オシリスのユメ   作:新人先生

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前編です。今回も裏話あります。

ところで新ストーリーは読みましたか、皆さん。

カヤの解釈に繋げられそうと前々から1984年に目を付けてあらかじめ読んでおいたので、オーウェルが出てきてもうビンビンですよ。

なんならトリニティの解釈のために聖書やら中世キリスト教哲学関連の著作読んで教会に凸して教えてもらったりしたし、ミノリをきっかけにマルクスとアナーキズムをかじったりしてるからなワハハハハハうるせえそんな暇あったらストーリー10周するとか毎日投稿するとかしたほうがいいだろこの素人新人野郎が先生俺死にたいんすよ


第17話 【前編】ゲヘナとトリニティ

広大な自治区を誇るゲヘナ学園は、その広さゆえ監視が隅まで行き届いているとは言い難い。その上、良く言えば自由奔放、悪く言えば統制が利かない学風も手伝って、統治は困難を極める。

そんな混沌の象徴ともいえる都市の治安を一手に司る行政組織・風紀委員会は、時に軍隊を思わせる規律と威圧を以って活動を行っている。そのトップが風紀委員長・空崎ヒナ――キヴォトスにおいても屈指の武闘派生徒――であり、ナンバー2が行政官・天雨アコである。

 

「か、書き終わりました……。委員長、反省文1000枚、完成です……」

「お疲れ様。じゃあ今から普通に仕事をお願い」

「は……はぃい……」

 

今しがた、ついにアコは罰として与えられた大量の反省文を書き上げた。

 

ヒナの留守中に好き勝手に暴れた挙句、命令を無視した行動が重なり、最終的には自治区外への無断出兵に至ったのだ。当然の報いといえる。

 

とはいえ一枚一枚、きちんと丁寧に、一字一句を整えながら規定の書式を満たした反省文を1000枚書くというのは並大抵の苦行ではない。キヴォトスの生徒であれば体力的な問題はクリアできても、それだけの量となると集中力の維持が不可能であろう。

 

疲れ切った様子でデスクに座り、パソコンを操作し始めるアコを見て、ヒナは内心同情する。今日一日くらいは、もう何も考えずに休ませてあげたいと思ってしまうのだが、彼女無しでは委員会の業務が滞ってしまうのも事実。既にアコが謹慎している間に溜めてしまった事務作業は膨大なものとなっている。明日からはそれらの消化で余計に負担がかかってしまうことだろう。

 

ただ、どんなに負担が大きかろうと、彼女が与えられた仕事を投げ出すことは決してない。その点において、ヒナはアコにこれ以上ない信頼を置いていた。

 

「自分で撒いた種ですから」と零していた姿を思い出し、少し胸が痛むと同時に、不思議な敬意すら抱いてしまう。これで人当たりが柔らかければもっと信頼されるはずなのだが、往々にして人は長所だけでなく欠点も含めてその人格なのだということも、ヒナは重々承知していた。

 

「ところで、委員長は今何の業務をされているんですか?」

「情報部から上がってきた万魔殿議員の支持率調査報告書について確認してるところ」

「……? それは私たちの管轄なのでしょうか? たしかに政治情勢を把握しておくのは大事ですが……」

「ちょっと不安になる数字が出てたから、念のため。今後の治安の動向にもかかわるかもしれないことなの」

「回答内容について何か不審な点でも?」

「回答内容そのものは問題じゃないわ。うちの自治区なんて、調査日の占いのラッキーカラーが赤なら棗イロハの支持率が上がるくらいのことなんてざらにあるし。でも今回の場合、単なる風潮だけでは片付けられない問題が出てきてるの」

「回答内容そのものが問題でない……? しかし、だとするなら、一体何が問題になると……」

 

アコは首を傾げた。

 

「ちょっと調査結果を見せていただいても?」

「ええ」

 

