七転八倒
昼下がり、陽光が教室の窓から斜めに差し込む中、ヒスイは弁当も広げず、手持ち無沙汰なまま自席に肘をついていた。
チャイムの音――ではなく、
コハクの部屋のチャイム。
押そうとして、押せなかった。
(お礼くらい言っておかないと、って思ったけど……)
(向こうからしたら、「下っ端が媚び売ってきた」って思われるかもしれないし)
(ああ、嫌われんの……嫌だなあ)
言い訳にもならない理屈を自分でこねては、そのたびに小さく自己嫌悪を噛み締める。
結局チャイムは鳴らさず、廊下を歩いて引き返す自分がそこにいた。
「……はぁ」
ヒスイは静かにため息をついた。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは、サンゴだった。
あの奇妙で、掴みどころのない少女。
子供っぽいのに大人びていて、冗談交じりに核心を突いてくる、異質な存在。
(東堂コハクも気になるけど……他にも気になるやつはいる)
(あいつ、なんなんだろう…)
教室の喧騒の中、ヒスイの耳だけが遠のいていた。
――「普段関わってる相手は、大人ばかりなんだ」
あのとき、そう言ったサンゴの横顔が思い出される。
(それって、どういうこと?)
(仕事?誰かに仕えてる?それとも…)
ヒスイは、ふとサンゴがパソコンを叩きながら冗談めかして語っていた
あの「ミスター」の情報収集や、ドローンの操作、
そのすべてが冗談で済ませられるレベルじゃなかったことを改めて思い返す。
(……本当に中学生なの?)
世怜音・西校舎の生徒は、一般の子供たち。
それが建前であり、事実のはずだった。
家庭がある。
学校がある。
普通の人生を送れる環境にいる。
あたたかい親や教師が、彼らにはきっといるはずだった。
なのに――
(なんで、あいつ……好き好んであんな危ない仕事してんの?)
(好きでやってるなら、それはそれで……)
ヒスイは拳を軽く握り締めた。
(……心配になってくるじゃん、あんなの)
自分が心配してると気づいたとたん、どこか胸の内がそわそわし始めた。
「……バカみたい」
ポツリと呟いた声は、自分に向けたものだった。
だけど、止まらなかった。
気になってしまったのだから。
それが、ヒスイにとってサンゴという存在がただの「情報屋」じゃないという証明だった。
夕陽が射し込む、ガラス張りの学外休憩室。
通りには制服姿の学生たちがまばらに行き交い、学内とは違った開放的な雰囲気の中――
サンゴは一人、透明なアクリルテーブル越しにスマホを耳に当てていた。
「――浅草で、先週の土曜?」
スマホの向こうから聞こえるのは、警部・西川の落ち着いた声。
「ああ。似たような手口で勧誘されたって大学生が通報してきたんだ。
守秘義務の関係で細かいことまでは教えられないけど、調べる価値はあると思うよ。」
「……了解です。ありがとうございます。」
「また怪しい大人見つけたら教えてね、周央さん。
中学生だからアルバイトはダメだけど――お小遣いくらいは出すからさ。」
プッと通話が切れる音。
サンゴはスマホをテーブルの上に置き、窓の外へと視線を移した。
「うーん……やっぱり、仕事柄、西川警部からは深掘りできないか」
呟きながら、制服のポケットから取り出した小さなノートPCをテーブルに広げる。
軽やかにキーを叩きながら、浅草周辺の「最近のマルチ商法関連のトラブル」を調べ始める。
「土曜日の午後……大学生が引っかかったってことは、勧誘の場は人が多いカフェかレンタルスペース……」
パチパチと検索ウィンドウを切り替えながら、
サンゴは次第に無言になり、眉間にシワを寄せたまま、真剣な目で画面と向き合っていた。
背後では、制服のままコンビニスイーツを分け合って笑う生徒たちの声が響いていたが――
その空間だけは、まるで別世界のように静かだった。
「……あった。浅草のビル、定期的に貸し切り予約が入ってるカフェスペース。レビューも低評価多いし、SNSでトラブル報告もある……」
サンゴの口元が、わずかに引き締まる。
「これで一手、打てるかな。」
そう呟いたその瞳には、もう"中学生"の無邪気さはない。
かわりにそこにあったのは――一人の"情報屋"としての鋭い光だった。
所変わって、昼過ぎの浅草。
サンゴは人通りの減った裏路地を小さなリュックを背負って駆け抜ける。胸元を抑えながら、頭の中ではひとつの名前を繰り返していた。
「岡村マサル……偽名か本名かは分からないけど、例の暗号通貨を大学生達に勧めていた人だ。」
サンゴは走りながら、ある場所を思い出す。
「ホテルのカフェ……人が少なくて誘いやすい。」「同じ場所を何度も使うわけない。でも、似たような違う場所なら……」
足を止めたのは、ビジネスホテルの一階に併設されたこぢんまりとしたカフェだった。
曇りガラス越しに中を伺い、慎重に襟を整えてから、中学生らしく可愛らしく扉を押す。
「直接話ができれば、何か掴めるかもしれない……」
そう考えながら、サンゴは一歩、また一歩と足を進めた。
カフェのガラス扉を開けたとき、微かな鈴の音が店内に響く。
(……誰もいない?)
