冬のトレセン学園で、とある「事件」をきっかけに、アグネスタキオンとトレーナーの二人は突然の“同居生活”を命じられることに。
規格外の発想と行動力を持つ天才ウマ娘タキオンと、彼女を支えるトレーナー。
学園生活、実験、夢への挑戦、そして少しずつ変わっていく二人の距離――

お互いの覚悟と絆が試される中、タキオンが初めて見せた“弱さ”に、トレーナーはどう向き合うのか。
夢の果てへ進むための「約束」とは?
ギャグとシリアスが交差する、唯一無二のバディストーリー。

予測不能の冬の事件と、その先に待つ二人だけの答え――
「君と一緒なら、どんな未来も怖くない」
そんな思いが、静かに、そして確かに交錯する。



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第1話

「──とか言ってる場合じゃねぇよ!! どうすんだこれ!!!!」

 

 季節は冬。

 水分を含まない乾いた風が肌を強く叩きつけ、肌寒さに思わず着込む服の量が増えていくこの時期。

 いつぶりか分からない絶叫を出しながら、なんとか現状を理解しようと努める。

 

 窓が元々あった場所を見てみれば、視界いっぱいに広がるのは外の景色。

 時間帯が夕方ということもあり、こちらを見ているウマ娘達の驚いた顔がよく見える。

 

 成人男性の体が吹き飛ばされるほどの爆発があったのだ。

 音も信じられない大きさだったし、こちらに注意が向くのは当然だろう。

 

 だが彼女たちは自分とタキオンの姿が見えると「また何かやらかしたのか」と言いたげな顔をした後、そのままトレーニングに戻っていった。

 まるで《いつかはやると思っていた》と言いたげな行動に抗議の声を上げたくなるが、残念なことに実際こうして起きてしまったので反論もできない。

 

 ちらりと視線を送ってみれば、面白いくらいに顔を白くし、汗すら出せないほどの焦りを見せているタキオンがいた。

 ここまで焦った彼女は、さすがに今まで一度も見たことがない。

 

「ま、不味いだろうねぇこれは」

 

「怪我はないか? 足見せてみろ、痛まないか?」

 

 人間である自分が怪我をしていないからウマ娘であるタキオンも大丈夫。

 そう考えるのはあまりにも安直というもの。

 彼女の足には、万が一でもあってはならないのだ。

 

 近寄って優しく怪我を探るように、彼女の足に触れる。

 

「あ、ああ。大丈夫だよ」

 

 触診してみたが、どうやら骨などに問題はなさそうだ。

 傷もついていないし、これなら大丈夫なようには思える。

 だが注意深く見てみれば、彼女の身体は震えていた。

 自分がしたことの重大さに気がついたのか、それとも爆音に腰が抜けたか──

 

「ね、ねぇトレーナーくん。まさかこの一件でキミ、クビになったりは──」

 

「おい! 大丈夫かお前ら!!」

 

 タキオンが何かを言いかけたほぼ同時に、廊下から誰かの声が聞こえた。

 声とほぼ同時に入ってきたのは、ルドルフを担当しているトレーナーだ。

 彼以外にも数人のトレーナーが室内に入ってきては、「やると思ってた」だの「むしろ今までなんで起きなかったか不思議」だの「始末書で休み潰れるだろうな」だの、好き勝手言ってくる。

 

 散々な言われようだが、ここは甘んじて受け入れよう。

 

「俺とタキオンは大丈夫だ。状況確認と怪我人のチェックをするために、悪いが手を貸してくれないか」

 

「分かってる。外にいた奴らにはもう連絡済みだ。今のところ怪我人がいたって報告はない。昼間じゃなかったのが幸いだったな」

 

 もしこれが人通りが多い昼間だったなら、まず間違いなく怪我人が出ていたことだろう。

 始末書くらいなら何枚でも書くが、他所様のウマ娘に怪我でも負わせようものなら、謝罪でどうにかなる話ではなくなってしまう。

 

 そういった意味では、やらかした側の言葉ではないが、《不幸中の幸い》と言っていい。

 

「それにしても一体、何したらこんなことになるんだ?」

 

「寒いし鍋食おうと思って用意してたら、タキオンが薬入れたみたいで。それに気温だのなんだのが上手く作用して、可燃性蒸気が出て鍋の火に引火して発火。さらに交換用のボンベ類に引火して大爆発って感じで」

