ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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意馬心猿

「……サンゴ。あんた、今どこで何してんのよ」

 

 昼下がり、世怜音女学院・西校舎。

 陽光が柔らかく差し込み、木製の床に反射して、穏やかな時間が流れる校舎内。

 生徒たちは笑い声を上げながら廊下を行き交い、教室では穏やかに授業が進んでいる。

 そんな空気の中に、ヒスイは場違いなほど静かな足音で入り込んでいた。

 

 彼女の制服は完璧に整っていたが――

 その鋭い目つきと、肩に張った張り詰めた空気は、西ののんびりした雰囲気には明らかに馴染んでいなかった。

 

「……やっぱり、東とは全然違うわね」

 

 小声でぽつりとこぼす。

 西の校舎は、どこを歩いても花壇や掲示物が丁寧に整えられ、

 職員室の扉には「いつでも相談してね♪」と書かれたボードが飾られていた。

 

(こんな、"普通の学校"みたいな場所に、あの『周央サンゴ』がいるなんて…信じられない)

 

 そう思いながら、ヒスイは無意識に拳を握る。

 ふと「そういえば、あいつ中学1年生って言ってたな……」と思い出し、

 1階の教室の並ぶ廊下をゆっくり歩きながら、教室をひとつずつ覗いていく。

 

 そのとき――

 

「どうしたの? 上級生の子?」

 

 不意に、背後から西校舎の女性教師に声をかけられた。

 

「誰か探してるの?」

 

 ヒスイは振り向き、すぐに周囲を確認して廊下に他の生徒がいないことを確かめると、

 静かに、しかししっかりと名乗る。

 

「中等部2年、北小路ヒスイです。1年の周央さんを探しているんですが、今日はお休みですか?」

 

 教師は「ああ」と頷きかけたが、次の瞬間、曖昧に首を傾げた。

 

「周央さんねぇ……学校には来てると思うんだけど、あの子、いつも人目につかないところにいるから。ふらっとどこかに行っちゃうのよ。ほら、図書室の裏とか、体育倉庫の上とか……」

 

「……」

 

「何組の子だったかしら。もし分かれば、見つけたら2年の担任に伝えてあげられるけど……?」

 

 その申し出に、ヒスイは一拍置いてから静かに首を横に振った。

 

「いえ。私は、西校舎の生徒じゃないので。」

 

 その言葉に、教師の表情が一変する。

 

「あっ……」

 

 思わず漏れたような声と共に、教師は口元に手を添え、申し訳なさそうな顔をした。

 

「……ごめんなさいね。答えるの、辛かったわよね……」

 

 その気遣いに、ヒスイは一瞬だけ目を見開く。

 そしてすぐに、気まずそうに目を逸らし、どこか俯きがちに答えた。

 

「いえ……お構いなく。」

 

 教師はしばらくその場に立ち尽くし、何か言いかけたが、結局やめて、小さく微笑むだけだった。

 

 その場を後にし、校舎の裏手に歩いていくヒスイの背中は――

 どこか、いつものような鋭さとは違い、妙に「人間らしい」揺れを帯びていた。

(あいつ、今日に限って……出てこないのよね)

 

 木々の影に隠れながら、彼女はもう一度だけ小さく、そして苦く呟いた。

 

 西校舎の地下を探し続ける。

 薄暗い廊下を歩きながら、倉庫、図書館、そして人の気配の薄いトイレ……

 教師が言った「人目につかない場所」を一通り巡ったが、どこにも目当ての人物はいなかった。

 

(……本当にどこ行ったのよ、あの子……)

 

 足音だけが静かに響く中、ふと見上げた階段の上から、柔らかい陽光が差し込んでいた。

 何気なく昇ってみると、屋上へと続く鉄の扉が、少しだけ開いている。

 

「いくらなんでも……こんな所に?」

 

 半信半疑のまま、ヒスイは扉に手をかける。

 ぎぃ、と軋む音と共に開いた扉から、春の暖かな風が頬を撫でた。

 微かに土と草の匂いが混じる、心地よい空気。

 

