虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない 作:匿名希望さん
忌々しい兄――ルック・ヴァインライトが、そこに立っていたのだ。
「……フン。オレ様から逃げ回るのに疲れたか? 出来損ないの分際で、自分から出てくるとはな。随分と舐められたもんだ!」
レオは勝利を確信し、吠えた。
そして、傍らの取り巻きたちを制するように手を広げる。
「お前らは手を出すなよ。こいつは、オレが直々に躾けてやる」
レオは勝ち誇った笑みを浮かべ、左手を掲げた。蒼い魔力が、待ってましたとばかりにその手に収束していく。
「――身体強化《フィジカルブースト》! どうだ、ルック! 魔力ゼロのお前には、逆立ちしたってこんな真似はできねぇだろ!」
体が淡い光に包まれ、全能感が全身を駆け巡る。
「これから、オレ様が身につけた最強の魔術で、お前のその生意気なツラをめちゃくちゃにしてやるよ!」
レオはそう言って、手にした木剣に魔力を込める。
ズバァッ!
近くの壁に振るうと、石造りの壁が、まるでバターのように音もなく切り裂かれた。
「どうだ、この威力! 怖いだろ? 泣いて許しを乞うなら、今のうちだぜ?」
レオは、恍惚の表情で言った。
だが、おかしい。
ルックは、怯えるでもなく、驚くでもなく、ただ無表情にこちらを見つめている。一切、喋らない。
その態度が、レオの逆鱗に触れた。
「……てめぇ、何とか言いやがれ! この出来損ないがぁっ!」
怒りに任せ、レオは強化された身体能力のすべてを乗せて、ルックめがけて木剣を振り下ろした。
――その瞬間だった。
ゴッッッッッッ!!!!
鼓膜が破れるかのような、凄まじい破裂音。
それは、レオのすぐ隣で起きた。
廊下の隅に、いつからあったのか、古びた大きなクマのぬいぐるみが、音もなく立ち上がっていた。その丸っこい腕が、レオの視界の端を、ありえない速度で通り過ぎていく。
強烈な風圧が、レオの髪を激しく揺らした。
パンチ。
あまりにも強大な、質量と速度を伴った、暴力の塊。
その拳の先には、さっきまで得意げに笑っていた取り巻きの一人がいた。
「……え?」
次の瞬間、取り巻きの体が、まるで熟れすぎたトマトのように、弾け飛んだ。
ビシャァッ!と生々しい音を立てて、熱い血飛沫と、生温かい内臓の破片がレオの顔にかかる。肉塊と骨片が、芸術的なモザイクのように、美しい大理石の壁と床を禍々しく染め上げた。
レオの思考が、完全に停止した。
脳が、目の前の光景を理解することを拒んでいる。
「ぎゃあああああああああっ! なんだ、あれは!?」
「ひぃっ! 化け物だ! クマの化け物が……!」
残りの取り巻きたちが、パニックに陥って絶叫する。
一人が震える手で魔術を詠唱しようとした。
「炎の矢《ファイアアロー》!」
だが、その指先から炎が生まれるよりも早く、クマの化け物の巨大な手が、彼の頭を鷲掴みにした。
ブチッ、と熟れた果実が潰れるような音。
別の取り巻きは、武器を投げ捨て、泣き叫びながら降伏の意を示した。
「降参だ! 助けてくれ!」
しかし、化け物は無慈悲だった。その背中を、鉄の杭のような拳が貫き、心臓を抉り出した。
阿鼻叫喚の地獄絵図。それは数秒で終わった。
レオは、その場でへたり込んでいた。
生温かい液体が、ズボンを濡らす感触。恐怖のあまり、失禁したのだ。
ガチガチガチガチ、と顎が外れるかと思うほど歯の根が合わない。尻もちをついたまま、震える視線を、ルックに向ける。
「お、おま……お前が……やったのか……?」
ルックは、肯定も否定もしない。ただ、冷たい瞳でレオを見下ろしている。
その沈黙が、何よりも雄弁に肯定していた。
クマの化け物が、ギ、ギ、と軋むような音を立てて、レオの方へと一歩、踏み出す。
「ひっ……! ご、ごめんなさい! ごめんなさい! 僕が、僕が悪かったです! 出来損ないなんて言って、本当にごめんなさい! 兄様! どうか、どうか命だけは!」
レオは、鼻水と涙とよだれでぐしゃぐしゃの顔で、床に額を何度も擦り付けた。
「靴でもなんでも舐めます! 犬にだってなります! だから! お願いです! 金も! 僕の地位も全部差し上げますから! だから殺さないでくださいぃぃぃぃ!」
だが、レオを襲ったのは、死よりも大きな恐怖だった。
カサカサカサカサ……。
どこからともなく、無数の小さな何かが現れた。黒色に光る、小さな虫。まるで黒い砂が、生きているかのように床を覆い尽くしていく。
虫たちは、床に散らばった取り巻きたちの肉片に群がると、一つ残らず集め始めた。その様子の不気味さに、レオは声も出せずに固まった。
集められた死体のパーツが、まるで意志を持ったかのように組み合わさっていく。骨が嵌り、肉が付き、皮膚が覆う。グロテスクな再構成。
やがて、血まみれだった床は綺麗になり、さっきまで死体だったはずの取り巻きたちが、無傷の姿でそこに立っていた。
「な、なんだよ……脅かしやがって……! そうだ、これは全部兄さんの手の込んだイタズラなんだ! あはは……」
レオは希望的観測にすがり、虚勢を張って笑おうとした。
しかし。
クマの化け物が、低く、深く、そして絶望的に渋い声で言った。
「……乗っ取り、完了。これなら、誰も彼らが死んだことに気づきますまい。波風も、立ちませんな」
レオの頭が、真っ白になった。
目の前で、取り巻きたちが、一斉に口を開く。
「乗っ取り、完了」
「乗っ取り、完了」
「乗っ取り、完了」
彼らの瞳には、光がない。まるで、精巧に作られた人形のようだ。
彼らは、もう、レオが知っている彼らではない。
別の何かに、なりかわってしまった。
その理解不能な恐怖に、レオの喉から「ひっ」と短い悲鳴が漏れた。
クマの化け物が、ゆっくりとレオを見下ろす。その蜂蜜色の瞳は、冷たい鉄の色をしていた。
「――さて。次は、貴様の番だ」