虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない 作:匿名希望さん
わけが、わからなかった。
レオ・ヴァインライトは、今、目の前で起きていることが、何一つ理解できなかった。
さっきまで、彼の取り巻きだったはずの肉塊が、今は何事もなかったかのようにそこに立っている。その瞳からは、一切の光が消え失せていた。まるで、魂だけを抜き取られた、精巧な人形のように。
「どうして……なんでだよ……!」
レオは、目の前に立つ兄――ルックに向かって、掠れた声を絞り出した。
「魔力ゼロの出来損ないが、どうしてこんな……! これは何の魔術だ! 答えろッ!」
ルックは、何も答えない。
ただ、氷のように冷たい瞳で、床にへたり込むレオを見下ろしているだけだ。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
その後ろで、クマの化け物が、ギ、と音を立ててこちらに一歩、踏み出した。
その巨体が動くだけで、空気がビリビリと震え、レオの中に後悔が押し寄せてくる。
「ひっ……! ご、ごめんなさい! 助けてくれ……! もう、二度と逆らいませんから……!」
どうして、こいつに関わってしまったのか。
ただ、サンドバッグにして、優越感に浸っていればよかった。なぜ、わざわざ特訓までして、叩きのめそうなどと考えてしまったのか。
彼の頭の中は、恐怖と後悔と、理解不能な現実でぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
逃げたい。今すぐここから駆け出して、父の元へ、母の元へ、助けを求めたい。
なのに、腰が抜けて、指一本動かせない。
生温かい液体が、ズボンを濡らす感触だけが、やけにリアルだった。
クマの化け物は、レオの目の前でピタリと足を止めた。
そして、洞窟の奥底から響くような、絶望的に低い声で言った。
「――貴様はマスターの家族だ。ゆえに、殺しはしない」
マスター……?
その単語が、目の前の兄、ルックを指しているのだと、直感で理解してしまった。
こいつは、この化け物は、兄の手下なのか? そんな馬鹿な。
わけがわからない。考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうだった。
クマの化け物は、レオの混乱など気にも留めず、その巨大な手を伸ばしてきた。
レオは「ひぃっ」と悲鳴を上げたが、その手は彼の顎を、まるで万力のような力でがっちりと掴んだ。ミシミシと、骨が軋む音がする。
「が、ぐ……!」
抵抗なんて、できるはずもなかった。
クマは、レオの口を、強引にこじ開ける。
そして、彼は、見てしまった。
この世の終わりみたいな、悪夢の光景を。
――クモ。
クマのもう片方の手に、一匹のクモが乗っていた。
ただのクモじゃない。子供の拳ほどもある、異常な大きさだ。
艶のある黒い甲殻。びっしりと生えた、針金のような剛毛。濡れたように光る、無数の赤い複眼が、ぎょろり、とレオを見ている。
そいつが、カサリ、と脚を動かした。
「い、いや……いやだ……やめろ……!」
呼吸が、できなくなる。
涙と鼻水が、顎を掴む化け物の手にボタボタと落ちた。
気味が悪い。不気味だ。おぞましい。
その黒い悪夢が、ゆっくりと、レオの顔に近づいてくる。
そして、無理やり開かれた彼の口の中へと、音もなく侵入してきた。
「んぐっ……! んんんーっ!」
口を閉じたいのに、顎を固定されていて動かせない。
ザラザラとした、いくつもの脚が、彼の舌の上を這い回る。歯茎を、上顎を、不快に撫で回す。
ネチャリ、とした粘液が、口いっぱいに広がった。
最悪だ。最悪だ。最悪だ!
クモは、レオの意思などお構いなしに、喉の奥へとずぶずぶと進んでいく。
ゴクリ、と。
飲み込みたくもないのに、体は勝手に、異物を食道へと送り込んでしまった。
自分の中に、あの化け物がいる。その圧倒的な違和感と嫌悪感に、レオの意識は遠のきかけた。
クマの化け物は、満足したようにレオの顎から手を離すと、冷酷に告げた。
「そのクモは、貴様の体内で生き続ける。そして、二十四時間、貴様の思考と行動のすべてを、我々に報告する」
その声は、死の宣告よりも重く、レオの心に突き刺さった。
「マスターは、波風が立つことを望んでおられない。もし、このことを少しでも誰かに話そうとしたり、マスター……いや、ルック様に逆らう素振りを見せたりしてみろ。その時は、腹の中のそれが、貴様の臓腑を内側から食い破る。――命はないと思え」
レオは、必死に、何度も何度も、首を縦に振った。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、ただ、頷くことしかできなかった。
逆らえない。
この体の中に、爆弾を抱えてしまったのだ。人質は、彼自身の命。
もう、一生、ルックに逆らうことはできない。
いや、逆らうどころか、奴の言うことを、何でも聞かなければならないのだと、レオは絶望と共に理解した。
彼が絶望の底で震えていると、クマの化け物は役目を終えたとばかりに、背を向けた。
そして、廊下の闇に消える直前、ポツリと、こう呟いた。
「……一人、逃げたか。やつを追わねばな」
その言葉の意味を、今のレオが考える余裕は、どこにもなかった。
クマの化け物の重厚な足音が、廊下の闇に完全に消える。
レオは恐怖でへたり込んだまま、まだそこに立っているはずの兄――ルックの足元から、恐る恐る視線を上げた。
謝罪の言葉を、許しを乞う言葉を、続けなければならない。そう思ったからだ。
しかし。
――そこには、もう誰もいなかった。
いつの間に?
