虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない   作:匿名希望さん

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20 覚醒

 深い、深い、紫紺の闇。

 それは、夜明け前の空の色か、それとも宇宙の深淵そのものか。

 永い眠りから目覚めたアストライアの瞳が、静かにボクを捉える。その視線が交わった瞬間、彼女を中心とした一帯から、サイラスが作り出した絶対的な闇が、まるで朝霧のように、彼女が放つ光の中に溶けて消えていった。

 だけど、遺跡の大部分はまだ闇に閉ざされたまま。動けるようになったはずの仲間たちの駆動音も、まだ聞こえてはこない。

 

「機能、回復。自己修復率、100パーセント。動力炉、正常稼働。……信じられない。この身は、完全に機能を停止していたはず……」

 

 鈴を転がすような、しかしどこか芯の通った、気高い声。

 彼女は淡々と自己分析を終えると、その視線をボクに向けた。ボクは、息を呑んで彼女を見つめていた。

 その神々しいまでの姿に、闇の中心で高笑いをしていたサイラスも、一瞬だけ言葉を失っているように見えた。でも、すぐに愉悦に歪んだ、見下した笑みを浮かべた。

 

「ほう、これはまた随分と見目麗しいおもちゃの登場ですな。ですが、時すでに遅し。この禁術『終焉の領域』からは、何者も逃れることはできません。あなたも、そのガキもろとも、我がコレクションの一部となるのです」

 

 ボクには、アストライアがサイラスの言葉などまるで聞こえていないかのように見えた。彼女は玉座からゆっくりと立ち上がり、その動きは水が流れるように滑らかで、完璧だった。

 そして、ボクの目の前まで歩み寄ると、その完璧な顔に、初めて柔らかな表情を浮かべた。

 

「よくぞ私を呼び覚ましてくれた、私の小さきマスター。その勇気、そして絶望の中でも決して輝きを失わぬその瞳……。ふふ、一目で気に入った」

 

「え……? ま、マスター……?」

 

 ボクが戸惑いの声を上げると、彼女は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。その仕草一つが、絵画のように美しい。

 

「そうだ。貴方が、私を永い眠りから解放してくれたのだろう? ならば、貴方こそが私の主。私のすべてを捧げるに値する、唯一の存在だ」

 

 ボクたちのやり取りに、完全に無視されたサイラスの額に青筋が浮かぶのが見えた。

 

「ふざけるなァッ! 鉄クズ風情が、この私を無視するとは! いいでしょう、まずはその生意気な女から、闇に飲み込んで絶望を与えてやる!」

 

 サイラスが手をかざすと、周囲の闇がうねり、巨大な触手となってアストライアに襲いかかった。

 その醜い悪あがきに、アストライアは、ようやく振り返った。

 その顔から、先程までの柔らかな微笑みは完全に消え失せ、絶対零度の氷のような、冷たい無関心が浮かんでいる。

 

「……ああ、まだいたのか。塵芥が」

 

 アストライアが、ただ一言、そう呟いた。

 その瞬間、世界が変わった。

 彼女が軽く指を振るうと、彼女の周囲を覆っていた禁術の闇が、まるで強い光を浴びたかのように、円形に吹き飛んだ。

 闇のドームに、ぽっかりと穴が空く。そこから差し込む遺跡の光が、彼女の神々しい姿を照らし出した。

 

 サイラスの顔に、一瞬だけ驚愕の色が浮かぶ。だけど、すぐにそれは、より深い愉悦の笑みへと変わった。

 

「ほう……! 我が禁術の領域に、自らの意思で穴を開けるとは! 面白い! だが、それだけです! この闇は無限に再生し、やがてあなたを飲み込む!」

 

 サイラスが手をかざすと、闇がうねり、無数の黒い槍となってアストライアへと殺到する。

 

「まずはその美しい顔に、絶望の化粧を施してあげましょう!」

 

 だけど、アストライアは動かない。

 黒い槍が彼女に届く、その寸前。

 ふっ、と。槍が、まるで陽光に溶ける雪のように、音もなく光の粒子へと変換され、キラキラと舞いながら消えていった。

 

「――なっ!?」

 

 今度こそ、サイラスの顔から笑みが消えた。

 

「魔力干渉……!? いや、違う! この感覚は……!?」

 

 彼は焦りを隠せない様子で、次なる手を打った。

 

「小賢しい! ならば、物理的に動きを封じてくれる! ――影縛りの呪詛《カース・オブ・シャドウ》!」

 

 アストライアの足元の影が、まるで生き物のように蠢き、無数の腕となって彼女の足首に絡みついた。どんな物理的な力でも引きちぎることのできない、王国の対騎士団用に開発された最高位の拘束魔術だという。

