ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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悪鬼羅刹

 サンゴは、ヒスイの部屋でふと何かを思い立ったように立ち上がると、一言も発せずにくるりと背を向け、すぐさまドアを開けて外へ飛び出していった。

 

 「あ、ちょっ……」

 

 ヒスイが何か言いかけるより早く、すでに廊下にはサンゴの足音だけが響いていた。

 

 夜明けの光が差し込み始めた寮の廊下を、サンゴは駆ける。

 玄関のドアを開け放ち、まだ少し肌寒さの残る朝の空気を切り裂くように外へ飛び出す。

 

 外は、薄いオレンジに染まる空の下、校舎の影が伸びていた。

 通学のピークはまだ来ておらず、人気のない中庭の舗装道を、サンゴはただ一直線に走っていく。

 

 風が髪をかき乱し、スカートの裾をはためかせる。

 落ち葉が一枚、ふわりと宙を舞い、それを追い越して彼女のシルエットが小さく跳ねるように進む。

 

 東校舎の扉を開け、薄暗い廊下をさらに駆けて――

 

 演劇同好会の部室にたどり着くと、息を整える暇もなく、ドアをそっと開けて中を覗き込む。

 

 そこには――

 

 テレレーレレーレーレー

 

 テレレーレレーレーレー

 

 「かもめが翔んだ日」とともに、コハクとチグサがぴょんぴょんと謎のステップで踊っていた。

 

 ただひたすらにリズムに身を任せる二人。

 

 ……あれ……?

 

 サンゴは口を半開きにしながら、ゆっくりと、無意識にドアを閉める。

 

 カチャ……。

 

 しばらく、廊下で立ち尽くす。

 脳が情報の処理を拒否している。

 

 「いやいやいや!!」

 

 バンッ!!

 

 勢いよく再びドアを開けると――

 

 今度はコハクとチグサが、なぜかレースゲームに夢中になっていた。

 

 「クッソ〜〜!おチグ、また水鉄砲かよ!!」

 

 「コハック、ドリフト下手すぎ〜!」

 

 真剣な顔でコントローラーを握りしめ、白熱する勝負。

 

 「……」

 

 サンゴは目をパチパチと何度か瞬きして、その光景を呆然と見つめた。

 

 部室のドアをそっと開け、サンゴは「コハちゃん」と声をかけた。

 コハクは画面のレースゲームを操作しながら、片手でちらりとサンゴを見上げる。

 

 「この前…お墓参りに行ったじゃん?」

 

 サンゴの声は少しだけ震えていた。

 

 「近いうちでいいから…そこについてきて欲しいんだけど」

 

 コハクは一旦操作を止め、少しだけ考え込んでから――

 

 「わかった」という簡潔で落ち着いた返事をした。

 

 チグサとやっていたゲームをポンと切り上げ、

 「今、行こっか」

 そっと呟いて、立ち上がる。

 

 「私、自分も準備するから――サンゴも支度して、校門前に来て」

 

 その言葉を聞いて、サンゴは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 そして二人は、部室の扉を静かに閉めて出て行った。

 

 道路を滑るように走るワゴン車の中。

 車内には、冷たい沈黙が支配していた。

 

 助手席に座るサンゴは、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめながらも、視線の端にコハクの姿を捉えていた。

 

 運転席の向こう、後部座席の一つに静かに腰掛けているコハク。

 

 藍色のリボルバー。

 その銀の反射が、車窓から差し込む陽の光を受けて一瞬きらりと光る。

 弾薬ポーチが腰に収まり、完璧な所作で静止するその姿には、どこか隙がなかった。

 

 ……大丈夫、だよね?

 

 不意に胸の内に浮かんだ問いが、サンゴの心臓をどくりと強く打つ。

 コハクの顔は、窓の外を向いたまま微動だにしない。

 表情は一切見えない。

 

 今この瞬間にも、スマホには、心音のように時間が刻まれている。

 

 もし、環崎の言うことは本当であれば、男性が鬼に食われる心配などしなくていい。

 

 その確証を得るために「天下無双」が下した決断が今回の旅路でもあるはずだ。しかし、「もし」「万が一」という言葉が体を支配し、その弾丸が男性を撃ち抜く一撃とならないかが不安で仕方なくなる。

 

 どうかこの車が、男性の霊柩車となりませんように。

 

 サンゴの手の平にはじっとりと汗が滲んでいた。

 握りしめたスカートの裾に、冷えた感触が伝わってくる。

 

 本当に、彼女を連れてきて……よかったのだろうか……

 

 こないだは楽しかったはずの墓までの道のりが、今はまるで、誰かの心音が徐々に小さくなるカウントダウンのように聞こえる。

 

 エンジンの音、タイヤがアスファルトを噛む音、そして――何も語らないコハクの沈黙。

 

 静かなはずの車内が、息が詰まるほどの圧を放っていた。

 サンゴは一度、そっと目を閉じ、胸の奥で必死に何かを押し殺すように呼吸を整えた。

 

 水族館の駐車場に車が滑り込むと、エンジンが止まるよりも早く、コハクは無言でワゴンのドアを開けた。

 開いた扉の外に冷たい風が入り込み、車内に一瞬の緊張を走らせる。

 

 「…あの、コハちゃん……」

 サンゴの声は小さく、かすれていた。

 

 「銃は……流石に……」

 

 青ざめた顔で、サンゴは懇願するように言う。

 だが、コハクは何も答えず、振り返りもしないまま一歩、また一歩と足を進めていく。

 

 その背中は、静かすぎるほど静かで――

 ただ、腰に下げられたリボルバーが彼女の存在を否応なく強調していた。

 

 ダメ……ダメだよコハちゃん……

 

