オシリスのユメ   作:新人先生

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コンセプト上、ダークな描写や生々しい描写を含みます。苦手な方はご注意を。


第一章 数千年後のアビドス
第1話 忘れられた神々のユメ


「――そなたもまた、“楽園”を求めるのか?」

 

 少女の声は、穏やかで、冷ややかでもあった。

 まるで、誰もが同じ愚行を繰り返すことを見透かしているかのように。

 

 先生はほんの僅かに目を伏せた。

 けれど、その口調は揺れない。

 

「私が望んでいるのは――あの子たちが、何も奪われずに笑って暮らせる場所。名前が必要なら、きっと“楽園”と呼ぶこともあるのかもしれない」

「楽園とは完成された終着点だ。それを地上に“造る”と言うのか? たかが一人の人間の分際で? キヴォトスという、蛇たちの蠢く巣窟で? そしてそれを証明できると?」

「……たとえ遠く、指先すら届かなくても、大事なのは信じること。私たちは、証明できないものについて信じることしかできない。でも――それで十分」

「ふむ……。楽園(アアル)もまた、遠き地と思うか?」

 

 少女は、ゆるやかに問いを返す。

 その言葉に籠められた意味を、先生は理解していた。

 

「アアル――君の言葉で言うところの“楽園”。そこに辿り着ける者は、限られているんだろう?」

「当然だ。重き心臓を持つ者に、アアルは許されぬ。均衡(マアト)とはそういうものだ。」

 

 先生は静かに首を横に振った。

 

「なら、私は君とは違う道を選ぶよ――私は、信じる側に立つ」

「資格も持たずにか?」

 

 少し間を置いて、声が続く。

 

「あるのは、責任」

 

 

 

 ――子供たちを信じてあげるのは、大人の役目だからね。

 

 

 

 

 

 

 その昔、世界はまだ、神々の記憶で満たされていた。

 

 夜と昼が混ざり合い、砂漠は海と地の区別を忘れていた。

 大地は沈黙を守り、空は未だ名前を持たなかった時代。

 世界に秩序と慈悲を与えたのは、一柱の王であった。

 その名は、オシリス。

 

 彼は、葦の舟に乗って河を渡り、穀物の刈り方を教え、死者の魂を冥府へ導いた。

 彼が座すことで、大地は呼吸し、水は巡り、正しきものが正しく死ねるようになった。

 そして人は初めて、死を恐れずに生きることを知ったという。

 

 しかし、秩序には必ず破壊が寄り添う。

 光の王には影の弟がいた。名を、セト。

 

 狂気と欲望と孤独を抱きながら、彼は王を裂いた。

 十四の肉片に切り分け、大地のあちこちへ投げ捨てた。

 それは、世界に走る最初の“死体”の物語。

 

 だが愛は死を拒んだ。

 王の妻にして妹、イシスは泣きながら世界を歩いた。

 人の耳には届かぬ歌をうたい、風と砂に命じ、やがて十四の断片を集め終える。

 

 ──ただし、ひとつだけ、戻らなかった。

 

 王の象徴にして、創世の鍵――“それ”だけは、二度と戻ることがなかった。

 

 それは砂に沈み、獣に喰われ、時間に呑まれ、

 やがて名もなき呪物へと変じた。

 

 名を呼ばれず、神にも忘れられ、

 それは地下にて長き眠りについた。

 

 けれど、死とは終わりではない。

 それはいつの世にも、別の名を与えられ続けた。

 

 それを目にした者は狂い、

 耳を寄せた者は、夜ごと“声”を聞いたという。

 

 ──あるいは、それは呼んでいたのかもしれない。

 

 器を。

 ふさわしい、“器”を。

 

 それを知る者はまだいなかった。

 だが、世界の底を流れる砂の声だけは、とうに知っていた。

 

 やがてそれは、ひとりの少女の手に渡る。

 

 乾きと死のはざまで、選ばれし“神秘”の器。

 

 その名を――

 

 

 

 

 砂ばかりの風景に、もう私は飽きていた。

 

 いや、正確に言えば、飽きるというほどの意識も残っていなかった。

 飢えも、渇きも、苦しみさえも、とうにどこかへ流れ去っていた。

 ただ、歩いていた。歩いていたのだと思う。

 

 人はこんなに静かに死ぬものなのか。

 それとも、私はまだ、死に切れていないだけなのか。

 

 ふと、風が止まる。

 いや、“風のようなもの”が私の耳元に触れた。

 

「……ようやく出会えたのだな――器よ」

 

 誰?

