虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない   作:匿名希望さん

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3 パニック

 翌朝。

 軋むベッドの上で目覚めたボクの胸は、重たい鉛を飲み込んだかのように憂鬱だった。

 食事の時間だ。

 生きるためには、あの厨房に行かなければならない。あの侮蔑と嘲笑に満ちた場所へ。

 ベッドの下を覗くと、フラグメントが丸くなって眠っていたが、ボクが起き上がった気配を察して「きゅ?」と顔を上げた。

 

「おはよう、フラグメント」

 

「きゅい!」

 

 元気な挨拶に少しだけ心が和む。

 ボクが着替えを済ませて部屋を出ようとすると、当たり前のようにフラグメントが足元をついてきた。

 

「こら、ダメだ。君はここでお留守番だ。君みたいなのが厨房にいたら、大騒ぎになる」

 

 ボクが慌てて止めると、フラグメントは不思議そうに首を傾げた。

 そして、次の瞬間。

 フッ、とフラグメントの姿が、まるで陽炎のように揺らめき、完全に景色に溶け込んだ。

 

「えっ!?」

 

 ボクは驚いて、さっきまでフラグメントがいた場所に手を伸ばす。

 ひんやりとした金属の感触。確かに、いる。見えないだけだ。

 

「すごい……! 外殻の色を、周囲の景色に合わせて変化させてるのか!」

 

 これなら、いけるかもしれない。

 ボクは小さな声で「絶対に音を立てるなよ」と念を押し、透明な相棒とともに、憂鬱な食卓へと向かった。

 

 厨房は、朝の支度で戦場のような忙しさだった。

 ボクはいつも通り気配を殺して隅に行き、コックが気づいてくれるのを待つ。

 

「ああ? なんだ、いたのか出来損ない。また餌の催促か? ハイハイ、待ってな」

 

 聞こえよがしな舌打ちとともに、コックが残飯の入った桶を指さす。

 ボクが家畜用の皿を持って近づこうとした、その時だった。

 

「おっと、悪いな」

 

 通りすがりの使用人の一人が、わざとらしくボクの目の前に足を出し、ボクはみっともなくつまずいて床に手をついた。

 そして、その男はニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、ボクのついた右手に、容赦なく足を乗せた。

 

 グシャリ、という鈍い感触とともに、指の骨が軋むような激痛が走る。

 

「いっ……!」

 

「おっと、すまねぇすまねぇ。こんなところに汚い虫がいたもんだから、つい踏んじまったぜ。ククク……」

 

 周囲から、汚物を見るような目と、クスクスという笑い声が聞こえる。

 痛い。悔しい。でも、ここで騒げばもっと酷いことになる。

 ボクが唇を噛みしめて痛みに耐えていた、その瞬間だった。

 

「ひっ!?」

 

 ボクを踏みつけていた使用人が、金切り声を上げた。

 見ると、彼の顔の真ん前、天井からドサリ、と何かが落ちてきていた。

 

 ――巨大な、蜘蛛が。

 

 それは、大人の頭ほどもある胴体に、鎌のように鋭い脚が八本。無数の赤い複眼がギラリと光り、カチカチと音を立てて毒々しい紫色の牙を剥き出しにしている。あまりにも、リアルな悪夢の具現。

 

「ぎゃあああああああああっ! 化け物だああああああっ!!」

 

 使用人の絶叫を皮切りに、厨房は一瞬で地獄絵図と化した。

 

「な、なんだあれは!?」

 

「蜘蛛だ! でけぇ蜘蛛の化け物だ!」

 

 パニックになった人々が逃げ惑い、熱いスープの入った鍋がひっくり返り、食器棚から皿が雪崩のように落ちて割れる。

 蜘蛛の化け物は、甲高い威嚇音を響かせながら厨房の中を跳ね回り、大暴れしていた。

 

 ボクは呆然とその光景を見ていたが、すぐにハッと我に返った。

 さっきまで足元にいた透明なフラグメントがいなくなっている。

 まさか、この騒ぎは、君が……? ボクが虐められたから……?

 そうだ、あれは本物の化け物じゃない。さっきボクが見た、フラグメントの能力。今度は透明ではなく、外殻をリアルな蜘蛛に変化させたのだ。

 

 ――好機だ。

 

 ボクの思考が、瞬時に最適解を導き出す。

 こんなチャンスは二度とない。

 ボクは素早く行動を開始した。

 誰もボクのことなど見ていない。

 テーブルの上に残された焼きたてのパンを数個、まだ温かいローストチキンを丸ごと一つ、懐に素早く隠す。

 

 これだけの食料があれば、数日は厨房に来なくてもいい。

 ボクは最大限の戦利品を確保すると、透明な相棒に小声で囁いた。

 

「フラグメント、行くぞ!」

 

 その声に反応し、今まで威嚇音を響かせていた蜘蛛の化け物が、ピタリと動きを止めた。

 無数の赤い複眼が、一斉にボクの方を向く。

 そして、カサカサカサ!と不気味な足音を立てて、ボクの足元へと駆け寄ってきたのだ。

 

「ぎゃあ! 化け物が出口にでていくぞ!」

 

 その姿をみて、再び厨房から悲鳴が聞こえてくる。

 ボクは気にせず廊下を走り、角を曲がったところでピタリと足を止めた。

 すぐに、後を追ってきた巨大な蜘蛛の化け物が追いついてくる。

 だが、その恐ろしい姿は、角を曲がった瞬間、フッ…と陽炎のように掻き消えた。

 代わりに、ボクの足元にトコトコと駆け寄ってきたのは、いつもの小さな機械仕掛けの蜘蛛――フラグメントだった。

 

「きゅい!」

 

 まるで「上手くいったね!」とでも言うように、誇らしげな鳴き声を上げる。

 

「ありがとうフラグメント。おかげで助かったよ」

 

 ボクは懐に抱えた温かい戦利品の重みを感じながら、その小さな頭を優しく撫でた。

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