共有されたデータファイルの中をざっと確認したアコは、それ以上の言及をせず、すぐに自身の端末へと視線を落とす。それから数秒間、押し黙ったままスクロールを続けたかと思うと、ふと画面を指で叩いて止めた。

 

「――これは」

「やっぱり気づいたのね」

「はい。確かに回答内容そのものにかかわるものではありませんが、間違いなく異常値です」

 

画面に映るのは一つのグラフ。

過去一年に行われた支持率調査への回答率を示したグラフで、縦軸は回答率%、横軸は調査が実施された月を示している。

最新の調査への回答率は10.2%という数値を示していた。

 

「回答率が高すぎます。しかもグラフが右肩上がり」

 

アコは手元のグラフを複数回スクロールして確認しながら言う。

 

「2桁なんてうちの自治区ではまず起きません。そもそもこの手のアンケートに積極的に応じる民度があれば、街中の飲食店で爆弾を破裂させたり、他人のものを盗んだり、勝手に温泉を発掘するようなことはまず起きないはず……。私たちの学園ときたら、万魔殿の議員選挙ですら投票率3.8%なんですよ」

「そうね。本来こんな高率な回答率は期待できないはず。だから最初、何らかのシステム障害かと思ったんだけど……技術課の調べによれば、基幹サーバーはもちろんのこと、バックエンドプログラムやログファイルに異常は見られなかった。不正の疑いも今のところ無し。第三者による介入や異常な操作の痕跡もゼロ」

「……!? 嘘ですよね? まさか本当に、自然とこれが成立したと……?」

 

支持率調査のサンプル数が一定以上確保されていることに越したことはないのだが、そもそも回答を得ること自体が難しいゲヘナにおいてこのような回答率は異例であった。

前年の同時期には調査に回答する者の割合が1%を切るほどだったのだ。アコにとってみれば、毎度のように低すぎて役に立たない回答率を嘆くよりも、こんな高い回答率の実態が不安で堪らなかった。

 

「もし、もしもですよ? 本当にこれが間違っていないとしたら……ゲヘナの生徒が政治に興味を持ち始めたってことになるんですよ!?」

「ええ、そうなるわ」

「そんなことがあるわけないじゃないですか!!?」

 

アコは激しく首を横に振りながら反論する。まるで子供が駄々を捏ねるかのように、椅子から腰を浮かしかけ、机に手をつき勢いを乗せ、必死に訴えかけていた。

彼女の言う通り、ゲヘナ生が自ら進んで政治に関心を寄せたなど、到底信じられる話ではない。これまでの学生生活における日常を鑑みれば、誰もが同意することだろう。

 

「そんな奇跡みたいなことが起きるくらいなら、それこそ明日槍が降りますよ……」

「現に起きてるわ。事実は小説よりも奇なり……と言うけれど、まさにこのことよ」

 

アコはなおも信じられないといった面持ちを浮かべている。

しかしヒナはそんな彼女を宥めるように落ち着いた声で続けた。

 

「理由はわからない。けど、間違いなく生徒たちの行動がうっすらと変化してきている。表面上は微かで、わかりにくいけど……何かが少しずつ変わり始めてるのよ」

 

ヒナは窓の外に視線を向けた。雲ひとつない青空の下に、ゲヘナ市街の喧騒が遠く霞んで映っている。今日は珍しく爆発音も銃声も聞こえない、比較的平穏な昼下がり。

 

――この街のどこかで、すでに何かが始まっている。

 

根拠は薄い。しかしそんな予感があった。

 

そしてそれは、ゲヘナに限った話ではないのかもしれない。

自分の知る限り、最近はトリニティでもきな臭い動きが出ていると聞く。

 

何か大きな嵐の前触れのように――世界そのものが、ゆっくりと軋みを上げて回転していこうとしているような錯覚。その中心に何が位置しているのかは全く分からないが、確かなのは自分がその渦から無傷でいられる保証など一切無いことだけだった。

 

