オシリスのユメ 作:新人先生
①オシリスの言語能力について
オシリスが英語を苦手としている様子であったり文字を読めない様子だったりが描写されているが、正確に言えば「読めないわけではなく、時間さえかけられれば英語含め世界中の文字は大体読める」。
現代英語のアルファベットは
エジプト象形文字(ヒエログリフ/神聖文字)→原シナイ文字・原カナン文字→フェニキア文字→ ギリシア文字 → ラテン文字 → 英語アルファベット
という過程をたどって形成されたが、オシリスはこのようなエジプト象形文字を起源を持つ文字なら読解できるという能力がある。ただし時代を下ってエジプト象形文字から離れた言語・文字になるほど読解に時間がかかるし、理解がおぼろげになる。そのため前話でもオシリス本人は「読めない」ではなく「こっちのは俗世の文字だからな、少し時間がかかるってだけ」という言い方をしている。オシリスにとって現代英語は相当に時代を下って世俗化が進んでいる言語のため、読解にはかなり苦労する。
ちなみに漢字文化圏などを除いて、今日の世界中で使われているほとんどの文字はエジプト象形文字に起源をもつため、理論上時間さえあれば大抵の言語は何となくわかる。楔形文字や漢字文化圏の文字はエジプトに起源をもたない例外だが、日本語については器(ユメ)の影響で時間さえかければ現状でも多少の読解は可能。
前話で7時間もポリスシミュレータをしていたのはハマったからというのも勿論あるが、単純に画面の文字の読解に時間がかかっていたというのもある。オシリスからすれば、現代の文字に慣れる訓練の意味も込めて本気で画面の文字を読解しつつゲームをプレイしていたので、カヤから受けた「勉強していない」かのような扱いは正直かなり不当なものだった。ちなみに身分証明書の内容を読み取るのに時間をとりすぎるので、ゲーム内では嫌がらせと判断されてしまい高スコアを取ることができていない。
そういや全然設定紹介してないわ、と思い突然長々と設定を垂れ流しましたが何はともあれついに10話に到達です。ぜーったい第一部アビドス編だけで累計10万字超えてまう。
「だ、だ、脱走って……。ホシノ先輩大けがしてるのに……どうしてですか!?」
「落ち着いてください、ノノミ先輩!! 先生、行き先はわかりますか?」
アヤネが冷静に確認を取る。先生は眉をしかめながら首を振った。
「いや、窓を破って飛び降りた後、あっという間にいなくなったらしい。病院の職員が追いかけたけど振り切られたって」
「うそぉ!? ホシノ先輩の病室って、だって、5階にあったはずじゃ……。そこから、あの状態で飛び降りたってこと!?」
「セリカ、ホシノ先輩なら手負いだろうとそのくらいわけない。今はホシノ先輩がどこにいるか突き止めることが優先」
「で、でもシロコちゃん! 今は市街地の爆破事件にも対応しないと……大将がどうなっているのか確認しに行かないと……!」
ノノミは必死に考えを巡らせているが答えが出ず焦燥感を滲ませている。
なぜ? 一体どこに? そして今は何をすべきなのか?
