ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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堅忍不抜

 西校舎の昼休み、陽が柔らかく差し込む学食の窓際席で、周央サンゴはトレイの上に置かれたうどんを前にしながら、思索に沈んでいた。

 

(……つまり、ミスターは何かを隠したくて、それにコンビニの端末が必要だった……?)

 

(でも、それにしては……なぜ、一般企業の端末にテロリストの情報が?)

 

(ミスターが……この端末の元経営者だった? それとも、元アルバイトで――)

 

(……誤って入れてはいけない情報を混入させちゃったとか……?)

 

 そんな推測を頭の中で組み立てていたところ、向かいの席から、あたたかな声がサンゴの思考を軽やかに引き戻した。

 

「あんまり考えごとしてると、うどん伸びるよ?」

 

 顔を上げると、にこにこと微笑んでいるのは、高等部の西園チグサだった。肩で揺れる髪に、健康的で明るいオーラ。制服の着こなしはややカジュアル気味。その言葉には気配りとリズムがあって、サンゴの思考に自然と風を通す。

 

「早く食べな、伸びると微妙な感じになるよー?」

 

「……あ、うん」

 

 サンゴは小さく笑って返し、箸を手に取り、ずるっとひと口すすった。

 

「ふー……。

 そういうチグちゃんは、どうなのさ。

 世怜音女学院に演劇部作る!って、息巻いてたじゃん」

 

 チグサは口にしていた水を置き、やや大げさに肩を落としてみせる。

 

「いや~~……それがね……」

 

「他の部員集まらないし!」

 

「えぇ……」

 

「おかしいなあ!?だって“世怜女の演劇部”だよ!?

 昔なんてさ~、宝塚に入るか、世怜女に行くか!ってくらいの名門だったのに!!」

 

 サンゴは箸をくるくると器のふちで回しながら、淡々と返す。

 

「まあ、もう何年も前に廃部になったけどね……」

 

「知ってる! でもさ~!復活させるのがロマンってもんでしょ!?

 しかも、ンゴも演技できるでしょ?部員1号どう!?」

 

「主演女優コースいけるって!よし、脚本書くところから始めよう!」

 

「うどん伸びてきたな……」

 

 食堂の喧騒の中、二人のテンポは不思議なバランスで心地よく噛み合っていた。その中で、サンゴの中に沈んでいた思考は、ほんの少し柔らかくほどけていくのだった。

 

「あ、そうだ!」

 

 うどんを啜っていた西園チグサが、急に思い出したように声を上げた。

 

「お母さんがクレジットカード落としちゃってさ~!

 もう、いろんなところに電話かけなくっちゃいけなくて、てんやわんやだったんだよ~!」

 

「うわぁ、それは災難だったね……」

 

「そうなんだよ!なんかお母さん人間不信になっちゃってさ!もう箪笥貯金にしちゃおうかなって!

 

「今時箪笥貯金はないでしょ…」

 

「いやいや!最近銀行も信用ならないんだって!3組の御剣さんのお母さんも、変なお金の出し入れとかあって、それで銀行に問い合わせたら機械の故障かもって見てくれてるみたいなんだけどさ…」

 

「ふうん…そんなこともあるんだ。」

 

 サンゴは一応相槌を打ちながらも、半分は上の空で器に視線を落としていた。

 

「最近だとクレジットカードもタッチ決済できたりするから危ないよね~……」

 

 そう言いながら、何気なく口にしたその言葉――「クレジットカード」。

 

 ふと、サンゴの中で思考の歯車が止まり、そこから急に回転を始めた。

 

(……クレジットカード……)

 

(なるほど……もし、それが“目的”だったなら――)

 

「……確かに、それなら……」

 

 ぶつぶつと呟くサンゴに、チグサが不思議そうな顔をする。

 

「え? なになに? なんかあったの?」

 

 だがその時にはもう、サンゴは椅子を引き、食べ終わった丼を一気に片付けて立ち上がっていた。

 

「ごめん、ちょっと急ぐ!ありがとう、チグちゃん!」

 

「えぇっ!?ンゴ!?どこいくのー!?っていうか脚早っ!」

 