アコは顎に手を添え、考え込むようなポーズを取りながら画面を見つめたまま沈黙していた。

 

しばらくそのまま無言の時間が流れた後、アコはモニターから視線を外すことなく、ポツリと呟いた。

 

「――投票権を制限しましょう」

 

「……は?」

 

今しがた自分の耳に飛び込んできた言葉を、ヒナは理解することができなかった。思わず怪訝な声をあげてしまう。

 

アコは今度はモニターから視線を外し、ヒナの方を見ながら主張を繰り返した。

 

「投票権を制限しましょう、委員長! 今からでも遅くありません! 一定のリテラシーが担保されているのならともかく、うちの学園の生徒たち(バカども)が政治に興味をもってしまったらどうなると思いますか!? 民主主義に則るからには民意に応えなければなりませんが、それがもしうちの学園の民意だなんて……! 粗大ゴミに投票させた方がまだマシです!!」

「ちょ、ちょっと待って……!? あなた何言ってるの?」

「法案を通すなら今が最後のチャンスです。すぐに議案を作成し万魔殿に提出します! ただでさえ今の時期は“例の条約”の件でデリケートなんですよ……!? もし誰かに煽られでもしたら、あんな軽挙妄動を極めたような連中、トリニティへのヘイトに簡単に染まってしまうに決まってます。今この時期に十分に教育されていない人間たちの政治参加を加速させるなんて、百害あって一利なしです!!!」

「落ち着きなさい。確かに根拠の薄い噂や感情が支配した混乱に乗じた行動は控えるべきだけれど……この件に関しては下手に制限を設ける方が、後々問題になりやすいわ」

「しかし――!」

「いい加減にしなさい、アコ。いつものことだけど、あなたは極端すぎるわ。そもそも、政治に興味を持つことは悪いことでも何でもない」

 

アコはグッと言葉をのみこんだような様子を見せたが、それでもまだ諦めずに抗弁を試みる。

 

「……せめて、投票には一定の学力成績を要求するというのはどうですか? 認めたくはありませんが、客観的に見て私たちの自治区では民主主義を担うに足る人材が多数派になっているとは言い難いじゃないですか……。そんな状況下でバカたちが権力を握ると絶対にろくなことがありません……!」

「一部のエリートが権力を牛耳った末路だって、ろくなものじゃなかったわ」

「……っ」

「レッドウィンターを知らないわけじゃないでしょう。それに今の段階ではまだ推定の域を出ない話なの。今できることは精々、この状況が与える社会的な影響と問題を洗い出すことぐらいよ。第一、“法案を通す”って簡単に言ってるけど、あのマコトを説得できるの? 私たちが言い出したってだけで全部反対されるかもしれないわよ。それどころか、私たちを攻撃する材料として利用してくるかも」

 

ついにアコは押し黙った。

ヒナはふぅっと息を吐く。

 

「……今までの内容は聞かなかったことにしてあげる。アコ、どうかあなたを私の右腕のままでいさせてちょうだい。冗談でもそんなことを言ってしまったら、万が一にもあなたの意見が通ったとしても、私はあなたのことを信じることができなくなる。あなたは優秀で、信頼できて、大切な右腕。これからもずっと一緒にいてほしいの。どうか、お願い」

 

そう言うとヒナは頭を下げた。

ヒナにとっては、その言葉に偽りがないことを示す最も適当な表現方法がそれだった。

 

アコはその行為に対して慌てて「頭を上げてください!」と声をかけ、その後、申し訳なさそうに謝罪した。

 

「先ほどは申し訳ございませんでした……。委員長に言われた通り、極端だったと反省しております」

「まあ、仕方がないわ。今回の件は私でも信じがたい現象だもの。今後は発言が不用意にならないよう注意してちょうだい」

「承知しました……」

 