 

「どうです! これであなたも――」

 

 サイラスが勝利を確信したような笑みを浮かべた、その時。

 アストライアは、心底つまらなそうに、小さく息を吐いた。

 

「――我が主の御前で、私の影に触れるとは。不敬だな」

 

 ピクリ、と。

 彼女の足に絡みついていた影が、震えたように見えた。

 そして、次の瞬間。影はサイラスの支配下から離れたのか、まるで忠実な僕のように、逆にサイラスへと襲いかかったのだ。

 

「ぐわっ!? 馬鹿な、我が魔術が、なぜ私を!?」

 

 自らが作り出した影に手足を拘束され、サイラスは無様に床に引き倒された。

 彼の表情は、混乱の極みにあるように見えた。

 魔術が通じない。それどころか、操っていたはずの魔術に裏切られている。こんな現象は、彼の知識の範疇を遥かに超えているんだろう。

 

「理解できないか、塵芥。お前の扱う『(ことわり)』は、あまりにも浅い。赤子の水遊びに等しい」

 

 アストライアの冷たい声が、サイラスのプライドを根元からへし折っていく。

 もはや、彼の顔に余裕などどこにもない。残っているのは、本能的な恐怖だけだ。

 

「ま、待て……! これ以上は王国の、いや、宵闇の梟《ダスク・オウル》が黙っては――」

 

 命の危機を悟ったのか、サイラスは最後の虚勢を張ろうとする。だけど、その言葉は続かない。

 アストライアの紫紺の瞳が、彼を射抜いたからだ。

 その瞳は、まるで宇宙の法則そのものだった。サイラスという存在が、この世界にいることを『許さない』という、絶対的な意志。

 

「に、逃げなければ……!」

 

 サイラスは最後の力を振り絞り、懐から空間転移用の高価な魔石を取り出して砕いた。空間がぐにゃりと歪み、彼を飲み込もうとする。

 だけど。

 

「――逃がさん」

 

 アストライアが、ただ、そう言った。

 それだけで、歪んでいたはずの空間が、ピタリと音を立てて『固定』された。転移魔術が強制的に中断され、サイラスの体は激しい魔力逆流に見舞われたようだ。

 

「がああああっ!?」

 

 もはや、打つ手はない。

 恐怖が、彼の精神のすべてを支配したのだろう。

 彼はその場にへたり込み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、無様に命乞いを始めた。

 

「ま、待ってくれ! た、助けてくれ! 命だけは! そうだ、私にはまだ利用価値がある! 王国の機密情報でも、金でも、望むものは何でもくれてやる! だから……!」

 

 その惨めな姿に、アストライアは足を止め、心底軽蔑した目で彼を見下ろした。

 

「我が主を傷つけ、その尊い御身に恐怖を与えた罪。――それは、万死に値する」

 

 彼女は、そう言って、細くしなやかな指先を、サイラスへと向けた。

 ただ、それだけ。

 詠唱も、魔法陣も、何もない。

 

「や、やめろ……! いやだ、死にたくないぃぃぃぃっ!」

 

 サイラスの絶叫を遮るように、指先から一条の、紫紺の光が放たれた。

 それは、彼の心臓を正確に捉え、その体を内側から崩壊させていく。

 断末魔の叫びすら上げることなく、彼の肉体も、魂も、着ていた服さえも、全てが光の粒子となってサラサラと舞い落ち、最後には塵一つ残さず、この世界から完全に消滅した。

 

 後には、静寂だけが残された。

 アストライアは、まるで床の埃でも払ったかのように、優雅に手を振るうと、再びボクに向き直った。

 そして、恭しく片膝をつき、ボクの血が滲む左腕を、その美しい両手でそっと包み込む。

 

「もう大丈夫だ、私のマスター。あなたを脅かすものは、全て私が排除しよう。このアストライア・ノヴァ、今日この日より、あなただけの剣となり、盾となることを誓う」

 

 そう言うと、彼女はボクの手の甲に、まるで騎士が忠誠を誓うかのように、そっと唇を寄せた。

 ひんやりとした、でもどこか温かい感触。

 ボクの顔が、カッと熱くなるのがわかった。

 

「おや、可愛らしい反応だな」

 

 アストライアは、ボクの反応を見て、心底楽しそうにクスクスと笑った。

 からかうようなその言葉に、ボクはどう反応していいかわからず、ただ固まることしかできなかった。

 孤独だったボクの世界に、また一人、とてつもなく強力で、そして少しだけ困った仲間が加わった瞬間だった。

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