虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない   作:匿名希望さん

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17 言い換えるならば、軛のようなもの

 わけが、わからなかった。

 レオ・ヴァインライトは、今、目の前で起きていることが、何一つ理解できなかった。

 さっきまで、彼の取り巻きだったはずの肉塊が、今は何事もなかったかのようにそこに立っている。その瞳からは、一切の光が消え失せていた。まるで、魂だけを抜き取られた、精巧な人形のように。

 

「どうして……なんでだよ……!」

 

 レオは、目の前に立つ兄――ルックに向かって、掠れた声を絞り出した。

 

「魔力ゼロの出来損ないが、どうしてこんな……! これは何の魔術だ! 答えろッ!」

 

 ルックは、何も答えない。

 ただ、氷のように冷たい瞳で、床にへたり込むレオを見下ろしているだけだ。

 その沈黙が、何よりも恐ろしかった。

 その後ろで、クマの化け物が、ギ、と音を立ててこちらに一歩、踏み出した。

 その巨体が動くだけで、空気がビリビリと震え、レオの中に後悔が押し寄せてくる。

 

「ひっ……! ご、ごめんなさい! 助けてくれ……! もう、二度と逆らいませんから……!」

 

 どうして、こいつに関わってしまったのか。

 ただ、サンドバッグにして、優越感に浸っていればよかった。なぜ、わざわざ特訓までして、叩きのめそうなどと考えてしまったのか。

 彼の頭の中は、恐怖と後悔と、理解不能な現実でぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。

 

 逃げたい。今すぐここから駆け出して、父の元へ、母の元へ、助けを求めたい。

 なのに、腰が抜けて、指一本動かせない。

 生温かい液体が、ズボンを濡らす感触だけが、やけにリアルだった。

 

 クマの化け物は、レオの目の前でピタリと足を止めた。

 そして、洞窟の奥底から響くような、絶望的に低い声で言った。

 

「――貴様はマスターの家族だ。ゆえに、殺しはしない」

 

 マスター……?

 その単語が、目の前の兄、ルックを指しているのだと、直感で理解してしまった。

 こいつは、この化け物は、兄の手下なのか? そんな馬鹿な。

 わけがわからない。考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそうだった。

 

 クマの化け物は、レオの混乱など気にも留めず、その巨大な手を伸ばしてきた。

 レオは「ひぃっ」と悲鳴を上げたが、その手は彼の顎を、まるで万力のような力でがっちりと掴んだ。ミシミシと、骨が軋む音がする。

 

「が、ぐ……!」

 

 抵抗なんて、できるはずもなかった。

 クマは、レオの口を、強引にこじ開ける。

 そして、彼は、見てしまった。

 この世の終わりみたいな、悪夢の光景を。

 

 ――クモ。

 

 クマのもう片方の手に、一匹のクモが乗っていた。

 ただのクモじゃない。子供の拳ほどもある、異常な大きさだ。

 艶のある黒い甲殻。びっしりと生えた、針金のような剛毛。濡れたように光る、無数の赤い複眼が、ぎょろり、とレオを見ている。

 そいつが、カサリ、と脚を動かした。

 

「い、いや……いやだ……やめろ……!」

 

 呼吸が、できなくなる。

 涙と鼻水が、顎を掴む化け物の手にボタボタと落ちた。

 気味が悪い。不気味だ。おぞましい。

 その黒い悪夢が、ゆっくりと、レオの顔に近づいてくる。

 そして、無理やり開かれた彼の口の中へと、音もなく侵入してきた。

 

「んぐっ……! んんんーっ!」

 

 口を閉じたいのに、顎を固定されていて動かせない。

 ザラザラとした、いくつもの脚が、彼の舌の上を這い回る。歯茎を、上顎を、不快に撫で回す。

 ネチャリ、とした粘液が、口いっぱいに広がった。

 最悪だ。最悪だ。最悪だ!

 クモは、レオの意思などお構いなしに、喉の奥へとずぶずぶと進んでいく。

 ゴクリ、と。

 飲み込みたくもないのに、体は勝手に、異物を食道へと送り込んでしまった。

 自分の中に、あの化け物がいる。その圧倒的な違和感と嫌悪感に、レオの意識は遠のきかけた。

 

 クマの化け物は、満足したようにレオの顎から手を離すと、冷酷に告げた。

 

「そのクモは、貴様の体内で生き続ける。そして、二十四時間、貴様の思考と行動のすべてを、我々に報告する」

 

 その声は、死の宣告よりも重く、レオの心に突き刺さった。

 

「マスターは、波風が立つことを望んでおられない。もし、このことを少しでも誰かに話そうとしたり、マスター……いや、ルック様に逆らう素振りを見せたりしてみろ。その時は、腹の中のそれが、貴様の臓腑を内側から食い破る。――命はないと思え」

 