 

「そんな状況でお前らなんで無傷なんだよ」

 

「なんかあったとき用に、台所と居間を仕切る扉は防爆仕様にしてたから、それのおかげ。壁が無事なのもね」

 

 次回の給料が入れば窓側も改修するつもりだったが、今回の一件は何を置いてもタイミングが悪かった。

 当然の権利のごとく事実を真改造している話を聞かされたトレーナーたちだが、彼らも自室は好きなように改造しているので、特にダメとは言ってこない。

 むしろその改造癖が、今回に限ってはいい方向に働いた。

 

 ちらりと視線を向けてみれば、いまだ声も出せないほどに落ち込んでいるタキオン。

 意図的にやったものではなく、今回に限っては確実に事故だ。

 反省はしなければいけないが、それは管理者責任があるこちら側。

 とはいえ、自分が声をかけても余計緊張させてしまうだけだろう。

 この場に来ている唯一の女性トレーナーに、ここは任せることにする。

 

「カフェトレ、申し訳ないんだけどタキオン任せていい? 相当メンタルやられちゃったみたいで。あと足回りの確認はしたけど、万が一があるから医務室に連れて行ってあげてほしい」

 

「ええ、任せといて」

 

 こう言ってはなんだが、日頃のやらかしが、今この場においては非常に有用に働いていた。

 人は経験から学ぶ。

 怒られるにしても、その前に何をしておくべきか。

 緊急時にはどのように動くべきか。

 それを知っているだけで、行動は随分と変わる。

 

 カフェトレにおぶられたタキオンは、それでもまだ不安そうな顔をこちらに向ける。

 

「トレーナーくぅん……」

 

「爆発してビックリしたろ? 医務室行ってゆっくりしてこい。後で一緒に怒られよう」

 

 コクリと頷いたタキオンを見送り、荒れ果てた部屋の掃除と始末書の作成を始める。

 ──結局、部屋の掃除だけでも全部終わったのは、次の日の朝になってからだった。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 

「──決定ッ! アグネスタキオンを監視する為、二ヶ月間トレーナーとアグネスタキオンは同棲とするっ!」

 

 見るからに怒り心頭の学園長にそう宣言されたのが、いまから三日ほど前だったろうか。

 三日間にわたる抗議は、すべて《監督責任》という最強の言葉で鎧袖一触にされ、倫理観や学園の風紀という最強だと思っていた装備ですら、学園長の許可と生徒会長連盟の許可状には勝てなかった。

 

 彼女たちがそこまで素晴らしい連携を見せたのはなぜか。

 思い当たる節があるとすれば、今回の騒動に対応するべくかなりの数のトレーナーが慌ただしく動いた結果、予定をブッチされてしまった子も何人かいると聞いている。

 正直、大部分はそれが原因なのではないかと個人的には睨んでいた。

 かくいう会長様のトレーナーもあの爆破の場所に来ていた。

 彼にしっかりと一時間ほど説教されたのは、なかなか心に来たものである。

 

 あの後、医務室にタキオンの様子を見に行くと、そちらはそちらでカフェ同伴で生徒会に怒られて、しおしおとした顔になっていたので、こってり絞られたことは間違いない。

 抗議の意味も込めて近くのホテルに泊まっていたが、それも謎の圧力によって弾き飛ばされ、気がつけば学生寮の一角。

 

 同じ学生寮にあるにも関わらず、付近を空き部屋に囲まれたタキオンの部屋の前で突っ立つことしかできずにいた。

 

 時刻はすでに夜。

 まだ寝入ってしまうような時間帯ではないが、健康的なウマ娘たちならもう寝ていてもおかしくない頃合いだ。

 少なくともグラウンドは使用禁止になる時間帯である。

 廊下の電気も消されており、人の気配もせずなんだか不気味だ。

 こんな時間に呼び出されたあたり、引き返すことを許さないという学園長の意思を感じる。

 

「困ったな……やっぱ帰るか」

 

「……だめですよ」

 

「――――っ!!!!!」

 

 部屋を爆散させるようなとんでもないやらかしをしてしまったとはいえ、それでもトレーナーとしての矜持というものは持っている。

 暗闇の中から突如として現れたカフェに悲鳴を上げそうになるが、周囲の迷惑にならないようにと咄嗟に手で口を押さえ、絶叫を我慢する。

 

