室内は落ち着いた照明に照らされ、こぢんまりとしたカーペットの上に、机と座布団が置かれていた。
その机のそばに、長い黒髪を持つ女性が胡座で座っていた。
夜見れな――その瞳は、まるで暗闇を切り裂くように冴えた赤。
しかし、その表情はどこか朗らかで、柔らかい微笑をたたえていた。
ヒスイが指を差して言う。
「この間の、笹木さんのお友達だよ」
サンゴは目をまんまるに見開いて、れなを凝視する。
「……なんか君……誰かに似てるって言われない?」
そして、探るような口調で言いかける。
「君の苗字って、もしかして……」
夜見は穏やかな微笑のまま、言葉を遮った。
「夜見れなだよ。この前はニアミスだったみたいだね、天下無双ちゃん」
その言い回しに、サンゴはびくりと肩をすくめる。
「あ……うん……」
どこか様子を窺うように頷くと、すぐ隣のヒスイに身を寄せ、小声で囁いた。
「どう見ても近藤れなじゃないか…!一体この人、何者なんだい!?」
しかしヒスイは、即座に首を横に振って答える。
「そんな人知らん」
サンゴは焦ったように食い下がる。
「潮留博士の先輩で、メンタリストの天才高校生だよ!20年前に病死したはずなんだ!」
その早口の興奮に、ヒスイは鋭く睨んで低く言い放った。
「……迷惑かけるなら、摘み出すぞ」
その一言で、サンゴはぴたっと黙り、素直に口をつぐむ。
「……ごめんなさい」
ヒスイはドライヤーのコードを巻きながら、何気なくサンゴに言った。
「夜見れなさん。加賀美インダストリアルの懐刀の一人で、笹木さんの友達」
その紹介に、サンゴは目を瞬かせながら夜見の顔をもう一度見つめ直す。
夜見は肩をすくめるように笑って、「まあ、私はあんまり会社にいないけどねぇ〜」と気楽な口調で答えると、サンゴに興味深げな視線を向けた。
「……あんた、不思議。魂が二つあるんだね。まるで芙蓉みたい」
ふとした独り言のように続ける。
「いや、山繭蛾かな? 年相応の本性を聡明な皮で隠してるみたい」
不可解な例えにサンゴは少し戸惑いながらも、問い返した。
「……どうして、そう思うの?」
夜見は微笑を浮かべながら、体をカーペットにごろんと寝転ばせた。
「思うんじゃなくて、全部私には分かるの。どうしてかは秘密」
くるりと一回転し、仰向けになって天井を見上げるその姿は、まるで猫のように無邪気で、どこかつかみどころがない。
ヒスイはドライヤーの続きを始めながら、あまり関心のなさそうな声で言う。
「まあ、間違ってはいないね」
そして手早く髪を整えながら、さらりと補足する。
「夜見さん、シヴィルトの子だったから話聞きたくて来てもらったんだよ。ヴァルテスとはまた違う神化薬絡みの知見を聞きたくてね」
その言葉を聞いた瞬間――
サンゴの背筋が、ビクリと震えた。
……シヴィルト……
凜が売られた先。
その名前を、まさかこんな形で聞くことになるとは思っていなかった。
夜見を見つめるサンゴの瞳が、徐々に揺らぎ始める。
そんな子、今連れて来なくても……
心の中でそう呟いたが、言葉にはできなかった。
風呂上がりのサンゴは、体が火照るまま寝巻きに身を包み、ベッドの端に身体を投げ出していた。
髪はドライヤーで乾かしたが、枕元の空気がほんのり湯気を含んでいる。
部屋の灯りは落とされ、淡い常夜灯の橙が天井を照らしていた。
隣には、同じく寝巻き姿の夜見れなが、同じ布団に潜り込んでいる。
沈黙の中、ただ布団と布団が擦れる音だけが静かに響いていた。
「気になる? シヴィルト」
夜見が不意に声をかける。
その囁きは、まるで夢の続きのようにサンゴの耳へと滑り込んだ。
サンゴが振り返る間もなく、夜見は背後からそっと彼女を抱きしめる。
ぴたりと背中を預けられ、サンゴは一瞬、息を詰めた。
そして――
夜見は、サンゴの手を優しく取り、布団の中で胸の前に組ませる。
「こうやって、毎日お祈りしてたの」
「前世で罪を犯して、現世で身を売られた私たちの罪が……少しでも許されるように」
その言葉は、まるで絹糸のように柔らかく、けれど確かに心の奥を撫でていく。
その意味を噛みしめるほどに、サンゴの胸の奥には何か黒いものが沈殿していく。
「……そんなの、間違ってる」
サンゴは顔を背けながら、吐き捨てるように言った。
その声には、怒りと、嫌悪と、悲しみが混ざっていた。
しかし、夜見は変わらず穏やかな声で答えた。
「それでも、それが私たちの“全て”だったんだよ」
「正しくても、正しくなくてもね」
布団の中、夜見はサンゴの耳元でふと静かに問いかけた。