 食堂を走り出て、西校舎の廊下を駆け抜けるサンゴ。

 その表情はすでに分析のスイッチが入った情報屋の顔だった。

 

(……なら、ミスターの本当の目的は――)

 

 ポケットからスマホを取り出し、西校舎の地下で情報屋――「野武士」との専用チャットを開く。

 

 《野武士さん、あの件で追加の質問。

 あの時捕まった何人か――ミスターと関係ある?》

 

 数秒ののち、即座に返信が届いた。

 

 《ここ、何人か捕まってる。

 そいつらに作らせた口座をミスターが買い取ってる。》

 

 さらに続く。

 

 《接触者は二人。一人は、汚職してた警備会社の重鎮。

 もう一人は、盗難クレジットカードを転売してた裏の要人。》

 

 サンゴは息を切らせながら立ち止まり、画面を凝視する。

 

(……盗難クレジットカード……いや、でも違う。あれが本命じゃない)

 

 次に届いたメッセージが、決定打となる。

 

 《なるほど。確かに、それなら……

 サンゴちゃん、“クレジットカード”じゃない。似てるけど別のやつ。

 借りるんじゃなく、“引き出すカード”――

 デビットカードだよ。》

 

「……確かに。それなら――納得がいく」

 

 サンゴの目が鋭く光る。ふと、先ほどのチグサの発言を思いだす。

 

 〈変なお金の出し入れとかあって、それで銀行に問い合わせたら機械の故障かもって見てくれてるみたいなんだけどさ…〉

 

(銀行口座と直結していて、金を即時引き出しできる。

 しかも、名義とカードが合っていれば使用時にバレにくい。

 大量に口座を作らせて、そのカードを売り捌くか資金洗浄に使っていたとしたら……)

 

「……そういうことか、ミスター」

 

 サンゴは再び走り出す。

 彼女の中で、バラバラだったピースが、ひとつの図を成し始めていた。

 

 

 

 

 

 -----------------------------------------------------------

 

 

 

 

 

 幹線道路を静かに走るワゴン型の車の中。

 夜の街を抜け、車は郊外の暗がりへと向かっていた。

 ハンドルを握るのは、長い黒髪を後ろで束ねた高等部の生徒――クオン。

 

 助手席の周央サンゴは、窓の外をぼんやりと見つめながら、静かに呼吸を整えていた。

 ダッシュボードの光が、彼女の眼鏡に一瞬反射する。

 

「……ターゲットは、川上かすみ……で良いの?」

 

 クオンの低く冷静な声が車内に響く。

 

「国をまたにかける外交官だ。今日を逃せば、明日には日本からいなくなる」

 

 サンゴはこくりと頷いた。

 

「……本当は、法の裁きを受けてほしい人だけど」

 

 少しの間を置いて、言葉を続ける。

 

「でも……“ミスター”の容疑者候補は、今のところ何人かいるんだ。

 証拠は点在していて、誰か一人を断定できる状況じゃない」

 

 サンゴの口調は、冷静でありながら、どこか哀しさを含んでいた。

 

「本人ではないけど――

 日本で指示を行っていると考えられる、最も有力な人物が彼女だ」

 

 助手席のサンゴは、軽く振り返って後部座席を一瞥する。

 その視線の先――セイラが隣のシートでうたた寝していた。

 姿勢は整っているが、口元はほのかに緩み、いつもの鋭さは見せていない。

 

 その横、窓側に座っていたのは、引き締まった目つきのシューター、アスカ。

 ピリリとした空気をまとい、手にはコンパクトなサブライフルが収められている。

 

 アスカはちらりとサンゴを見て、口角を上げながら言った。

 

「――で、あわよくばミスター自身も釣れれば御の字ってわけね?」

 

 サンゴは無言で頷く。

 

 アスカはふっと鼻を鳴らし、静かに背もたれに寄りかかった。

 

「でもさ、なんで川上かすみと闇バイトが結びつくのさ。確かに黒いうわさとかある人ではあるけど…」

 

 車内の照明は落とされ、外の街灯だけが途切れ途切れにサンゴの横顔を照らしていた。

 静かに走るエンジン音の中、助手席のサンゴは膝の上のタブレットを操作しながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「……ミスターが“闇バイト”を、コンビニや小さめのレストランに大量に派遣した目的――

