ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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餓鬼偏執

 朝の陽ざしが静かに差し込む部屋の中。

 

 サンゴは自宅のベッドで目を覚ますと、しばらく天井を見つめたまま、ふと昔の記憶に意識を引きずられる。

 

 その記憶は、曖昧で、断片的で、けれど今でも確かに胸の奥に残っている――祖父の葬儀の日のこと。

 

「……あのとき、僕はまだ、葬式の意味すらよく分かってなかった。」

 

 寝間着のまま、部屋の壁にかけられたカレンダーをぼんやりと見ながら、サンゴは呟く。

 

「“なんでおじいちゃん、こんなところで寝てるの?”って、場違いな質問してさ……セツカに抱きかかえられながら泣いたの、今でも覚えてる。」

 

 あの時の葬儀は、人の死を初めて“現実”として突きつけられた瞬間だった。

 

「……祖父が寿命で死んだわけじゃないことだけは、子供心にも分かった。」

 

 記憶の中で、白布のかかった祖父の身体の下半身が、異様なほどに厳重に覆われていた情景がよみがえる。

 

「多分……もう“見れる状態”じゃなかったんだろうな……」

 

 サンゴは視線を机の上へと向け、そこに丁寧に置かれている伊達眼鏡を手に取る。それは、祖父が生前かけていたものとまったく同じ型のフレーム。

 

「これは……僕がこの“情報屋”の仕事を始めるときに、名前と一緒に受け継いだものだ。伊達メガネにして、形見として。」

 

 小さく息をつきながら、サンゴは記憶を掘り返していく。祖父の遺品――確か、ほとんどは山で焼いたはずだった。

 

「“あれ、おじいちゃんの大事なものだから、焼いちゃダメだよ!”って、あのとき僕が泣いて叫んだことも、はっきり覚えてる……」

 

 セツカが何も言わずに頭を撫でてくれた、その温もりまで思い出せる。

 

「でも、あの“古びた藍色のリボルバー”……」

 

 サンゴの瞳が鋭く細められる。

 

「……どこに行ったんだろう?」

 

 遺品はすべて焼いた、と聞かされていたはず。けれど、そのリボルバーについてだけは、どうしても曖昧な記憶しか残っていない。あの日、手にしていたはずなのに。泣きながら「焼かないで」って訴えたはずなのに――焼却の場面だけが、どうしても思い出せない。

 

「……セツカなら、何か知ってるかな」

 

 朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込むなか、サンゴは自室のソファに腰を下ろし、スマホを耳に当てていた。

「……まだ朝だけど、起きてるかな……」と呟きながら発信したのは、あの厄介で、でも決して嫌いになれない存在――東堂セツカへの電話だった。

 

 数回のコールの後、出たのは彼女本人ではなく、落ち着いた声音の老執事だった。

 

「サンゴ様、先日はお嬢様が失礼いたしました。ああ見えても、お嬢様はサンゴ様のことを大変心配されていらっしゃるのですが……」

 

 執事の第一声は、真っ先に謝罪から始まった。

 サンゴは深く溜め息をついて、どこか呆れたように言う。

 

「別に、それはいつものことだけどさ……」

 

 苦笑混じりに返しながら、続ける。

 

「セツカって、起きてる? 話がしたいんだけど」

 

 すると執事は少し申し訳なさそうに答えた。

 

「今日は御学友の方と大事な用事があるようでして……。お伝えして、後ほど折り返しお電話いたします」

 

「……じゃあ、そうしてくれると助かる」

 

 電話を切ったサンゴは、画面を下に向けたスマホを持ち直し、スリープ解除。通知一覧をスクロールすると、ある未読メッセージに目が留まった。

 

「……チグサから?」

 

 画面をタップすると、ポップな文体で「今日の自主練!ちゃんと来るんだよー!」と書かれており、思わずサンゴは額に手を当てる。

 

「そういえば……今日、チグサの自主練に付き合う約束してたんだった……」

 

 気づいた瞬間、どこか気の抜けた声で呟くサンゴ。

 

 自分の知らない時間を、彼女たちと過ごす約束が今ここにあることに、心のどこかがほんの少しだけ温かくなるのを感じていた。

 名も、使命も、過去も一旦すべて棚上げにして、今日という一日を、ほんの少しだけ「普通の時間」として過ごしてみようと、サンゴは静かに立ち上がった。

 

 カラオケボックスの薄暗い照明の中で、チグサは少し興奮したようにリモコンを操作しながら、「本当は…らめ先輩も誘いたかったんだけど、なんか用事あるらしくて」と小さく唇を尖らせて話す。