先生は頭をやや後ろにそらしたり、自分の手首をぎゅっと握ったりしながら思考を最大限に巡らせた。頭の奥で処理しきれなくなった思考が熱を持っているのを感じる。
どうするのが最善か。
「……どちらを優先するか、だね」
先生は独り言のような呟きを漏らした。周囲のメンバーも沈黙の中で耳を澄ませ、その様子を見守った。そして数秒後、決意を秘めた目で指示を出す。
「……まずは全員で市街地の爆破事件に対応する。ホシノの捜索はその後にしよう」
「で、でも先生! ホシノ先輩も心配では……」
「ノノミ。そもそもホシノがどこに行ったかわからない以上、ホシノの捜索にどれだけの時間がかかるかわからない。その間市街地への対処が遅延するリスクを考えれば爆破事件のほうが優先順位が高いと思う」
「二手に分かれて対応するというのはどうですか? 二人ほどホシノ先輩の捜索に割くというのも……」
アヤネがそう尋ねてくる。先生は顎に手を当てて思考をまとめる。
「ありえなくはないけど、市街地の対応にどれだけの戦力が必要かわからない状態で戦力を分散させるのは避けたい」
「でも、だからって放っておくなんてできないわよ! ホシノ先輩の状態だって……!」
「セリカ。ここは先生が正しいと思う」
セリカがなおも食い下がろうとしたところにシロコが割って入った。
「戦力を分散させるリスクは、市街地の件に対応しきれないかもしれないってことだけじゃない。病院から脱走するなんて、ホシノ先輩が正常な状態にいるとは思えない」
「だったらなおのこと早く――」
「もしホシノ先輩が錯乱していたら?」
「……え?」
「取り押さえるのに戦わないとダメって場合もある。そうなったら少人数じゃ対応できない。少なくとも私たち全員がそろってないと」
シロコは険しい表情で淡々と告げた。
初めて見る先輩の顔に、セリカは唖然とするほかなかった。普段は飄々としているというか何を考えているかわかりにくい部分もあって、感情を表に出す頻度が低い彼女がはっきりと真剣に訴えている。それに加えて言われた内容のこともありセリカは気圧されてしまった。
「でも、でも……! 錯乱してるとも限らないし、本当に私たちがホシノ先輩と敵対するなんてことになるの? それに、いくらホシノ先輩といったって怪我をしている今なら、私たちなら取り押さえるくらいできるんじゃ……」
「――セリカ。それはホシノ先輩を見くびりすぎ」
「……!!」
「あの人は、強いよ。私より、みんなより、ずっと強い。怪我をしてても手負いの虎とかいうレベルじゃない」
シロコは言い淀むことはなかった。
彼女がこれまで経験してきた中で見てきたホシノの凄まじさを伝える言葉を選ぶ必要はなかったからだ。
「そもそも先生は一人しかいないんだから、市街地対応と先輩の捜索の両方を指揮することなんてできない。先生がいないところで万が一の事態が起きて、それに対応できないっていうのが一番危ない。それに全員そろっていれば市街地の件が終わった後に万全の状態で捜索を開始できる」
「……。わかった。……でも……」
「ホシノ先輩はそう簡単にくたばる人じゃない。今はそうするしかないと思う。どっちも中途半端で解決しないよりはマシ」
「……ごめんシロコ先輩。何もわかんないのに色々言っちゃって」
「いい。私よりも先輩との付き合いは短いんだから。わかるわけない」
シロコはクールな表情のままふふんと鼻を鳴らした。ドヤ顔というわけでもないのだけれども若干得意げなような気もする。
「……なに、その『私は皆の知らないホシノ先輩をたくさん知ってるんだぞ』みたいなマウントっぷり! むかつくんだけど!」
「むっ。そういうのじゃないから。それに私が一番ホシノ先輩を知ってるのは事実だし」
「やっぱりそういうのじゃん!」
シロコとセリカが睨み合うがそこに緊迫感はなく親密な信頼関係に根差したものだとわかる。二人ともそれ以上の追求はしなかった。アヤネがまとめに入る。
「じゃあ、ひとまず市街地の爆破事件への対応ということで決定します。先生、お願いします!」
先生は改めて大きく息を吸うと、目つきを鋭くした。
「よし。全員行くよ!」
「はい!!」
「うん!!」
「わかりました!!」
「了解!!」
*
「……ここは、どこ?」
気づけば、砂漠のど真ん中にいた。
目を開けてみても果てしなくどこまでも続く砂の大地が見えるのみだ。近くに水源も見えなければ動物の痕跡もない。オアシスはおろか植物の一本も生えていない砂漠原野が、なだらかな起伏を形成しながら地平線まで続いている。太陽光に焼かれた土壌のにおいと蜃気楼にゆらめく遠景だけが現実の荒涼とした厳しさを際立たせていた。
――どうしてこんなところに?