 それは、『決済代行会社に登録された口座の変更』だと思う」

 

 クオンが運転席で視線を前に向けたまま、わずかに眉を動かす。

 

「決済代行会社……?」

 

「うん。店舗の決済端末に直接アクセスするか、マルウェアを送り込んで、

 振込先の銀行口座をこっそり変えるの。

 最近は、売上金の振込先を“法人名義じゃなく個人名義”にする店も多いから、

 多少おかしな名義になってても、カード会社があまり気にしないケースが多い」

 

「……しかも、強盗に襲われた後だったら、

 『被害の一部』として帳消しになるかもしれない、ってことか」

 

「そう。“口座が勝手に変更されてた”なんて、誰も気づかないまま処理されることもある」

 

 サンゴの声は冷静だが、言葉の奥には怒りと焦りがにじんでいた。

 

「……で、今度は盗んだデビットカードの出番。

 変更された振込先口座に、売上金が流れ込む。

 それを早々にデビットカードで引き出す」

 

 アスカが後部座席で軽く口笛を吹く。

 

「なるほど、カード会社を介さないから、履歴のトレースも薄くなるってわけか」

 

「うん。クレジットカードと違って、即時引き出しの“ただの銀行カード”だから、

 “犯罪っぽさ”が薄い。しかも、口座そのものを売買してるわけでもないから、

 “足”が極端に残らない」

 

 サンゴは言葉を区切り、そしてタブレットの画面を切り替える。

 そこには、3人の男の顔写真と簡単な略歴が表示されていた。

 

「ミスターの正体候補は、三人」

 

「一人目、ジョージア中央銀行の幹部、マイク・ワーナー。

 口座運用と匿名化処理の権限を持ってる。資金洗浄の専門家」

 

「二人目、イギリスの富豪、オリヴィス・アンソル。

 表向きは芸術支援者だけど、実態は“破壊型投資家”。

 戦争や内乱で混乱した地域に金融システムを仕込むのが趣味」

 

「そして三人目……特殊詐欺の元締め、飯沢たかし」

 

 アスカが首を傾げる。

 

「……なんか、最後のやつだけ地味だな」

 

「……うん。地味だけど、日本国内で“生きてる”情報があるのは彼だけ」

 

 サンゴの目がわずかに伏せられる。

 

(……でも、飯沢は“野武士さん”のお母さんの仇”なんだ)

 

(本当は、できれば殺してほしくない。

 “裁かれて”ほしい。――できるなら、“正式に”)

 

 手の中のタブレットを静かに閉じながら、サンゴは小さく吐息をついた。

 

「…質問に答えてもらってないんだけど。」

 

「この3人と交流があるのが川上なんだよ。23日づけで、デビットカードが資金の大量預けと大量引き出しで警察に被害届を出されたものがある。

 

 その被害者が区内に住む主婦の女性。正確に言うとその人はデビットカードを普段使ってないから、銀行の記帳で意味不明の同額の引き出しと預け金で銀行に問い合わせてるんだ。」

 

「銀行のシステム側のミスって思ったわけか」

 

 アスカの問いかけに、無言でサンゴは頷く。

 

 被害額は243,400円。確かに多額ではあるが、引き出しも預け金も同額で、主婦には1円の被害も出ていない。

 

 主婦もまさか、銀行のミスではなく、それが不正利用だとは気づかなかっただろう。それで警察には連絡せず、手続きを銀行だけで行って終わったわけだ。

 

「この辺の被害を負ったデビットカードの持ち主は、総じて1つのサイトを閲覧していた。そしてそれは、過去に川上たちが通報して取り押さえた海外のサイトを日本版に作り直したもの。

 

 つまりこれは、表向きは強盗事件に見せかけた、店舗からの売り上げの強奪を行う大胆な資金横領だったんだ。」

 

「過去のサイトの一件、それの犯人が飯沢たかし。川上に協力したのがオリヴィス・アンソル。そして……その口座のセキュリティを見直したのがマイク・ワーナー。」

 