 

 声を上げる気力もなく、私は虚ろにまぶたを開けた。

 けれど、そこに誰もいなかった。

 ただ、風紋が描いた模様だけが、奇妙に意味のある線のように見えた。

 風は囁き、砂はさざめく。

 けれど、そのどちらにも、確かな言葉はなかった。

 

「――還るべき場所に、お前はいる。お前の“神秘”は、我そのもの。我は汝、汝は我」

 

 幻聴? 夢?

 

 けれど私は、その声に懐かしさを感じてしまった。

 知らないはずなのに、覚えている気がした。

 ずっと、昔から呼ばれていたような。

 ……あるいは、初めて自分の“役割”を告げられたような。

 

 その瞬間、視界が歪んだ。

 

 地面が裂けたように思った。

 いや、もしかすると私の身体が裂けたのかもしれない。

 わからない。

 でも、何かが“底”から這い出してくる気配があった。

 

 それはイチジクだった。

 

 私は、それに手を伸ばす。

 躊躇いはなかった。果汁が欲しい、少しでもいいから水分が欲しい。

 気づけば、口に運んでいた。

 

 噛まなかった。

 飲み込んだわけでもない。

 ただ、口に入れた瞬間、それは私の中に溶けた。

 

 体内で何かが蠢いた。

 風が、血管を逆流する感覚。

 失われていたはずの音が、脳髄に焼き付けられる。

 言葉のない詩が、神経を裂いて染み込んでいく。

 

 そして、私は確かに感じた。

 何かが、私の中に“住み始めた”のだと。

 

「ようやく見つけた器よ。お前の身体は、今や我が(ケフ)……さあ、目覚めよ。世界を、もう一度“整える”ために。」

 

 気がつけば、私は立ち上がっていた。

 

 背筋が伸びていた。

 視界が冴え渡っていた。

 口元には、意味のない微笑が貼り付いていた。

 

 名もなき呪物は、王の象徴は、私の中で息を吹き返した。

 

 代償に“私”の最後の意識を手放し、仰向けに倒れる。

 

 その日、忘れられた神々の一人は砂漠に死んだ。

 そして、別の神が生まれなおした。

 

 

 

 

 

 

 光があった。

 それはまるで、石棺の中で忘れていた世界の記憶を叩き起こすようだった。

 

 砂のざらつき。

 熱のこもった風の流れ。

 皮膚の上を這う太陽の眼差し――

 

 ああ、これは「生」だ。

 

 あまりに久しく遠ざかっていた感覚。

 冥界(ドゥアト)にも光が無いわけではないが、現世の光はまた異質だ。

 

 だが今。

 わたしは再び、この世界に降り立った。

 時間を、空間を、肉体を持って。

 

「……戻った、のか。かつての、あの地(アビドス)に」

 

 声を発してみる。

 砂に吸われるように掠れたが、それもまた懐かしい。

 自らの声が耳朶を打つという、たったそれだけの事実が、奇跡のようだった。

 

 身を起こした。

 肘を砂に突き立て、腹筋に力を入れる。柔らかく、未成熟な筋肉が、まだ馴染まぬ命令に従ってぎこちなく応じた。

 

「……清い。」

 

 見る。

 手のひらは白く、細く、掌紋も未だ浅い。骨は薄く、指先の血流は細く整い、まだ時の重みに削られていない。

 この身体は――おそろしく、若い。

 

 呼吸を確かめ、瞼の裏で光を感じ、鼓動の拍動に耳を澄ます。

 機構は稼働している。細胞の端々まで、すでにわたしの意識が浸透しはじめていた。

 

「これが、この時代における“娘”の肉体か……」

 

 不思議な懐かしさがあった。

 古代にも、巫女はいた。神殿に仕え、祈りを捧げ、神秘を繋ぐもの。

 この身体もまた、その系譜に連なるのだろう。

 

 ──いや、これは偶然ではない。

 “わたしが導いた”のだ、この器を。

 

