朝焼けの光が街のビル群を照らし始めた頃。
サンゴは制服姿で駅の改札の前に立っていた。
地下鉄の構内はまだ人もまばらで、どこか機械的に静かだ。
電車の発着のアナウンスが、無機質に響く。
その自動改札機の前に、サンゴはピタリと足を止めていた。
手には、交通系ICカード。
目線は正面を見据えたまま、どこか遠くを見つめているようだった。
もし、全部が――嘘だったら
胸の奥に、昨日の夜見の言葉が蘇る。
凛が、本当に事故で亡くなったんだとしたら……
今、あたしがやってることは――
あの人の“悲しみ”を……無理やり抉ってるだけじゃないの?
頭の中に、優しげに微笑んでいた水族館の職員の顔が浮かぶ。
「夏みたいな名前の君が行ってやれば、あいつも少しは涼しくなれるかもしれないな」――そう言っていた彼の言葉が、今では痛いほどに重く胸を締め付ける。
そのまま、力が抜けるようにして改札前のベンチに腰を下ろす。
寒さで頬が冷たい。
まだあたたまりきらない冬の朝が、じわじわと肌を刺す。
サンゴは背を丸めてうつむき、両手で自分の膝を抱いた。
……何をすればいいの?
どうすれば、誰も傷つかずに済むの?
下手を踏めば――あの人が、死ぬ
胸の奥に黒い靄が立ち込めていく。
その重さに、呼吸が浅くなる。
何も分からない。
何が正しいのかも、どこに向かえばいいのかも。
ただ黙って、頭を垂れていた。
動かぬまま、朝の雑踏に取り残されたように。
しばらくベンチに座っていたサンゴは、やがてゆっくりと立ち上がった。
何かを決意したというよりは、身体がただ重力に従ったような動きだった。
感情はどこかへ置き忘れたまま、改札を抜け、ホームへと向かう。
地下鉄のホームは広く、そして驚くほど静かだった。
人影はまばらで、時折すれ違う通勤客の足音だけが無機質に反響する。
蛍光灯の白い光が、無表情に床と天井を照らし、コンクリートの壁には時折、通過した電車の風が空気を歪ませていた。
電車が来る。
低い唸りをあげて減速し、ドアが滑るように開いた。
サンゴは考える間もなく乗り込んだ。
車内には誰もいなかった。
数ある座席のうち、どこにも座らず、ドア付近のつり革に手をかけて立ち尽くす。
車窓の外を、真っ暗なトンネルが流れていく。
映る自分の姿はぼやけて、どこか他人のようだった。
――どれくらい走っただろうか。
ようやく電車が地上へと出て、サンゴは何かに導かれるように、ある駅で降りた。
駅名すら、確認しなかった。
ホームを出ると、朝の陽光がふわりと差し込む。
街の空気は澄んでいて、微かにパン屋か何かの香りが漂っていた。
人通りは少なく、店のシャッターの開く音や、遠くで掃除する人のホウキの音だけが、ぽつりぽつりと耳に届く。
風がサンゴの髪を揺らした。
太陽の光が頬を照らしているのに、心はまるで曇り空のように重たいままだった。
……きれいな朝だな
そう思った自分が、少し不思議だった。
世界はこんなに穏やかで、何事もなかったように朝を迎えているのに。
自分の中だけが――ひどく暗く、沈んでいた。
寮の廊下を歩くサンゴの足取りは重く、それでも一歩ずつ、確かに東校舎のヒスイの部屋へと向かっていた。
白い蛍光灯が規則正しく天井に並ぶ中、その光すらどこか眩しくて、目を細めながら扉の前に立つ。
「……ただいま」
小さく呟いてドアを開けると――
そこには、ジャージ姿のヒスイが立っていた。
「――スマホ、よこせ」
ぶっきらぼうに、そして即座に手を差し出すヒスイ。
その表情は真剣で、まっすぐだった。
サンゴは一瞬で空気の重さを察し、眉を寄せて身を引いた。
「……やだ」
つい、幼い声が口をついて出る。