ヒナは執務机の上に置いてあったコーヒーを一口飲んだ。その後、自身の背もたれに体重を預ける。

全身の緊張をほぐすように、肺の中の酸素を一度全て吐き出し、また吸い込むという動作をゆっくりと繰り返す。そうすることで、先程までの焦燥感が、わずかではあるが鳴りを潜めていくように感じるのだった。

 

「――アコ、一杯淹れてもらえる?」

「え?」

「インスタントじゃないのが飲みたい気分なんだけど、自分で淹れるとどうしても雑味が出ちゃって」

「……! もちろんです、委員長」

 

微かにアコの眉の角度が跳ね上がった。

 

平然とした表情を保とうとする努力が感じられたが、声の調子が若干上ずっている。何よりも、無意識に背筋が伸びてしまっているところが、彼女の隠しきれない感情を如実に表していた。

 

「しかしカフェインの摂り過ぎにはくれぐれも注意してくださいね? 最近多すぎるのでは?」

「一日十五杯までに制限しているわ」

多すぎます!!! インスタントを飲むのはやめて、一日に飲むのは私が淹れる三杯までにしてください。あと水をもっと飲んでください。絶対尿が真っ黄色になってますよね? また激痛に襲われて威厳のかけらもなく絶叫したいんですか?」

「ご、ごめんなさい……。以後気を付けるから……」

「まったく……。今日はこれで最後にしてくださいね?」

 

治療にあたったチナツ曰く、「出産を除けば人生においておそらく最悪の痛み」とのこと。ヒナもその時ばかりは年相応の少女として悶絶し、大粒の涙を流した。救急医学部に引き渡されそうだったところ、病気の中身を早々に察したチナツが内密に治療を遂行したことで、ヒナの尊厳はギリギリのところで守られた。

 

アコはヒナの机の上からマグカップを手に取る。その流れのまま、給湯スペースへと向かおうとしたところで事件は起こった。

 

「――委員長! ご報告です!!」

「!?!?」

 

居室に飛び込んできたのは、風紀委員会の制服を着た一人の女子生徒だった。あまり見慣れない生徒だが、見た目と声色からおそらく一年生だろうか。荒い息遣いとともに、両手は胸元でぎゅっと握りしめられている。

 

「大丈夫? 深呼吸して」

「い、いえ! 今すぐご報告しなければならない案件なのです! 至急のものですので!」

 

生徒は息切れを起こしながらも、とにかく伝えなければならないことがあると述べ、今にも倒れてしまいそうな勢いで叫びだした。その鬼気迫る様子に、ヒナとアコは顔を見合わせる。

どうやら只事ではないようだ、と判断したヒナは改めて女子生徒の方を向き直る。

一拍間を置いてから、問いかけた。

 

「どうしたの。何があったの?」

「へ……変質者が正門前広場に現れました! しかもその変質者により、イオリ隊長が戦闘不能状態に陥ったとのことです!」

「なっ……!?」

 

ヒナは自分の耳を疑った。

変質者が堂々と学園の敷地内ど真ん中に侵入することを許したというだけでも、治安を担う組織である風紀委員会としては失笑ものの醜態だというのに、さらに戦闘においては委員会内で自分に次ぐ実力者であるイオリまでもが敗北したという。それはもはや恥ずかしさどころの話ではなく、このゲヘナという学園の威信に、真正面から泥水を浴びせかけられたようなものだった。

 

「イオリ隊長ですら手に負えないとなると、ヒナ委員長にお力添え頂かなければ……!」

「くっ……わかったわ。すぐに出る」

 

風紀委員会の頂点に立つ者として、この有事に静観を決め込むという選択肢は存在しない。

ヒナは立ち上がり、すぐさま現場へと向かって行った。

 

その後、不審者の正体とはシャーレの先生であり、イオリが戦闘不能に陥ったというのは、イオリが先生に「足を舐めろ」と無茶ぶりをした結果、本当にそうされて腰が抜けてしまったのが原因であるということが判明。ひとまず安心しつつも怒涛の展開に一同が困惑する羽目になったのだが、それはまた別の話である。