 ここは砂漠。記憶の裂け目。かつて“わたし”が失われた場所に最も近い地。

 

 わたしの“本質”が、この地に失われてから久しい。

 行商人、盗賊、鉱石の採掘人――長い歴史の中、これまでにもわたしの近くを通りかかる存在がいなかったわけではない。しかしそれら皆、わたしを手にするものとしては不適格だった。

 

 語りかけただけで耐え切れなくなってしまう程度の器しかいなかったのだ。

 

 そうして数千年の時が過ぎ――わたしは、ついにこの地に“わたしと同質の神秘”を持つ存在が近づいてきているのを感じ取った。

 わたしは歓喜した。だから呼び寄せた。このような貴重な機会を逃す手はない。

 

 そして案の定この肉体――この少女は、「わたし(オシリス)の神秘」に最も適合していた。いや、すでにそれを帯びていた。

 

 名を、ユメというらしい。

 

「夢か……奇妙な名だ。だが、悪くない」

 

 呼んだのだ。

 ずっと、呼び続けていた。

 廃れた地アビドスに、ただ一人残された、わたしの器。

 

 掌に一掴み、砂をすくう。

 さらさらと流れ落ちる粒子は、まるで千の時代を走馬灯のように映し出していた。

 

 この大地は、かつて祝福されていた。

 

 アビドス。

 信仰の泉。神秘の門。

 神と人が、恐怖と希望を交わしあい、マアト――“秩序と真理”を支えるために集った都市。

 

 わたしは、そこに“いた”。

 

 だが今や、廃墟。

 忘却。

 喪失。

 

 マアトは崩れた。

 世界を構成していた天秤は砕け、魂の計量は嘲笑に変わった。

 今、この世を満たしているのは「自由」の名を借りた傲慢、「個性」と呼ばれる混沌。

 真理は消え、崇高さは嗤われ、現世には暴力と謀略が蔓延る。

 

 もちろんわたしは冥界の王だ。現世のことは管轄外。だから直接現世のことを見聞したわけではない。

 

 しかし、わたしは冥界(ドゥアト)で数えきれないほどの“否定の告白”を聞き、息子(アヌビス)と共に死者の審判を担当し続けてきたのだ。だから、冥界にいてなお、現世の変化についてもいくらかのことをうかがい知ることはできた。

 

 重くなった心臓の持ち主は日に日に増え続けていた。特に“キヴォトス”とやらの地の惨状は聞くに堪えない。なんでも、そこに住む者たちにとっては、兵器を持つことも、使うことも当たり前なのだという。狂信や私利私欲のために暗躍する者たちもいた。

 

 そしてアビドスという、神と人を結ぶ、わたしにとって大切なこの聖地すらも、時代の流れに飲み込まれ、忌まわしき“キヴォトス”の一部として組み込まれてしまったらしい。

 

 わたしはそのような現世を嘆き、心を痛めずにはいられなかった。

 

 ……ならば、取り戻そう。マアトを。真なる均衡を。

 

 わたしは、そのために顕現したのだ。

 

 わたしは神である。

 だが、万能ではない。

 神もまた“構造”である以上、それを支える器を要する。

 

 秩序が顕現されるには、王が必要だ。

 そして王の上に君臨する正統の相、ホルス。

 

 ――ホルスは、死せるわたしの仇敵を討ち、玉座に座した唯一の「正当なる後継者」。

 その神秘を受け継ぐ者が、今もこの時代に生きている。

 

 わたしはそのことを直感していた――いや、直感というにはあまりにも明晰な像。

 あれが、“器”だ。

 

 ホルスよ。そなたが揺らいでは、マアトは戻らぬ。

 

 ならば、導かねばならぬ。

 世界を再び正義に染め、真なる裁きをもたらすために。

 その先に、“崇高”の到来がある。

 

 その時、世界は再び神を仰ぎ見るだろう。

 

 

 

 

 

 

「――ツイ……あッッッつい……! 暑くて干からびそうだ……ナトロン無しでミイラになってしまう……」

 

 受肉してから数刻、わたしは未だに砂漠をさまよい続けていた。わたしが知るアビドスより砂漠化が進行しているようで、一面砂ばかりで何も目印はない上に、日差しが昔より熱い。

 