ヒスイがじり、と一歩前に出ると、サンゴはスマホを背中に隠して、ぷいっと顔を背け、ふくれっ面で後退りする。
「……やだったらやだもん……」
その様子に、ヒスイは心底呆れたようにため息をつき、困った顔で言った。
「お前らしくないぞ」
言葉のトーンは優しくも厳しく、真っ直ぐだった。
「……もう分かってるだろ。そのメッセージが、怪しいってことも」
ヒスイの目がサンゴを捉えて離さない。
その瞳は、優しさと現実の厳しさを、静かに湛えていた。
サンゴは堪えていたものが一気に崩れたように、目を見開いて、唇を噛んだ。
「……だって……」
声が震え、言葉が続かない。
そのまま、サンゴの膝から力が抜けていく。
へたりと床に座り込み、肩を震わせて――
「だって、分かってるのに……どうしたらいいか、分かんなくて……!」
泣きながら言葉を絞り出し、ついには声にならない嗚咽を漏らしながら、サンゴは泣き崩れた。
静かな寮の一室に、サンゴの泣き声が小さく響いていた。
サンゴがすすり泣きを続ける中、ヒスイは見かねたように小さくため息をついて、優しく、しかし真剣な口調で口を開いた。
「じゃあ、やんわりでいいから……何受けたかだけ、ざっくり教えろ」
その声は静かだが、確かに響く。
「また誰か怪我するぞ」
サンゴはぴくりと肩を揺らす。
ヒスイの言葉が、心の深くに刺さった。
「……お前、今、頭回ってないだろ」
「だからさ。そんな簡単に、わかる交渉術なんて思いつかないんだよ」
ヒスイの目は真剣で、サンゴを突き放すことなく、ただ事実を伝えていた。
しばしの沈黙の後――サンゴは鼻をすすって、涙で赤くなった目をこすりながらぽつりと話し始めた。
「……物部凛さんを殺した犯人を……コハちゃんを探してほしいって……依頼をもらったの」
「凛さんは、物部家の家柄を汚したからって……シヴィルトに売られたって、そう聞かされた」
ヒスイの顔がわずかに険しくなる。
「……じゃあ、それをそのまま環崎教頭に話せ」
サンゴが驚いたようにヒスイを見上げると、ヒスイはしばらく黙ったあとで、眉を寄せて首を横に振った。
「……いや、そんなことする必要もないか」
その言葉とほぼ同時に――サンゴのスマホが震えた。
サンゴは反射的にそれを手に取り、画面を見る。
恐る恐る出た電話の向こうから聞こえたのは、いつもの飄々とした声だった。
『それはおかしいな』
『凛は志願兵だ。自分からΣに入ったんだよ』
サンゴは目を見開く。
『それに、シヴィルトはな――そもそも殺生をするΣには、いくら積まれても子供は売らなかったんだ』
『だから、世怜女には、殉職した生徒も含めて……シヴィルト出身は一人もいないよ』
言葉が、まるで氷水のようにサンゴの頭を冷やしていく。
真実と信じかけていたものが、音を立てて崩れていく感覚。
環崎の電話が切れたあと、部屋には重たい沈黙が落ちた。
サンゴはスマホを握り締めたまま、じっと一点を見つめている。
唇はかすかに震え、瞳はどこか虚ろだった。
「……嘘だ……」
ぽつりと、唇が動いた。
「そうやって、マルウェアの時みたいにまた……騙そうとしてるんだ……」
その言葉は、自分に言い聞かせるようで、どこか必死だった。
「最初、この人は……僕に電話してきたんだ……!」
「出なかったから……だから、メッセージにしたんだよ……!」
その声には、信じたいという思いと、不安がせめぎ合っていた。
だが――
『まあ、ここから先はヒスイに取り継ごうかね』
その環崎の声が最後に聞こえて、電話は切られた。
「……了解」
ヒスイがため息混じりに呟きながら、サンゴの方に顔を向けた。
「で? そいつ、電話番号通知してかけてきたの?」
サンゴは言葉に詰まり、うつむいたまま固まる。