辺りを見回してみる。振り返れば自分の足跡がひとすじ伸びていて、自分がここまで歩いてきたであろうことを教えてくれていた。
そして目の前にも、もうひとすじの足跡が続いている。足跡は自分が歩いてきた方向に向かっていて、誰かが先に歩いて行ったであろう痕跡がそこにはあった。自分と同じ方向に。自分と同じように。
――進まなければ。
足跡を辿っていけばきっと何かを見つけられるはず。
何故そう思ったかは自分でもわからない。ただ、ある種の焦燥感のようなものが始終胸を押さえつけていた。それが歩き続ける唯一の理由だった。他に選択肢などないかのごとく足を動かす。ただひたすらに目的地もないまま足跡を追う。
暑い。
肌を焼くような陽光は、みるみるうちに体から水分を奪っていった。
乾いた口内には銅のような味が広がり、風が巻き上がるたび砂粒と埃が口の中に張り付く。口内で舌を転がして唾を絞り出し、砂粒と混ぜてから吐き出した。銅、砂、埃、そしてときどき唇に付着する汗のしょっぱい味が交互に味蕾を刺激して、ひどく不快だった。
歩き続けるうちに、先へと続く足跡がだんだんと風で削られていくのが目に留まった。このままではこの足跡もいずれ風にさらわれて掻き消えてしまうだろう。痕跡が永遠にならないという事実が何故だかどうしようもなく不愉快で不安を掻き立てるので、どんどん強く踏み締めていくことにした。何度も、何度も踏みしめて地面に凹凸を作る。爪の間に入った砂粒が気持ち悪い。だがどうしてもそうせずにはいられなかった。
痛みにも似た執拗さを孕んだこの行為をひたすらに続け、やがてどれだけ歩いたのかすら曖昧になったころ、遠くに黒い点が見えた。
「あれは……?」
自然と脚の動きが速くなる。点は次第に大きくなり、やがてたどり着いた。
「……!? これって――」
陽光の下、褐色の砂丘の影に――それは、沈みかけた星のように埋もれていた。
漆黒の装甲。
表面には浅く擦れた傷跡がいくつも走り、風化した金属光沢がわずかに鈍く反射している。
中央には白い三角形の紋章――〈IRON HORUS〉のエンブレム。角度によっては、まるで光を拒むように陰影が反転して見えた。
一見すればただの厚みのある携行用の防御ケース。しかし、その縁には細やかな展開ヒンジが並び、閉じられた外殻の奥には複雑な構造体が隠されているのが分かる。砂に半ば埋もれた側面には、擦り切れた識別コードと焦げた焼痕。まるで持ち主が最後の瞬間までこれを手放さなかった証のようだった。
膝をつき、慎重にその黒い装置へ手を伸ばす。
「な、なんで……どうして――!? ユメ先輩の盾が、こんなところに――!? だって、え……? あんなに探して、それで、回収したはずじゃ……」
砂埃とともに埃を払うと、その下から金属質の冷たい触感が露わになる。
忘れるはずもない。それは間違いなく先輩がいつも使っていた盾だった。
まるで昨日のことのように思い出せる。まだユメ先輩がいて、未熟で生意気な自分がいた頃。先輩のまぬけさに苛立ちを覚えたりしながらも、それでも一緒にいるのが嬉しかった日々。自分にはない温かさに触れているのがとても満たされた気持ちだった。きっと自分だけではない。ユメ先輩は出会ったすべての人の心に影響を与えていたのだと思う。
今となっては想像するしかないが。
そして当然――ユメ先輩が亡くなった日のことも。
ささいなことで先輩に強くあたってしまって、その後謝ることもできないまま先輩はいなくなってしまって、探して、探し続けて、ずっとずっとずっと砂漠を彷徨い続けて――それでもひとかけらの痕跡すら見つけられなくて。
やがてペラペラの紙一枚が学校に届いて、書いてあったのは『死亡通知書』の文字。先輩が死んだことだけは確かなことだと言われた。その事実さえも否定する材料がないまま――受け止めきれずに崩れ落ちたあの日からずっと胸に穴が空いたまま生きてきた。もう2年近くも。
ユメ先輩の遺した足跡が全てなくなってしまうことがたまらなく不安で寂しくて、砂漠をあてもなく探し続け、ようやく見つけたのがこの盾だった。だから決して手放したりなんてしていないはずだった。それなのにどうしてこんなところに?