 

 壁に投影されるカラオケの待機画面では、ポップなイラストと共にメロディの波形が踊っていたが、今ここで流れるのは音楽ではなく――重く張りつめた空気だった。

 

 チグサは、手元の台本を開きながら、マクベスの冒頭、魔女たちが現れるあのシーンをゆっくりと読み上げる。

 

「いつ、また三人で会える? 雷鳴が轟き、稲妻が走る時? それとも……戦いが終わった後?」

 

 彼女の声には懸命さがあった。しかし、その演技を静かに見つめていたサンゴは、ゆっくりと首を横に振る。

 

「……それだと、ただの女子高生がなりきってるようにしか聞こえないよ。」

 

 チグサは目を見開いて「えっ」と声を漏らすが、サンゴは表情を変えずに続ける。

 

「怖がらせるっていうよりも――ううん、それよりも、あの魔女たちは“恐怖”を与える存在じゃなくて、“人間という劇の外側にいる存在”なんだと思う。もう少し、上位の視点から見下ろすような達観性を持たせて話してみたら?」

 

 言いながら、サンゴは自分の台本を手に取り、少しだけ姿勢を正し、照明に背を向けた影の中で、同じセリフを読み上げた。

 

「いつ……また三人で会える?」

 

 ――その声音は不思議な静けさを湛えていた。まるで何千年もの時を生きた存在が、ただ淡々と出来事を観測しているような――「感情を持たない知性」すら感じさせる冷たさ。けれど、不気味なほどに美しかった。

 

 読み終わると、しばし沈黙が訪れる。

 

 チグサは椅子に崩れるように座り込み、小さな声でこぼす。

 

「これ、ちょっと私にはできそうにないかも……」

 

 その声には、わずかな涙すら含まれていた。

 

 だが、サンゴはそんな彼女を見て、ふっと優しく微笑んだ。

 

「最初から上手い人なんていないよ。」

 

 その一言は、どこか不器用で――けれど、誰よりも本気の言葉だった。

 

 チグサはその声に少しだけ目を見開き、そして目元を拭って笑う。

 

「そうかな……うん、そうだよね。ありがとう、ンゴ。」

 

 サンゴは「無理にやらなくてもいいんだよ」と言おうとして、けれど思いとどまり、「じゃあ、もう一回だけやってみて」と声をかける。

 

 チグサは再び台本を手に取るが、その手にはさっきよりも力が入っていなかった。マイクを持つでもなく、ただ姿勢を正して、ぶつぶつと何かを自分に言い聞かせるように言う。

 

「……いつ、また三人で会える?」

 

 その声は先ほどよりも低くはあったが、不自然に抑えた声色で、まだどこか芝居がかっていた。続くセリフも、妙に上から目線で話すだけ――それだけでは“魔女”にはなれない。

 

「……ダメだぁ」とチグサは顔を手で覆ってソファに崩れ落ちる。「いくら上から言ってみたって、全然“それっぽく”ならないよ……」

 

 サンゴはチグサの隣に座り、静かに言葉を差し出した。

 

「“誰か”になりきるんじゃなくて、“自分”が魔女として生きてきたみたいに話してごらん。これは、“魔女1”のセリフじゃないんだ」

 

 チグサは顔を上げる。「……え?」

 

「魔女として生まれて、ずっと人間の営みを見下ろしてきた――そんな存在が、何百年、何千年も積み上げてきた“実感”のある言葉なんだよ。読み上げるんじゃなくて……思い出すように話してごらん」

 

 チグサは目をぱちぱちと瞬かせ、思わず笑ってしまう。「そんなバカな……なりきれって、そりゃまた無茶なこと言うなあ……」

 

 けれど、サンゴは少し真剣な顔で言い返した。

 

「本気だよ。少なくとも、僕は――あのセツカにそう教えられた」

 

 その名を聞いて、チグサの笑みが少し曇る。「……あのお嬢様ね。うん……あの人なら、言いそう」

 

 沈黙が一瞬落ちた。けれど、チグサはすっと立ち上がり、もう一度前に出た。

 

 目を閉じ、ゆっくりと息を吸って――

 

 そして。

 

「いつ、また三人で会える?」

 

 その声には、明らかに先ほどとは違う重みが宿っていた。静かで、けれど強く、内側から湧き出るような存在感。まるでこの世に対して、最初から何も期待などしていない者のように――彼女は、言葉を紡いだ。

