水族館の廊下は朝の光が差し込み、水槽の青い光が床に波打つ模様を描いていた。
コハクは静かに歩を進めながら、一人の床掃除をしていた年配の職員に声をかけた。
「物部さん、今日はいらっしゃいますか?」
その声音は柔らかく、けれど揺るぎない。
職員は顔を上げると、少し驚いたような表情のあと、すぐに微笑んで「今お連れしますね」と丁寧に答え、奥へと足を向けていく。
そのわずかな隙を縫って、ようやく追いついたサンゴが小走りに駆け寄り、「コハちゃん!」と声をかけようとした――が。
「……っ!」
物部の職員が戻ってくる気配に気づき、咄嗟に壁の陰に身を隠す。
心臓がドクドクと喉元まで押し上げられそうになりながら、サンゴは青ざめた顔で、恐る恐るその様子を見守った。
間もなく、職員に案内されて、一人の男性が姿を現す。
どこか疲れた面持ちではあるが、穏やかさを湛えた表情の男。
しかし――コハクは、その男に銃を向けることもなければ、冷たく睨むこともなかった。
ただ、まっすぐに彼の目を見つめ、口を開いた。
「私、凛とずっと一緒にいたんです」
その言葉に、サンゴの胸がギュッと締めつけられる。
コハクの横顔は穏やかで、しかしどこか、何かを覚悟したような強さに満ちていた。
「……よければ、凛について、教えてくれませんか?」
その一言に、男性は一瞬目を見開いた後、小さく頷いた。
「友達もいるんですが、同席させても良いですか?」
コハクは後ろを振り返らないまま、真剣な表情で言った。
その声に、身を隠していたサンゴは思わず胸を押さえる。
「彼女も、きっと聞いた方がいいと思うので」
職員の男性は一瞬驚いたように目を細めたが、すぐに微笑んで頷く。
「もちろん」
こうして三人は水族館の通路を抜け、一般客のいない裏の従業員用通路を静かに歩いた。
薄暗くて静謐な廊下。足音だけが乾いた音を立てて響く。
サンゴは胸の奥が詰まるような感覚の中で、必死に呼吸を整えていた。
応接室に案内されると、木製のテーブルに布張りの椅子が並べられ、落ち着いた空間が広がっていた。
男性は手際よくお茶を淹れ、湯気の立つカップを二人の前に置く。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で礼を述べるサンゴ。
男性はそれに穏やかに微笑んで、話し始めた。
「物部家はね、代々、銃や弾丸に使う鉛を旧日本軍に卸していた家だったんだよ」
静かな部屋に、その言葉が響いた。
遠く、来館者の子供たちの声や、水の流れる音がかすかに聞こえる。
「敗戦してからはさすがに下火になったけど、それでも米軍に出資したり、他国に輸出したりして、何とか体裁を保ってきたんだ」
コハクは背筋を伸ばしたまま、真剣な目で耳を傾けていた。
サンゴも緊張の面持ちで、湯気の立つお茶に手をつけることもできず、ただ黙って男性の言葉に集中していた。
「それで、幼い時の凛は……自然と、自衛隊や軍事産業に関わる話を多く耳にしていたんだよ。どこで知ったのか、ある日言い出したんだ。『将来はΣに入りたい』ってね」
男はそこで小さく溜め息をつく。
「確かに、自衛隊なんかよりずっと動けるし、若いうちから活躍できる場所ではある。……もちろん、私は反対だったよ」
応接室は静まり返り、サンゴの喉がわずかに鳴る音すら聞こえそうなほどだった。
「……正直な話をするとね」
男性は、湯気が薄く立ち上る湯呑みを見つめながら、静かに語りはじめた。
「凛は……私なんかよりずっと大人しかった。物静かで、でも芯が強くて、正義感もあって……」
その声には、どこか遠い記憶をたどるような柔らかさがあった。
「だからこそ……なんとなくだけど、あの子は放っておいたら、自分の信じた“何か”のためにどこかに行ってしまうんじゃないか、って思ってたんだ」
部屋の中に、しんと静寂が落ちる。
男性の言葉は一つひとつ、胸にゆっくりと沁みていくようだった。
「だから……時が経って、亡くなったって話を聞いたときもね……もちろん驚いたし、やるせない気持ちにもなった。だけど、どこかで、ああ、あの子らしいなって……そんなふうにも思ってしまったんだ」