 窓の外には、目印の少ない郊外の街灯が、ゆっくりと過ぎていった。

 

「強盗とは何の繋がりもない、強盗事件であれば容疑者として名前すら上がらない、海外金融のプロフェッショナルたちだ―」

 

 

 

 

 夜の静寂に包まれたオフィス街の一角。

 クオンが運転するワゴン型の車は、川上かすみが滞在しているとされるオフィスビルから、少し離れた目立たない場所に静かに停車した。

 

 車内のドアが開き、アスカとセイラが武器と装備を確認しながら、無言で車外へと出ていく。

 一瞬の静寂ののち、閉まったドアの音だけが響いた。

 

 車内には、クオンとサンゴだけが残された。サンゴは助手席で、自分の手をじっと見ながらぽつりと呟く。

 

「……僕に、何かできることとかないかな」

 

 クオンはバックミラー越しにサンゴの顔を見て、小さく笑みを浮かべる。

 

「十分だよ。

 今日の川上の予定や、関係者の場所を教えてくれただけで百人力。

 ……だいぶ、ヒスイの仕事も減ってるよ」

 

「今回のミスターの一件、

 君が精査した四人は我々の割り出したどの容疑者像からも、かけ離れた人物だった。

 君がいなければ、川上の国外逃亡を見逃すことはおろか、無関係の被害者を増やしていたかもしれない。」

 

 それでもサンゴの表情は浮かない。

 緊張と無力感が混ざり合ったような眼差しで、遠くのビルを見つめていた。

 

 クオンは、しばらくその横顔を見たのち、ふと提案する。

 

「それでも納得できないなら――ドローン飛ばして、外側から怪しい人いないか調べてくれ。

 警備に紛れて監視してる奴とか、離れた屋上で通信してる奴とか。

 あんたの目は確かだから」

 

 サンゴの目に、ふっと力が戻る。

 

「……それならできる」

 

 そう言ってバッグを開け、コンパクトに折りたたまれた携帯型ドローンを取り出す。

 サンゴの手によって静かに展開されたそれは、低いプロペラ音を立てながらゆっくりと上昇し、夜の空へ溶け込んでいった。

 

 車内のライトは落とされ、無線の受信機だけが静かに点滅する。

 

 そして数分後――

 

 クオンのインカムに、短く切迫した無線連絡が入った。

 

「……こちらアスカ。確認。」

 

 クオンはハンドルから手を離し、無線に口元を寄せて応答しつつ、サンゴに向き直る。

 

「……いたぞ!」

 

 サンゴの背筋がぴんと伸びる。

 クオンの瞳が夜に鋭く光る。

 

「――マイク・ワーナーだ」

 

 その名が車内に響いた瞬間、サンゴの指先が止まり、

 そして静かに、深く、ひとつ息を吐いた。

 

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 深夜のオフィスビル内――

 蛍光灯の光が静かにきらめく中、北小路ヒスイは静かに引き金を引いた。

 

 パン――!

 

 鈍く短い銃声。

 目の前のスーツ姿の警備員が、言葉も出せぬまま胸を押さえて崩れ落ちる。

 

 次の瞬間、背後で「えっ……」という微かな声。

 ヒスイは振り返ることなく、右手の銃口を流れるように向け、即座に二発。

 

 パン、パン――!

 

 倒れたのは、オフィスの警備に紛れていたもう一人の男――

 反応の間も与えず、冷静に処理された。

 

 無線が軽くノイズを走らせる。

 

「……邪魔になる敵は全員処分したよ」

 

 セイラの声だった。冷静で、感情のないトーン。

 

 ヒスイは一瞬だけ肩の力を抜き、口元にだけ笑みを浮かべる。

 

「あとはアスカに任せるかな……

 これで慣れ親しんだオフィスとも、お別れね」

 

 そう呟くと、手際よくサプレッサー付きの銃をバッグに収め、静かに出口へと向かった。

 

 ビルの非常階段を下りる途中――

 ヒスイはスーツの裾を軽く整えながら、人通りの少ない廊下へと足を踏み入れる。

 

 そのとき、前方から大学生くらいの青年が駆け寄ってきた。

 