 その上、この体、アビドス出身の癖に色白がすぎる。肌が痛くてたまらん。砂漠に生きる人間の体ではない、断じて。小粋なエジプトジョークでも挟んで気を紛らわせようとしてみたが、事態は一切変わらず。

 

 しかも問題はそれだけにとどまらない。

 

「なぜ、こんなにも死にかけているのだ、この体は」

 

 受肉直後から器に対する違和感は感じていた。「なんか体重くね?」、と。

 受肉直後で精神と体がまだ馴染んでいないのだろうとか、ボディがグラマラスだからかもしれないな(喜)、などと思っていたのだが、だんだんとこの体に慣れてきてようやく確信に至った。元の体が死にかけていただけだった。体の中にほとんど水分が残っていない。

 

 脱水症状を自覚したとき、わたしは手に持っている厳つい見た目をした鞄の存在を思い出した。目覚めたとき近くに転がっていたものだ。おそらくは器が所有していたものだろう。

 何か水分でも入っていないかと思い、いろいろと四苦八苦して開けたところ、鞄は大きな板のような形に変形した。

 中には何も入っていなかった。何に使うかはよくわからないが、どうやら物を収納するためのものではなかったようだ。

 ただの荷物でしかないので、その場で捨てた。体力を温存するために、少しでも身を軽くしておいた方がいいと判断した。

 

 そういうわけで、結局目覚めてから一滴も水分を口にできていない。このままでは生き延びるのも難しいだろう。

 

 

 

 ……………………。

 

 

 

 ……全くもって不本意だが。このままだと自分の尿を飲んで乗り切る羽目にすらなりかねない。真剣に。

 いや、女の体だと自分のを飲むなど構造的に難しいのだろうか? 体が柔らかければギリギリいける?

 

「……」

 

 わたしは立ち止まる。そして目線を下げた。

 

「――最終手段だとも。万が一のため……あくまで最終手段として、今のうちに確認……」

 

 死ぬよりかはマシだろう、と誰に聞かれているわけでもないのに言い訳をして、股間に手を伸ばす。今考えると、暑さと脱水で少々おかしくなっていたのだと思う。下着を降ろそうとして、その時だった。

 

「……んあ?」

 

 股間に、違和感がある。

 

 ここで少し股間トークをさせてもらいたい。わたしは、弟に体をバラバラに引き裂かれ、エジプト中にその死体をバラまかれたという過去がある。そのときは(イシス)が砂漠中を奔走し、散らばったパーツを集めてわたしを復活させてくれた。しかしたった一つだけ取り戻せなかった部位がある。

 

 チ○コである。

 

 チ○コだけは、砂漠に埋もれて戻ってこなかった。どうしようもなかったので、あのときは粘土でチ○コの型を作って乗り切った。

 あれからわたしは、ずーっと本来の自分の息子(ホルスとかアヌビスのことでなく)とおさらばしたままだった。

 

 だが。

 

 長らく失っていたはずのそれが、今。

 

「な、なんだこれは……!?」

 

 下着を急いで剥ぎ取る。そして股間を直接触る。そしたらなんと。

 

 わたしの股間に、男の象徴が生えていた。

 

「はあああ!!!?」

 

 ちょっと待て――この器の性別は“女”だったはずでは!? いや、取り戻せて嬉しいが。なんなら感動しているが。

 ともあれ息子よ、久方ぶりの再開だ。父に顔をよく見せ――くそ、胸が大きすぎて下半身が見にくくてたまらん。

 

 

 

 

 

 

「――あれか? 摂取した部位が部位だから……」

 

 衝撃の再開から数分後、わたしは、ようやく自分の肉体の秘密に思い至った。

 神の力の核――わたしの根源。わたしの“象徴”。すなわち、切り離されてなお地上に残された、オシリスの“失われし部位”。

 

 変質して見た目が変わっていたとはいえ――わたしの神性、わたしの血統に最も近い存在を……己の象徴たるその部位を、この器に取り込ませた。

 たぶんそれが原因だろう。

 

 いくら神秘の適合度が高くとも、この器はわたしそのものではない。この器が崇高に到達していたのなら別だったかもしれないが、現状で神の核ともいえる存在を無理に媒介として用いたならば、“かたち”がいささか歪むのも、無理はない。

 

