ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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有終完美

 鈍い音を立てて、ホテル4階の一室の扉が開いた。

 

 割れたガラスが散らばった廊下の向こうから、一人の男が足を踏み入れる。

 足元に気を遣う様子もなく、靴底で小さなガラス片を踏みつける音が、ピキッ、ピキッと鋭く響く。

 

 室内は荒れていた。

 窓は一部砕けていて、風が吹くたびに薄いカーテンが揺れ、破片混じりの光が斜めに差し込む。

 

 散乱した棚、傾いたソファ、空き缶と無数の小瓶。

 けれど、過度な汚れはなく、どこか整った無秩序のような、妙な整合感があった。

 足の踏み場は意図的に残されており、誰かが“使っている”形跡さえある。

 

 男は無言で部屋を見回した。

 壁のシミ、天井のヒビ、テーブルの上の紙切れ――一つ一つを、目で丁寧になぞる。

 

 やがて、その視線がある一点で止まる。

 

 ベッドの脇、埃の少ないサイドテーブルの裏。

 そこに無造作に挟まれていた白い封筒に手を伸ばし、中を確認する。

 

 男の指が中から取り出したのは、小さなガラス製のアンプルだった。

 

 透明な液体がわずかに揺れるその中身を、男はわずかに光にかざし、すぐにポケットへと滑り込ませた。

 

 その仕草は慣れたものだった。何度も繰り返してきたような、ためらいのない動き。

 

 そして、何も言わず、何も残さず、男はゆっくりと部屋を出ていこうとする。

 

「――動くな」

 

 低く、張り詰めた声が部屋の静寂を切り裂いた。

 

 不意を突かれた男は、ビクリと肩を揺らして振り返る。

 

 割れたガラスを踏みながら、扉の側に立っていたのは、落ち着き払った表情の栞葉だった。

 

 警察の制服を翻しながら、彼女は一歩前に出て、左手で黒革の警察手帳を開いて見せる。

 

「警察です。物部拝人ですね――あなたを住居侵入罪、および麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕します」

 

 明確な言葉。静かながら、逃げ道を一切与えない口調だった。

 

 拝人の顔が一気に蒼白になる。

 

「……まさか……今日来たのか!?取引があるのは――4日後のはず……!」

 

 それは驚きというより、確信の崩壊だった。

 読み違えた。封じたはずの足取りを、まさかここまで。

 

 栞葉は半目で睨むように拝人を見据え、静かに返す。

 

「――それは、余罪の自白と見てよろしいでしょうか」

 

「っ……!」

 

 拝人は唇を噛み、拳を震わせながら一歩後ずさる。

 

「ふざけるな……!分かるわけがない……!日本警察ごときが……!」

 

 その声はだんだんと怒りに変わっていく。

 

「特殊詐欺の元締めも満足に捕まえられない!

 ヤクザ紛いの連中がいなければ、国一つ守れもしない!

 そんな無能な連中が、どうして……どうしてこんな時だけ、まともに動くんだ!!」

 

 天井に向けて吐き捨てるように叫ぶその言葉に、栞葉は何も返さなかった。

 ただ冷たい視線を、そのまま貫く。

 

 その瞬間――栞葉の背後から、ひょっこりとサンゴが姿を見せた。

 

 サンゴはゆっくりと、拝人の方へ歩み寄る。

 

 その目は、驚きでも怒りでもない。

 深く沈んだ悲しみがあった。

 

「……やっぱり……あれはあなたの差し金だったんだね」

 

 サンゴは、まっすぐに拝人を見つめて言った。

 

「野武士さん」

 

 その名を口にした瞬間、拝人の顔が一瞬だけ歪む。

 

 まるで、過去を暴かれたような、苦しげな表情。

 サンゴの声は優しくも静かで、どこか別れを告げるようだった。

 

 サンゴは、栞葉の背後からゆっくりと前に出る。

 拝人――野武士と呼ばれたその男に、正面から向き合うようにして言葉を紡ぐ。

 

「……飯沢も……多分、野武士さんが殺しちゃったんでしょ」

 

 目を逸らすように、声だけが静かに響いた。

 

「証拠も何もないよ。でも、きっと……そんな気がするの」

 

 そう言うサンゴの声には、怒りも追及の色もなかった。ただ、重い確信と…哀しみが滲んでいた。

 

 拝人は微動だにせず、それを受け止めるように黙っていた。

 

「その薬で、何する気なの?

 都市伝説サークルに資金援助して……

 あからさまにその“ヤクザ紛い”の人たちに目をつけられそうな取引まで自演させて……」

 

 サンゴの声が少し揺れる。

 

「そこまでして、その薬が欲しかった理由は何?」

 

 空気が、重く沈黙する。

 破れたカーテンの隙間から差す光が、砕けたガラスを微かに照らす。

 

 拝人はゆっくりと視線を上げ、サンゴの瞳を正面から見た。

 

 その目には、静かな覚悟が宿っていた。

 

「――君と私では、見ている世界が違うのだ」

 

 吐き出すように、それは独白のように始まった。

 

「誰もが、同じ世界を見ている訳ではない。

 君のように、誰とでも繋がれて、どんな壁も乗り越えていける人間もいる」

 

 「だが――」

 

 「その壁一つが、生きる理由になってしまう人間も、いるのだ」

 

 その言葉に、サンゴも栞葉も、黙る。

 ただ拝人の声だけが、崩れた部屋の空気を震わせる。

 