 心の中で叫びながら、サンゴはバッグを抱きしめるようにしてワゴンを飛び降りる。

 その細い足がアスファルトに降り立つ音が、まるで何かを引き裂く音のように耳に残る。

 

 人影まばらな水族館のエントランス。

 かつてサンゴが、優しい声と小さな話し声で迎えられた場所。

 

 だが今は、まるで冷気が渦巻いているかのように空気が張り詰めていた。

 

 コハクは、無言のまま進んでいく。

 静かに、しかし一歩一歩が確実に――まるで“覚悟”そのものが歩いているようだった。

 

 その姿には、人の心があるのか、あるいはそれを既に捨て去った何かのような――

 そんな、凍りつくような雰囲気がまとわりついていた。

 

 「……コハちゃん……」

 

 サンゴの足は重い。けれど止まれなかった。

 彼女を止めなくては――そんな思いが胸の中で空回りしながら、必死にその背を追って足を進める。

 

 水族館の中へと、扉が開かれる。

 懐かしいはずの空間が、今は不気味に思えた。

 

 歩く音だけが響く中、サンゴの心拍は高鳴り、冷たい汗が背をつたう。

 目の前を進んでいくコハクの背中が、どんどん遠ざかっていくような――

 そんな錯覚に、サンゴは飲み込まれていくような思いに囚われていた。

 

 昼前の東校舎。

 カーテンを半分だけ閉じたヒスイの部屋には、淡い日差しが斜めに差し込んでいた。

 

 ベッドの上では、夜見が仰向けに寝転びながら、胸の上に旧式のビデオカメラを置き、小さな画面を覗き込んでいた。

 そのビデオカメラからは――サンゴの呼吸音、足音、そして震えるような動悸がイヤホン越しに拾われていた。

 

 画面の奥には、ただひたすらコハクの背中を追うサンゴの姿。

 

 青ざめた顔。

 震える手。

 呼吸は浅く早く、喉は何度も上下している。

 

 殺さないで……どうか……殺さないで……あの人を……

 

 声には出していない。

 だが、サンゴの表情には、その悲壮なまでの祈りが痛いほど浮かんでいた。

 

 サンゴの視界の奥で、コハクは無言で前へ進み続ける。

 迷いも、躊躇も、感情らしいものすら見せない。

 

 そのコハクの冷たさと、対照的にサンゴの苦しみが深まっていく様子を見て――

 

 夜見の口元が、ゆっくりと歪み始めた。

 

唇を震わせながら画面を凝視していた。

 そして、堪えきれず――

 

 くつ……くくっ……ふふふ……。

 

 肩を震わせ、喉の奥で押し殺すような笑いが漏れる。

 

 やがて、それは抑えがたい震えとなり――

 

 「……ぁぁ……その苦しみにもがく姿……たまらないなぁ……」

 

 ぞくり、と空気が震えた。

 

 夜見の目はうっとりと細まり、画面に映るサンゴの絶望に完全に魅了されたように潤んでいる。

 頬はわずかに紅潮し、呼吸はゆっくりと、妙に深い。

 

 「もし男の人……撃たれちゃったら……どんな顔、見せてくれるのかなぁ……?」

 

 その声は甘く、楽しげで、そして底知れず残酷。

 

 次の瞬間――

 

 「――クク、アハ……アハハハハハハッ……!」

 

 夜見の笑い声は、部屋の天井に反響し、まるで悪魔が喉の奥で転げ回っているかのように広がった。

 

 部屋いっぱいに響く、悪魔のような笑い声。喜びとも興奮ともつかない、ひどく歪んだ音。

 

 高く、低く、うねるように響くその笑いは、この世のものとは思えないほど不気味で、冷たく、凶悪だった。

 

 ヒスイは部屋の隅、カーペットの上に膝を抱えて座り込んでいる。

 背中を夜見に向け、両耳を強く塞ぎ、俯きながら震える肩を必死に抑えていた。

 

 彼女の表情は無表情に固められていたが――

 その目は、まるでこの世ならざるものを見ないように、必死に現実から目を背けていた。

 

 夜見の笑い声だけが、長く、長く、部屋に響き続けていた。

 

 ヒスイは、じっと黙ったままカーペットに座り、両耳を塞ぎながら、その声を遮断しようとする。

 

 だが――背後にいるその存在の“本質”までは、どうしても遮ることができなかった。

 

 誰かを守るために――非情になることは、ある。

 

 けれど……非情になることそのものに快楽を覚えて……舌鼓を打つようなことは決してないし、ありえない。

 

 目を閉じたまま、ヒスイは思い出す。先日、ヴァルテスで見た――

 

 《その嗅覚に秘密があるのか? 私の薬にヒントがあるのか?》

 

 《やっぱり……ちょっと捌かせろお前》

 

 葉加瀬冬雪。かつて施設の職員を被検体としていたC-21。

 

 目に狂気を宿し、口元をつり上げて笑う白銀の悪魔。

 

 人を“モルモット”としか見ていない、どこまでも純粋な――けれど、狂気に満ちた好奇心。

 

 それは、今、背後から響いてくる笑い声と同じだった。

 

 ……ああ、やっぱり

 

 ヒスイは、ゆっくりと目を開け、見えない天井を見上げた。

 

 この二人は、別格なんだ。どこまでも、理解できない――

 

 相容れない、“人間”の形をしていながら、まるで違う生き物……

 

 不意に、身体が震える。

 

 これが……加賀美インダストリアルの“懐刀”なんだ……

 

 心の奥底に重く冷たい影が差し込んでいた。

 夜見の笑い声は、まだ途切れる気配もなく、まるで呪いのように部屋を包み続けていた。

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