オシリスのユメ 作:新人先生
実は、ノノミに素の一人称が「俺」だとバレたこと(第9話)をけっこう気にしている。
失踪したとそろそろ思われていたかもしれない。原稿が消えたり葬式だったり就職だったり単に難産だったりで時間がかかってしまいました。穴埋めではないですが、今回も裏話コーナーを後書きにつけました。
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*修正報告
文章描写の視点位置を調整する作業を少しずつ進めています。実質的な内容に変化はなく、単に読みやすさを改善するための措置です。今後も修正が入る可能性があります。
「――つまり、あなたが"先生"である以上、担当生徒の去就にはそのサインが必要となる。したがって、ホシノはまだ対策委員会の所属で、そしてまだアビドスの副生徒会長である……ということでしょうか」
「そう。顧問である私が、まだ届け出にサインをしていない。ホシノは今でも私の生徒」
「なるほど、なるほど……」
「あなたたちはあの子たちを騙し、心を踏みにじり、その苦しみを利用した。ホシノは返してもらうよ」
「……ふむ、主張の筋自体は通っていますね。"生徒"、そして"先生"――なるほど、中々に厄介な概念です」
しばらくの間、黒服は何かを吟味するように天井の一点を眺め、それから先生へ視線を戻す。それから、感心したように何度か頷いた。
「ええ、確かにその通りです。否定はしません。しかし勘違いしていただきたくないのですが、私たちがやったことはあくまでルールの範囲内です」
アビドスの衰退を運命づけたあの砂嵐は、誰かの策略などではない。自然災害だ。アビドスに限らず、どこにでも起こり得ることである。
その中でルールと双方の同意に基づくある金の流れが生まれ、その結果として今がある。自分の望む結末へと多少誘導をしたことは事実だが、世の中とはそういうものだ。自分たちに限らず、皆がやっていることに過ぎない――。
反論の余地を丁寧に埋めながら積み上げるようにして展開される理屈に対し、先生は特に反論せず、黙って話を聞いていた。黒服はそれを見てふむ、と思案顔になるとこう尋ねた。
「先生。ホシノさえ諦めていただければ、カイザーPMCのことについては私たちの方で解決します。学校も守ってさしあげましょう。そしてこれは、ホシノさんも望んでいることのはず。いかがですか?」
「断る」
「……どうしてです?」
一も二もない拒絶だった。
全くもって理解できない。語気が自然と強まるのを黒服は自覚した。
「どうあっても、私たちと敵対するおつもりですか? あなたには戦う手段などないでしょうに!」
先生は答えず、黙ってポケットに手を伸ばした。そして1枚のカードを取り出して、黒服の前に掲げてみせる。
「……“大人のカード”、ですか」
大人のカード――この世界で、先生だけが持つ"例外"。
自分だけの特別な力、というものを持つことのない先生にとって、唯一無二の"それ"である。
一見すると、何の変哲もない単なるプラスチック製のカードのようだが、確かに、それは先生だけの武器になり得る。リスクもあるとはいえ、キヴォトスにおいて絶大な効果を誇ることは間違いない。
その機能を知る者は極めて少ないが、黒服はわずかにその能力の一端を把握していた。
「……あなたの存在が、減るということをわかっていますか? それを使い続ければ――」
「私は大人。このカードがあれば、生徒を救える。それだけで十分」
「ですがそのカードを乱用すれば、あなたは私たちと同じ結末を迎える事になりますよ」
「くどい。私は大人で、子供が苦しんでいる。それ以外関係ない」
「……なるほど。あなたの覚悟はわかりました。それを使うということに躊躇など無い、と」
“私は大人” ――異様なほど強調して発せられたその言葉に込められた意味は、黒服の知る“大人”像とは決定的に異なる。
大人とは何か?