少し笑うような表情を浮かべながら、けれどそれは深い寂しさを帯びていた。
「寂しくないと言ったら……そりゃ嘘になるよ。でも、いつまでもそのままでいたら、あの子にも申し訳が立たないだろう? そう思うようにしてるんだ」
――それは、サンゴがメッセージで目にした「娘の真相を知りたい」と執拗に訴えていた人物の像とは、あまりにかけ離れていた。
悲しみは確かにある。けれど、そこには執念や怒りはなく、ただ遠くに行ってしまった大切な人への、静かな祈りのようなものがあるだけだった。
応接室の静かな空気を破るように、コハクは立ち上がり、鞄から小さな銀色のボールペンを取り出した。
その表面には小さく細かい傷があり、使い込まれた様子が浮かんでいた。
「これ、リンが使ってたものなんです」
コハクの声は震えていて、しかし真摯だった。
「凛は、かなりの現場主義で……私物もほとんど持たない子だったので、こんなものしかありませんでした」
男性はボールペンを受け取り、ゆっくりとそれを見つめた。
そして、低く息を吐きながら呟いた。
「バカだな……あいつも」
その言葉の重さに、コハクは唇を噛みしめ、そして小さな涙をこぼした。
「ごめんなさい……私、何もできませんでした」
声が嗚咽に近くなる。
「――あの子の、一番近くにいたのに」
男性はコハクの肩にそっと手を置き、温かく言った。
「だったら、どうか……生きて、また会いに来てください」
「きっと、娘もそう言うでしょう」
その言葉は、静かな励ましでありながら――深く切ない“願い”でもあった。
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ヒスイの部屋には、冷えきった静けさが流れていた。
カーペットの上に膝を抱えて座っていたヒスイは、じっと何かを考えるように天井を見上げていた。
その背後、ベッドの上に寝転ぶ夜見は、つまらなさそうに半目で旧式のビデオカメラを見つめながら、小さく呟いた。
「……そんなことって、あるの?」
ヒスイは微かに動いた視線を夜見に向ける。
「何の話?」
「Σの人間が死んだときにさ。家族に知らせるなんて……現実にあるの?」
ヒスイはしばらく黙っていたが、静かに答えた。
「ないよ……どんな過程を経たとしても、Σの養成所の生徒たちはみんな孤児だから。そもそも戸籍上は“家族”なんて存在しない。知らせる相手も、伝える理由も、ない」
部屋の空気がより一層冷たくなったように感じられた。
「……普通はね」
ヒスイはゆっくりと立ち上がり、続けた。
「でも、凛は違った。物部家っていう良家の出で、たぶんコネか何かで志願兵として特別に参加してたんだ。だからだよ、唯一……彼女には、帰る場所があった。伝える相手がいた」
夜見はその言葉を聞きながら、ふとビデオカメラから視線を外す。
「……可哀想」
その声は、先ほどまでの残酷な笑いとは打って変わって、祈るように静かで、どこか哀しげだった。
「死んでも、誰にも覚えててもらえないなんて」
ベッドの上で手を胸元で組みながら、夜見は遠くを見るように呟いた。
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応接室の静かな雰囲気の中、サンゴはゆっくりと顔を上げた。
「…おじさん」
その声は、少し震えていたが、確かな意志を伴っていた。
「聞きたいことがあるんだけど」
男性職員はゆっくりと頷き、サンゴに向き直った。
「ここ数日で、僕たち以外に、凛さんについて聞いてきた人っていない?」
その問いに、男性は一瞬ためらったように表情を曇らせる。
「いや、いないと思うが……」
しばらく無言が続いた後、彼は小さく呟いた。
「……いや」
その言葉とともに、視線を遠くにやりながら続ける。
「二週間前……兄貴と飲みに行ったっけな。酔ってたからよく覚えてはいないが……なんかその時……」
「そうだ。お嬢ちゃんのことなら話したな。ほら……サンゴって、珍しい名前だろ?」