 

ちなみに、先生がイオリの足を舐めてまで協力を仰いできたアビドスの件については、一応協力してあげることにした。

 

 

 

 

 

 

「し、失礼します!!」

 

時計塔の影が長く伸び始める午後の光の中、重厚な木材の音を軋ませながら、阿慈谷ヒフミはテラスに通じる大扉をぐっと押し開けた。

年季の入った木肌は飴色にくすんでおり、金の取手の装飾には細やかな蔦模様が刻まれている。それは否応なしに、かつて聖職者のみが踏み入ることを許されていた時代から引き継がれてきた歴史の重みを感じさせた。

 

「――よくいらっしゃいました」

 

扉を開けると、清涼な風がふわりと吹き抜けてくる。眼下の庭園から運ばれてきたであろう藤の花の香りが微かに混ざったその風は、ちょうどテラスの中央で佇むひとりの女性の髪を、ふわりとなびかせた。

 

「お久しぶりですね、ヒフミさん」

 

ティーパーティー現ホスト、桐藤ナギサ。

トリニティ総合学園における最高意思決定機関の一翼を担う、格式と品位を兼ね揃えた少女は、こちらを振り向くと、薄紅に彩られた唇をほころばせた。柔らかな陽射しが、彼女の艶やかな長い髪に黄金色の暈を纏わせる。

 

ヒフミは扉を閉めると、丁寧に頭を下げた。制服の裾が小さく揺れ、磨き上げられた床に淡い影を落とす。

 

「ナギサ様、お時間をいただきありがとうございます! えっと、あの。その……実は……!」

「ふふっ。慌てなくて結構ですよ。ここには私とあなたしかいません。……ほら、頭をあげてください」

「はっ、はい!」

 

頭を上げて視線を前方に移せば、ナギサは庭園の遥か先へと続く道を眺めていたらしい。彼女の背後には長テーブルがあり、その上にはティースタンドが一つ、白磁のカップとソーサーが二つずつ几帳面に配置されているのが見て取れた。銀製のポットから漂う茶葉の芳香が、ヒフミの鼻腔にまで微かに届いてくる。

 

「ご足労いただいたのです。せっかくなのでお茶でも召し上がっていってください」

「で、ですが、お忙しい中時間を取っていただいたのに、あまり長居をするのも気が引けて……」

「気にしなくて大丈夫ですよ。先日ハスミさんが来訪してくださった際に、新しい茶葉をいくつかいただきましたので。折角ですし、試飲をしていただけませんか? ヒフミさんたっての“要望”があるとは聞いていますが、その様子では、少し落ち着いて話をまとめる時間も必要ではありませんか?」

「ううっ……」

 

ヒフミの脳裏に、昔聞いた覚えのあるトリニティの諺が不意に蘇ってきた。

 

 

 

“勧められた紅茶を断る者は、紅茶を勧めた者と敵対したに等しい。”

 

 

 

「ごちそうになります……」

「ふふっ、では早速用意いたしますね」

 

悪い人でないと頭ではわかっていても、上の人間の誘いを断るというのは、それ相応の覚悟を必要とするもの。

いつの時代も、どの世界でも、きっとそれだけは変わらない事実なのだろう。

 

 

 

 

 

 

「……なるほど、ご説明ありがとうございます。ヒフミさんのおっしゃっていることはよくわかりました。例の条約も目前に迫っていますし、本来は下手に動くわけにはいかないのですが……。今回はちょっとした例外として、何か考えた方が良さそうです」

「ほ、本当ですか……!? ありがとうございます、ナギサ様!」

 

――やった! やりましたよ、アビドスの皆さん!

