女性は一瞬考え込みながらも、やがて小さく頷いた。
「ええ……大丈夫かどうか、本人に確認してみます。少々お待ちください」
そう言って、彼女は修道院の奥へと足早に姿を消していった。
その場に残された三人――
風に揺れる草の音だけが、小さく耳を打っていた。
修道院の石造りの廊下を、夜見れなは一人歩いていた。案内役の女性に導かれ、淡い光の灯る長い回廊を抜けていく。外とは違い、内部には静寂が支配しており、聖句の刻まれた壁面や、控えめな装飾のステンドグラスが、ここが未だ“祈り”の場であることを思い出させた。
奥の寝室の前で、女性が「この先に」と一礼し、去っていく。
重厚な扉をノックすると、中からかすかに「どうぞ」と声がした。夜見は静かに扉を開ける。
白いレースのカーテンが揺れる窓辺、簡素な木製のベッドと机。
その一角――椅子に腰かけていたのは、修道服をきっちりと身に纏った少女だった。
年は夜見とさほど変わらず、落ち着いた佇まい。けれど、その顔立ちはどこか洗練され、以前の幼さを脱ぎ捨てた印象があった。
夜見は少し驚いたように、そして感心したように口を開いた。
「おお……結構、垢抜けたね〜」
「まだカエル触れないの?」
するとアユミと呼ばれた少女は、呆れたように笑いながらも、すぐに言い返した。
「垢抜けたのはそっちでしょ」
「陰気で真面目な信徒のレナさんはどこ行ったのよ?」
そう言って、立ち上がりながら夜見の姿をじっと見つめる。目の端には少しだけ懐かしさと、照れのような感情がにじんでいた。
「ふふ。服の色が黒くなっただけで、そんなに変わってないってば」
夜見が肩をすくめると、アユミは椅子に腰を戻しながら、小さく吐息をついた。
「なんかさ……最近、面白いこと何もないんだよね」
言いながら、机の上に置かれた紙束を指でいじる。
「セクラ修道士いたじゃん? あの人、この前ついにカニに手挟まれて出血しててさぁ……! 本当バカだよね」
その一言に、夜見は吹き出しそうになりながら言った。
「あの人、まだいるの? もう死んだかと思った〜」
アユミも噴き出して、肩を震わせながら笑った。
「流石に生きてるよ。ちょっと白髪増えたけどね」
窓の外で風が吹き、レースのカーテンがふわりと舞う。
かつて同じ時を過ごした者同士の、他愛のない会話と笑い声が、小さな寝室にやわらかく満ちていった。
二人の笑い声が落ち着いたころ、アユミはふと夜見をじっと見つめ、言葉を投げかけた。
「てかさ、レナ……本当に変わったよね」
その声音はからかうようでいて、どこか寂しげでもあった。
「シヴィルトにいた頃はさ、つまらなそうに縮こまってて……“何かあっても、絶対に笑わない”って感じだったのに」
夜見は少し目を伏せながら、返事をしかけるが、アユミはそのまま話を続ける。
「やっぱり、あの王子様……?」
その一言に、夜見の肩がぴくりと跳ねる。
アユミはニヤニヤと口元を吊り上げながら、返答を待つまでもなく続けた。
「やっぱり女の子ってさ、イケメンがいると変わるんだなぁ〜〜〜」
その言葉に、夜見は真っ赤になって立ち上がると、両手を振りながら慌てふためく。
「そ……そんなことないからッ!」
「私はねッ!? あの、最低男に買われたんだから!!」
「デュエルのことしか頭にない、あの……わからんちんにね!!」
息を荒げながら言い切る夜見だったが、アユミはくすくすと笑って肩を揺らす。
「へぇ〜? でもさ、なんで“頭の中”のことまで分かっちゃうのかなぁ〜?」
からかうような調子でそう言いながら、赤面して硬直している夜見の腕を突いてくる。
そして耳元で、わざとらしく囁いた。
「あんなイケメンに攫われるなんて……“まるで御伽話のお姫様”みたいだって、シヴィルトでみんな噂してたんだよ〜?」
「やめて……許して……」
夜見は目をぐるぐるにしながら、真っ赤な顔を両手で覆った。耳まで染まったその姿に、アユミは「ふふっ」と、どこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「……ふぅー、もう、ほんとやめてよね……」
夜見は、赤くなった顔を手で扇ぎながら深いため息をつく。アユミはまだ少し笑いを引きずっていたが、夜見はふと何かを思い出したように、顔を上げた。