 むしろ、歪みがこの程度で済んだのは僥倖と言えるのかもしれない。

 うむ、まあそういうことだと思っておこう。

 

 しかしどうしたものか。まあ誰かに見られるような機会などそうないとは思うし、別に生えてても困ることはそこまで無いのだが――

 

「止まれ」

 

 鋭い声が、背後から降ってきた。

 振り返る。そこに立っていたのは――人に似て、しかし明らかに人ならざるもの。

 不思議な模様の施された硬質な装甲が、砂と陽光の中で鈍く光を弾く。

 肩や膝、関節ごとに蛍光グリーンのラインが走り、仮面のような頭部の中央に、同じ色の三角が静かに輝いていた。

 

 見た目こそ見慣れないが、雰囲気でわかる。これは“兵”だ。

 

「巡回ドローンのセンサーに反応があったかと思えば――こんな砂漠のど真ん中で、何をしている?」

 

 声はさらに奇妙だった。

 低く、響き、まるで二重の舌が交互に鳴らしているようだ。

 それでも意思は感じられる。問うている。こちらに、用があるのだろう。

 

 わたしは威厳を整えつつ穏やかに答えた。

 

「ふむ。ちょうど困っていた。助けてくれるのか?」

 

 その奇怪な兵は、手に持っている筒をこちらに向けた。

 

「お前が何者なのかによる。所属と名前を言え」

「あいにくだが、名前はともかく所属は把握しきれていなくてな」

「はあ? ……チッ、まあいい。照合すればすぐにわかる」

 

 言いかけたところで、兵の眼に相当する部分がぴくりと瞬いた。

 しばし沈黙。何かを照合しているらしい。やがて、やや人間じみた口調になった。

 

「……もしやお前――梔子ユメか?  アビドスの生徒会長の」

「ユメ――そう呼ばれていたのは確かだな」

 

 そう答えると、兵は筒を下に向けた。

 

「なんだその勿体ぶった言い回しは……。しかし、まさか生徒会長本人が一人で出向いてきたとはな。いや、話の辻褄は合うか。なるほど。まあ、そのあたりの話はあとだ」

 

 そして――ふと、その兵がこちらの右手を見下ろした瞬間だった。

 

「……お、おい。何だ、手に持ってるそれ……え? まさかお前スカートの下……。え、穿いてるよな!? なあ!?」

「ん?」

 

 自分の右手に目をやる。そこには先ほど脱いだ下着が握られていた。思い出した。不意の再会に喜ぶあまり、まだ穿き直していなかったのだった。

 

「ちょうど今、整えようとしていたところだ。すまぬな」

「いやいやいやいや! あっち向いておくからパンツを早く穿け! この変態!!!」

 

 わたしは素直に頷き、衣を整えた。

 奇妙だが、なかなか礼儀正しい兵だ。

 

「うむ、整った」

「ったく……」

 

 兵は再びこちらを見たあと、気を取り直すように息を吐いた。

 

「よし。状況は分からんが、ここで突っ立ってても仕方ない。案内してやる。お前がアビドスの会長ってことは、おおかた例の件でウチに交渉しに来たんだろ? まあ話は上の奴らが詳しく聞くだろう。ついて来い」

「恩に着る、実のところ砂漠から抜け出せなくて死にかけていてな」

「ええ……砂漠を渡るなら準備くらいしておけよ……。水、いるか?」

「ぜひ頼む、危ないところだった」

 

 わたしはゆっくりと歩き出す兵の背についていく。

 風が、再び砂を巻き上げ始めた。

 

 

 

 

 

 理事室の空調は常に一定だ。

 外がどれだけ乾き、灼けついていようが、ここだけは冷静で、清潔で、完璧であるように設計されている。

 

 そんな理事のもとへ、部下が無線を通じて報告してきたのは、つい数分前のことだった。

 

《確認されました。アビドスの梔子ユメ本人です。現在、兵士が同行中です》

 

「……直談判ってわけか」

 

 独りごちた声には笑いが混じっていた。

 なるほど、ようやく焦って出てきたか。やっと来たか。ようやく観念して頭を下げに来たか。

 

 こっちはずっと構えて待っていた。

 時間をかけて“地ならし”してきたのだ――学校側の弁済計画を詰まらせるように仕向け、あとは、首根っこを押さえる機会を待つだけだった。

 