あれからというもの、必死で先輩の夢を継いで生徒を救って、アビドスを守り続けてきた。
そうやって盾と共に刻まれた時間が痛いほどに鮮やかで胸が詰まるようだった。苦痛も後悔も涙も――何もかもすべてこの場所に染み込んでいた気がした。
ただただ動揺で頭が働かなくなる中――足跡がさらに続いているのに気が付いた。そのまま足跡の先に目をやると、いつのまにか誰かの背中が見えていた。
「……うそ、うそでしょ? まさか――!」
見間違いだと思った。
だって今見たものは、あり得ないことだから。
ありえないはずだった。
砂丘の向こうに、ひとつの影が立っていた。
風が砂を巻き上げ、陽炎がその輪郭を揺らめかせる。
遠く――だが、確かにそこに。
胸の奥が、何かを思い出すように疼いた。
淡い緑の髪が、風にゆるやかに流れている。光を受けて砂の金粒をはらみ、どこか透き通った輝きを放っていた。白いシャツの背中越しに、肩のラインが柔らかく動く。かつてそこにあった黒いケース――シールドの重みは、もうない。
スカートから伸びる脚に貼られた絆創膏がちらりと陽を反射する。
どこか幼げで、けれど見慣れた姿。背中越しのその立ち方は、かつてアビドスの教室で、誰よりも前を向いていたあの先輩そのものだった。
「――ユメ先輩!!!」
我を忘れ、気づけば駆け出していた。砂を蹴り上げながら無我夢中で駆け出す。
走るたびに乾いた砂粒が舞い上がり、喉が渇き、肺が悲鳴を上げるがそんなものは一切気にならなかった。足は千切れそうで腕も鉛のように重い。呼吸も足りておらず意識も朦朧としている。それなのに体が勝手に動いていた。たった一人の背中のためだけに。
叫んでいた。喉が裂ける寸前まで名前を呼びながらひたすらにその姿を求めていた。
ユメ先輩。
ユメ先輩。
ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。
ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩。ユメ先輩――
息がもたない。涙が滲んで前が見えなくなる。
それでもよかった。
もう一度だけでいい。もう一度だけでいいから。
涙で霞む視界でも辛うじて前方が捉えられる。やがて影が濃くなり輪郭がはっきりとし始めて――
「――待って! 先輩!! 行かないでください!!」
ようやく追いつき、そう叫ぶと先輩は立ち止まった。でも振り返ってくれることはなかった。
相変わらず影が陽炎のように揺らいでいる。
「……ユメ先輩、ですよね? どうしてこんなところに……?」
答えはない。
ただ、風が砂をはらう音だけが耳に残る。
「夢じゃない……? 本当に、先輩……?」
言いながら、自分でも信じられなかった。
けれど、あの髪の色も、背のラインも、歩き方も――間違いようがない。
「ずっと探してたんです。ずっとずっと……」
「……」
「……い、いや! そんな話はどうでもいいんです!! 先輩には、聞きたいことも伝えたいことも話したいことも山ほどあるんです! なんで急にいなくなっちゃったんですか!!」
声が裏返るが、それでも感情のままにまくし立てた。砂の上にこぼれた涙が、小さな黒い染みをつくる。
「……いやだなあ、ホシノちゃん。当たり前だよ」
その声が、背中から届いた。
懐かしい。
耳が覚えている。
何度も名前を呼んでくれた、あの声。
「せ、先輩……!? 本当に、ほんとうに夢じゃ――」
「そうだよ、ホシノちゃん」
ゆっくりと、ユメ先輩が振り返る。
だが――その“顔”は、なかった。
そこにあるはずのものは、深い闇の球体。
黒い墨が現実に滲み出したような、光を飲み込む虚無。
「
「――ひっ……!」
喉が凍りついた。
後ずさろうとした足が砂に沈み、体が傾ぐ。
「ユメじゃない。だから、もう――」
その声が笑ったのか、泣いたのかも分からない。ただ、砂の下から黒い液体のような影が滲み出し、足元を這い上がってくる。
息が詰まる。
叫ぼうとしても声が出ない。
視界の端が白く反転し、次の瞬間――
*
「――はぁっ!! はあっ! はあっ! はぁ……あ…」
目を開けた瞬間、全身の毛穴から汗が噴き出して呼吸がひっくり返った。
白い天井。
消毒液の匂い。機械音。
人工的な明かりが無機質に降り注ぐ部屋の中。
ガバリとベッドから上半身を跳ね起こし、肩で息をする。心臓の鼓動がうるさいほど耳に響いていた。
「うっ……」
ズキッ
その瞬間全身に激痛が走る。胸の奥から筋肉の隙間を通るように走る稲妻のような衝撃は右腕、腹部、腰に至るまで奔流して全身に響き渡る。
「う……っぐ! ……っく……」
歯を食いしばってなんとか耐える。どうやら自分で思っている以上に大けがをしているらしい。
(……ここは……病院……?)