「――あっ!!」
目をぱちくりさせたアユミの前で、夜見が急に身を乗り出す。
「先生が言ってたんだけどさ、治験の時にいた人と会ったんでしょ?」
「良かったら教えてくれたりしないかな……?」
アユミの笑みがふっと止まり、ピクリと肩が震えた。
「あっ……」
と小さく声を漏らしたアユミは、顔色を変えてその場に固まった。そして、そっとあたりを見回すようにしてから、夜見の耳元に身を寄せ、囁くように言った。
「……あんまり人に言いふらさないでよ……?」
その声には、かすかに震えがあった。
夜見が頷くと、アユミは膝に置いた両手を強く握りしめ、小さく深呼吸をしてから、語り始めた。
「……あの日は、町でやってたバザーの手伝いの帰りだったの」
「途中で、すっごくトイレ行きたくなっちゃって……それで、近くの商業ビルの共用トイレに駆け込んで、個室に入ったんだけど……」
「……それで、用足してたら……どこからか、話し声が聞こえてきたの」
アユミの声が少しずつ低くなる。
「最初は、誰かが電話してるのかなって思った。でも、よく耳を澄ますと、話し声は複数あって……しかも、その中の一人の声が、昔、治験のときに私たちに指示を出してた大人の声に……すごく、似てたの」
夜見は黙って聞いていた。アユミは声を落としながら続ける。
「ゴソゴソ……何かを弄ってる音もしてて……それで、話してる内容が――」
彼女の顔が青ざめる。
「『開発の際に実験に使った子供を探している』って……そう言ってたの」
「それに……『その時の被験体があれば、薬の安全性はより保証される』って……」
夜見の眉がぴくりと動く。
「そのあと、別の声で――『被験体を出すなら、金はいくらでもはずむ』って……」
アユミの声はかすかに震えていた。
「その瞬間、本当に怖くなって……もう、息が詰まりそうで……音を立てないように、急いで個室を出て……走って、修道院まで帰ってきたの」
彼女の手は、話しながらわずかに震えていた。あの日の恐怖が、まだ生々しく身体に刻まれているようだった。
アユミの肩は小さく震えていた。
声は掠れ、目元には涙の気配がにじんでいる。
その姿を見た夜見は、そっと近づいて、膝を折り、アユミと目線を合わせた。
「――落ち着いて」
やわらかく、けれど真っ直ぐな声でそう言って、夜見は静かに言葉を重ねる。
「……私の目、よく見て」
アユミは戸惑いながらも、促されるまま夜見の顔を見る。
夜見の瞳――夜のように深く澄んだその瞳が、ゆっくりとアユミの視線を受け止める。
しばらく二人は言葉を交わさず、ただ目と目で向き合っていた。
そして、夜見が静かに言った。
「大丈夫だからね」
声は優しく、それでいてしっかりと地に足がついていた。
不思議と、その言葉の響きには重みがあった。
アユミの呼吸が少しずつ整い、肩の力が抜けていく。
やがて、かすかに頷いてから、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
その声は弱く、けれど確かに感謝の色がこもっていた。
夜見はアユミの手を軽く握ると、微笑みながら言葉を継いだ。
「やっぱり、苦しいこととかさ……無理して思い出さない方がいいかもね」
「……ごめんね。変なこと聞いちゃって」
アユミは首を横に振る。
「……ううん。……誰かに話せて、ちょっと楽になったよ」
窓の外で、風がカーテンをふわりと揺らす。
石造りの修道院の扉が静かに開き、夜見れなが中から出てきた。
その姿を見つけて、少し離れた木陰で待っていた周央サンゴが駆け寄る。
「え……もう終わり……?」
「何か手がかりとか、なかったの……?」
焦るように尋ねるサンゴに、夜見は微笑むでもなく、まっすぐ彼女の手を取った。
「……その前に」
夜見は立ち止まり、手を握ったまま、じっとサンゴの目を見る。
「……謝ってくれないかな」
その一言に、サンゴの表情が止まる。
「え……でも……」
戸惑い、反射的に口を開きかけたサンゴに、夜見は目を伏せることなく、淡々とした口調で続けた。
「……前にシヴィルトのこと、“間違ってる”とか言ってたでしょ」
