虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない 作:匿名希望さん
宝物庫の最奥。
そこにあったのは、一つの宝石だった。
台座に鎮座するそれは、まるで夜空の欠片をそのまま切り取って固めたかのようだった。
深い藍色の結晶の中には、無数の銀点が瞬き、ゆっくりと流れている。それはまるで、小さな銀河が石の中に封じ込められているかのようだ。
これが、『星霜の涙』。
数千年に一度、魔力が極限まで凝縮された土地に降るという星の雫。それが地中に深く染み込み、悠久の時を経てマナの結晶と結びついたときにのみ生まれる、奇跡の宝石。
持ち主の魔力を爆発的に増幅させ、あらゆる属性の魔術を安定させる、最高位の触媒。それが、この石に秘められた力だ。
ボクはゴクリと息を呑み、そっとそれに手を伸ばす。
指先に触れた瞬間、ひんやりとした心地よい感触と共に、膨大な魔力が脈打つのが伝わってきた。
心臓が、この石の鼓動に共鳴するかのように高鳴る。
これを求めていた。
これがあれば、きっと――。
ボクは用意していた柔らかい布で『星霜の涙』を丁寧に、幾重にも包み、革鞄の奥深くに慎重にしまい込んだ。
「よし……」
これで目的は果たした。
あとは、バーナードと合流してここを脱出するだけだ。
宝物庫を出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。そういえば、バーナードはうまくやっているだろうか。あの豪快な男のことだ、心配はしていないが、早く顔を見て安心したい。
そんなことを考えた、その時だった。
フッ、と目の前の空間が陽炎のように揺らめいた。
次の瞬間、そこには一体の機械人形――ボクの相棒でもあるフラグメントが、音もなく佇んでいた。どうやら、ついさっきまで光学迷彩で姿を消していたらしい。
「フラグメント。驚かさないでくれよ」
ボクが苦笑すると、フラグメントは水晶のレンズをチカチカと点滅させ、小さなボディをカタカタと揺らした。
そして、ボクの周りをくるりと一周してみせると、先導するように通路の先へと体を向ける。ついてこい、ということらしい。
「ありがとう、フラグメント。助かるよ」
フラグメントの先導は完璧だった。
敵の警備兵の気配を的確に察知し、物音一つ立てずに迂回路を選んでいく。そのおかげで、ボクたちは誰一人と遭遇することなく、隠された遺跡の入り口まで戻ることができた。
遺跡の広間に足を踏み入れると、残っていた機械人形たちがボクの帰還に気づいた。
壁際に待機していた巨大な戦闘用ゴーレム――コーラルが静かに立ち上がり、その水晶の単眼をボクに向けた。
「マスター。ご帰還を。御身に恙なきこと、何よりです」
重厚で落ち着いた声が響く。コーラルだ。
それに呼応するように、無数のビーシリーズたちが一斉にボクの足元へと集まってくる。彼らは言葉を発しない。だが、ボクにすり寄ってくるその小さな体からは、安堵の気持ちがはっきりと伝わってきた。
……でも、バーナードの姿はまだ見えない。
一抹の不安が胸をよぎった、その時だった。
「――ほお、こんなところがあったのですか」
背後から、温度というものが一切感じられない、冷え切った声がした。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。
この声は、知らない。この場にいるはずのない、人間の声だ。
バッと振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
上質な仕立ての黒い執事服に身を包み、銀縁の眼鏡をかけた、一見すると優雅な男。だが、その目は全く笑っていなかった。氷のように冷たい瞳が、ボクたちを値踏みするように見ている。
フラグメントが瞬時にボクの前に躍り出て、全身から威嚇のオーラを放つ。コーラルも巨大な腕を構え、ビーシリーズたちは一斉に警戒音を発し始めた。
「いつの間に……!?」
気配が全くしなかった。まるで、最初からそこにいたかのように、男は自然に佇んでいる。
男はボクたちの警戒を意にも介さず、優雅に一礼した。
「初めまして。私は サイラス・グレイと申します。レオナルド様の専属家庭教師を務めております。……もっとも、裏では『影の操手(シャドウ・マニピュレーター)』と呼ばれておりますが」
レオ様の家庭教師……!
なぜ、そんな人物がここに?
サイラスと名乗った男は、ボクの疑問などお構いなしに、恍惚とした表情で機械人形たちを見渡した。
「素晴らしい……。まさしく、古代文明の遺産。これほどの数の『自己進化型機兵(オートマタ)』が、完璧な状態で再起動しているとは……!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気が震えた。
フラグメントがサイラスへと襲いかかったのだ。
目に見えない、殺意の攻撃。フラグメントが放った、極細の魔力ワイヤーだ。
だが――。
「ほう、糸ですか。芸がありますね」
サイラスは口元に笑みすら浮かべたまま、指を軽く振るう。
彼の指先から放たれた数条の黒い魔力が、鞭のようにしなり、不可視のワイヤーを的確に弾き、絡め取っていく。
「なっ……!?」
「お返しです」
キンッ!という甲高い音と共に、黒い魔力がフラグメントのワイヤーを逆流する。
そして次の瞬間、サイラスに最も接近していた一体――ボクの足元にいたビーシリーズの体が、内部から弾け飛んだ。
ガシャァァァンッ!!
無慈悲な破壊音が広間に響き渡る。
砕け散った部品や配線が、床に虚しく転がった。
サイラスは、まるで道端の石を蹴ったかのように無表情で、壊れたビーシリーズの残骸を一瞥した。
そして、宣言する。
「実に興味深い……。ええ、実に素晴らしい。あなた方ガラクタは、全て私のコレクションに加えさせていただきますよ。もちろん、ただで言うことを聞くとは思っていません。まずはその生意気な自我を屈服させる必要がありますね」
サイラスは、まるで虫けらを見るような目で、残った機械人形たちを見据えた。
「そのために、いくつか見せしめに破壊して、この私こそが新たな主人であると、そのオンボロの頭に叩き込んであげましょう」
その言葉を聞いた瞬間。
ボクの中で、何かがブツリと、切れた。
頭の芯が急速に凍りついていくような、それでいて腹の底ではマグマが煮えたぎるような、奇妙な感覚。
世界の音が、すうっと遠のいていく。
目の前の男の、傲慢な顔だけが、やけに鮮明に見えた。
冷静だ。
ボクは、自分がかつてないほど冷静に、そして激しく、怒り狂っていることを理解した。
フラグメントも、コーラルも、さっき壊されたビーシリーズも。
彼らはボクにとって、ただの機械じゃない。
心を通わせ、共に笑い、共に戦ってきた、かけがえのない家族だ。
それを彼は、見せしめに壊すと、そう言ったのだ。
それは、ボクがこの世界で最も許せない、ただ一つのこと。
ボクの殺気にも似た怒りに気づいたのか、サイラスは初めてボクに興味を向け、鼻で笑った。
「おや、そこの少年。何か言いたそうですな。ですが、あなたに何ができるのです?」
彼はボクの全身を一瞥し、そして断言した。
「――魔力ゼロの、無能。あなたがヴァインライト家の出来こそないであることは弟様から存じてますよ」
その挑発は、しかし、もうボクの心には届かない。
恐怖はある。足も震えている。サイラスという存在の格の違いも、痛いほどわかっている。
でも、それ以上に、この男を許せないという感情が、ボクを突き動かしていた。
血を流すことにも、心を殺すことにも慣れていた。だが、今、生まれて初めて、誰かのために戦うと決めた。
ボクは、震える仲間たちに向かって、静かに、しかしはっきりと告げた。
「みんな、ボクの後ろにいて」
その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「――こいつは、ボクが止める」