周囲を見渡すとベッドに備え付けられた棚。傍らに医療器具。点滴の袋と管が見える。微かな薬品臭。記憶の糸をたぐり寄せようとするがうまくいかない。
「なんだっけ……私、なんで寝てたんだっけ……?」
ぼんやりと視線を落とす。
包帯に覆われた腕の下、皮膚の内側がまだ火照るように疼いている。
心拍がひとつ上がるたび、断片的な情景が浮かび上がる――眩しい閃光、崩れ落ちる銀行の天井、銃声、そして――
(そうだ……銀行で……ユメ先輩……)
記憶がようやくつながる。
死んだはずのユメ先輩が、生きていた。
確かに、あの目も、声も、ユメ先輩のものだった。
けれど、その瞳の奥には、見覚えのない冷たさがあった。
感情の届かない深度。まるで、彼女の中で何かが置き換えられたような――そんな印象。
(……あれは、本当にユメ先輩だったの……?)
胸の奥がきゅっと縮む。
夢の残滓が、現実の痛みと混じっていく。
夢の中で見た“顔のない影”――それが、現実の彼女に重なってしまう。
「……ユメ、せんぱい……」
その名前を口にした瞬間、脳裏に別の記憶が閃く。
――“ホルス”。
「――!!! そうだ、あの時たしか――」
あのとき、彼女は確かにそう呼んだ。
自分を。ホシノを。
自分のことを“ホルス”と呼ぶ人物を、ホシノはひとりしか知らない。
右目に亀裂を走らせた黒いスーツの男。ひび割れた顔の奥で、感情の読めない光を灯す――黒服。
(……あいつが、何かを知っている?)
得体のしれない男だった。ときどき接触してきては、怪しげな取引の提案を繰り返す。アビドスの借金を半分肩代わりする代わりに、彼が指定する企業へ移れ――そんな虫のいい話を、涼しい顔で持ちかけてくる。
(あの時も……“ホルス”と呼んだ。そして、ユメ先輩が……同じ呼び方を……)
思考の輪郭が合わさり、空気が急に冷たくなる。胸の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと形を取り始めた。
「……っ」
胸の奥が熱くなる。怒りとも恐怖ともつかない感情が、破れた傷口の隙間から這い上がってくる。
繋がっている。
黒服と、ユメ先輩。
絶対に。
(ユメ先輩……。あの人を、あんなふうにしたのは――)
考えたくもない仮定が頭をよぎる。しかしもはや止まることができない。脳内でピースがかちかちと嵌り込み始める。もしあの男のせいだというのなら――
「――いかなきゃ」
点滴の管を掴み、力任せに引き抜いた。シーツに赤い滴が飛ぶ。
だが痛みはない。胸の奥の燃えるような熱が、すべてを焼き尽くしていた。
(あいつのせいで、ユメ先輩は……)
ベッドサイドのモニターが突然、甲高い警告音を鳴らした。赤い波形が跳ね、電子音が規則を失って狂ったように鳴り続ける。
「……うるさいな」
視線をモニターにやると、表示された脈拍数が異常を示していた。看護師が駆けつけるまで、そう時間はないだろう。
だが、それでいい。
――ここに留まる理由は、もうない。
カーテンを引きちぎるように払い、窓の方へ歩み寄る。
足裏にタイルの冷たさが刺さる。
窓枠に手をかけると、窓が固定されているのに気が付いた。おそらくは病人が勝手に開けて事故を起こさないようにするためだろう。だが今は鬱陶しい障害以外の何物でもない。
「じゃま」
右手を持ち上げ、拳を握る。そのまま振りかぶり、拳をガラスへと叩きつけた。
ガシャァアアアン!と鋭い音が弾けると同時に細かい破片が空中に散り、昼の光を反射してきらめく。
誰かの足音が廊下の向こうで近づいてきていたが、ホシノは振り返らず、窓枠に手をかけひと息で身を乗り出した。
次の瞬間、白い病衣が陽光をはじき、五階の空からまっすぐ落ちていった。
普段は話を前に進めるために感情描写とか情景描写とか細かくしないようにしてるけど、そのぶんホシノの描写は好きなだけたっぷり書いてやるじゃんね☆