ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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刎頸之友

 翌日――午後の陽が差し込む、街角のファミレス。

 

 窓際のテーブル席、向かい合うはずの二人が、なぜか横並びに座っていた。

 

 葉加瀬冬雪は、荒木のすぐ隣。妙に距離が近く、時折肩が触れるほど寄り添っている。しかも、やたらと落ち着きがなく、飲み物をいじったり、スマホをチラ見したり、そわそわしていた。

 

 ついに堪えきれず、荒木が口を開く。

 

「……今日のお前、変だぞ」

 

 その声に、葉加瀬は一瞬だけ黙り込み、視線をそらしてから、ぼそりと呟く。

 

「……たまには、良いじゃないですか」

 

 そのまま、少しだけ荒木の肩にもたれかかる。ファミレスの騒がしさの中で、その静かな仕草はどこか異様に感じられた。

 

 荒木は大きく息をつき、やれやれといった顔でテーブルの上の紙ナプキンを指でいじる。

 

「で――例のアゾートの件はどうなったんだ?」

 

「Σに“追うな”と言った以上、無策でいるわけではあるまい」

 

 それに対し、葉加瀬はもたれたまま、ゆっくりと口を開く。

 

「取引の場所は、把握しておきました」

 

「……問題は、どうやって“現場を抑えるか”です。そして、どう見つからずに“仲間を集めるか”」

 

 ジトっとした目つきでスマホをいじりながら、葉加瀬は小声で付け加える。

 

「……ここから先は………ちょっと甘えさせてくれたら、話します」

 

 その様子に、荒木は眉をひそめながら視線を外す。

 

「さては……ツヴァイ修道院で何かあったな」

 

 渋々と、しかしどこか慣れた仕草で、荒木は葉加瀬の頭をぽんぽんと撫でる。

 

 「……まったく、手のかかるやつだ」

 

 葉加瀬はその手に身を任せながら、小さな声で「ふふ……」と笑った。

 

 ファミレスのテーブルの下、葉加瀬冬雪はまだ荒木の膝に頭を預けたまま、動かない。

 

 そして、ほんの小さな声で呟いた。

 

「……見てるよ……」

 

「先生のこと……見てるよ……」

 

 荒木に向けられたその言葉と視線は、普段のからかいや皮肉とは違う、どこか寂しげな、切実な色を帯びていた。

 

 荒木はしばらく無言でその目を見つめ、息を吐いた。

 

「……仕方ない」

 

 そう言うと、そっと葉加瀬の肩を支えて体を起こし、次の瞬間――

 

 ふいに、その小さな身体を抱き寄せた。

 

 葉加瀬の呼吸が一瞬止まる。けれど拒絶の言葉はなく、ただそのまま、荒木の胸元に身を預ける。

 

 ファミレスの喧騒の中で、彼らの周囲だけが静かな箱庭のように切り取られた。

 

 荒木は、葉加瀬の頭を一度だけやさしく撫でる。

 

「……よく頑張ったな」

 

 そのひと言は、すべての努力と孤独を包み込むように、静かに響いた。

 

 葉加瀬は満足そうに、すっと目を閉じたまま、今度は自ら腕を伸ばして、荒木を抱き返す。

 

「……ん……」

 

 しばしの沈黙と静かな時間の後、荒木は抱きしめたまま葉加瀬の様子を確かめる。

 

 もう十分、満足したことを感じ取ると、腕をほどいて小さく問いかけた。

 

「……それで、どうする気なんだ?」

 

 ようやく“教え子”の顔を手放し、“情報屋”の目で見て。

 

 葉加瀬は、少し呼吸を整え、一度だけ荒木のネクタイを指で摘みながら、ぽつりと答える。

 

「……それはですね――」

 

 葉加瀬は一息ついて、ついに計画の核心を語り出した。

 

 

 

 

 

 土曜の午前、薄曇りの空。

 西園チグサは、サンゴに指定された「最寄駅」なる場所を目指していた。けれど、その「最寄り」と呼ぶには、どうにも遠い。

 

「……えっ、ここ乗り換えるの……?」

 

 スマホの画面と路線図を交互に見ながら、チグサは首を傾げた。

 

 慣れ親しんだ市街地を抜け、電車は郊外の住宅地を過ぎ、さらに次の乗り換えで単線のローカル線に。車両も一両編成に変わり、車内はがらんとしている。乗客も高齢者と学生がちらほら、ほとんどの座席が空いていた。

 

 窓の外は、いつの間にか見慣れた風景から遠ざかっていた。

 高層ビルは消え、かわりに広がるのは、ひたすらに続く田んぼ。低く広がる空に、かすんだ山々の稜線がにじんでいる。

 

 線路脇には、すでに役目を終えたような小さな工場や、ペンキが剥げかけた商店が並び、時折、菜の花の群生や無人の踏切が過ぎていく。

 

 チグサは、ふとスマホの電波が弱くなっていることに気づき、電源ボタンを押して地図アプリを閉じた。

 

「……え? 本当にここで合ってるの……?」

 

 自分がどこに向かっているのか、サンゴの指定通りで間違っていないのか――急に不安が胸に広がる。

 

 遊ぶって言ってたよね……でも、遊ぶにしては、遠くない?

