虐げられていたとはいえ、ここまでのざまあは望んでいない 作:匿名希望さん
月明かりが、埃っぽい窓ガラスを通して、静かに部屋を照らしている。
聞こえてくるのは、か細く、穏やかな寝息だけ。
主、ルック・ヴァインライトは、粗末なベッドの上で、子供らしい無防備な寝顔を晒していた。その頬には、まだ涙の跡がうっすらと残っている。
バーナードは、その小さな寝顔を、ただ黙って見つめていた。
なんと愛おしく、そして痛ましいお方であろうか。
この身に再び魂を宿してくれた、唯一無二の主。その境遇を知った時、バーナードの動力炉は、怒りという名の炎で燃え上がった。公爵家の嫡男でありながら、物置同然の部屋に押し込められ、食事すらまともに与えられぬ日々。
だが、主は、自分たちが怒ることを望まれなかった。それどころか、怒ったこと自体に「ありがとう」と、そう微笑んだのだ。
そのあまりの優しさが、彼の身をすり減らしていることに、ご自身は気づいておられない。
このまま、部屋でじっとしているのは、どうにも性に合わなかった。
バーナードは音を立てぬようそっと立ち上がり、部屋の出口へと向かう。
――きゅ?
背後から、小さな機械音がした。
振り返ると、翠色の単眼を光らせたフラグメントが、こちらをじっと見つめている。その視線は『どこへ行くのですか』と問いかけているようだ。
「……少し、外の空気を吸いたいだけだ。先輩も、いかがかな?」
バーナードが小声で誘うと、フラグメントは「きゅい」と一つ頷き、トコトコと駆け寄ってきて、慣れた様子でバーナードの丸い頭の上に乗った。どうやら、そこが彼の定位置らしい。
バーナードはそのまま窓辺に立つと、足元の装甲を静かに変形させた。カシャ、という微かな音と共に、足の裏から青白い光を放つ噴出孔が姿を現す。
次の瞬間、ゴォッ、という圧縮された空気が吐き出される音を残し、バーナードの巨体は窓枠を軽々と飛び越え、夜空へと舞い上がった。
◆
冷たい夜風が、火照った金属の体を心地よく冷やしていく。
眼下には、月光に照らされて壮麗に輝くヴァインライト公爵家の屋敷が、まるで巨大な宝石箱のように広がっていた。
「どうやら我々の文明は、とうの昔に滅んでしまったようだな」
頭上のフラグメントに語りかけるように、バーナードは呟いた。
不思議と、悲しみは湧いてこない。覚えているのは、同胞たちの無残な骸と、永い、永い眠りだけ。それはもはや、自身の過去というよりも、歴史書に記された遠い出来事のように感じられた。
過去など、もはやどうでもよい。
大事なのは、今、この瞬間だ。
主、ルックの手によって、再びこの身に命が宿ったという、厳然たる事実。それだけが、バーナードにとっての全てだった。
バーナードは噴出孔の出力を上げ、ぐんぐんと高度を上げていく。
屋敷が小さくなり、やがて公爵領の広大な森と農地が眼下に広がる。さらに上昇すると、無数の光がまたたく王都の姿が見えた。
西には険しい山脈が連なり、北には大国との国境を分かつ広大な森が闇を広げている。
そこには、バーナードの朧げな記憶に残る、超高度な文明の痕跡など、どこにも見当たらなかった。
ならば。
バーナードの胸に、揺るぎない決意が灯った。
この命、すべてを主のために使おう。
主の望むことならば、どんなことであろうと成し遂げる。そして、主にあだなすものは、誰であろうと、このバーナードが排除する。
それが、公爵家の人間であろうと、この国そのものであろうと、一切の容赦はしない。そうだ、主が真に安らげる場所がないというのならば、この国そのものを主に捧げてみせよう。眼下の国さえも、主のために、支配してもいいいかもしれない。
その、あまりにも過激な思考が頭をよぎった、その時だった。
「きゅい……」
頭上のフラグメントが、どこか諭すような、悲しげな声で鳴いた。
まるで『主は、本当にそんなことを望むのでしょうか?』と、そう問いかけているように。
バーナードは、言葉に詰まった。
確かに、そうだ。主は、誰よりもお優しい方だ。暴力や支配など、決して望まれはしないだろう。それこそが、主の最大の魅力でもある。
だが、その優しさ故に、彼は一人で傷つき、耐え忍んでいる。主のためを思うのならば、時には、その意に沿わぬことであっても、断行すべきではないのか?