 

セリカに頼まれた通り、どうにかこうにか交渉をまとめ上げることができたヒフミは、心の中で喜びのガッツポーズをした。

ナギサ相手にきちんと話ができるか不安だったうえ、交渉の内容が内容だっただけに拒否される可能性の方が高く、正直断られても仕方がないと思っていたのだが、ここまでスムーズに話が進むとは思わなかった。まさか本当に話に乗ってくれるとは。

 

「ふむ……? “本当ですか”、とは? ヒフミさん相手に嘘など言いませんが」

「い、いえ! 上手く伝えられたか、自信がなかっただけで……! 決して、ナギサ様を疑っているというわけでは……!」

 

マズい、余計な一言だった。自分はどうしてこうも墓穴を掘るのが得意なのか。

 

彼女の目で射抜かれると、顔が怖いとか、そういう類の話ではないのだが、どうしても萎縮してしまう。

彼女が怒っているか怒っていないかぐらいはわかるようになってきたと思うのだが、未だにその思考回路が読み切れないのが、ヒフミにとっては恐怖でしかなかった。

ペロロ様相手に「物怖じせず、自分の意志を強く貫き通す」と誓ったはずの勇気が急速にしぼんでいく。ヒフミは膝の上でぎゅっと拳を握った。

 

「……つまり、私がアビドスを助ける理由がわからなくて不安、ということですか。確かに例の条約が目前に迫ったこの時期、下手に他校に介入するのはリスクが高いといえるでしょうね。アビドスからリターンが得られる見込みもほとんどありませんし」

「……やっぱり、そうですよね」

 

実際、アビドスに介入することでトリニティが得られるメリットなどたかが知れている。

かつて栄えていたころのアビドスとはわけが違った。特に何かの資源があるわけではないし、何なら借金に苦しめられていて、生徒数はどんどん減少していく一方。

ヒフミの目からしても、カイザーグループという巨大組織と対立するリスクを抱えてまで、そんな状態の学校をトリニティが支援することに対する理由を見つけるのは困難だと感じていた。

 

「ですが、私はそういう“打算的なメリット”だけで動くつもりは毛頭ありません。我々にも利がなければ協力しない、というのは傲慢だと思いませんか? 傲慢というのは、私たちが最も忌むべきものの一つです。その理由はヒフミさんもおわかりですよね?」

 

(えっ、急にこっちに振ります!?)

 

困った。

が、答えなければならない。「わかりません」などと言えるわけがないし、「わかります」などと言ってこの場を取り繕うために適当なことを言うのも憚られる。

 

ヒフミは慎重に、しかし可能な限り早く答えることにした。頭の中で必死に教科書のフレーズをかき集める。確か、傲慢といえば……。

 

「え、えっと……な、“七つの大罪”……ですか?」

 

「ええ、その通りです」

 

 

 

セーフ!

 

……とヒフミは心の中でガッツポーズをしかけ、すんでのところで思いとどまった。そうだ、さっきもこうやって内心で喜んでいたせいで、思わず余計な一言を漏らしてしまったのだった。

ナギサは満足げに微笑むと、カップを手に取り、わずかに口をつける。彼女の豊かな睫毛が陽射しを受けて、頬に細やかな陰影を描いた。

 

「エヴァグリオス、カッシアヌス、グレゴリウス、トマス・アクィナス……言及の仕方は少しずつ違いますが、本質は変わりません。私たちトリニティは、様々な方面での利益を享受することができます。ですが、世の中には恵まれない人たち――いわば、神から隔てられた人たちがいます。アビドスでは、なおさらそういった方々も多いことでしょう。彼らが神の恩寵を受けられず、苦境に喘いでいるとすれば、我々が支援を行うことには価値があります。支援を通じて彼らは主からの祝福を受け、教会に所属することを認めるにふさわしいと認められるかもしれませんし、そうでなくても恵みを分け与えることには意義があります。私たちは彼らを、憐れむのです」

 

ナギサの唇が滑らかに言葉を紡ぐ。

柔らかな声音、整えられた呼吸。どこか歌い慣れた賛美歌のメロディにも似た調子に、先ほどまであれだけ緊張していたヒフミは、なぜか今この場において、心地よさを覚えてしまっていた。