カラン、と静かに閉まる扉。
客も、店員も、気配が全くない。
「おかしい…これくらいの時間に人目につかない場所で勧誘してるって聞いたけど…」
サンゴは声を潜め、慎重に店内を見渡した。テーブルはきれいに整っている。コーヒーの香りはしない。
(ここ、本当に営業してるのか?)と疑問が頭をよぎる。
「……おかしい。これくらいの時間に人目につかない場所で勧誘してるって聞いたけど……」
小声で呟きながら、警戒心が胸をよぎる。
「……これは、いよいよ…」
その瞬間――
「………!!!!」
後ろから「気配」が走った。
――ただの視線じゃない。
サンゴが反射的に振り返ると、スーツ姿の男が二人、無言で迫っていた。
一人の男が鋭いナイフを振り上げ、サンゴの身体を目がけて振り下ろす。
――ザンッ!
ギリギリのところで身体をひねって避けたが、シャツの一部が裂けてヒラリと舞う。
鼓動が速まり、息が苦しくなる。
カラン――と落ちたナイフの音が、がらんとしたカフェの中に不気味に響く。
サンゴは息が荒くなり、膝が震えて、その場に立っていられなくなる。
「っ……は、はぁっ、はぁっ……」
胸が締めつけられる。世界がゆっくりと遠ざかっていく感覚。
避けた直後に破かれたシャツの切れ目から冷たい空気が肌に触れ、余計に呼吸がうまくできない。
「……っ!」
ナイフを持った男たちは、笑っていない。
(これ……本当に……ピンチかも……)
喉が引きつり、視界が揺れる。
立っている床が傾いたように感じる。
世界が、音を、奪っていく。
背後。
風でもなく、扉の音でもない――肉の擦れるような気配。
とっさに振り向くと、手には冷たい光を放つ刃物。
目が合うより早く、右の男がナイフを振りかざした。
「ッ――!」
無意識に身体を横に反らす。
だが、完璧な回避ではなかった。シャツの胸元が鋭く裂け、肌に冷たい空気が触れる。
「――ッ、あっ……」
その感触に、サンゴの意識が急速に混濁する。
浅く、速く、息が胸を打つ。
過呼吸――肺が呼吸を求めて喘ぐのに、酸素が入ってこない。
視界の端が暗く滲む。
足が震える。
「…いつかこうなるって…解っては…いた……けど」
「……だ、め……逃げなきゃ……でも……ただでは……」
ナイフを握った男たちは、明らかに手慣れた足取りでじわじわと距離を詰めてくる。
サンゴの思考は、恐怖と混乱で絡まり、指一本さえ動かない。
「はっ……はっ……」
息が詰まり、喉が焼けるように苦しい。
頭が、回らない。
見慣れぬ光景、迫る殺意、逃げ場のない密室
サンゴの呼吸は浅くなり、視界がにじむ。
過呼吸の波が、彼女を一気に飲み込んでいく。