サンゴは「え…ええ…」と、相槌を打つように返した。
けれど、その言葉が胸の奥に小さな棘を刺していった。
物部って……「もののふ」とも読めるよな。
そういえば、一人だけ僕の顔を知ってる情報屋がいる。その時はあくまで「天下無双」として会っていて、名前までは教えていなかった。
でももし、彼が犯人だとして――何のために……
思考は螺旋を描きながら、足許に冷たい影を落とした。
もし……もしここであのメッセージが本物だと信じ込んで――その上でおじさんがΣに殺されていたら、物部家は親子二人をΣに処理させたことになる
こんな時代だ……もし、そのことが外部にバレたら……
その想像の先に、不穏な夜の静けさが広がる。
サンゴの手に握られた湯呑みが、小さく震えていた。
「おじさん……ごちそうさま!」
サンゴは立ち上がると、カップを置かずにそのまま応接室から急ぎ出た。
椅子が静かに軋む。
その背中に、部屋の中の空気が纏わりついていた。
通用口の鉄扉を押し開け、サンゴは湿ったコンクリートの床を駆け抜けた。
後ろから、掃除用具のカタカタという音が追いかけてくるようだった。
水族館の暗い廊下、ガラス越しに見える水槽の青い光が、まるで緊迫の音楽のようにブレながら揺れていた。
「どうしたの?」
入り口ゲートの前に立つコハクの声に、サンゴは振り返る間もなく、息を切らしながら問い掛けた。
「ねえ、教えて……なんで環崎さん、コハちゃんに発砲許可出したの!? おじさん、関係ないよね!? 凛さんのことと……」
今回のコハクのそれは、いつもの命令を受けたコハクとは明らかに違っていた。
通常、コハクは目に映る味方以外の人間全てをその手で葬り去る。「鬼」の名がついているのはそのためだ。
しかし、今回はあくまで男性以外の人間には手を出さず、どこか淑女的な立ち振る舞いであった。それは彼女自身が、殺害とは異なる使命の下動いていることを示す。
コハクは静かにサンゴを見つめて、無言のまま歩き出す。
「神化薬だよ」
その言葉が、鼓動を一段と速くさせた。
――やっぱり。
「物部家が関わってるって話が、学生への取り調べで出てきて。それに関わる人間が襲ってくるなら――おじさんの護衛をしなきゃだから……」
水族館のエントランスを突き抜け、外の駐車場までの動線が一気に広がる。
サンゴの脚が高速回転を始めた。
ワゴン車のエンジン音や、夕刻の風の匂いが混ざって迫ってくる。
「知ってる人、いるんだよ! 一人だけ、僕の顔! 多分……おじさんのお兄さんだ! これ……クリームスキミングだよ! 今回の一件でもし、コハちゃんがおじさんを殺してたら……!」
言葉の端々に、恐怖と苛立ちが絡まり、サンゴの声は震えている。
足元の砂利が飛び散り、ワゴン車のドアが音を立てて開く。
「……なるほど」
コハクは短く頷き、「わかった。どこ行けばいい?」と静かに応じる。
サンゴとコハクは、躍る足取りのままワゴン車に飛び乗る。
ドアがバタンと閉まり、エンジンがひときわ大きく息を吐いていた。
何時間か前、大学のとある上階。
小さな教室の中。
白い壁、古びた木製の机、そして窓から差し込む柔らかな光――静けさの中に、緊張がじわりと広がっていた。
壁際の机に、葉加瀬冬雪が腰掛けていた。
その向かいには、一人の大学生の女性が座り、手元のアタッシュケースをゆっくりと開いた。
「これは?」
葉加瀬は、無表情にケースの中を覗き込む。
女性は少しだけ息を整え、静かに言った。
「まだ開発段階ですが……実証実験を何回か重ねれば、人智を超えた知能を習得することができます」
その声は低く、しかし確信に満ちていた。
「近いうちに、人間が教科書や学校で学習する時代は終わるでしょう」
女性はアタッシュケースから透明なアンプルを取り出し、ガラス越しに光を映しながら続ける。
葉加瀬がそのアンプルに手を伸ばそうとしたとき――
女性は手を止め、「ご協力いただけるのでしたら、いくらでもお渡しします」と囁いた。
「葉加瀬さんであれば、ご理解いただけるはずだと信じています」
声を強め、女性は説明を重ねる。