 

(なんだかふわふわする……)

 

聴衆を陶酔に導く布教の語り部のような、あるいは甘美な毒薬を練り合わせる妖婦のような、底知れない引力を感じさせる口調に、ヒフミは鼓膜がしっとりと濡れていく錯覚を覚えた。

 

「でも、それだけでどうしてここまで動けるんですか?」

「“それだけ”ではないからですよ。それを今から説明しましょう――ヒフミさん、ちょっとこちらに来ていただけますか?」

「……? わかりました……?」

 

ナギサに促されるまま、ヒフミは席を立ってナギサに近づく。

 

「手を」

「え?」

「ですから、手をこちらに。どちらの手でも構いません」

 

何を求められているのかいまいちよくわからなかったが、とりあえずヒフミは自分の右手をナギサに向けて差し出してみた。

ナギサは左手を伸ばし、ヒフミの手をそっと掬い上げる。そのまましげしげと検分するようにじっくりと眺めながら、ヒフミの手の甲に自分の右手を添えた。そしてヒフミの手首のあたりを中心に、添えた手を優しく左右に滑らせるように動かしはじめる。

 

「あ、あの……ナギサ様……?」

「……」

 

突然、目の前の女性の真剣な眼差しを受けながら、意味不明の儀式のような行動を強いられたヒフミの脳内には、困惑が入り乱れていた。

あまりの混乱ぶりに、ひょっとするとナギサが何らかの魔法を使っているのではないかとさえ思えたが、彼女の手元から不吉な色の瘴気が噴き上がるようなことはないし、ましてや魔法陣が描き出されるようなこともない。

 

十数秒ほどたっぷり時間をかけてヒフミの右手をまさぐっていたかと思うと、ナギサは唐突にポツリと呟いた。

 

「――綺麗ですね」

「へ?」

「手です。ヒフミさんの」

「はい? あの……えぇ?」

 

意味がわからない。

これは一体どういう状況なのだ。

 

「言葉通りの意味ですよ? 透明感のある皮膚の表面は美しい曲線を描き、骨格が浮き出ることなく全体が均整に収まっている。爪は縦長で理想的な楕円を描いていて、根元にはわずかな逆剥けも無し。ミロのヴィーナスの両腕は今や失われてしまいましたが、もし彼女の腕が残存しているとすれば、まさにこのような造形をしていたのかもしれませんね」

「ぁ、ぁぇ……? あの、その……褒めてもらえて嬉しいんですけど、私にこういう話題を振られても、ちょっと反応に困るっていうか……。も、申し訳ございません、ナギサ様……。その、いまいち主旨がつかめず……」

「あら、すみません、私としたことが。つい饒舌になってしまいました。もちろん褒め言葉のつもりで言ったのですが、不快でしたでしょうか」

「い、いえ、そんなことはないです! ありがとうございます。恐縮です……!」

 

「よかった。ではヒフミさん、質問です。()()()()()()()()()()、ヒフミさんはどう思いますか?」

 

 

 

 

 

……ん?




Q. イオリの足舐めシーンの完成度を上げるため、「咥えこんだ状態で何かを舐めるとき発せられる擬音」を調査すべく、4ヶ月前からエロ漫画と官能小説を読み漁ったが、結局その調査結果を反映したシーンをねじ込むことを断念したときの作者の心情を述べよ。

A. ᓀ‸ᓂ<ばにたす……



↓裏話コーナー
https://notes.underxheaven.com/preview/9796f1aadb772c5d6f0a34f3def6d2a9



公式漫画でユズに糖尿病らしき症状が現れているのを見て、公式がやっているなら病歴の裏設定隠さなくていいんやと踏ん切りがつきました。なんて懐が深いんだブルーアーカイブ、そしてありがとうユズ。
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