「……あん時から、私……あんたのこと、好きじゃないんだよね」
その言葉には、怒りや憎しみというよりも、長い間胸にしまっていたわだかまりの重さがにじんでいた。
夜見はゆっくりと、冷めた目で続ける。
「さっきも、この修道院の話……嫌な顔して、聞いてたでしょ」
「……“天下無双”だって、別に褒められる仕事ばっかりしてたわけじゃないはずなのに」
サンゴは息を呑み、何も言い返せずに立ち尽くした。
胸の奥に、じくじくとした後悔のようなものが湧き上がる。
――自分は、知らず知らずのうちに、夜見やアユミの「居場所」に対して、拒絶の態度を取っていたのではないか。
――どんなに悲惨な環境でも、そこで育ち、日々を重ねていた人たちにとっては、そこが確かな“故郷”だったのだ。
「……ごめん」
サンゴは、視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……僕、夜見さんや、アユミさんのこと、全然考えてなかった」
小さな声だったが、その響きは静かに空気を揺らした。
――ヒスイやコハクの育ったΣも、彼女たちにとっては母校であり、故郷だ。
自分たちの知らない痛みの中で、それでも懸命に暮らしてきた人たちがいる。
その過去を、知ろうともせずに「間違ってる」と切って捨てることは――
きっと、してはいけないことだった。
サンゴの沈黙を受け取って、夜見れなはふっと息を吐く。
「……そういうこと」
淡々とした声で言いながら、視線をサンゴに向ける。
「私はね……その二人の環境の方が、ずっとヤバいと思ってるよ」
「幼気な子供に人殺しやらせるとか――イカれてるでしょ」
唐突に告げられた言葉に、サンゴは「え……なんで」と目を見開くが、夜見はそれ以上は語らなかった。ただ、少し寂しそうな微笑みを浮かべただけ。
サンゴは、反論も肯定もできずに、返す言葉を探すように俯く。
そんな彼女に、夜見はくるりと背を向けると、堂々と胸を張って言った。
「――今はそれでよろし」
言い切るような声音には、どこか茶目っ気のような強さが混じっていた。
そこへ、修道院の壁から顔を覗かせた葉加瀬が「終わった?」と声をかけてきて、三人はそのまま再びタクシーへと乗り込んだ。
車は再び悪路を揺られながら進み、やがて舗装された幹線道路へと出る。修道院の鐘の音も、森のざわめきも、もう遠い。
前方を見つめながら、葉加瀬が隣の夜見に声をかけた。
「で……」
「マジで宛とか、あるの?」
夜見は、何気ない風で窓の外を見ながら、指を一本立てて言う。
「そこの先入って、右の所だね」
「多分、4~5人くらい。アユミの聞いた“取引”は、アゾートのもので間違いなさそうだねぇ……」
何気なく呟いたその一言に、助手席の葉加瀬は目を細めて、小さく溜息をついた。
「……こいつ、どさくさに紛れてやりやがったな……」
苦笑と呆れを半々に混ぜたような声だった。
後部座席のサンゴはキョトンとしたまま。
「えっ、え? 何の話? どさくさって、え? え?」
困惑するサンゴの横で、夜見は照れ隠しのように顔を背け、口元に手を当てる。
「えへへ……」
ふにゃりと笑って、何も言わずに外の景色を見つめる彼女の横顔に、ほんの少しだけ、影が落ちた。
車内で沈黙が続く中、葉加瀬がふと口を開いた。
「……ちょっとセコいやり方かもしれないけどさ」
助手席から後部座席をちらと振り返る。
「夜見さんを仮に偵察に使うんなら、すぐにでも“取引の現場”を割り出せるかもしれない」
その言葉に、サンゴは静かに息を整えながら尋ねた。
「……そんな手段があるなら、すぐにでも頼みたい」
感情は抑えていたが、その瞳には焦りと覚悟が宿っていた。
夜見れなは笑みを浮かべて、小さく頷く。
「オッケー」
それだけ言って、タクシーが古びた公衆トイレの近くの廃ビル前で止まると、音もなく車外に出ていった。
夜見が降りてから数秒、葉加瀬は後部座席に座るサンゴの頭に手を当てた。
「ちょっと目、瞑ってな」
「えっ、え?」
抵抗する間もなく、サンゴの視界が葉加瀬の手で覆われる。
「……何これ、何してんの……」
「いいから」
そうしてしばらく、二人は静かな時間を過ごした。外の喧騒も、木々のざわめきも、どこか遠い。