 むしろこれは、旅では? ていうか、山? 森? え??

 

 心細くなったチグサは、窓に額を当てて、外の景色をぼんやりと見つめる。

 遠くの川べりに釣りをしている親子の姿が小さく見えた。

 

 電車は、キー……という音を立てて、また小さな無人駅に停車する。降りる人も乗る人もいない。

 

 その音が妙に寂しく、胸の奥にしんと響く。

 

「……これ、ンゴ、駅間違えてない……?」

 

 思わず、口に出してつぶやいてしまう。

 

 車内に答えてくれる者はおらず、ただ、田舎特有のゆったりとした空気が、チグサの背中を押すように、次の駅へと運んでいった。

 

 電車ががたん、と音を立てて止まった。

 

 チグサはぼんやりとアナウンスを聞きながら降車口に立ったが、出てきた駅名の看板を見て目を細める。

 

「……読めないんだけど」

 

 木造の古びた駅舎。まるで時代に取り残されたような、木の軋むホームに降り立ち、チグサは「はぁ……」と長いため息をついた。

 

 駅の階段を下りると、誰もいない無人改札。ICカードなんて通るわけもなく、券売機の横の箱に切符とともに運賃を入れる。

 

「……え、1300円……!?」

 

 思わず小声で叫んだ。小旅行かって額だ。こんなの“遊び”で使う範囲じゃない。

 

 そのまま不機嫌そうに道路へ出ると、舗装はされているものの、街灯もまばらな田舎の幹線道路が続く。コンビニすらない。

 

 仕方なく歩き続けること約15分。

 

 ようやく、古ぼけた看板が風に揺れる、小さな喫茶店が見えてきた。

 

 「カフェ・えにから」――そんな名前が書かれている。

 

「やっと……」

 

 重たい足を引きずるようにドアを開けたチグサだったが――

 

「――あのさぁ!」

 

 そこにいたのは、サンゴではなく北小路ヒスイだった。

 

 不満の矛先を向けようと声を張り上げるチグサに、ヒスイは一瞬だけ視線を上げて、静かに言った。

 

「……三日前から、私ここにいる」

 

 その言葉にチグサは一瞬だけ固まる。

 

「……ンゴは二週間前から山籠り。もう、ここには戻ってこない」

 

 「……え……?」

 

 ヒスイの目は冗談ではない。淡々としたその声音に、チグサは急に現実感を取り戻す。

 

 「で、でも! ンゴは“遊ぶだけ”って……!」

 

 動揺から口をついて出た言葉を、ヒスイは受け取らない。ただ、無表情に立ち上がると、チグサの目の前に、ノートパソコンと黒いインカムを差し出した。

 

「あなたはそっち。私はこっち」

 

 「右から2階、4階、5階のカメラ」

 

 そして、ヒスイの声が低く落ちた。

 

「――始めるよ」

 

 山間の静けさの中、木々を揺らす風が、防弾制服の裾をはためかせる。

 鬱蒼と茂った木立の隙間から、サンゴの真上――木々の向こうに、灰色のコンクリートの塊がそびえている。

 亀宮ホテル。かつては観光地として栄えたであろう老舗の建物は、今や無人の山奥で異様な存在感を放っていた。

 

 サンゴは木陰に身を潜めながら、小さく息を吐いた。

 その身体には、ヒスイのものと思われる青白い制服が着せられていた。防弾素材を含んだ、少しだけ重たい服。

 

「……気持ち悪い……」

 

 ぼそりと呟いたその声は、インカム越しに東堂コハクへ届く。

 

『大丈夫?』

 インカムから聞こえるのは、相変わらず穏やかな声。

 

「肌に合わないのもあるんだろうけど……東校舎の防弾制服って、なんかキツくない……?」

 

 制服はわずかにブカブカで、袖口を気にするように腕を振ってみせる。だが、それ以上の違和感が、サンゴの内心をざらつかせていた。

 

 ――まるで、何者かになりすましてる気分。

 

 その言葉にはコハクは特に応じず、淡々と作戦の説明を続けた。

 

『元気そうで何より』

『西園チグサの接続を確認。1230に、2時の方角――ホテルのFフロアから突入する。』

 

『あと一人を2階のDフロアで回収しつつ、4階のAフロアに突入する予定。』

 

 その淡々とした口調の中に、唐突に重たい言葉が混じる。

 

『――今回の肝は、その「あと一人」になる』

 

『その人がいなければ、犯人を見つけても何もできないので、作戦は中止。』

 