 レオは、必死に、何度も何度も、首を縦に振った。

 涙でぐしゃぐしゃの顔で、ただ、頷くことしかできなかった。

 逆らえない。

 この体の中に、爆弾を抱えてしまったのだ。人質は、彼自身の命。

 もう、一生、ルックに逆らうことはできない。

 いや、逆らうどころか、奴の言うことを、何でも聞かなければならないのだと、レオは絶望と共に理解した。

 

 彼が絶望の底で震えていると、クマの化け物は役目を終えたとばかりに、背を向けた。

 そして、廊下の闇に消える直前、ポツリと、こう呟いた。

 

「……一人、逃げたか。やつを追わねばな」

 

 その言葉の意味を、今のレオが考える余裕は、どこにもなかった。

 クマの化け物の重厚な足音が、廊下の闇に完全に消える。

 レオは恐怖でへたり込んだまま、まだそこに立っているはずの兄――ルックの足元から、恐る恐る視線を上げた。

 謝罪の言葉を、許しを乞う言葉を、続けなければならない。そう思ったからだ。

 しかし。

 

 ――そこには、もう誰もいなかった。

 

 いつの間に?

 足音一つ、聞こえなかった。

 あまりのことに一瞬思考が停止したが、それも束の間。腹の中で何かが蠢くような、不快極まりない感触が、レオの意識を現実に引き戻す。

 それだけで、彼の思考は完全に塗りつぶされた。

 ただただ純粋な恐怖と絶望。彼の世界に残されたのは、もう、それだけだった。

 

 

 ヴァインライト公爵家の荘厳な廊下を、バーナードは音もなく疾走していた。

 彼の思考は、先程までの凄惨な光景とは裏腹に、極めて冷静沈着だった。

 レオ・ヴァインライトが完全に屈服し、腹の中の『監視者』によって二度と逆らえなくなったことを確認すると、バーナードは自身が作り出していた幻影を解除した。

 レオの前に立っていた、冷たい瞳のマスターの姿が霧散する。

 これで主の威光は、あの愚かな弟の骨の髄まで刻まれたはずだ。

 バーナードが、あえてマスターの幻影をあの場に立たせたのには理由がある。

 これがただの『化け物による襲撃』ではなく、『ルック・ヴァインライトの意思による、絶対的な制裁』であることを、あの弟に理解させるためだ。恐怖の矛先を得体の知れない化け物ではなく、ルック・ヴァインライトその人に向かわせることで、彼の忠誠心――いや、隷属は、より確実なものとなる。

 これで、レオがマスターに牙を剥くことは、未来永劫あるまい。

 

 幻影を消し、後始末を終えたバーナードの思考は、次なる標的へと移っていた。

 銀縁の眼鏡をかけた、家庭教師を名乗る男。

 小型偵察ユニットからの事前報告によれば、レオに付き従う者は計五名。うち四名は魔力こそあれど取るに足らない子供だったが、残る一名の成人男性は、別格だった。

 バーナードは事前に彼らの会話を盗聴し、その男がただの教師ではないことを見抜いていた。彼が放つ魔力の質、そしてレオに対する言葉の端々から、相当な手練れの魔術師であると判断していた。

 案の定、あの惨劇の中、子供たちが恐慌をきたしている隙に、その男だけが気配を消して逃走した。

 抜け目のない男だ。

 マスターの秘密の一端を知られた可能性がある。そして何より、マスターに害をなす可能性のある危険因子を、このまま野放しにするわけにはいかない。

 主の安寧を脅かす者は、誰であろうと排除する。その決意が、バーナードの動力炉を静かに熱くした。

 

 彼は窓辺に立つと、足元の装甲を静かに変形させた。カシャ、という微かな音と共に、足の裏から青白い光を放つ噴出孔が姿を現す。

 

「逃げられると思うなよ、人間」

 

 低く呟くと、バーナードの巨体は窓枠を軽々と飛び越え、夜の闇へと舞い上がった。

 眼下に広がる屋敷の敷地を、彼の高性能なセンサーがスキャンしていく。

 熱源、動体、魔力の残滓――あらゆる情報を拾い上げ、解析する。

 しかし。

 

「……消えた、だと?」

 

 バーナードの蜂蜜色の瞳が、驚愕に見開かれた。

 いない。どこにもいない。

 男の姿は、広大な敷地のどこにも見当たらなかった。

 それだけではない。あの場から逃走したはずの男の魔力の痕跡が、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱり消え失せている。

 ありえない。

 どんなに優れた隠蔽魔術でも、これほどの短時間で、超古代文明のセンサーを完璧に欺くことなど不可能だ。

 まるで、追跡されることを完全に予期し、完璧な逃走経路と隠蔽工作を、あらかじめ用意していたとしか思えない。

 

 バーナードは夜空で静止し、眼下の闇を見下ろした。

 あの男、ただの手練れではない。

 こちらの存在に、最初から気づいていた可能性すらある。

 バーナードの胸に、警鐘が鳴り響く。

 マスターに、報告せねばなるまい。この屋敷には、我々の想像を遥かに超える、底知れぬ危険が潜んでいる、と。

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