黒服にとって、大人とは自らの利益の追求者であり、倫理よりも実利を優先し、欺瞞と打算の中で生きるもの。善意も献身も所詮は表面的なものであり、本質的には利己的で保身的な存在、というのが彼の見解である。
しかし、目の前の先生の在り方は明らかにそれとは異なっていた。
大人という立場を利用しない、あくまでも子どもを尊重する態度。そしてなにより、自分が“大人”として果たすべき責任を追及する強い意志と自己犠牲の精神――なるほど、やはり心底理解不能である。面白い。
仕立ての良い黒服の手袋が、微かに皺を作る。
静寂の中、ほんの少しだけ浮いた革靴の踵が床を擦った。沈黙は長くない。先生はただまっすぐに黒服を見据えている。その目に宿る感情は、黒服には読み取れない。
あわよくば交渉で丸め込みたいと考えていたが、もはや口先を弄して説得できるようなものではないだろう。――いや、少なくとも先生にとっては、そもそも説得されることなど初めからありえない事なのかもしれない。理由は知らないが、正直言って、目の前の人間の“先生”や“大人”という立場への拘りは異常な水準にある。先生が“大人のカード”を使ってまで本気で対抗してくるならば、こちらの勝算はほぼ皆無といっていい。
しかし――
「……しかしながら、先生。あなたは一つ重大な事実を伏せている」
しかし。
しかし、だ。
それはある一つの前提があって初めて成立する話だ。前提条件が満たされていないのであれば、どのような理論も破綻する。
「そもそも、あなたは――」
先生の言動や表情、そして蓄積された過去の行動記録をひとつひとつ反芻し、そこに矛盾点が無いか探る。そうして黒服が出した結論は至極単純だった。
ある一つの前提――それは、先生が本当に“大人のカード”を行使できるという前提である。
あまりにも根本的、基本的、初歩的。ゆえに盲点。
「――まさか、そんな分かりやすい嘘を信じるとでもお思いでしたか?」
黒服は椅子からわずかに背を離し、冷笑する。
これまでの対話とは打って変わって、嘲りとも諦めともつかぬ乾いた笑いが薄暗い部屋に浸透した。
「“大人のカード”……先生が持っていたとは知りませんでしたが、仮にその力を使うことができるのであれば、確かに我々など歯牙にも掛けられずに蹴散らされるでしょう。私たちなど比較にもなりません。ただし、あなたではそれを使えないということを私は知っています」
皮肉混じりの言葉を紡ぎながら、黒服はじっくりと先生の表情の変化を観察していた。
「使用することへの覚悟を問うているのではありませんよ。今さらそれは疑っていません。そうではなく、あなたにはそれを扱う能力が根本的に備わっていない。命を代償に無理やり使用できたとしても、せいぜいが本来の力の十分の一も引き出せればよいところ。今、カードを私に見せたのはただの虚勢でしょう? まったく、先生も人が悪い」
黒服は変わらず先生の様子を注意深くうかがっていた。
もし、もしも彼が自分の発言を受けて動揺する素振りを見せたとしたら。
そうでなくても、わずかに瞳孔が開いたり、指先がぴくりと動いたりする程度でも物理的反応があれば――
「なんで、それを、知って……!?」
震撼と焦燥が滲みでた、かすかな震えを伴った小さな声。
三拍子に区切られた言葉の断片は、それぞれに微かな間を持ち、まるで沈みかけた者が水面に伸ばす指先のように、必死に何かを掴もうとする焦りを帯びていた。言葉となって漏れ出てはいるものの、完全に思考が伴っているわけではない。ほとんど反射に等しい反応のように見えた。
先生の瞳に反射する光の揺れ、僅かに狭まった視野角、かすかに早くなった呼気の周期――些細な挙動の一つ一つが、その推測の正しさを如実に証明していた。
「やはりそうでしたか。実際のところ、推測であって確信までには至っていなかったのですが」
「…………!?」
「先生もこちらを騙そうとしたのですから、お互い様ということでご容赦願います。案外私たちは遠くて近い存在かもしれませんね、クックックッ……」
黒服は席を立ち、ゆっくりと先生に歩み寄った。
先生は無意識に一歩後ずさり、それを防ごうとするかのように拳を握り締めた。その手に滲むのは、恐怖か、怒りか、あるいは悔恨か――本人でさえ曖昧模糊とした感情の奔流を前に、何とか平静を保とうとしているようだった。
「何故それを知っているか……ですよね? 簡単なことです。あなたの過去の行動を検証すればわかります」
