ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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魑魅魍魎

 朝の光が淡く差し込む屋上で、風がそっと制服の裾を揺らしている。

 

 柵にもたれかかったチグサは、まだ夜の余韻を引きずるような声でぽつりと漏らした。

 

「知らなかったよ。ひすぴが柵の向こうの東校舎から来た生徒だったなんて。」

 

 ヒスイはその言葉に特に反応せず、ただ静かに空を見つめている。

 

 チグサは続ける。

 

「世怜女の東って、入っちゃいけない雰囲気だからさ……みんな避けてるし、学校のパンフレットにも『特別な事情がないと入学できない』みたいに書いてあるし……。触らないのが常識、みたいになってる。」

 

 ヒスイはわずかに視線を落とした。

 

「私も、今日……いや、昨日か……初めて東の生徒に会ったよ。」

 

 そう言って、チグサはヒスイの横顔を見る。

 

 ヒスイはふと微笑むような目をして、口を開いた。

 

「もう関わんのやめとく?」

 

 それに対して、チグサは迷いなく首を横に振る。

 

「ううん。むしろ、もっと知りたくなった。

 ひすぴに会うまでは、なんだか『恵まれない子たちを、そういう風に助けてる世怜女って良いな』って、ぼんやり思ってたけど……」

 

 彼女は目を細め、遠くの街並みを見つめながら続けた。

 

「きっと、東の生徒はみんな……いろんな苦労をしてきたんだなって。改めて思わされたよ。」

 

 その言葉に、ヒスイは一瞬だけ目を細め、微かに唇を結ぶ。

 

 しばらくの沈黙の後で、チグサはぽつりと呟いた。

 

「でもやっぱり、一番驚いたのは……ンゴかな。」

 

 その声には、ほんの少しだけ、震えがあった。

 

「普段から落ち着いてて、凛としてて、知的な子だと思ってた。

 冷静で、どこか大人びてて……あんな風に、自分を律してる感じ、すごいなって思ってたんだよ。」

 

 チグサは手すりをそっと撫でるように触れた。

 

「でも……まさか、あんな風に命を懸けるようなことを、自分で“使命”だなんて言いながら話すなんて……想像もできなかった。」

 

 ヒスイはふっと目を伏せ、どこか遠い昔のことを思い出すような表情で口を開く。

 

「そういう“使命”に生きる奴は、普通の人生には戻れないのよ。」

 

 チグサはその言葉にぎゅっと口を結びながら、ただ頷いた。

 彼女の目はまっすぐ空を見上げている。

 

 ヒスイの言葉は、どこか試すような響きだった。

 

「これからどうするの? ンゴとは絶交する?」

 

 朝の屋上に吹き抜ける風が、問いの重さをより際立たせる。チグサはすぐに答えず、しばらく考えこむように空を仰いだ。そして、ぽつりと、呟くように言葉を返した。

 

「……私には、よく分からない。」

 

 その声音には、正直な戸惑いと揺れが滲んでいた。

 

「なんで自分を偽ってまで、本当の自分を表に出さないようにしてるのかも……どれだけのものをンゴが背負い込んでるのかも……全然分かんない。」

 

 ヒスイはそれを黙って聞きながら、視線だけをチグサに向けている。

 

 チグサは小さく息を吸って、でもしっかりとした声で言葉を続けた。

 

「でもさ、ひとつだけは分かるんだ。……ンゴが苦しんでるなら、助けてあげたいって。」

 

 その表情には、昨日の衝撃を超えてなおサンゴと向き合おうとする、まっすぐな意思が宿っていた。

 

 そして、ほんの少し空気を変えるように、チグサは急に明るく笑顔を見せた。

 

「それにさ! あんなに演技上手いなら、演劇同好会の部長にはンゴになってもらわないとでしょ!」

 

「……演劇同好会?」

 

 思わずヒスイが聞き返すと、チグサは待ってましたと言わんばかりに勢いよく身を乗り出した。

 

「うん! 私の夢だから! 世怜音女学院の名門、演劇同好会を復活させるの! ンゴと一緒に!」

 

 それはまるで、舞台の上で未来を宣言する主人公のような声だった。

 

 ヒスイは唖然としながらも、少しだけ頬が緩んだ。

 