 

「雷鳴が轟き、戦が終わる時か? ふふ、いいだろう。マクベスがそこにいる限り……」

 

 声は震えていない。むしろ、その一言一言が確信に満ちていた。

 

 読み終えたチグサは、気まずそうにサンゴの方を振り返る。「……こんな感じで、どう?」

 

 サンゴは少し口元を緩めて、頷いた。

 

「――まあ、見れるくらいにはなったかな」

 

「なにそれ、もっと褒めてよ!」とチグサは笑いながら文句を言うが、その顔はどこか誇らしげだった。

 

 演技とは、なりきることじゃない――その“誰か”として生きてきたように“思い出す”ことなのだ。

 それをチグサが、ようやくほんの少しだけ理解した瞬間だった。

 

 一通りの練習が終わって、カラオケボックスの薄暗い照明がふたりの空気を柔らかく包んでいた。

 チグサは飲みかけのジュースをストローでくるくるかき回しながら、ぽつりと呟く。

 

「……あれから、仕事とか……どうなの?」

 

 サンゴがそっと顔を向けると、チグサは真正面を見ていなかった。

 どこか心配そうな、それでいて触れづらいような――苦い顔だった。

 

「……ごめん。今の、忘れて」

 チグサは慌てて手を振る。「なんかね、色々考えたの。あの夜から、ずっと……」

 

 少し笑ってみせたその顔に、ふと陰が差す。

 

「なんかさ……今まで飽食して、何も知らずに生きてきた自分がさ。あまりにも申し訳なく思えたんだよね」

 

 サンゴは静かに視線を伏せて、それから応えるように口を開いた。

 

「……難しいし、つまらない仕事だよ」

「ドラマみたいに、追い詰めたりはしない。むしろ……何も知らずに終わることの方が多い。誰かにとって都合のいい情報を、ただ渡すだけ。先のことは……僕の知る範囲じゃない」

 

「……この間の名刺も?」とチグサ。

 

 サンゴはわずかに目を伏せ、短く「うん」とだけ答える。

 

 しばらく沈黙が流れる中、チグサはふと笑うように言った。

 

「でも……ンゴはすごいって思うよ」

 

「伝説だなんてさ……ほんと、漫画みたい。私なんてさ、せっかく頑張って世怜女に入ったのに、演劇部はもう無くなってて、目指してた夢も無くなってた。そう考えると、何かを“今も続けてる”ってだけで、すごいと思う」

 

 サンゴはその言葉に、かすかに目を細めて答える。

 

「伝説だったのは、僕じゃない」

「僕は、愚かで無力な、ただの売名人間だよ。祖父の名前がなければ、誰も僕なんか……」

 

 けれど、チグサはそこではっきりと言葉を被せた。

 

「でも、大人たちはみんなンゴのことを頼りにしてるんでしょ?」

 

 サンゴがふと目を見開く。

 

 チグサは笑いながらも、真っ直ぐに彼を見つめて続ける。

 

「他人の名前を背負うのだってさ、誰にでもできることじゃないよ。みんな、背負うのが怖くて逃げるのに。」「それを続けてるンゴは――やっぱり、かっこいいよ」

 

 その言葉に、サンゴは黙ってうつむく。

 

 カラオケボックスの中、ふたりの間に流れる空気は、練習の名残の熱気とはまるで違っていた。

 

 静かに間を置いて、口を開く。

 

「ねえ、チグちゃんはさ――」

「もし自分が明日死ぬとして、一番大切なものって……どうする?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、チグサの顔が変わる。

 一瞬のうちに、困惑と恐怖が混じったような目になり、次の瞬間にはサンゴの方に身を寄せていた。

 

「もうやめようよ!そんな遺言みたいな悲しいこと言わないでよ!」

「ンゴが死んだら……私は悲しい!」

 

 チグサの腕がサンゴの身体を抱きしめ、決して大きな力ではないけれど、まるで放したら壊れてしまいそうなほど真剣だった。

 

 サンゴは目を丸くして、一瞬言葉を失う。

 けれど次の瞬間、自分が以前ヒスイに似たようなことを言われた記憶がよみがえってきた。

 

(ああ……これ、あの時のヒスイと全く同じ顔だ……)

(確かにこれは、「さっさと風呂入って寝ろ」って言いたくなるかもな……)

 

 苦笑いを浮かべながら、サンゴはチグサの肩に軽く手を添えて、そっと引き離す。

 