「……仮に、あなたたちが私の行動を以前から探っていたとして。少なくとも、シャーレに赴任してから大人のカードを使おうとしたことはない。だから“使い損ねる”ような場面に遭遇したということはありえない。そして、“使用しなければおかしい”レベルの危機に出くわしたこともまだない。なら、“使えない”ことを裏付ける決定的な場面なんて見つけようがない。私が大人のカードを使いこなせるのかどうかなんて、外部から推測する方法はないはず――」
「“大人のカード”がいったい何なのか?ということに関しては、私も詳しくはありませんが、僅かながら知っていることもあります。それらと先生の過去の行動を組み合わせることで、推測することは可能です」
淡々と、しかし確固たる自信を持って言葉を重ねていく黒服。先生の喉元に迫る刃のように鋭い視線が、僅かな隙間を埋めるように収束していく。
「まず、“大人のカード”とは“象徴”です。大人や、先生であるということはどういうことか――それについては様々な意見があるでしょうが――少なくとも、その数々の信念の一つが、形を持ったもの。おおまかな理解としては、これで間違っていないはずです。つまり、それを使うのには相応の能力と資格が要る」
「……何が言いたいの?」
「では率直に言いましょう。ホシノを後回しにできるような人間が、大人のカードの真価を引き出せるのか?と、私はそう思ったのです」
先生の眉が寄った。聞き捨てならない、とその顔に書いてあった。
先生は睨みつけるように視線を据え直す。
「どういう意味? 私はホシノを、後回しになんてしていない」
「ご記憶にありませんか? 爆破事件とホシノの脱走が重なった時のことです。あなたはあのとき爆破事件の対処を優先し、当時大けがも負っていたはずのホシノの件を後回しにしました」
「それは違う。あのときはあれが最善の対処だった。ホシノの捜索にどれだけの時間がかかるかわからない以上、その間市街地への対処が遅延するリスクもあったし、その他にも――」
「そう。あなたは
空気が凍った。
空間全体が脈打ったように、一瞬にして密度が変わる。質量のある沈黙。先生は息を止め、足元の影すら凍り付いたように硬直する。
「先生。あなたは一瞬の感情や直感で行動せず、あらかじめ立てたプランや想定できる影響の大きさによって、合理的に、大局を見据えた選択を行うことができる。まるで教科書を読むかのように。実際、沢山読んできたのでしょう」
「……それは当たり前でしょ。目の前の事態を解決するのがシャーレの務め。合理的な判断は避けて通れない」
「かもしれません。しかし、合理的であるだけの人間に大人のカードは使えない。
「…………っ」
先生は何かを言おうとして口を開き、そして閉じた。
「これまでは仮説でした。ですが、私の追及に対し真っ先に弁護したのが自己の合理性だった時点で、確信しました。あなたは本質的に合理主義者で、情や徳はその次に来ている。いや、正確には『次に来ている』というより、人徳ある行動を模倣している結果のようにも見えます」
「……違う」
「そしてそれはきっと、他の生徒に対しても同じです。可愛がっている生徒であっても、条件が揃えば『仕方なかった』と思える素質がある。別にあなたを責めているわけではありません。徳倫理的にはともかく、功利主義的には正しい行為でした」
「違う……!」
「生徒の幸福を願っているようでいて、実際には幸福の追求ではなく、不幸の最小化――それがあなたの行動原理、といったほうがしっくりきます」
「黙れ」
「理想ではなく、現実と情勢、そして対処。そこから『できることを着実に頑張ればよい』という極めて実践的な帰結が導かれる。とても官僚的と言っても良いでしょう」
「黙れ――!」
「一言で言うならば、あなたは
「俺とお前らを一緒にするな!!!!!」
「――おおっ!?」
ついに、先生は黒服の発言を遮るように叫んだ。
怒気と威圧を込めた大声で、肺の空気をほとんど出し尽くす勢いで放たれた。怒号という表現ですら生易しい。
そして先生は黒服のスーツの襟をつかむと、自分の方へ思い切り引き寄せた。鼻先が触れ合いそうになるほどの距離で互いの視線が交錯する。
「俺は――私は、大人で、教師なんだ。お前のような、生徒を利用する卑劣漢と一緒にするな……!」
「クックックッ……驚きました。あなたにもそんな一面があるとは」
怒り。明らかな憎悪が瞳孔の奥に見える。
掴まれた襟元から伝わる手の震えが、先生の昂ぶりの証左であることを示唆していた。