 彼女は無言のまま一歩一歩、屋上へと出る。

 どこか開放感のある屋上――しかし、そこに異様な光景が広がっていた。

 

 屋上の端、ほかの柵よりも低く設けられたフェンスに、ひとりの生徒が手をかけて立っていた。

 その姿に、ヒスイは思わず緊張を走らせる。

 

「おいっ……!何してる!!」

 

 怒気混じりに声をかけながら、急いでその生徒へと駆け寄ろうとする。

 

 しかし、その生徒――チグサは、ヒスイの声にまるで反応せず、

 柵の向こうに視線をやったまま、狂気のような表情で振り向くと、叫ぶように言い放った。

 

「消えろ、消えろ、束の間の灯火!」

「人生はたかが歩く影、哀れな役者だ!出場のあいだは舞台で大見得を切っても、袖へ入ればそれきりだ!」

「白痴のしゃべる物語、たけり狂ううめき声ばかり、筋の通った意味などないッ!」

 

 ――その声は、屋上全体に響き渡った。

 

 ヒスイは一瞬、息を呑み、止まる。

 風に揺れる髪、真っ赤に染まった顔――その表情は、さながら劇場のスポットライトを浴びた俳優のようだった。

 

 数秒の沈黙の後、ようやくチグサは我に返り、自分が見られていたことに気づく。

 

「ひ……っ」

 

 顔が真っ赤になり、慌てて柵から手を離すと、きびすを返してそそくさと距離を取る。

 その様子にヒスイは、言葉を失い、目を細めた。

 

「……何やってんの……?」

 

「た、頼むよ、今見たの忘れて……」

 

 顔を真っ赤にしたチグサは、帽子でもあれば隠したかったような気まずさでヒスイに懇願する。

 

「ここ、私のお気に入りの練習場所でさ……友達とスタジオ借りるとお金かかっちゃうから、職員室からこっそり鍵くすねて、屋上でやってるんだよ……」

 

「……勝手に屋上の鍵借りてるのか……」

 ヒスイは心中で呆れつつも、少し肩の力を抜いて口を開く。

 

「………」

 

「…」

 

 しばらく続く沈黙、

 

 間が空けば空くほど、肌色のチグサの耳は赤くなっていく。

 

 このままじゃいられない、そんな時―

 

「じゃあ、私の探し物に付き合ってくれないかな」

 

 不意に提案してみる。

 

「へ?」

 

「中等部1年の『周央サンゴ』って奴なんだけど……」

 

 その名を聞いた瞬間、チグサの表情がパッと明るくなる。

 

「えっ!?周央サンゴ!?――ンゴと友達なの!?」

 

 驚きと喜びが一度に爆発し、チグサはヒスイの腕をがっしりと掴んだ。

 

「わかった!じゃあ、私も付き合うよ!」

 

 満面の笑みで、元気よく頷く。

 

「私、西園チグサ!高等部2年!あなたは?」

 

「北小路ヒスイ。中等部2年……」

 

「わ、私が3つもお姉さんか~!でも、先輩とかそーいうのいらんからねっ!」

 

 肩をすくめながら、チグサはからりと笑って続ける。

 

「ヒスイ……ヒスイか、ひすぴって呼んでいい?」

 

 なんか、セイラに似てるなこいつ……

 

 ヒスイはやれやれと心の中でため息をつきながら、口元だけで小さく笑う。

 

「お好きにどうぞ……」

 

「わーい、じゃあよろしくね、ひすぴ!」

 チグサは楽しげにヒスイの腕を引いて、屋上の出口へと足を向ける。

 

 西校舎の階段を並んで降りながら、チグサは興奮した様子でヒスイの腕を軽く引いた。

 

「次は図書館ね!ここ、よくンゴが授業サボってるとこだよ!!」

 扉を開けながら、彼女は笑顔を浮かべる。

 