いや、待てよ。
忠誠の形は、一つではない。何も、すべてを破壊し、支配することだけが道ではないはずだ。
「……そうか。そういうことか」
バーナードは、フッと口元を緩めた。
主に知られぬように。陰ながら、主をお支えする。主の歩む道を、影となりて平坦にする。ふふ、そのような方法も、あるかもしれんな。
その蜂蜜色の瞳に、先程までの破壊的な光とは違う、深く、そして怜悧な光が宿る。
「きゅ?」
頭上のフラグメントが、不思議そうに首を傾げた。
バーナードは、その小さな相棒に、まるで悪戯を思いついた子供のように笑いかける。
「心配するな、先輩。マスターを、悲しませるようなことはせんよ」
その夜、ヴァインライト公爵家の屋敷の遥か上空で、一体のクマ型機械人形が立てた誓いを、知る者は誰もいなかった。
◆
ガシャァァァンッ!
豪奢な装飾が施された銀の花瓶が、壁に叩きつけられて無残に歪む。高価な花が床に散らばり、磨き上げられた大理石を濡らした。
「くそっ! くそっ! くそぉっ!!」
レオ・ヴァインライトは、怒りに任せて手近なものを次々と破壊していた。
自室のドアの前では、音を聞きつけたメイドたちが、恐ろしさに顔を青くして立ち尽くしている。しかし、誰も中に入ろうとはしない。公爵家の子息であるレオの癇癪に巻き込まれるのは、ごめんだった。
息を切らし、肩でぜえぜえと呼吸をしながら、レオは壁に立てかけられていた姿見に目をやった。
鏡に映るのは、怒りで顔を真っ赤にし、髪を振り乱した、見るも無様な自分の姿。
その情けない表情が、数時間前の屈辱的な記憶を、鮮明に蘇らせた。
◆
「あら、レオ。あの出来損ないに逃げ帰ったんだって聞いたけど。あははっ、みっともなさすぎでしょ」
姉であるアーナルは、扇子で口元を隠しながら、心底バカにした口調で言った。
完璧に結い上げられた金髪も、最新流行のドレスも、弟を見下すその態度をより一層引き立てている。
「ち、違う! あれは……っ! 手下の腕が、急に……!」
「言い訳なんて見苦しすぎるんだけど。王都の学院では、魔術の訓練で腕の一本や二本、吹っ飛ぶことなんて珍しくもないのに。そんなことでうろたえるなんて、学院でやっていけるのかな?『おねえちゃーん、怖くてお漏らししちゃったー』って助けを求めてきても助けてなんてやらないわよ。あははっ、もう最高笑えるんだから』
アーナルは腹を抱えて笑い出す。
その言葉の一つ一つが、レオのプライドを鋭いナイフのように切り裂いていくのだった。
そして、最悪なことに、そのやり取りを、廊下の向こうから歩いてきた父――ヴァインライト公爵が、偶然にも耳にしていた。
父は、何も言わなかった。
ただ、一瞥しただけだ。
その目に宿っていたのは、失望と、軽蔑。まるで、道端の汚物でも見るかのような、冷え切った視線。
父は一言も発することなく、レオの前を通り過ぎていった。
その無言の譴責が、アーナルの百の嘲笑よりも、レオの心を深く抉った。
◆
「全部……全部、アイツのせいだッ!」
レオは鏡に映る自分に向かって叫び、拳を叩きつけた。バリバリと音を立てて鏡面に亀裂が走り、歪んだ自分の顔がいくつにも砕け散る。
原因は、ルックだ。
魔力ゼロの、出来損ないの、あの忌々しい兄のせいだ。
なぜ取り巻きの腕が切れたのか、そんなことはどうでもいい。ルックにそんな力があるはずがない。きっと何かの偶然だ。
だが、そのせいで自分がパニックになったのは事実。そして、姉に馬鹿にされ、敬愛する父上に幻滅された。
この屈辱は、決して許されない。
「痛めつけてやる……いや、痛めつけるだけじゃ生ぬるい……」
ただ殴るだけではダメだ。あの忌々しい血の袋のように、また小細工を弄されるかもしれない。
徹底的に、心を折ってやる。二度と逆らえないように、再起不能なくらいに、絶望の淵に叩き落としてやる。
そのための、最高の手段を、レオは知っていた。
「そうだ……魔術だ」
口の端が、三日月のように吊り上がる。
魔力ゼロのルックには、決して使えない力。選ばれた者だけが扱える、奇跡の御業。
それを使って、あの出来損ないを嬲り殺しにしてやろう。
「ハッ、万が一、殺しちゃうかもな。ふふっ、まあいいか。出来損ないが一人消えるだけだ。父上も、むしろお喜びになるんじゃないか?」
具体的な計画が、レオの頭の中に次々と浮かび上がってくる。
凍傷寸前まで体を凍らせる氷の魔術。皮膚をじりじりと焼く炎の魔術。
悲鳴を上げ、命乞いをし、床を舐めて許しを請う、あの惨めな姿を想像するだけで、体の奥からゾクゾクとした快感が湧き上がってきた。
「くくっ……くくく……あはははははははっ!」
壊れた玩具のように、レオの甲高い笑い声が、破壊された部屋に響き渡る。
それは、純粋な憎悪と歪んだ愉悦に満ちた、地獄の産声だった。
「待ってろよ、ルック……。お前に、本当の地獄を見せてやるっ!」