「違うよ。僕が死ぬとかじゃなくてさ」

「おじいちゃんが遺したリボルバーのことなんだ。遺品を全部燃やしたはずなのに、それだけ行方不明でね。どこにあるのか、分からないんだ」

 

 チグサは目に涙を浮かべたまま、腕をゆっくり下ろす。

 それでも口を尖らせるようにして、うつむいたまま呟く。

 

「……本当に?」

「ンゴが遺品どこに隠したかじゃなくて? 自分がいなくなる前にそれを探してるとかじゃなくて?」

 

 サンゴはその言葉にぎくりとしつつも、すぐに額を押さえて深いため息をついた。

 

「……聞くんじゃなかった」

「タイミング間違えたな、完全に……」

 

 小さく自嘲気味に呟いたその声に、チグサはまだ少し鼻をすする音を立てながら、それでも優しく微笑んで見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世怜音女学院・東校舎地下――

 冷たいコンクリートに囲まれた演習場では、薄暗い照明の下、霧のように薄く煙った空気が戦場の雰囲気を演出していた。迷路のように入り組んだ遮蔽物と通路の配置は、訓練とはいえ一瞬の油断が命取りになる構造だ。

 

「今日の相手の人数、いつもの半分だってさ!」

 無線越しにアスカの軽快な声が届く。

 

 だが、それを聞いたヒスイは、むしろ眉をひそめて答える。

「でも……あいつ、いるんでしょ?」

 

 ヒスイの声には、苛立ちとも怯えともつかない、緊張が滲んでいた。

 

 そして――ブザー音が鳴り、実戦演習が開始される。

 

 ヒスイは迷いなく身を低くして移動を開始する。訓練用とはいえ、反動や痛みは実弾に近く、命中すれば一時的に行動不能となる仕様だ。

 遮蔽の隙間から覗いた敵の影。

「っ見えた」

 一閃、ヒスイの手が動く。無駄のない発砲、即座の移動。

 迷いも戸惑いもない動きで、ヒスイは敵役の生徒を次々と制圧していく。

 

 撃たれた生徒たちは一様に倒れ込み、すぐに安全装置を作動させて「脱落者」となる。

 ヒスイの動きは冷静かつ的確だった。どの敵にも背を見せず、危険を常に予測しながら前進する姿は、まさに東の兵士の理想形であった。

 

 しかし――しばらくすると、どこにも敵の姿が見当たらなくなる。

 

「……いない」

 

 ヒスイは足を止め、耳を澄ませた。

 空気が、急に違う。

 

「さて、どこまで通用するか……」

 

 独り言のように呟くと、再び銃を構え、ゆっくりと歩みを進める。

 通路を抜け、曲がり角を一つ、また一つと越え――

 そのとき、不意に背筋を走る殺気。

 

 ――いる。

 

 反射的に振り返る。

 鋭く銃口を向けた先に、制服を着た一人の少女が立っていた。

 

「鬼……!」

 

 ヒスイが呼ぶ名の通り、そこにいたのは琥珀色の髪をふわりと揺らし、深海のような冷たい瞳でこちらを見据える少女。

 右手には、年季の入った蒼いリボルバー。無音のような足取りで、いつの間にか背後を取られていた。

 

「反応、早いじゃない」

 コハクは静かに呟くと同時に、迷いなく銃を構える。

 

 発砲音が、鋭く演習場に鳴り響いた。

 ヒスイも即座に撃ち返すが、弾は紙一重で外れ、逆に肩を撃ち抜かれ、壁際へ吹き飛ばされる。

 

「くっ……!」

 

 立ち上がろうとするも、間髪入れずに二発目。

 今度は脇腹を正確に撃ち抜かれ、ヒスイの体が再び地面へと叩きつけられる。

 

 仰向けになった視界の先に、無表情のまま銃を構えるコハクがいた。

 彼女は一歩、また一歩と近づきながら、無慈悲に引き金を引く。

 

 三発目でヒスイの防具のセンサーが赤く点滅し、"脱落"のアラームが鳴った。

 

 ――演習、終了。

 

「“それを見た者”は命を奪われる…ね…」

 

「……やっぱり、バケモンよ、あんた……」

 

 床に倒れたまま、ヒスイが息を荒げながら呟く。

 

 東堂コハクは応えない。

 ただ蒼いリボルバーを静かにホルスターに収め、背を向けて去っていく。

 

 その姿には、勝利を誇るでもなく、哀れむでもなく、まるで「戦い自体に感情を持たない者」のような冷たさがあった。

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