『救出されるか、殺されるかするまで、現場待機』

 

 インカム越しのその一言に、サンゴの額に冷たい汗がにじむ。

 木陰に隠れていたその身体が、自然と緊張で前かがみになり、呼吸が浅くなる。

 

「……わかってるよ」

 

 サンゴは唇をかみながら、小声で答えた。

 ゆっくりと木の根を避けて、前へ。ひとつひとつ、落ち葉を踏まないように進む。

 

 ホテルの敷地に差し掛かったサンゴは、腰をかがめながら、周囲の木々や古びたガードレールをつたって進む。

 そこは人の手が長く入っていない場所だった。蔦が這い、アスファルトはひび割れ、落ち葉が積もり、自然に半ば呑まれつつある。

 

 崩れたフェンスの切れ目から敷地へと足を踏み入れ、ひっそりとした裏口から中に侵入する。

 廊下は薄暗く、空気がじっとりと湿っていた。

 

 床に積もる埃。剥がれかけた壁紙。がらんとした空間。

 

 旧式の自販機が壁に沈んでおり、液晶はすでに点かず、ボタンは黄ばんでいる。

 非常灯だけがうっすらと天井で光り、どこか時間が止まったような雰囲気が漂っていた。

 

 インカムから、ノイズ混じりのヒスイの声が届く。

 

『1階は視界グリーン。5時の方角に階段がある』

 

 その声は冷静で、機械のように的確だった。

 

『……とは言っても、ンゴは敵とか気にしないで、そのまま上に進んで』

 

「了解」

 

 サンゴは、短く応じて歩き出す。

 廊下を横切ると、突き当たりにある階段が見えてくる。

 金属製の手すりはさび付き、ステップは軋む音を立てる。誰もいないはずなのに、どこかで気配だけがついてくるような感覚。

 

 2階に上がった瞬間――

 

『2階グリーン。あ……でも、待って!』

 

 インカム越しに、チグサの焦った声が聞こえる。

 

「え……?」

 

 思わず足を止める。

 

 ――その直後。

 

 ドン!

 

 重い音が、サンゴの背後で響いた。

 

 “何かが倒れる音”。

 それは確かに、人が倒れたような、勢いのある音だった。

 

「……!」

 

 サンゴは反射的に振り返ろうと体を動かす――が、その瞬間、

 

「気にしないで」

 

 ヒスイの冷たい声が、記憶の奥からよみがえる。

 

 ……今は、目の前の任務に集中しなきゃ

 

 サンゴは唇を噛み、背後の恐怖を押し込めるように、視線を前に戻す。

 

 そして、誰もいない薄暗い2階の廊下へと、足を一歩踏み出した。

 

 心臓の鼓動が、制服越しに強く響いていた。

 

 2階の廊下を進み、洋間Dフロアの扉に手をかけた瞬間、サンゴは一度深呼吸をした。

 

 (……ここだ)

 

 がらんとした廊下の奥、金属製のドアノブをゆっくり回す。

 開いた扉の先に広がっていたのは、妙に静かすぎる部屋だった。

 

 中には、使い古された机が一つだけ。壁際にぽつんと置かれている。

 

 窓はない。

 

 外の光は一切入ってこない。照明も落とされており、非常灯の淡い緑の光が、部屋の角をぼんやり照らしている。

 

 サンゴはそっと一歩を踏み出すと、すぐに空気の違いに気づいた。

 妙に音が響かない。

 

 扉を閉めた音も、靴の足音も、まるで吸い込まれていくような感覚。

 

 (……防音? たぶん、カラオケルームか何かだったのかな……)

 

 そう思いながら、サンゴはゆっくりと部屋の奥へ――押し入れのような収納スペースへと足を進める。

 その小さな扉の前に立ち、手をかけると、躊躇わずに開いた。

 

 中に、誰かがいる。

 

 暗がりの中、縮こまるように身を隠していたその存在に向かって、サンゴは静かに微笑みかける。

 

「――おまたせ」

 

 声はできる限り柔らかく、穏やかに。

 

「ごめんなさい。だいぶ早く来たつもりだったんだけど、それでも少しかかっちゃった」

 

 押し入れの中から、小さく、戸惑うような気配が返る。

 

 サンゴは首を横に振りながら、まるで会話をしているように、言葉を続ける。

 

「いやいや……それじゃダメなんだよ。大勢で動くとバレるだろうし、どのみち現行犯以外は狙えない」

 

 そして、そっと中に手を差し伸べる。

 

 おびえたように震える指先が、サンゴの手をそっと握る。

 

 その体温の重みを感じながら、サンゴは小さく頷いた。

 

「……行くよ」

 

 その一言に、その“誰か”が頷いたかのようにわずかに動く。

 

 サンゴはその手を優しく引き寄せ、立ち上がらせると、廊下の扉へと目を向ける。

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