「ククッ……ちょうど、ホシノさんも同じような目をして、同じように私に掴みかかってきたのを思い出しました。あなたたちはとてもよく似ています。割れ鍋に綴じ蓋、と言いますか。ピッタリなんでしょうね、お二人は」
「…………!」
「先生、彼女を助けたいですか?」
黒服は、先生の手を振り払うこともなく問いかけた。
先生は何も答えなかった。そのまま10秒ほど沈黙が流れたが、やがて感情の制御を試みるかのように、肩の震えを抑えるように深く何度か呼吸をすると、ようやく掴みかかった手の力を緩めた。
「……当然」
絞り出すような声だった。
「ホシノは、アビドス砂漠のPMC基地の中央にある、実験室にいます。『ミメシス』で観測した神秘の裏側、つまり恐怖。それを、生きている生徒に適用することができるか――そんな実験を始めるつもりです。そう、ホシノを実験体として」
もしホシノが失敗したらあの狼の神が代わりに、と考えていた。しかし、いまや前提から崩れてしまっている。
暁のホルス、狼の神、そしておそらくは未熟な救世主。節操も無くこの世界に織り込まれた、種々雑多なテクストの坩堝。それらはいずれも、“彼女”の周囲にまとわりついている。
果たしてそれは単なる連想にすぎないのか、それとも彼女自身がそれらと何らかの連関を持つのか。
もしかすると、彼女そのものがオリジナル、彼女こそが根源的な聖典であり、ここにある諸々の神話群は全てその抄録にすぎないのかもしれない。あるいはその逆か。いずれにせよ、どれも真理で、どれも誤謬である――こればかりは、実際に確かめてみなければならない。テクスチャで覆いつくされたこの世界では、そんなことですら理解するための努力を要求される。
観測、実験、解析。
世界の成り立ちに対する飽くなき探究心。
黒服にとって、
「どうしてもホシノを助けたいというのなら、一か八か、大人のカードを使ってみてください。多大な代償を払えば、多少は使用できるかもしれないのでしょう?」
先生はホシノと似ている。
だからこそ同じように興味を惹かれるし、同じように対抗の余地が残されている。
「その強引な力の行使の結果、あなたに何が起こり、キヴォトスにどのような変化がもたらされるのか――その結末を観測することを、私は心から楽しみに待っています」
探求者としての本懐を遂げる機会を、そう簡単に逃すつもりは毛頭ない。
*
「おかえり、先生」
「――うおっっ!!? ビックリした!」
対策委員会の部室へと戻ってきた先生をシロコは出迎えた。
「なんでドアの目の前で待ってるの!? 心臓に悪いって!」
「足音が聞こえたから」
「理由になってないよ!?」
距離にして5cmもない。
お互いにほんの少し身を傾ければ抱擁にも持ち込める距離感で二人は向き合っていた。シロコは持ち前の聴覚を活かし、部室に接近する先生の足音を察知して扉の前で待ち構えていたのだった。
先生の立場からすれば、ドアを開けるや否や眼前にシロコの顔がアップで現れ、しかもそのままずいずいと寄ってきたのだから驚くのも無理はない。
とうに日は落ちており、夜9時を回ろうとしている。これほど夜遅くまで学校に残るということは通常滅多に無いのだが、今日はホシノ奪還のための準備ということで、先生が情報を集めて戻ってくるまで皆居残っていた。
「先生。ホシノ先輩のこと、何かつかめた?」
シロコは依然として近距離での問答を続けている。
「他のみんなにも説明するから一旦離れよう!?」と先生は言ったが、シロコは意に介さない。
何やら騒がしいぞ、と気づいた部室内の他メンバーも、遅れて先生の帰還に気づき移動してきた。
「あらあら、シロコちゃん……。どうして急に立ち上がったかと思えば、そういうことだったんですね~」
「お待ちしておりました、先生! まずはご無事で何よりです」
「飼い主の帰宅を待ち構えてる猫みたいね、シロコ先輩……」
部屋に戻ってきた先生へ、ノノミ、アヤネ、セリカは思い思いの言葉を順に投げかけた。
「ん……。猫はむしろセリカでしょ」
「はあ? いや、耳の形ならそうかもだけど、私が言ってるのはそういうことじゃなくて……」
「セリカだって耳がいいんだから、先生が帰ってきたのは気づいていたはず。それなのに気づかないふりをして、一番最後にゆっくり出てきた。最近はあんまり露骨なツンデレは流行らないよ、セリカ」
「ばっ……!? べ、別にそんなつもりじゃ……! それに先生が帰ってくると分かったところでいつ出てくるかなんてタイミングは自由でしょ!?」
(わかりやすすぎるよ、セリカちゃん……)
アヤネは呆れつつも、その表情にはどこか柔らかい温もりが滲んでいた。