「昼休み、またンゴのこと探しに行こうよ!」

 チグサは弾むように言って、「今日はちょっと自信あるんだ!」と意気込む。

 

 だがその勢いの中で、ヒスイは視線をふと逸らしながら言った。

 

「あ……多分もう、その必要はないかも。」

 

「えっ?」

 

 チグサが首を傾げると、ヒスイは遠くを見るようにそっと言葉を重ねる。

 

「居場所、知ってるんだ。……たぶん、もうすぐまた会えるよ。」

 

 

 

 

 

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「ほら、さっさと座れ!」

 

 放課後のガラス張りの休憩室には、春の夕陽が傾きかけの光を静かに差し込んでいた。

 

 そこに座っていたチグサは、カバンの上に手を乗せながら窓の外を見ていた。

 

 ドアが開く音とともに、室内の空気が微かに動く。

 

 ヒスイの少し強引な声と共に、私服に着替えたサンゴが引っ張られるようにして姿を現す。その左手は包帯に巻かれ、首元や袖の間からも絆創膏がいくつか覗いていた。

 

「そんな囚人みたいな…」

 

 と小声で困り顔を浮かべるサンゴは、ヒスイに促されるまま、チグサの目の前の席に腰を下ろす。

 

 ヒスイはそのすぐ横に座り、やや気まずそうに視線をずらしながら口を開いた。

 

「……あの後は、

 

 家にまっすぐ帰らせた。

 親と病院に行かせたし、

 この前西で探してたときに会った教師にもやんわり話し通して――

 

 しばらく学校も休ませた。」

 

 そして、サンゴの肩を軽く叩きながら続ける。

 

「だから……これで、許してやってくれないかな?」

 

 一連の段取りを済ませたヒスイの言葉には、どこか保護者じみた疲れが滲んでいる。

 

「怪我人には優しくしてよ…」

 

 そう呟いたサンゴは、視線をやや伏せて、苦笑いを浮かべる。

 

 その姿を見たチグサは、ふっと肩の力を抜くように笑った。

 

「なんか変なの。」

 

 それは咎めでも、心配でもなく、ただ本当にそう思ったのだという笑顔だった。

 

 サンゴはその言葉にぽかんとし、ヒスイは「お前なぁ…」と呆れ顔で口を尖らせる。

 

 窓の外では、春の夕日が校舎の壁を黄金色に染めていた。

 ガラス越しに映る三人の影が、少しずつ寄り添っていくように見える――そんな静かな放課後。

 

 街の灯りが滲む夕暮れの歩道を、三人の影が並んで伸びていた。

 

 ヒスイはサンゴの左側に立ち、絶えずその様子を見守るように歩いている。一方、チグサはサンゴの右側で、時折街路樹の間から覗くショップの光に目を奪われながらも、ちらちらとサンゴの表情を伺っていた。

 

 その静かな道すがら、ふいにサンゴが歩を緩めた。

 

「……全部、話すよ。ヒスイにも、チグちゃんにも。」

 

 その声は、ひどく穏やかで、それでいて決意を帯びていた。

 

 ヒスイはすぐに歩調を合わせて、吐き捨てるように答える。

 

「私はいいよ。あなたが何者だろうと、どうせ危険なことはやめないだろうし」「縛り上げておくのは、この辺が限界。わかってるでしょ。」

 

 だがサンゴは、かぶりを振る。

 

「いや……二人に聞いてほしい。ちゃんと。」「そして……受け止めてほしい。」

 

 そのときだった。

 

 駅前の広場に差しかかると、不意に低く重いエンジン音が響き、三人の目の前でピタリと一台の黒塗りのリムジンが停車する。まるで誰かが彼らの会話のタイミングを狙っていたかのような完璧な間合いだった。

 

 後部ドアが静かに開き、中から現れたのは、フリルとレースに彩られた真っ白なロリータドレスを纏った、黒髪の少女。

 

 艶やかに整えられた髪に、微笑の仮面を浮かべた彼女がサンゴを真っ直ぐに見据える。

 

 サンゴはその姿を見た途端、目を細め、唇をきつく閉じて一歩後ずさった。

 

「……」

 

 嫌悪感が、その仕草に滲んでいた。

 

 少女は、優雅な足取りで歩み寄りながら、口を開く。

 