 これまで何度も梔子ユメとは面談を重ねてきた。

 見た目はおっとりして愛嬌もあるが、中身はお世辞にも切れ者とは言い難い。

 災害復興のためとはいえ、安易に借金を重ね、土地を少しずつカイザーに売り渡してきたのは彼女自身だ。

 本人なりに善意でやっているつもりなのだろうが、金の仕組みも、大人の腹黒さも、まるで理解していない。

 だからこそ、ここまで計画通り進められたのだ。

 

(馬鹿な子供だ。まさに理想的な交渉相手)

 

 数字も経済も分からない癖に、「学園を守る」だの「仲間のため」だのと、物語の主人公気取りで動く生徒代表。

 口車に乗せれば、どうにでもなる。

 

 そう――署名一つ取れれば、アビドスの土地も、法的権限も、まるごといただける。

 

 手早く端末に連絡を入れる。

 

「会長様を、こちらまで通してやれ。人払いは済ませてある」

 

《了解しました》

 

 理事は背もたれに深く身を沈めた。

 仕立てのいいスーツの襟元を軽く正す。

 

 やがて、ドアが音もなく開く。

 導かれて入ってきたのは、やや疲れた様子の少女――普段の元気はどこへやら、といった有様だった。

 

(……目つきが変わったか?)

 

 入ってきたときの一瞬――彼女の眼がこちらを捉えた瞬間。奇妙に冷たい光を宿していたように思えた。

 まるで、“試すように”こちらを見ていた。

 

 あまり気に入らない類の目つきだが、わざわざそれを指摘することはしない。

 “大人”のビジネスマンというのは、そういうものだ。内心でどう思おうが、表には出さない。そして利用できるものは利用する――あくまで“ルール”の範囲内で。

 

(さて)

 

 理事はわざとらしく咳払いをする。

 

「遠路ご苦労だったね。なにぶん突然の訪問だったから、準備も何もできていなくて申し訳ない。部下がここに案内するまでに失礼を働かなかったかな?」

「いや、まったく。水も分けてくれたし、紳士的な振る舞いだった。感謝する」

 

 その言葉に、理事の眉が僅かに動く。

 

(なんだ? 以前と口調が違う……?)

 

 何かおかしい。理事は、まるで目の前の人物が梔子ユメとは別人であるかのような感覚を一瞬だけ覚えた。

 しかし――そんなことはありえない。目の前の人物が梔子ユメ本人であることは生体認証で既に確認済みだ。

 

 大方、自信を持った態度を装うことで交渉を有利に進めようとしているのだろう。子どもの浅知恵だ。

 理事は軽く肩をすくめる。

 

「ふふっ。ずいぶんと堂々とした口ぶりじゃないか。少しイメージが変わったかな?」

 

 理事は笑顔を崩さず、静かに椅子へ座るように促した。

 

「まあ、まずは座ってくれ。立ち話というのも落ち着かないだろう?」

 

 少女――梔子ユメは、一瞬室内をきょろきょろと見渡してから、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 

 理事はゆったりと微笑み、自身も椅子の背に深く身体を預けた。

 

「……さて、ユメ会長。こうして君が出向いてきてくれたというのは、やはりそれだけの事情があるわけだろう?」

 

 少女は少しだけ首を傾げた。

 

「事情、か。……ふむ、まあ、そうかもしれない」

 

(……?)

 

 また少し違和感。返答が曖昧すぎる。

 以前の彼女なら、もう少し言い訳がましくでも状況を説明しようとしたものだが――

 

 理事は気を取り直し、次の布石を打つ。

 

「いや、こちらから率直に言おう。君の学校――アビドス高等学校は、いま非常に厳しい立場にある。借入残高は膨れあがり、返済の現金もいつまで持つか分からない。――ここまでの話は、もちろん君も理解しているね?」

「……」

 

 理事は契約書の束をゆっくりと机の上に置いた。

 指先で端を整え、表紙を軽く叩く。

 

「……さて、ユメ会長。君もわかっているはずだ。アビドスの借入残高は、とうに限界に達している」

 

 柔らかく、諭すように。

 まるで優しい大人が、子供に現実を教えてやっているかのように。

 