足音一つ、聞こえなかった。
あまりのことに一瞬思考が停止したが、それも束の間。腹の中で何かが蠢くような、不快極まりない感触が、レオの意識を現実に引き戻す。
それだけで、彼の思考は完全に塗りつぶされた。
ただただ純粋な恐怖と絶望。彼の世界に残されたのは、もう、それだけだった。
◆
ヴァインライト公爵家の荘厳な廊下を、バーナードは音もなく疾走していた。
彼の思考は、先程までの凄惨な光景とは裏腹に、極めて冷静沈着だった。
レオ・ヴァインライトが完全に屈服し、腹の中の『監視者』によって二度と逆らえなくなったことを確認すると、バーナードは自身が作り出していた幻影を解除した。
レオの前に立っていた、冷たい瞳のマスターの姿が霧散する。
これで主の威光は、あの愚かな弟の骨の髄まで刻まれたはずだ。
バーナードが、あえてマスターの幻影をあの場に立たせたのには理由がある。
これがただの『化け物による襲撃』ではなく、『ルック・ヴァインライトの意思による、絶対的な制裁』であることを、あの弟に理解させるためだ。恐怖の矛先を得体の知れない化け物ではなく、ルック・ヴァインライトその人に向かわせることで、彼の忠誠心――いや、隷属は、より確実なものとなる。
これで、レオがマスターに牙を剥くことは、未来永劫あるまい。
幻影を消し、後始末を終えたバーナードの思考は、次なる標的へと移っていた。
銀縁の眼鏡をかけた、家庭教師を名乗る男。
小型偵察ユニットからの事前報告によれば、レオに付き従う者は計五名。うち四名は魔力こそあれど取るに足らない子供だったが、残る一名の成人男性は、別格だった。
バーナードは事前に彼らの会話を盗聴し、その男がただの教師ではないことを見抜いていた。彼が放つ魔力の質、そしてレオに対する言葉の端々から、相当な手練れの魔術師であると判断していた。
案の定、あの惨劇の中、子供たちが恐慌をきたしている隙に、その男だけが気配を消して逃走した。
抜け目のない男だ。
マスターの秘密の一端を知られた可能性がある。そして何より、マスターに害をなす可能性のある危険因子を、このまま野放しにするわけにはいかない。
主の安寧を脅かす者は、誰であろうと排除する。その決意が、バーナードの動力炉を静かに熱くした。
彼は窓辺に立つと、足元の装甲を静かに変形させた。カシャ、という微かな音と共に、足の裏から青白い光を放つ噴出孔が姿を現す。
「逃げられると思うなよ、人間」
低く呟くと、バーナードの巨体は窓枠を軽々と飛び越え、夜の闇へと舞い上がった。
眼下に広がる屋敷の敷地を、彼の高性能なセンサーがスキャンしていく。
熱源、動体、魔力の残滓――あらゆる情報を拾い上げ、解析する。
しかし。
「……消えた、だと?」
バーナードの蜂蜜色の瞳が、驚愕に見開かれた。
いない。どこにもいない。
男の姿は、広大な敷地のどこにも見当たらなかった。
それだけではない。あの場から逃走したはずの男の魔力の痕跡が、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消え失せている。
ありえない。
どんなに優れた隠蔽魔術でも、これほどの短時間で、超古代文明のセンサーを完璧に欺くことなど不可能だ。
まるで、追跡されることを完全に予期し、完璧な逃走経路と隠蔽工作を、あらかじめ用意していたとしか思えない。
バーナードは夜空で静止し、眼下の闇を見下ろした。
あの男、ただの手練れではない。
こちらの存在に、最初から気づいていた可能性すらある。
バーナードの胸に、警鐘が鳴り響く。
マスターに、報告せねばなるまい。この屋敷には、我々の想像を遥かに超える、底知れぬ危険が潜んでいる、と。