「それは……」
その反応に、ヒスイはあきれたように首を振る。
「……どうせ、非通知だったんだろ?」
「今どき非通知に出るやつなんていないよ。お前も、出なかったんだろ?」
サンゴの肩が小さく震える。
ヒスイの声は静かだが、真実を突く鋭さがあった。
「それで、今みたいに“声を聞かせる気はあった”って思い込ませるんだよ」
「お前は、それに――まんまと一杯食わされたんだよ」
ヒスイの部屋の中で、サンゴは床に座り込んだまま、唇を噛みしめていた。
「でも……」
ぽつりと、言い訳のような言葉を探しながら、スマホを握りしめて俯く。
そのとき、隣のカーペットで寝転んでいた夜見が、ごく軽い口調で呟いた。
「そういえばさ〜、物部家について、知り合いにちょっと聞いてみたんだけどさ〜」
サンゴとヒスイがちらりと夜見に視線を向ける。
「今の物部家の当主って、女の人なんだってね〜。金髪で、落ち着いてて、背も低くて、可愛い人らしいよ〜」
その言葉に、サンゴはぱちんと目を見開いた。
――男尊女卑の家柄。
凛が家を出たのも、女性だから蔑ろにされたから。
そのはずだった。
「そ、そんなわけ……」
サンゴは震える指でスマホを操作し、東堂家へと連絡を入れた。
何度かコールのあと、電話に出たのはあの落ち着いた執事の声だった。
『はい、東堂家執事でございます』
「おじさん!」
サンゴは焦りを隠せない声で叫んだ。
「物部家の当主って……会ったことある!? 誰なの、その人!」
一瞬の間を置いて、執事は静かに答える。
『……当主、有栖様のことでございますね? ええ。見た目は小さな女学生の方ですが――』
『――大変聡明な方で有らせられますよ』
その言葉が終わると、サンゴの呼吸は止まった。
口が開いたまま、何も言えず、ただ声にならない驚愕だけが広がっていく。
膝の上で握られたスマホが、小さく震えた。
「…………」
言葉を失ったサンゴを見ながら、ヒスイは目を丸くして自分の口元を両手で押さえ、ぽつりと呟く。
「おっほ……」
「ヤバっ……今日の私、むちゃくちゃ冴えてる……」
そして、夜見に聞かれるでもなく、小声でぽそりと。
「……私、ンゴに代わって情報屋でも開業しようかな」
部屋の空気に一瞬、乾いたような笑いが混じった。
ヒスイが、サンゴのスマホを見ながら半笑いで言う。
「これ……このメッセージ、コハックに見せたらブチ切れるんじゃない?」
その一言に、サンゴはわずかに肩をすくめる。
サンゴはスマホを見つめながら、再びあの“職員の男性”との出会いを思い返し始める。
あの夏の日、水族館の近くで出会った男性。
彼はメッセージの中で――確かに「周央さん」と呼びかけていた。
だが。
……僕はあの時、自分の名前を“サンゴ”ってだけしか言ってない
思い出せば思い出すほど、違和感が募っていく。
「サンゴ」という名前だけで、「周央」という名字までは分からないはず。
どうして、名字まで知ってたの……?
そして、そこからさらに思考が加速する。
「天下無双」としての活動と、「周央サンゴ」としての学校生活。
確かに一部重なってはいる。けれど、それはあくまで本人をよく知る一部の人間――
世怜音女学院の東西の関係者や、笹木さんたち、ごく限られた人々――だけのはずだ。
つまり、どちらの情報も握っていて、かつそれを悪戯に使えるような人間。
それは――
そんなことができる人間なんて、本当に限られてる
自分がどこかで甘く見ていた。
相手の悲しみに当てられて、考えることをやめていた。
けれど今、ようやく――サンゴの脳内に、はっきりとした「線」が戻ってくる。
霧が晴れ、輪郭が見え、心が研ぎ澄まされていく。