しかし先生が帰ってきたからにはいつまでもこのテンションではいられない。
「――さて、みなさん。そろそろ本題に入りましょうか。先生、ホシノ先輩の情報は何かわかりましたか?」
「……! そうだね、夜も遅いし早く作業を始めよう。みんな、悪いけどもう少しだけ付き合ってもらえるかな?」
アヤネの一声で、和やかな空気も徐々に引き締まりだす。
「もちろんですよ~! いつでも準備OKです!」
「ホシノ先輩を連れ戻すために必要なことなら、いくらでもやってみせます!」
「ん。待ってた甲斐があったね。ホシノ先輩のいないアビドスなんてアビドスじゃない」
「何だって付き合うわよ!」
各々は自分の席に向かいながら口々に返事をし、互いに短いアイコンタクトを交わし合う。
そして周囲に手早く作業用の資料や備品を広げると、ホシノ奪還作戦の進行に向けて動き始めた。
*
「――じゃあ、お先に失礼します。先生たちはまだ学校に残るんですか?」
夜もすっかり更け、日付が変わりそうな時間。
ノノミは実家からの催促を受け泣く泣く途中で退散し、セリカはヒフミを通してトリニティから救援を受けられないか模索すべく単身トリニティへ向かった。そのため現在対策委員会の作業室に残っているのは、先生、シロコ、アヤネのみとなっていた。
「うん。あと少し調べておきたいこともあるし、もう少しだけ残るよ」
「シロコ先輩は?」
「残るつもり。私は一人暮らしだし、ここで泊まっても問題ない。先生を手伝う」
「そうですか……」
アヤネは作業中の画面を一瞥すると、「お二人とも、あまり無理しすぎないようにしてくださいね」と言い残して退室した。
廊下に響くアヤネの足音が徐々に小さくなっていき、それが完全に消え去ると、部室内には再び静寂が訪れた。換気扇の低い唸り、PCファンの回転音が、深夜の濃密な空気をかき分けながら、ひっそりと存在を主張していた。
アヤネの退出をきっかけとして、先生とシロコはそれぞれの作業に没頭し始めた。しばらく沈黙が続き、ページをめくる音とキー入力の音が響く時間が流れる。
およそ十五分ほどが経過したころ、再びシロコが口を開いた。
「……先生」
「うん?」
資料を見ながらペンで書き込みをしていた先生は、手を止めシロコの方へ顔を向けた。
「先生のおかげでホシノ先輩の居場所も分かったし、これからの作戦もある程度目途がついた。今日は本当にいろいろなことを話しあったよね」
「……? そうだね。まだ準備万端、っていうわけにはいかないけど、少しは前進できたんじゃないかな」
その言葉に、シロコはすぐには頷かなかった。
机の上に広げていた資料から手を離し、少しだけ考えるような間を置く。
それから彼女は、いつもの無表情に近い顔のまま、けれどいつもより慎重な声音で続けた。
「うん。ホシノ先輩のことも、カイザーのことも、今できることはだいぶ見えてきたと思う。先生が動いてくれたから」
「それならよかった」
先生はそう返し、また手元の紙に意識を戻しかけた。だが、シロコはそこで話を終えなかった。
「でも」
シロコは椅子から立ち上がることこそしなかったが、椅子の背にもたれることなく先生の方を見ていた。じっと見つめているというほど露骨ではない。ただ、相手の反応を待つときの目だった。
「うん?」
「もしかして、なんだけど……」
一瞬ためらったような様子を見せて、それでもはっきりと、次の言葉を選ぶようにして言った。
「
「……え?」
「直接ホシノ先輩に関わることでなくてもいい。何か、一人で抱え込んでる悩みとか――そういうのを先生が持ってるんじゃないかと思って。“黒服”って人と、本当に何もなかった?」
「――」
換気扇の音が、やけに耳についた。
「…………」
先生はすぐには答えられなかった。
シロコはその沈黙を急かさない。
彼女はそういうところがある。マイペースなようでいて、待つべき時には待てる。
「……どうしてそう思ったの?」
問い返すと、シロコは少しだけ首を傾げた。
「女の勘」
「……うえぇ!?」
予想外の回答に先生は思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「ごめん、半分くらいは冗談。でも半分は本当。先生最近ずっと私たちにかかりっきりだったでしょ。私たちならともかく、キヴォトスの外から来た先生はそろそろ流石に疲れでバテてないとおかしいのに、なんだか先生まだ元気って感じにふるまってるのが気になって」