「さっきのマクベスの台本探してたら、たまたまここで出会ったんだ〜。最初はすっごい無口だったけど、話してみたら意外と面白い子でさ!」

 懐かしそうに本棚を見渡すチグサに対し、ヒスイは無言でついていきながら、

 

 東でやったら折檻ね、と小さくため息をついた。

 

 整然とした静寂の中に、どこかサンゴの気配を感じるような空気が残っている。けれど、そこにサンゴの姿はない。

「今日は来てないっぽいなぁ」とチグサが言うと、二人は再び図書館を後にした。

 

 そのまま地下への通路を辿り、暗がりの西校舎地下に降りていく。

 

「ここもンゴがよくいるとこだよ。たまにすっごく小さい声で電話しててさ。誰かと連絡取ってるみたいだけど……家族の人かな?」

 チグサが首を傾げると、ヒスイは壁に寄りかかりながら周囲を見回す。

 

 地下の照明はどこか頼りなく、打ち捨てられた机や配線が散らばるスペースの隅に、かつてサンゴが何かの作業をしていたような痕跡がうっすら残っている。

 

(こんな人目につく場所で……しかも、西の教師たちの目もあるのに……)

 ヒスイは眉をひそめながら、頭を抱える。

 

「ンゴって、やっぱちょっと変わってるよね。何考えてるか分からないけど、悪い子じゃないんだよ!」とチグサが笑って言うが、ヒスイは黙って頷くだけだった。

 

 サンゴの居場所に辿り着く気配はまだない。

 しかし、その足跡は、確かにこの学舎のあちこちに残っている。

 

 春の陽射しがまだ残る午後。

 学園の端にある金網の囲障、その根本にぽっかりと開いた小さな穴の前に、チグサとヒスイの二人が腰をかがめていた。

 

「ここからだと、警備員にもバレないで外から出たり入ったりできるんだよ〜」

 チグサは小声で言いながら、制服のスカートが引っかからないよう器用にくぐる。

 

 ヒスイは呆れたようにため息をつき、「なんでこんな脱獄みたいな道通ってるのよ……」とぼやく。

「うちって休み時間とか外出ちゃいけないじゃん? だからここ使ってコンビニとか行ってんの」「使ってるのは高等部の人ばっかだけど、ンゴにも前教えといたからね」とチグサは悪びれもせず言う。

 

 金網の外に出ると、二人は学園の裏手にある細い生活道路を並んで歩いた。

 ちょうどその時――

 

 

「ちょっと、ちょっとサンゴ!? 

 

 

 

 道の反対側から、ひとりの少女がゆっくりと歩いてくるのが見えた。

 

 シャツの一部が裂け、左腕には赤い血が滲んでいる。

 その姿に、チグサはすぐに駆け寄った。

 

 大丈夫!? なにそれ、どっかで怪我したの!? 事故!? それとも変な機械とか触っちゃった!?」

 

 チグサの声は半ばパニック気味で、肩を掴んで心配そうに覗き込む。

 

 サンゴは少し虚ろな目をしていたが、ゆっくりと目を上げて「…大丈夫、大丈夫だよ、ちょっと転んだだけ」と無理に笑おうとしていた。

 

 だがその笑みは、いつもの演技のようなものではなく、どこか壊れかけのような脆さを帯びていた。

 

 その光景を見たヒスイは、一歩下がったところで、チグサとは別の視点で状況を読んでいた。

 

(こいつ……ついに処分されそうになったのか)

 

 サンゴのシャツの裂け目、手の血痕、異常なほど感情のこもらない笑み――すべてが、明確な「襲撃」を示していた。

 

 ヒスイは小さくため息をつくと、サンゴにだけ聞こえるような小さな声で呟いた。

 

「だから言ったのに。危ないとこ突きすぎると、いつか狙われるって!」

 

 夕暮れの住宅街の路地、まだ人通りのある時間帯に、サンゴの背中を追ってヒスイが駆け寄る。

 

「待てって!」

 

 サンゴはその声に足を止めると、制服のポケットから少し濡れた名刺を取り出し、ヒスイに向かって突きつけた。

 

「これ!