「こんにちは……お久しぶりですわね、サンゴさん。いえ――伝説の情報屋、《天下無双》。」

 

 一拍遅れて、チグサが目を丸くして声を上げる。

 

「えっ!? 伝説の情報屋!? ンゴが!?」

 

 ヒスイは黙ったまま、サンゴの横顔を見ていたが、やがて深いため息をつきながらぼそりと呟いた。

 

「……嫌なことをまた一つ知ってしまった。」

 

 そして、視線を少女へと向けると、凍てつくような目で問いかける。

 

「……何の用?」

 

 少女はその鋭い問いかけにも臆することなく、まるで舞台の上の貴族令嬢のように、少し顔を傾けて言った。

 

「怪我をされたと伺いましたの。私……心配で、心が張り裂けそうでしたので……つい、東京まで来てしまいましたのよ。」

 

 まるで冗談のような台詞だった。だが、その声色には一切の冗談が含まれていなかった。

 

 サンゴは低く、しかしはっきりとした声で返す。

 

「君が……僕の怪我を心配するような人間だとは、思ってなかったよ。」

 

 すると、少女はさらに一歩近づき、唇に指を当てて微笑む。

 

「まあ……お辛いご様子。ですが、貴方には“立場”というものがございます。」

 

 ヒスイとチグサの間に、寒気のような空気が走る。

 

 サンゴの秘密、そして「天下無双」という名。

 

「忘れずにいてくださいな、“天下無双”。」

 

 物語は、次なる幕へと入りかけていた。

 

 春の風がようやく涼しさを含みはじめた夕暮れ、改札の前で三人は立ち止まり、見送りの時間がやってくる。

 

 チグサはICカードを手にしながら、名残惜しそうにサンゴとヒスイを見比べていたが、やがて軽く息を吸い込んで言う。

 

「……じゃあ、また明日ね。」

 

 その一言にサンゴが、少し躊躇うように言葉を漏らす。

 

「チグちゃん……僕のこと、嫌いになった……?」

 

 チグサは目を見開き、すぐさまふわっとした笑みを浮かべて、サンゴの背中を軽く叩いた。

 

「全然! むしろちょっと心配になっただけ!……だからさ、次からはちゃんと相談するんだよ? 一人で抱えないで。」

 

「……うん。」

 

 サンゴは短く頷くと、まっすぐチグサの目を見つめて小さく微笑んだ。

 

 チグサは手を振りながら改札を抜け、ホームへと向かう。彼女の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、サンゴはじっと立ち尽くしていた。

 

 その横で、腕を組んでいたヒスイがぽつりと言う。

 

「……で、あいつ。誰よ。」

 

 サンゴは視線を落としたまま、やや言いにくそうに答えた。

 

「……東堂セツカって言うんだ。」

 

 ヒスイが眉をひそめる。聞き覚えのある姓が、頭の中のどこかで引っかかるような違和感を呼び起こす。

 

「僕の祖父……先代の“天下無双”の愛弟子だった人だよ。」

 

「東堂……どっかで……」

 

 ヒスイはしばし考え込みかけるが、やがてその思考を断ち切るようにかぶりを振る。

 

「……まあ、気のせいか。」

 

 サンゴは、チグサを見送った駅の空間にぽつんと立ち尽くしながら、淡々とぼやく。

 

「セツカは、よく分からないよ。あんな風に明らかに煽ってくる時もあるのに、本気で心配してるような顔する時もあるんだ。」

 

「素直に、僕が“天下無双”の名前を使ってるのが気に入らないなら、直接言えばいいのにさ。」

 

 ヒスイはそれを聞きながらも、サンゴの表情を横目でちらりと見る。

 

 その横顔は、いつもの無表情を保っているように見えて、どこか寂しさが滲んでいた。

 

 ヒスイは無言のまま、自分のポケットに手を突っ込み、サンゴと並んで歩き出す。

 

 ――祖父の遺した名を背負い、その弟子の視線を背中に感じながらも、なお情報の世界を生き抜くサンゴ。

 

 そして、その背を追いながら、少しずつ彼の心に近づこうとするヒスイ。夜の帳が街に落ち始めていた。二人の影が、駅の出口へと重なって延びていった。

 

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