虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない 作:匿名希望さん
ふっ、と。
ボクの首を締め付けていたレオの両手が、不意に緩んだ。
だがそれは、慈悲からではなかった。
「おら、やっちまえ」
吐き捨てるような命令。レオはボクの上から退くと、まるで汚物でも見るかのように、腕を組んでボクを見下ろした。自分で手を下すまでもないと、取り巻きに嬲らせるつもりなのだ。
「ゲホッ、ゴホッ……! はっ……はぁ……!」
解放された喉から、堰を切ったように咳が溢れ出す。新鮮な空気が焼けるように肺を満たす中、ボクは霞む視界で、一体の影が近づいてくるのを捉えた。
「へへっ、覚悟しろよ。立ち上がれないぐらいコテンパンにしてやる」
取り巻きの一人が、ニタニタと下品な笑みを浮かべ、拳をポキポキと鳴らしながら、のっそりと立ち上がる。その目は、暴力を心から楽しむ、サディスティックな光に満ちていた。
握りしめられた拳が、ボクの顔面めがけて振り上げられた。
ああ、もうダメか。
さっき聞こえた、あの音。あれはきっと、フラグメントがボクのために怒ってくれた声だ。
そうだ、屋敷に来てから、ずっと一人だった。痣を作っても、怪我をしても、誰も心配なんてしてくれなかった。興味すら示してくれなかった。
なのに、今は。
ボクのために、本気で怒ってくれる仲間がいる。
その事実だけで、フラグメントと出会えて、本当に良かった。
ボクは迫りくる暴力を受け入れるように、ぎゅっと目をつむった。
――ヒュンッ。
空気を切り裂く、鋭い音が耳元を通り過ぎた。
それは、拳が風を切る音とはまったく違う、もっと硬質で、薄く、そして致命的な音だった。
直後。
「ぎゃあああああああああああああああっ!!」
鼓膜を突き破るような絶叫が、廊下に響き渡った。
殴られるはずだった衝撃は、いつまでたっても来ない。
何事かと、恐る恐る目を開けたボクの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
今にもボクを殴りつけようとしていた取り巻きが、自分の右腕があった場所を、もう片方の手で押さえながら絶叫している。
ない。
振り上げられていたはずの、拳から肘の先までが、綺麗さっぱり消え失せていた。
切断面は、まるで熱せられた刃物で焼き切ったかのように、恐ろしいほど滑らかだ。そこから、まるで壊れた噴水のように、おびただしい量の鮮血が吹き出し、高価な大理石の床に禍々しい模様を描き出していく。
ゴトリ、と重い音がして、見ると少し離れた場所に、彼の腕が転がっていた。
「う、腕が……オレの腕がああああああっ!!」
周囲は一瞬でパニックに陥った。
「な、なんだ今のは!?」
「ひぃっ! 腕が、切れた……!?」
残りの取り巻きたちが、顔面蒼白になって後ずさる。
一体、何が起きた? ボクの頭も、目の前の現実を理解することを拒んでいた。
そんな中、一番早く我に返ったのは、レオだった。
「騒ぐな! おい、お前! 早く治癒師を呼んでこい! 急げ!」
レオが金切り声で指示を飛ばす。
すると、震えていた取り巻きの一人が、ハッと何かに気づいたように、ボクを指さした。
「お、お前か!? お前が何かやったのか!?」
引きつった顔で叫ぶ彼に、ボクは「いや、ボクは何も……」と声にならない声で否定しようとした。だが、その言葉を遮ったのは、意外にもレオだった。
「馬鹿を言うな! こいつは魔力ゼロの無能だ! こんな芸当ができるはずがないだろうが!」
レオはそう吐き捨てると、腕を失ってのたうち回る取り巻きに駆け寄り、肩を掴んだ。
「おい、しっかりしろ! こんな傷、治癒魔術があればすぐにくっつく! それまで大人しくしてろ!」
その言葉に少しだけ冷静さを取り戻したのか、取り巻きの絶叫が苦悶の呻きに変わる。
そんな地獄絵図の中で、レオがふとボクの存在に気づいた。
「おい、出来損ない! いつまでそこに突っ立ってるんだ! 見世物じゃねぇんだぞ、とっとと消えろ!」
その声は、犯人を見る目ではなく、ただただ邪魔なゴミを払いのけるような、いつもの侮蔑に満ちた声だった。
その言葉に弾かれたように、ボクは我に返り、もつれる足でその場から駆け出した。
まだ、心臓がドキドキと音を立てて、うるさくて仕方ない。
息を切らしながら自室に転がり込むと、ボクは震える手でドアに鍵をかけた。
すると、足元でフッと空間が揺らめき、透明化を解いたフラグメントが姿を現す。
ボクの心配をよそに、フラグメントは「きゅい! きゅい!」と誇らしげな声をあげ、褒めてほしそうにボクの足に頭をすり寄せてきた。
「まさか……お前が、やったのか?」
掠れた声で尋ねると、フラグメントは「当たり前でしょ!」とでも言うように、ひときわ高く「きゅいっ!」と鳴いた。
その答えに、ボクは納得すると同時に、全身からサッと血の気が引くのを感じた。
そうか、透明になれるんだ。それだけの技術があるなら、見えない刃を振るうことなんて、造作もないことなのかもしれない。
ボクの想像以上に、目の前のこの小さな機械人形は、とんでもない力を秘めている。
人の腕を、何の躊躇もなく切り落とせるほどの、恐ろしい兵器。
その事実に、純粋な恐怖が背筋を駆け上った。
ボクが恐怖に固まっているのを察したのか、フラグメントの尻尾の動きがぴたりと止まる。
「きゅうぅん……」
翠色の単眼が、不安そうに揺らめきながらボクを見上げていた。
その姿を見て、ハッとする。
そうだ。怖いかもしれない。でも、この子は、ボクのためにやってくれたんだ。
ボクを助けるためだけに、その力を使ったんだ。
恐怖を、感謝が上回っていく。
ボクはゆっくりとしゃがみ込み、震える手でその小さな頭を撫でた。
「……ありがとう、フラグメント。助かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、フラグメントは「きゅるるるっ♪」と嬉しそうに飛び跳ね、ボクの手に何度も頭をこすりつけてきた。
その無邪気な姿に、ボクは苦笑いを浮かべる。
「でもな、フラグメント。これからは、あんまりやりすぎないでくれよ。いいね?」
釘を刺すように言うと、フラグメントは「きゅい!」と、とても元気よく頷いてみせた。
……本当に、わかっているのかな。
ボクは一抹の不安を抱えながらも、この小さな、そしてとてつもなく強力な味方の温もりを、ただ感じていた。