 

「!?」

 

 シティクラウンド社――あのマルチ商法やってた奴らが出入りしてた会社の名刺を抑えたんだ!」

 

「この名刺にある人物を追えば、あの依頼主は背後の連中を全部炙り出せる!」

 

 血のにじむ左手で握りしめていたせいか、名刺の端は少し皺になっていた。

 ヒスイはその勢いに一瞬面食らうが、チグサが唖然と立ち尽くしているのをよそに、真剣な顔で問いただす。

 

「……お前、まさか、わざと襲われたのか?」

 

「人を殺したら、遺体が残る!そしたら警察が動いて、使ってた稼ぎ口や人間も全部潰されるんだ!」

 

「だから、どれだけ脅しても、命までは絶対に取らない!!」

 

 その口調はまるで、命がけで掴んできた経験を証明するような迫力を帯びていた。

 ヒスイはさらに一歩踏み込み、怒りとも焦りともつかない声で叫ぶ。

 

「どうして! どうしてこんな目に遭ってまで、そんな危ない仕事するんだよ!」

 

 一瞬、夕風が二人の間を吹き抜け、サンゴは少しだけ俯いた。

 しかし――

 

「……それがンゴに課された使命だからだよ!」

 

 反射のように、咄嗟に口から出た言葉。

 言い終えた瞬間、サンゴは「――あっ」と口を手で塞いでしまう。

 

 ヒスイはその様子を見て、わざと肩をすくめる。

 

「ふーん……」

 

 ヒスイの口調は、からかうような軽さの中に、どこか安堵と――少しの親しみを滲ませていた。

 その笑みに、サンゴはしばらく口をきけない。

 

 サンゴとヒスイが向き合う中、その沈黙を切り裂くように、チグサの声が響く。

 

「じゃあンゴはずっと、素の性格を隠してたってこと?」

 

 その言葉には、怒りとも哀しみともつかない、強い感情が宿っていた。返答を待たずに、チグサは続けた。

 

 

 

「どうして―――

 

 

 どうして、そんなことしてるの!? そんな風に自分を偽ってまで……一体何を恐れてるの!?」

 

 春の夕空の下、サンゴはふと視線を外し、元の表情へと戻った。

 声も静かで、どこか遠くを見ているようだった。

 

「…僕には、“背負った名前”を守らなきゃならない使命があるんだ!

 きっかけは――本当に些細なことだったよ。でも、今じゃもう…何千、何万の目がそこに注がれている。

 どれだけ歪んだ眼で見られても、その“名”だけは穢すわけにはいかない。

 例えそれが、命を失うことになったとしても。」

 

 サンゴの言葉には、淡々としながらも、抗いようのない覚悟がにじんでいた。

 だが――チグサはその言葉に、涙を溜めながら叫ぶように答えた。

 

「私、ひすぴとは今日会ったばっかりだけど……でも!」

 

 そう言って、彼女は両手でサンゴとヒスイの手を、ぎゅっと掴んだ。

 

「ひすぴもひすぴで、なんでンゴがこんな怪我してるのに、平気な顔してるの!?

 こんなに手から血が出てるのにさ……! どうして、そんな冷たい目ができるの!?」

 

 ヒスイは一瞬だけ口を開こうとするも、何も言えなかった。

 

 チグサの目はまっすぐだった。怒っているというより、切なさが滲んでいた。

 

「二人ともおかしいよ……! なんでそんな、“傷つくのが当たり前”みたいなものの言い方してるの!?

 痛いのって、悲しいのって、本当は怖いことでしょう!? 私たち、まだ……子供なんだよ!」

 

 春風が吹く。三人の制服の裾がわずかに揺れた。

 

 チグサの声が風に乗って、誰にも届かない空へ消えていくような静けさが、あたりを包み込んだ。

 

 そして――沈黙が、三人の間に立ち込める。

 

 だがそれは、どこか「壊れる前の静けさ」ではなく、

「少しずつ何かが変わっていく予感」に満ちた、柔らかな沈黙だった。

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