 彼は明らかに混乱しており、呼吸も乱れている。

 

「……緑川さん!? なんで、こんなことに……!」

 

 青年の名は――黒川。

 オフィスに臨時雇用されていた大学生のアルバイトで、

 数週間にわたってヒスイの“偽名”と穏やかな笑顔に接していた一人だった。

 

 ヒスイは、ほんの一瞬だけ眉をひそめたが、次の瞬間――

 表情を切り替える。

 

「……わからないっ……! 黒川くん、とりあえず外に出て警察呼ぼう!」

 

 その顔は、震えを隠せず、今にも泣き出しそうな――“優しい先輩”の顔だった。

 

 黒川は困惑しつつも、頷く。

 

「は、はい……」

 

 ヒスイは、彼の背中を軽く押しながら非常階段を一緒に駆け下り、

 人気のない一階の裏通路にたどり着く。

 

 辺りには人影もなく、騒ぎもまだ届いていない。

 

 そして――

 

 ヒスイは、ふっと息を吐き、笑顔のまま銃口を向ける。

 

「はい、ご苦労様~」

 

 パン――!

 

 黒川の身体が、驚愕の表情のまま崩れ落ちた。

 

 ヒスイはその遺体に一瞥もくれず、静かに銃をバッグに戻し、

 夜の闇へと紛れていく。

 

 夜の任務を終え、ワゴン型の車内はようやく静けさを取り戻していた。

 

 ヒスイが後部座席に腰を下ろし、血の匂いを残したまま、ふうっと一息。

 隣ではセイラが無言で銃の手入れを始めている。

 沈黙は重くなく、任務明けのいつもの空気。

 

 そこへ、サンゴが助手席から後ろを振り返りながら、やわらかく声をかけた。

 

「……お疲れ様」

 

 ヒスイは目を細め、皮肉めいた笑みを浮かべながら応じる。

 

「今回は、“こんなんで通るのか”とか声かけるバカがいなかったから楽だった」

 

 その言葉に、セイラがくすっと小さく笑い、サンゴは「それ僕のこと…?」と微妙な表情。

 

 そのとき、クオンの無線に連絡が入った。

 

「……えっと、男3人と女2人殺した。

 多分金髪のやつがマイク・ワーナーだよね?

 そいつも殺したから、合計6人かな?」

 

 アスカの声だった。

 普段通りの調子で人を数えるように報告するその様子に、車内の空気が少しだけ凍る。

 

 クオンは冷静に返す。

 

「川上はどうした?」

 

「……やっべ、忘れてた! 逃げたかもしんない!」

 

「……」

 

 クオンはアスカの報告が終わるのを待たず、呆れた顔で口元を押さえる。

 

「じゃあ、川上は別の班に任せる。もう戻ってきていいぞ」

 

 そう言い残して、通信をぷつりと切る。

 

 助手席のサンゴが、声を上げた。

 

「いいの!?逃がしちゃって!?」

 

 焦った様子で前を見つめるサンゴに、クオンは目を細めて静かに答えた。

 

「一人くらいなら大丈夫だよ……

 “あいつ”は――」

 

 一拍置いて、声を潜めるように言葉を続ける。

 

「世怜女最強の兵士だからな」

 

 その言葉に、サンゴの背筋がうっすらと冷える。

 

 車内に再び静寂が訪れる。

 川上かすみがどこへ逃げようとも、

 “あの兵士”が追いかければ――どこにも安全な場所などない。

 

 夜の街を駆け抜ける一台の高級車。

 運転席には、乱れたスーツ姿で顔面蒼白の女――川上かすみが必死にハンドルを握っていた。

 

「……っ、マイクからの依頼なんて受けなきゃ良かった……!