「科学には、多少の犠牲はつきものなのです。そうでなければ、人類はさらなる発展を迎える前に滅びてしまうでしょう」
テーブルの上でアンプルがゆらりと揺れ、光を反射する。
「この薬も、多くの方の犠牲によって成り立っています。心が痛まないと言えば嘘になりますが……その犠牲によって、後世の多くの人々がより豊かに生活できるようになるのです」
教室の空気が一段と冷たくなる。
葉加瀬は、机に肘をつき、顎に手を当てたまま、静かにその言葉を受け止めていた。
「生活できるように…ね」
葉加瀬冬雪は、冷ややかな笑みを浮かべながら机の上の銀のボールペンを手に取った。
「おもろいやんけ」と、無造作に言葉を投げかける。
「でもさ、あんたらって……そんなにお金ありそうには見えないけど?」
ペンを軽くひねりながら、続ける。
「だから……加賀美インダストリアルに“お小遣いちょうだい”ってこと? 乞食かよ」
大学生の女性は、決して狼狽せず、穏やかな声で答えた。
「大丈夫です」
「強力な後ろ盾があります。東堂家と物部家、自衛隊や警察の方々にも協力していただいている、長い歴史を持つ名家の方々です」
女性はさらに書類を取り出し、重みのある封筒から数枚の紙を広げた。
そこには、名門家の印鑑が鮮明に押されていた。
「もしご協力いただけないのであれば、署名していただくだけでも構いません」
その慇懃な言葉に、葉加瀬はペン先を止め、書類に視線を落とした。
「なるほどねぇ……」
女性は静かに立ちあがり、葉加瀬冬雪の手をそっと取った。
その目には、真剣さと切迫感が宿っていた。
「我々は、葉加瀬さんだけが頼りなんです」
彼女の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「加賀美ハヤトとは違う才能の持ち主、あくなき探究心をお持ちの“天才児”。あなたはあんな男の鳥籠で囚われるべき方ではありません」
女性は一歩近づいて、さらに続ける。
「人間はこれまで、周りを変化させて文明を築いてきましたが――どこまで行っても“人間本来の幸せ・不幸せ”は改善されず、人間が持つべき豊かさとはかけ離れてしまっているのです」
「人間もまた、進化すべきなのです」
「今いる人だって、みんな今とは違う姿に憧れ、知らず知らずのうちにそれを演じているではありませんか!」
その言葉は、部屋の空気を揺らし、重みを帯びていった。
だが、葉加瀬はゆったりとあくびをし、書類を机にポンと投げつけた。
「……もういい?」
その声はあまりにも無邪気で、女性の熱を冷ませるほどだった。
その瞬間――
扉が勢いよく開き、数名の武装した男女が部屋に飛び込んできた。
瞬間、女性の腕が捻られ、拘束される。
葉加瀬はその場に静かに座ったまま、傍観するかのように呟いた。
「あー……くだんな」
ドアが閉まる直前、連行される女性の背中に、葉加瀬冬雪は静かに声を投げかけた。
「研究に良心をなんて、私は微塵も思わないが……」
「こいつは、“人の憂いや遠慮深さ”をおかしな方向に捉えただけの、つまらない研究だよ」
「単に全能の人間を作りたいだけなら、興味は持てたかもしれない」
「でもその先の人類の終末論なんか語り始めた時点で、痛々しすぎて見てらんない。笑わせんなよ」
教室の空気は、彼女の冷徹な声で氷のように凍る。
「……あんたのやってることは、“研究”じゃない。皮算用を元にしたただの宗教勧誘だよ」
葉加瀬の目は、冷たく鋭かった。
「それに今の私、もう首輪つけられたペットなんだわ」
「変な勧誘するなら、十一年くらい前に言いな。もっとも--」
女性は無言のまま、連行されていき、
「社長を侮辱した女の言うことなんて、自由の身でも聞きたくないがな」
数分後――
誰もいなくなった静かな教室に、荒木が入ってくる。
「お疲れ様、21番」
葉加瀬は机にもたれかかり、だらりと足を投げ出す。
「……今度、奢りですからね」
ぽつりと、疲れた口調で呟いた。
冷たい空気と無関心な視線。
その奥で、誰にも見せない感情が静かに沈んでいた。