「たはは、まいったな……。そうなんだよ、ゴメンゴメン。本当は疲れてる。だけど心配かけさせられないと思ってさ。そうだね、流石にそろそろ今日は一区切りつけ――」
「嘘」
「……え?」
言い切る前に差し込まれた、静かで、しかし確信めいた否定。
先生は一瞬、言葉を飲み込んだ。
「普段の先生はそこまで自分を繕ったりしない。本当に疲れてるだけだったら、そのくらい私たちにも正直に見せてくれる」
「い、いや? 私もこう見えても大人だし、こういうときくらいはしっかりしたところを見せておかないとと思ってさ。生徒に弱いところはあまり見せたくなくって――」
先生の弁明が終わる前に、シロコは再度静かに首を横に振った。
「じゃあなんでこの前はノノミに膝枕してもらってたの*1」
「……あ、」
「あの時は疲れている自分を認めて、弱いところも私たちに見せてくれてた。それとも、ノノミには見せられるけど、私には見せられない?」
「いやっ、そういうわけじゃ……!」
「じゃあ、他の理由」
シロコはまた少しだけ俯いてから、今度は目を逸らさずに続けた。
「――私たちに、知られたくないことでしょ。だから必死に取り繕うしかないんだよね。私たちの前では、いつもと変わらない先生でいないと……って。違う?」
「――」
先生はついに沈黙を選んだ。
「……先生は今まで私達の為に色々してくれた。今回はこんな大事なことだし、正直全部知りたいって気持ちはあるよ」
「……」
「だけど、言いたくないことなら無理に聞き出したりはしない。話してくれるなら聞く。話したくなければ、それでいい」
「……シロコは、優しいね」
「違うよ」
「えっ?」
「ただ、先生のこと信用してるだけ」
シロコはそっと視線を外すと、自分の机の上で組まれた両手をじっと見つめた。
「先生はどんな時も私たちの気持ちを大切にしてくれた。そんな先生が今は、まだ私には話せない、って言うならそれはそれで受け入れる。私達じゃ手に負えないようなことかもしれないし……それに、私たちの為に何かを決めたのかもしれない」
「……」
「私は先生を信じるよ。ただ……
「――っ」
先生は言葉を詰まらせたように口を引き結んだ。
まるでシロコの口から放たれた言葉によって、触れられてはいけない柔らかい部分を容赦なく穿たれたかのような、そんな顔だった。何かを告げようと口を開きかけては噤み、また唇の形だけを作りかけ、その輪郭を繰り返す。そんな不器用な仕草を何度か繰り返した後でようやく絞り出した返答は、まるで喉の奥に引っかかったような掠れた呟きに近く、うまく声として形を成さなかった。
「――ありがとう、シロコ。君のそういうところ、すごく尊敬するよ」
「ん」
「でも、今はまだ無理みたい。いつかはちゃんと話す、って約束する」
「……わかった。でも、最後にこれだけは言わせてほしい」
シロコはそう言うと、テーブルを挟んで向かい合うように腰かけている先生の方にぐいっと体を寄せる。
それからその瞳の奥を見定めるように、しかしどこか優しく、諭すように言った。
「先生、大人はすごい。でも、何でもかんでも背負い込む必要はないんだよ」
「私たちは頼りないかもしれない。だけど、少なくとも――先生が一人ぼっちでいることの助けには、なれると思う」
「ホシノ先輩がいないアビドスなんて、アビドスじゃない。でも、それは先生だって同じ」
「だからね」
「もし先生が自分のことまで投げやりになるようなことがあったら、そのときは無理やりにでも止めに行く」
――そのくらいは、許してね。
*
翌日。
ゲヘナ学園の正門前広場にて、先生とある生徒が対峙していた。
「はあ? 風紀委員長に会いたい? ゲヘナの風紀委員長に、そんなに容易く会えるとでも思ってるのか?」
褐色肌と銀髪に鮮烈な赤い眼が印象的な――見方によっては不良のような佇まいにも見える――少女が呆れたように腕を組みながら言った。
「そうだな、じゃあ土下座して私の足でも舐めたら……」
【悲報】
先生、ホシノと同じシチュエーションで同じような嘘をついてしまう。
優秀だし、良い人なんだけど、ハッピーエンドを掴む才能がない人っていますよね。ホシノもその口だと思う。
最近先生サイドのストーリーが進行している関係上オシリスの出番が少ないですが、オシリスもカヤも第1章の間にまだまだ出番があるので、そっちサイドの話を読みたい方はもう少しだけご辛抱を……。あっちはあっちで何やら動いています。
↓裏話コーナー
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