「でもさ……もし、あんたがシヴィルトの子供だったら、どう思う?」
唐突な問いかけに、サンゴはほんの一瞬、呼吸を止めた。
背中越しに感じる夜見の体温は穏やかで、だけどその声は妙に遠く、冷たくもあった。
「確かに、シヴィルトは――普通の子供たちが育つような場所じゃなかった」
夜見は淡々と語る。
「でも、あんな場所でも、私にとっては“故郷”だったんだよ」
その声には皮肉も哀しみも混じらず、ただ静かな実感だけが宿っていた。
「生まれ育った環境って、簡単に覆るもんじゃない。たとえそれが“洗脳”だって言われても……」
「そこで過ごした日々は思い出になって、学んだことは性格になる。私の“今”を作ってるの」
そして夜見は、サンゴの手をそっと握ったまま、少し間を置いて囁いた。
「……きっと、あんたが探してる人も。それは変わらないんじゃない?」
その言葉は、まるで凛のことを見透かしたようだった。
サンゴは、心を掻き毟られるような感覚に襲われて、小さく声を漏らす。
「……どうして……?」
その問いかけに、夜見はふと口元に笑みを浮かべて言った。
「凛って人……本当にシヴィルトの子なのかな?」
サンゴは瞬間的に顔をしかめ、反射的に口を開いた。
「そんなの……!」
けれど夜見は、その反論を遮るように続ける。
「じゃあさ、あんた……私以外に、シヴィルトの子に会ったことってある?」
その問いに、サンゴは言葉を失い――少しして、小さな声で答えた。
「……ない」
「そう、ないでしょ」
夜見はサンゴの額に自分の額を優しくコツンと当て、静かに言った。
「自分でも、よく考えて動きな」
暗い天井には、なにも映らない。
……なんでだろう
夜見の言葉が、まるで鋭い針のように、何度も何度も胸の奥を刺してくる。
……あの人の娘さんのことを知りたくて、探ってるつもりだったのに。
シヴィルトのこと、何も知らなかった……
思えば、最初からおかしな点はあった。
やりとりしているあの「職員の男性」――確かにメッセージの内容は個人的で、心のこもったものだった。
けれど、それが本当に彼本人だと証明できるものは何もない。
名前も、顔も、所属も曖昧なまま。
……もし、嘘だったら?
そんな考えが脳裏を過った瞬間、ぞくりと背筋が冷たくなる。
だが、それ以上に大きかったのは――サンゴ自身の無知への気づきだった。
ヴァルテスのような、子供をモノのように管理してた研究機関ならともかく……
シヴィルトって、宗教団体だよね……?
夜見が言っていた。「前世で罪を犯した信徒が、現世で贖罪を果たす」ための生活。
その理念からすれば、国家機関が殺人を担わせるために信徒を買い取るなんて――
そんなの、信仰への冒涜だ……
どれだけ闇が深くても、どれだけ金に汚れていても、
「贖罪」という建前すら投げ捨てるような真似を、宗教団体が自ら進んでするとは考えにくい。
……いや、それ以前に
シヴィルトの子供たちの“現実”を、何一つ見ていなかったのは――僕。
気づけば、視界が滲んでいた。
心の中で何かが崩れていく音がした。
確かだと思っていた“真実”が、ひとつ、またひとつ、音もなく形を変えていく。
布団の中、静寂を裂くように、夜見の声が背後から囁かれる。
「……誰かに相談するの、怖かったの?」
サンゴの心臓が、静かに一つ脈打つ。
その言葉に、脳裏に浮かんだのは――
地下駐車場。
あの日、血の匂いと怒号が渦巻いていた場所。
世怜音女学院の襲撃。巻き込まれて命を落とした、あの暴力団員。
自分は、何も知らずに“繋いでしまった”だけの存在だった。
「……怖かった」
ぽつりと、言葉が零れ落ちる。
心の奥で張り詰めていた何かが、緩む音がした。
夜見は一拍置いてから、どこか優しくも淡々と返す。
「そっかあ、なら仕方ないね」
しかし、その口調はすぐに切り替わる。
「……でも、もしかしたらこの人、そういうのも全部知ってて、あんたのこと利用したのかもね」
サンゴは振り向きそうになる体をぐっと抑え、眉を寄せて小さく言う。
「誰が……そんなこと……」
夜見は肩をすくめたような声で答える。
「さあね」
そして少し冷えた声で、続けた。
「それに――あんただって、誰かのことを騙して生きてるんだから。人のことは言えないと思うけどね」
その言葉に、サンゴの喉が詰まり、何も言い返せなくなる。
「……」
夜見はそれ以上は何も言わず、反対側を向いた。
掛け布団がふわりと揺れる。
そして、やがて寝息のリズムが、暗い部屋の中に静かに広がっていく。
サンゴはただ、じっと目を開けたまま。
その言葉の棘を、心の奥でずっと感じていた。