「……私の血や肉は、妻のためにあったのだ」

 

 「私が生きた中での、一番の宝石――それが、彼女だった」

 

 「それは……死した後でも変わらない」

 

 拝人の目には、燃えるような執念と、決して届かないものへの哀惜が交差していた。

 

「死後の世界を見れば、彼女に会えるのか。

 死者と繋がる機械を作れば、彼女にもう一度触れられるのか。

 ――その全てのために、私は情報屋になり、犯人を追い、この……地獄とも呼べる時間を過ごしてきたのだ」

 

 言葉の終わりには、静寂しかなかった。

 散らばったガラスも、古びた家具も、黙ってそれを見ていた。

 

 サンゴは言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 

 拝人はもう、サンゴも栞葉も見ていなかった。

 部屋のどこか、かつて誰かが座っていたかもしれない椅子の残骸を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「――憂き世、とは……よく言ったものだ」

 

 その声音には怒りも、悔しさも、何もなかった。ただ、乾いた悟りのような響きがあった。

 

「そこまで欲しくはないものは、五万と手に入る。

 だが……本当に欲しいものは、全く手に入らない」

 

 サンゴはその言葉を、静かに胸で受け止める。

 

 拝人の言葉は続く。

 

「欲しいもののために、血を流し、夜を徹して、命を削って努力したところで……

 見当違いの報告でだけ人に評価され、

 本当に痛い部分は、誰一人として理解してはくれぬのだ」

 

 それは誰にも届かないと知っている独白。

 そして、届かなくても語らずにはいられない悲しみだった。

 

 ――サンゴの脳裏に、ふと環崎の顔がよぎる。

 

「“本当のお前”を見た人間なんて、数えるほどしかいないんじゃないか?」

 

 そう興味津々に言われたのは、いつだったか。

 

 ――もともとサンゴのその“演技力”は、

 嫌な仕事を「していない」フリをするために身につけたものだった。

 

 誰かを騙すためでも、誰かを救うためでもない。

 自分を守るための“嘘”だった。

 

 けれど、それが環崎には――「誰にもバレずに、嫌な仕事をこなすための才能」と映った。

 

 それはサンゴにとって、とても静かな絶望だった。

 

 拝人の言葉は、そんな自分の“見られ方”とどこかで重なる。

 

 サンゴはゆっくりと目を伏せ、そして――そのまま、拝人の方に顔を向けた。

 

「……そうですね」

 

 短く、それだけを、素直に。

 

 肯定とも否定とも取れるその一言に、拝人はふっと笑った。

 自嘲と達観、そしてどこか救われたような、それでいて深く沈むような笑みだった。

 

 その空気を裂いたのは――栞葉の、澄んだ声だった。

 

「……私は、そうは思いません」

 

 拝人がゆっくり顔を上げる。

 栞葉は姿勢を崩さず、正面から彼の瞳を受け止めていた。

 

「一学生がそう言っているだけです。

 あなたが飯沢を殺した証拠は、まだどこにもありません」

 

 淡々と、だが決して冷たくはない声音。

 

「あなたの犯した罪は軽くはありません。

 しかし――償えない罪だとも言い切れません」

 

 拝人は反応しない。

 それでも栞葉は、言葉を丁寧に紡ぎ続けた。

 

「……確かに、警察は完璧ではありません。

 作ったのが神ではなく人間なのですから、完璧なはずがないんです」

 

 「それでも…」と、栞葉は息を吸う。

 

「それでも、警察も、司法も、いくつもの組織も――

 皆が“そうであってほしい”と願って作り続けているものです」

 

 拝人の表情が揺れる。

 しかしそれは、納得でも反発でもなく、ただ遠くを見るような目だった。

 

 やがて彼は、深く長い溜息を吐き――

 

「……その確証のない未来に……何年、待てばいい」

 

 低く、掠れた声。

 

「その“完璧ではない駄作”で満足する連中を横目に……

 いったい、いくら季節を巡ればいいというのだ……」

 

 その言葉は、自分自身の限界を告げているようでもあった。

 

 拝人はふらりと後ろへよろめく。

 

 その動きに、栞葉は異変を察知し、表情を凍らせる。

 

「……!? 待って――!」

 

 栞葉はすぐさま走り出す。

 だが一瞬、拝人の指がポケットに触れた。

 

 ――彼がさきほど盗んだ、アゾートのアンプル。

 

「……一度だけでいい」

 

 拝人はそのガラス瓶を歯で噛み――砕いた。

 

「やめて!!」

 

 栞葉の叫びが響くより早く、

 拝人は液体を飲み込み、そのまま身体を翻した。

 

 砕けた窓へ、後退るような足取りで近づいて――

 

 風を切る音を残して、外へ消えた。

 

 重力に引かれるように、ただ真っ直ぐに。

 

「――ッ!!」

 

 栞葉は追うように窓へ駆け寄るが、

 その顔は見る間に青ざめていた。

 

 陰鬱な山風が吹き上がり、部屋のカーテンが激しく揺れる。

 

 サンゴは、何も言えずその光景を見つめる。

 

 胸の奥が重く沈む。

 

 何億年経っても決して叶わない――そのはずだった男が最期に叶えた、一縷の願い。

 

 それは確かに誰もが願うが、決して叶わない究極の願いで逢った。

 

 ただひとつだけ――情報屋の野武士が最期に言った「宝石」という言葉だけが、いつまでも耳に残っていた。

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