 何が“新時代のビジネス”よ……」

 

 ハンドルを叩きながら、舌打ち混じりに吐き捨てる。

 

「これで襲われたら……いくら命があっても足りない」

 

 口元には血の気がなく、頬は汗で光っていた。

 

 オフィスから十分に距離を取ったはずの交差点。

 だが、赤信号に引っかかる。

 

「っ……ついてない……!」

 

 苛立ちに息を吐きながら、川上はハンドルに額を当てる。

 

「……もう警察にでも出頭しようかな……

 どうせここまで来たら逃げ切れないし……」

 

「日本の司法なら、コネでマスコミ操作すればなんとかなる。

 情報を制御すれば、こっちの立場を守るくらい――」

 

 その瞬間。

 

「ところが、そうもいかないんですよ」

 

 知らない声が、後部座席から聞こえた。

 

「――ッ!?」

 

 川上は反射的に振り返った。

 

 そこには、琥珀色の髪を揺らす制服姿の少女が、静かに座っていた。

 

 表情は無感情。

 瞳は、深海のように沈んだ色を湛えたまま、ただまっすぐに川上を見ている。

 

「だってあなた、もう“見ちゃった”から」

 

「……っ、誰、あんた……っ!!」

 

 少女はほんの一瞬だけ、唇の端をゆるめたように見えた。

 まるで、それすら幻だったかのように。

 

 そして――

 

 パスッ

 

 乾いた、ほとんど音のない銃声。

 

 川上の頭が、何の抵抗も見せずに前に崩れた。

 

 車は信号の青が点灯する中、動くことなく停止し続けていた。

 

 後部座席の少女は――ゆっくりと扉を開け、夜の闇へと消えていった。

 

 誰も気づかぬうちに、

 誰にも気づかれぬまま、

 “それを見た者”は、静かに命を終えていた。

 

 ──深海のような瞳。「東堂コハク」。

 世怜女の東校舎に名を連ねる最強の兵士――「鬼」と呼ばれたその少女は、確かに噂通りだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車窓の外を、街の灯りが流れていく。

 ネオンの光は、どこまでも無関係な他人の幸せを照らしていた。

 

 助手席に座る周央サンゴは、ひとことも発さずに黄昏ていた。

 

 任務は終わった。

 標的は消えた。

 情報も手に入れた。

 失敗ではない。

 

 ……けれど。

 

「……本当に、これでよかったのだろうか」

 

 静かに胸中で呟く。

 声に出したら、全てが崩れてしまいそうで。

 

 思い出すのは、祖父の書斎の引き出しにずっと眠っていたあの古びた藍色のリボルバー。

 全てのシリンダーがコルクで丁寧に塞がれていたあれは、まるで「もう誰も撃たせない」と訴えるようだった。

 

 かつて裏社会で“天下無双”とまで呼ばれた祖父が、最後に選んだのは「引き金を引かない生き方」だったのかもしれない。

 

(――先代が、今の僕を見たら……どれだけ、悲しむだろう)

 

 思いの外、心の奥がひりついた。

 ヒスイ、セイラ、アスカ、クオン――

 彼女たちは「当たり前のように引き金を引く」。

 それが彼女たちの役割であり、生き方なのだ。

 でも。

 

(僕は……まだ、「それでいい」って言い切れない)

 

 ただ、その瞬間。

 ぼんやりとヒスイの顔が浮かんだ。

 

「さっさと風呂入って飯食って寝ろ!」

「身勝手な正義感で動くな」

 

 あの夜。

 確かに怒られた。

 でも、あの叱責の裏には確かに――僕の命を案じてくれた温度があった。

 

(……だからこそ、放っておけない)

 

 目を閉じ、深く、長く息を吐いた。

 

「正義のためだとしても。誰の許しを得たとしても。人を殺めることが許されるわけじゃない。その片棒を担いだ僕は、きっと――いつか、報いを受けるだろう」

 

 だけど。

 

「それでも、友達を放っておくわけにはいかない」

 

 東校舎にいる、死地に立つ子供たち。

 引き金の重みとともに命の価値を計る、そんな場所に生きる友達を――

 何も知らず、何もできずにただ失っていくなんて、絶対に嫌だった。

 

「大人たちの思い通りに、殺人の報いとして裁かれて死んでいく子供たちの、その宿命を変えられるのは――きっと、僕しかいない」

 

 目を開けたサンゴの表情は、さっきまでのものとは違っていた。

 今度は、意思のあるまなざしだった。

 

 黄昏は夜へと移り変わる。

 光を失っていく世界の中で、

 小さな決意が、確かにひとつ、灯っていた。

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