何十分か経ち、サンゴがようやく手を振り払って葉加瀬の手のひらから逃れると――
「やあ」
いつの間にか、隣に夜見れなが戻ってきていた。無言で窓の外を見ていた葉加瀬も、わずかに視線を動かす。
「……場所はね、亀宮ホテルの4階」
「そこには“神化薬”の在庫が大量にあって、大規模な取引は“来週”」
「でもその2日前に、一人……誰かが“買取”のために入ってくるらしくて――多分、その人が物部の人だね〜」
夜見はまるで天気予報でも伝えるような、軽く淡々とした口調で言う。
サンゴはその正確で具体的な情報に、ぽかんと目を丸くしていた。
「……そんな、あっさり……」
呆然と呟くサンゴに、葉加瀬が腕を組みながら言う。
「こういう人なんだよ。……夜見さんは」
窓の外を見つめながら、その声にはどこか、感嘆とも、諦めともつかない響きがあった。
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数日後。
サンゴは一人、都心のガラス張りのビルの中にいた。かつての柔らかいロングヘアはばっさりと切られ、ショートカットになったその姿には、迷いの影よりも、強い意志の光が宿っていた。
ビルの廊下は静まり返っており、足音だけが響いている。サンゴはスーツに身を包み、迷いのない足取りで歩みを進めていた。どこか、もう誰かに守ってもらうだけの立場ではいられないと悟ったような、そんな佇まいだった。
「…全部を敵に回す必要はない。だけど、誰かを信じるなら、その人が何を背負い、何をしようとしているかを知らなきゃいけない」
ガラスの壁を通して外を見る。高層ビル群の隙間から、暮れかけた空が少しだけ朱に染まりはじめていた。車や人が行き交う大通りの騒音はここまで届かず、ただ静かに世界が動いているのが見えた。
廊下の一角にある「テナント募集中」と貼られた部屋の前で立ち止まる。透明なガラス扉の向こう側には、何も置かれていない整然とした空間が広がっている。シンプルな照明と白い壁、外の景色が反射して映るその空間は、まるでこれから始まる何かの“舞台”のようだった。
「僕は…もしかすると物語の登場人物なのかもしれない。だけど、そうじゃなかったとしても、人生は舞台なんだ。」
「舞台に立つ以上、その演じ方は自分で選ばないと」
窓に映るのは、ショートカットの自分自身。その目には、もう以前のような迷いはなかった。
周囲には誰の気配もなく、夕陽が斜めに差し込むフロアには、彼女の足音だけが小さく反響していた。
髪は短く切り揃えられ、眼鏡の奥の瞳には、燃えるような決意が宿っている。制服の白いジャケットが風に揺れ、彼女の一歩一歩が確かな重みをもって階段に刻まれていった。
中途で、サンゴは立ち止まり、眼鏡をかけ直す。その指先に、ふと蘇る記憶があった。
――藍色のリボルバー。
かつて祖父が遺し、今はコハクが持つ、輝きを帯びた旧式の拳銃。構造も時代遅れで、決して実用的ではないそれを、祖父は生涯手放さなかった。
「……きっと、あの人なら。」
呟くように、サンゴは心の中で祖父の姿を思い出す。
殺し屋であろうと、教団の信徒であろうと、迷える子供たちであろうと。
祖父はそのすべてを、見捨てることなく受け入れ、包み込んで生きた人だったのだろう。
たとえ矛盾や罪の重さがあろうと、他者の「在り方」を否定することなく、ただ静かに傍に立ち続けた。
そして、それを脅かす存在には――誰であろうと、正面から立ち向かっていたのだろう。
サンゴは再び歩き出す。
階段の踊り場をいくつも越え、やがて最下層にたどり着いたとき、彼女は小さく息を吐いた。
「“天下無双”を継ぐってことは……そういうことだ。」
彼女の表情には、もう迷いはない。
祖父が歩んだその道を、今の自分の歩幅で踏みしめていくと、そう決めたのだ。
たとえそれが、孤独や戦いを伴うものだったとしても。
ビルの自動ドアが、静かに開く。
冬の風が、彼女の短くなった髪をかすかに揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。
その中で、サンゴは一歩、外の世界へと踏み出した。
祖父の名と、その「本懐」を、胸に宿して。