「現金での利子払いを続けて、ここまでよく粘ってきた。確かに、それは君の努力の賜物だと認めよう。だが――限界は見えている。そうだろう?」

 

 少女――梔子ユメは、じっと理事を見ていた。

 微動だにせず、わずかに首を傾げただけ。

 

(相変わらず、反応が薄いな……)

 

 理事は少しだけ内心で警戒を覚えつつ、構わず話を進める。

 

「すでに君たちは、自治区の大部分を当社に売却してきた。残っているのは――学園本体とその周辺区画だけだ。これを譲渡すれば、すべてが整理される。もちろん――学園そのものは、物理的には解体されることになる。生徒たちも転校という形にはなるだろう」

 

 ほとんど言っているようなものだが、「閉校」とは言わない。そういうレトリックは、大人の嗜みの一つでもある。

 

「だが、ユメ会長。これが現実的な“着地点”だろう。無理に延命して苦しむよりも、早く次の道を選ぶ方が、みんなのためにもなる。生徒たちだって、次の学校で新たな生活を始められる。君も肩の荷が下りる。借金に苦しむ必要はもうなくなる。――この提案は、君のためでもあるんだ」

 

 少女は、理事の長広舌を一言も挟まずに聞いていた。

 じっと、静かに。理事は、口角を引き上げたまま、内心で苛立ちを覚えていた。

 

(なんだこの間は……)

 

 いつもなら「皆を守りたい」とか「学園は私の全て」とか、そういう泣き言の一つも飛び出してくるはず。

 だが、彼女は何も言わない。動かず、迷わず、視線すら逸らさず、ただ“見て”いる。こちらを。何かを測っているように。

 

 理事は咳払いをし、あえて少しだけ声の調子を変えた。

 

「――勘違いしていないか? これは『交渉』じゃない。私は好意で、君たちに“出口”を提示しているだけだ。……それが気に入らないのなら、いいさ。だがね、君がそれを拒み続ければ、どこかで限界がくる。いや、もう来ているだろう」

 

 声が、わずかに鋭くなる。

 

「金を払えなければ――あとは法的に処理されるだけだ。君がどれだけ足掻こうと、情状酌量の余地はない」

 

 少女は、そこで初めて口を開いた。

 

「……なるほど。理解した」

「ようやくわかってもらえ――」

「つまり、お前が“奪った”、と」

 

 その声音は、まったく抑揚がない。怒りも悲しみも、軽蔑すらも含まれていないのに、理事の耳には――不気味に響いた。

 

「何?」

「“わたし”の土地を。“わたし”の学び舎を。“わたし”の民を。“売らせた”のは、お前――ということだな?」

 

 こちらの奥に何かを見透かすような、底のない、遠くて深い目。その眼に、理事は無意識に背を正した。背筋に緊張が走る。 

 

「……馬鹿な。何を言っている、ユメ会長。私は、選択肢を提示してきたまでだ。選択したのは、他ならぬ君自身だ」

「否。知識を持たぬ子どもに、欺く意図をもって選択肢を与えたとき――それは“選ばせた”のではない。“奪った”と言う」

 

 理事は、勢いよく立ち上がる。椅子が跳ね飛ばされて後ろに転がった。

 

「何を――何様のつもりだ、梔子ユメ……!」

 

 瞬間、室内の温度が変わった。

 空調の完璧なはずの理事室に、ありえない“湿り気”が忍び込んでくる。目には見えないのに、空気が重い。少女の椅子の背後に、仄かに漂う“何か”がある。

 青く、緑にも似た光。漂う砂塵のような輝きが、空間の輪郭を歪め始める。

 

 理事は、足が震えるのを自覚した。

 “何様”?――否、問うべきはそうではない。

 

「貴様……ユメ……お前、“何者”だ……!」

 

 少女は、微笑んだ。

 

「我は――審判の神、冥府の王。……お前の“罪”を称えに来た者」

 

 机の上の契約書が、風もないのにバラリと捲れる。

 

 ――紙ではない、文字が。言葉が。すべて、滲んで消える。

 

「そ、そんな馬鹿な……っ、これは……脅しか……っ!? カイザーを相手にその真似が通じると……っ!」

 

