ただ淡々と歩みを進めていく。
視線も逸らさず、足取りも乱さず、すれ違う人形の列を無言で通り抜ける。
やがて、朽ちた木造の階段を見つけると、片手で手すりを払いながら軽やかに駆け上がった。
途中、ギシギシと不穏な音を立てて揺れる段差すらも、ヒスイにとっては何の障害でもない。
階段の先、割れた壁から外の光が差し込んでいた。
そしてその向こうには――螺旋状に上空へと続く、鉄製の外階段があった。
その階段は、朽ちて今にも崩れそうなほど錆びていた。
風が吹き抜けるたびに、ミシミシと軋む音が響く。
だがヒスイは、臆することなく壁の隙間から助走を取り、飛んだ。
まるで身体が風と一体化したかのように、しなやかに、正確に。
踵が鉄に当たる音が一瞬響き、次の瞬間にはもう、彼女はその螺旋階段を駆け上がっていた。
そして、その最上段――。
そこでヒスイが目にしたのは、一つの巨大なオブジェ。
元は何かの展示用だったらしいが、今では赤錆にまみれ、形すらよくわからない塊と化していた。
そのオブジェにもたれかかるようにして、誰かが座っていた。
――夜見れな。
漆黒と純白のツインテールに、赤い瞳。
半身は天使、半身は死神。
その姿は天の落胤の如し。
彼女は片手に持った飼料を、周囲に集まった烏や鷹に器用に撒いていた。
その異様なまでに従順な鳥たちは、まるで彼女の手足であるかのように、静かに群がっている。
夜見はヒスイの姿を見ると、にこりと笑った。
その笑顔には、どこか子供じみた無邪気さと、背筋が冷たくなるような“別の何か”が混ざっていた。
「本当に一人でここまで来れたんだね〜!」
鷹の羽ばたきが風を巻き、夜見の髪が揺れる。
「さすが、殺人鬼さんだ」
その声は甘く、しかし含んだ棘の鋭さがヒスイの皮膚を突き刺す。
彼女の周囲には、まるで生きた結界のように鳥たちが集っていた。
ヒスイは黙したまま、揺るがぬ目で夜見を見返していた。
その立ち姿は、まるで鋼のように研ぎ澄まされ、どんな不安定な場所でも、決して崩れることのない均衡を保っている。
獣のように研ぎ澄まされた勘と、兵の冷静さを湛え――
彼女は、その“怪物”と向き合った。
微かに聞こえるカーテンの揺れる音と、屋外の虫の鳴き声。
サンゴが目を開けると、部室の天井にはすでに夜の色が滲んでいた。
視界の中に、しゃがんでこちらを覗き込む顔が浮かぶ。
「おはよう」
柔らかく笑う東堂コハクの声が、そっと響いた。
「……こ、コハちゃん!?」
サンゴは勢いよく上体を起こし、そのままコハクの両肩に手をかけて揺さぶる。
「今何時!? 僕、何時間寝てたの!?」
慌てて手元のスマホを見る。
画面に表示された時間は、すでに19時を過ぎていた。
「そ…そんなバカな!!」
サンゴは頭を抱えてパニックになりかけるが、コハクは微笑を崩さずに言った。
「大丈夫。今日は私の部屋に泊まってけばいいよ?」
その言葉に、サンゴはぴたりと動きを止めた。
だが、凛のことが頭に過ぎり――胸の奥がチクリと痛んだ。
「……スピちゃんの部屋行くよ」
目を逸らしながら、どこか無理やり明るい声で続ける。
「ほら……コハちゃんの部屋泊まると、他の生徒に何されるか解らないしさっ!」
サンゴは無理な笑顔を作ったまま、ソファから立ち上がり、鞄を掴んで部室を飛び出した。
「じゃ、じゃあね!!」
その背を追おうとするコハクに返事をする間もなく、扉が閉まる。
サンゴは一目散に、暗くなった東校舎の廊下を走り出した。
夜の校舎は静まり返り、窓の外には星が瞬いていた。
その中を、逃げるように――でもどこか泣きたいような顔で、サンゴの足音だけが響いていった。
夜の東校舎。
冷たい空気が廊下を這うように流れていく中、サンゴは一つの部屋の前で、手を合わせるようにして声をかけていた。
「スピちゃ〜ん、遊びましょ〜」
トントン、と小さく扉を叩きながら、甘えるような声で呼びかけ続ける。
その部屋には灯りが点いており、中に誰かがいることは間違いなかった。
しかし――なかなか扉は開かない。
(ん〜? 聞こえてないのかな?)
サンゴは扉にそっと耳を当てる。
……カチャ、コト。
わずかな生活音。明らかに誰かが中にいる。
「開けてよ〜!ンゴ凍えちゃうよ〜!」
再び声を張り上げて呼びかけると――
ガチャリ。
金属音と共に、ようやく扉が開いた。
中から現れたのは、青いジャージ姿の北小路ヒスイ。
髪を後ろで軽く結び、濡れた前髪が頬にかかっている。どうやらシャワーの後のようだ。
彼女は何も言わず、じっとサンゴを見つめていた。
サンゴは両手を胸の前で組んで、目をうるうると潤ませながら見上げる。
「スピちゃん……」
しかしヒスイは、溜息をつくように目を細めると、そのまま無言で扉を閉めようとする。
「え、ええっ!?ちょ、待っ――!」
焦ったサンゴは、咄嗟に閉まりかけた扉の隙間に身体を滑り込ませる。
「わぁぁっ!お願いですから入れてください!寒いのは嫌だぁ!」
顔をくしゃくしゃにしながら、半泣きでヒスイに訴える。
「わぁ〜〜〜ん!スピちゃ〜んっ!」
相変わらず扉の前で必死に訴えるサンゴ。
ヒスイは扉越しに何とか押し返そうとしながら、ため息をこぼす。
「ちょっと……うるさ……」
その時、部屋の奥から、落ち着いた声が届いた。
「入れてあげなよ〜」
ヒスイの動きが止まり、サンゴは一瞬、何か気配を感じて首をかしげる。
ヒスイは扉を支えたまま、小声でぼそりと呟く。
「……今、お客さん来てるから」
そう言って扉から身を引くと、サンゴは思わず拍子抜けして「え、え?」と驚きつつも、素早く中に滑り込むように入った。