その日の錬金術の授業では、「回復薬の初級調合」がテーマだった。
薬草と魔力触媒を混ぜるだけの簡単な内容――のはずだったのだが。
「アレム、瓶が泡立ってるぞ!? おい、それ、やば――」
「え?」
ガイルの声を聞いた瞬間、アレムの調合瓶が軽く爆ぜた。白い煙と共に、異臭と目眩が襲いかかり、視界がぐらついた。
「あ、れ……?」
気づいた時には、すでに教室の床に倒れていた。
「……ん……」
うっすらと目を開けると、そこは保健室だった。白いカーテン、薬棚、そして――
「目が覚めたわね。よかった」
低く柔らかな声。視線を上げると、そこに立っていたのは黒髪の美しい女性教師だった。長い髪をゆるく結い、細身の眼鏡をかけた、どこかミステリアスな雰囲気。
「あなた、アレムくんね。噂は聞いてるわ。入学試験の時の魔力反応、面白かったって」
彼女は微笑んだ。優しげではあるが、その目はどこか本音を見透かすような鋭さを持っていた。
「私はノワール。学院の治癒術講師兼、保健医も担当してるの。今日は特別に私が診てあげる」
アレムは体を起こそうとして、また頭がぐらりとした。
「だめ。魔力の過剰消費で、体内の魔素が乱れてる。普通の治癒じゃ間に合わないわ」
ノワールは少し表情を引き締め、ベッドの脇に腰を下ろす。
「だから、“特別な治療”をするわ。……でも、これは他の誰にも言わないで」
「……特別?」
「ええ。“私にしかできない方法”。でも少しだけ……驚かないでね」
彼女はそう言うと、アレムの制服の襟元にそっと指を伸ばした。
「っ……!?」
柔らかい指が喉元をなぞる。そして――首筋に、わずかに冷たい感触。
一瞬の静寂のあと、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
ノワールの唇が、アレムの首に触れている。いや――牙が、皮膚を軽く破って血を吸っていた。
ドクン、ドクン、と心臓が跳ね上がる。痛みはあるが、なぜか耐えられないほどではない。不思議と、体の奥が熱くなっていくような感覚。
「ん……大丈夫よ。すぐ終わるから」
ノワールは優しく囁く。
その声が妙に心に染みて、アレムはただ目を閉じるしかなかった。
やがて、唇が離れた。
「ふふ、終わったわ。すごく良質な魔素だったわよ。おかげで、あなたの魔力回路も安定した」
「……いまの、なに?」
アレムは首を押さえながら、震える声で聞いた。
ノワールはすっと立ち上がり、いつもの微笑に戻っていた。
「ふふ。言ったでしょ? 秘密だって」
彼女は指を立てて、口元にあてた。
「大丈夫。これで今日の授業はお休みしていいわ。少し眠れば、完全に元に戻る」
アレムはまだ鼓動の早さを抑えられず、首筋に残る微かな痛みと、奇妙な温もりを感じていた。
「……ありがとう、ございます……?」
「どういたしまして、アレムくん」
その笑顔は、どこか妖しさと、優しさを併せ持っていた。
その日、アレムはもう一度深い眠りに落ちた。
そして夢の中で、どこかで見たことのある黒い翼と、燃えるような月を見た気がした。
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その日の午後。保健室から戻って間もなく、アレムは学院事務局の使いに呼び出された。
「……校長が、君に話があるそうだ」
「え?」
自分が呼ばれる理由にまるで心当たりがなかったが、拒む理由もなかった。言われるままに校長棟の最上階へと向かう。
天球儀と魔導書が浮かぶ静寂の書斎。そこにいたのは、あの初日に自分を迎えに来た老人――エルダス・ヴァンブルム校長だった。
「よく来てくれたね、アレムくん。話がある」
「……なんの、話ですか」
老校長は微笑を浮かべたが、その目の奥に宿る光はどこか鋭く、重かった。
「君の力について、だよ」
アレムは少しだけ身を固くした。
「君が、“魔王の血を引く子”であることは、私たち学院上層部の一部ではすでに確認済みだ。そしてその血が、ただの象徴ではないことも分かっている」
「どういう意味ですか」
エルダスは立ち上がり、魔導書のページを一つ開いた。そこには、奇妙な紋章が描かれていた。
「魔王の血が持つ力。それは、世界の法則への否定という現象だ」
「……否定ですか?」
「そう。君の血には、あらゆる術式、結界、呪文、理論――魔法という魔法を拒絶し、打ち消す性質がある。単に耐性があるのではなく、壊すのだ」
アレムは言葉を失った。
あのとき――墓の前で魔王と目が合ったとき、全身を貫いたような感覚。
魔力というより、法則そのものが揺らいだようなあの震え。
それが、この力……?
「そういうことだ」
リシアが隣で呟いた。
「ただし、その力は非常に不安定で、暴走すれば世界そのものに裂け目をもたらす可能性がある。だが、君がそれをコントロールできるようになれば――」
エルダスは書斎の奥、古い肖像画の前で振り返った。
「君は、魔王を正気に戻せるかもしれない」
アレムの瞳が揺れる。
「……できるんですか。本当に、そんなこと……」
「難しいだろう。だが可能性はある。君の力は、魔王の内部にある破壊衝動――血に刻まれた呪いを打ち消せるかもしれない」
静かに、しかし確信を込めてエルダスは続けた。
「そしてそれは、私にとっても……私自身の責任なのだ」
「責任?」
エルダスは椅子に戻り、静かに目を閉じた。
「魔王――レオン・クラウゼルは、かつて私の教え子だった。
騒がしく、暴れん坊で、どうしようもない奴だったが……芯には、誰よりも強い優しさを持っていた」
懐かしむような笑みが、わずかに浮かぶ。
「剣の腕ばかり誇って、魔法の授業なんか全然聞かなかったよ。だが誰かが困っていれば真っ先に走っていった。教師として、手のかかる最高の生徒だった」
アレムはその言葉に、不思議なものを感じた。
「そんな彼が、“魔王”になってしまった。その責任を、私はずっと感じている。彼を救えるとしたら……それは、彼が最後に残した“希望”、つまり――君なのだよ」
書斎には、しばしの静寂が訪れた。
アレムは言葉を探していたが、うまく出てこなかった。
「……僕に、本当に……そんなことが、できるんでしょうか」
「それは君次第だ。だがここでなら、君はその力を安全に鍛え、修めることができる。必要であれば、特別課程への編入も手配しよう」
老校長の声には、教師としてのまなざしがあった。魔王を育てた教師――その面影は、やがて魔王の子を導く者へと変わろうとしていた。
アレムはゆっくりとうなずいた。
「……分かりました。やってみます」
「よく言った。君の選択を、誰よりも彼が喜ぶだろう」
エルダスは手を差し出した。アレムがその手を握ると、ほんのわずかに、何かが暖かく灯ったような気がした。
それは、血の定めではなく、意思によって選ばれた最初の一歩だった。