 もはや何も返らなかった。

 少女の瞳が、深く深く沈み込む。人の論理も、権力も、金も、影響しない絶対の視線。

 空調は常に一定のはずだった。だが、その瞬間、室内の湿度が急激に上がる。

 壁の金属が白く曇り、革張りの椅子の表面がぬるりと湿る。

 

「……そもそも、裁きとは本来、わたし一柱で為すものではない」

 

 少女は静かに告げた。

 

「四十二の陪審員も、息子も、今ここにはおらぬ。それでも“秩序”は滞らせぬ。――略式ながら、公平を誓おう。わたしの勘違いだったらそれでいい。何も起こらないことを保証する」

 

 掌を軽く握る。

 オートマタである理事の胸には存在しないはず部位が、灼けるような輪郭を帯びた。

 

「っ……ぐ、あ……!」

 

 外骨格がきしむ。内部センサーがあり得ぬ生体反応を拾い、赤ランプを点滅させる。

 理事は、それが自身の“心臓”だと直感した――いや、正確には“させられた”。

 

「っ……ば、馬鹿なっ……! 私にそんなものは――心臓など、ないはず……!」

「まず――“否定の告白”を許す。言え。『私は、何ひとつ悪しきことをしていない』……そう宣言する権利は、万人に等しく与えられる」

 

 理事は歯噛みした。

 だが、胸の奥で脈打つ“何か”が、それを言わねば破裂すると告げている。

 

「わ、私は……っ、何も、違法なことは……!」

 

 声が震える。苦鳴が漏れる。

 告白は終わり、オシリスの指がそっと閉じられた。

 

 ぶちっ。

 

 無音の衝撃。理事の胸腔から、赤黒い結晶のような“心臓”が引き抜かれ、空中に掲げられる。

 存在しないはずの臓器。だが、それが自分の核だと理事には分かってしまう。

 

「次に――計量だ。本来は息子の管轄、だが借り受ける」

 

 オシリスは短く詫び、金の天秤と真理の羽を呼び出す。

 左皿に心臓、右皿に羽。理事の罪歴が映り、皿はゆっくりと沈む。

 

 そのときだった。

 背後の靄が形を取り、濡れた鱗と獣の顎、河馬の胴と鳳凰の爪を併せ持つ怪物――アメミットが現れる。

 理事室に似つかわしくない水気は、この獣の気配だったのだ。

 

「――!!!」

「判決は出た。――重い」

 

 オシリスは心臓を放り投げる。

 アメミットの顎がぱくりと開き、赤黒い結晶を嚙み砕いた。

 湿った咀嚼音が、理事室に染み渡る。

 

「ッグ、あ、あああ――っ!!」

 

 湿った咀嚼音――肉も金属もないはずの質量が噛み砕かれ、啜られ、滴っていく音が、冷えた理事室の隅々にまで染み渡る。

 理事は一瞬でブラックアウトし、脚部のサーボが制御を失って床に崩れ落ちた。

 

 オシリスは静かにアメミットを霧のように返した。湿り気はふっと薄れ、冷房の風が均一に戻る。

 

 彼女は、それを見下ろした。理事の躯体は、転倒したまま沈黙を保っている。動きはない。返事もない。

 

「“これ”すら氷山の一角か。……ならば、その下に潜む全容は――人の手には負えまい。ならばこそ……神が、秩序を正さねばなるまいな。再び」

 

 椅子を押しのけて立ち上がり、整った制服の裾を軽く払う。

 天秤の幻影が淡く消えゆく中、オシリスは静かに独りごちた。

 

「罪を秤に掛け、秩序を取り戻す。ホルスの器を探し、アビドスを甦らせる」

 

 ひと呼吸。

 神を名乗るには小さすぎる体いっぱいに空気を吸い込み、決意を新たにする。

 

「……して、そのためには、まず外へ出ねばな」

 

 そのとき、オシリスはようやく気づいた。

 理事室の扉はロックされ、窓は換気用スリットのみ。

 案内してきた機械兵は既に帰され、ここには動かなくなった理事と自分以外は誰もいない。

 

(……どうやって出るのか、聞きそびれた)

 

 オシリスは小さく溜息をつき、「む、困ったな」と女子高生らしく首を傾げた。




一万字も書いてホシノを全く登場させられない大誤算。誰か続き書いてくれないかな。
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