「タキオンさん、貴方が外に泊まりに行ってから様子がおかしいんです。早く元の彼女に戻してあげてください」

 

「タキオンが? さすがに今回の件は堪えたか」

 

「今回の事件が原因というよりかは……いえ、別に私の口から言う必要性もありませんね。学園長からこちらを渡しておくようにと言われていますので、貴方に渡しておきます」

 

 そう言ってカフェが渡してきたのは、寝泊まりに必要な道具一式だった。

 確かにないと困るものではあるが、少なくともこんな時間にウマ娘をわざわざ使いに出してまで渡すようなものではない。

 学園長のことだから考えあっての指示だとは思うが、それにしても一体どんな理由があってだろうか。

 そんなことを考えていると、暗闇の中でカフェの目がほんの一瞬だけ、薄暗い光を発したような気がして、気がつけば一歩後ろに後ずさる。

 

「あとこれは私からです。今度私のトレーナーを危険な目に合わせたら、オトモダチと一緒に貴方とお話しなければいけないかもしれません。くれぐれも、よろしくお願いしますね?」

 

「はい。私は今後一切、貴方のトレーナーの近くでは実験もしませんし、危険な状況も作らないと宣言します」

 

「…分かっていただけたようでうれしいです。それでは、また明日からもよろしくお願いします」

 

 なるほど、これを言いたかったから彼女が学園長と交渉して持ってきたのかと、恐怖に震えてまともに立つことすら難しい状況で、そんなことを思う。

 

 先程まで切れていた蛍光灯が、彼女が通るとまるで何かに反応するように点滅するのを見送りながら、コンコンとリズムよくタキオンの部屋の扉を叩く。

 正直これ以上この廊下にいたくない。

 

 頼むから早くタキオン出てきてくれ!

 そんなこちらの気持ちが届いたのか、奥の方から足音が聞こえてくると電気が付き、ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて数秒後。

 ガラガラと音を立てながら引き戸が開かれ、見知ったいつものタキオンの顔が目に入る。

 

「よ……よぉタキオン。この時間に会うのは初めて、か?」

 

 練習が気が付けば伸びていたり、薬を飲んでそのあとに倒れてしまった状況をカウントしないのであれば、少なくとも意識的に会うのは初めてだろう。

 

 いつもの学生服ではなく、外に出かけるときのような少し楽な服装に身を包んだ彼女は、一瞬こちらの顔をじっと眺めたかと思うと、そのまま後ろを向いて部屋の中に入ってしまう。

 

「お、おい!」

 

「入りたまえよ。またカフェに脅されたら、次は本当に叫んでしまうだろう?」

 

「聞いてたのかよ……!」

 

「ウマ娘の耳はいいからね。幸いこの周りにはウマ娘もいない、特に問題はないだろうよ」

 

 ウマ娘にビビってしまっているところを担当に見られるなど、一生の不覚。

 他のトレーナーに聞かれれば一週間はバカにされるような事態だが、少なくとも彼女はそのことについてそこまで弄ってくるつもりはないらしい。

 

 案内されるままに入ってみれば、彼女の私室は驚くほどになにもなかった。

 思い返してみれば彼女はだいたい研究室で寝るか、自分の私室で勝手に寝て、それを研究室まで運んで寝させていたので、彼女の私室に入るのも初めてのこと。

 

 十二畳ほどの広さがある部屋には、簡単なキッチン類が全部屋共通で取り付けられており、エアコンなどもそれと同じく全部屋共通の物。

 普通はそこから、それぞれの特色に合わせて様々な部屋の模様になっていくのだが、彼女の部屋にあるのはベッドとソファ、書類をまとめているだろうバインダーがいくつか机の上に転がっている程度で、それ以外にはあと一つだけ。

 

 天井付近まで伸びたシルバーのラックが取り付けられており、ラックの上には今まで行ってきた研究の成果や、レースの結果得られたトロフィーなどが大切そうに飾られている。

 研究室にあるのが研究者としての彼女の部屋であれば、ここは本当の意味で《アグネスタキオンというウマ娘》の部屋なのだろう。

 

「お邪魔します」

 

「適当にかけてくれたまえ。いまコーヒーを入れよう」

 

「わるいな、お言葉に甘えるよ」

 

ソファに座り、テレビを何気なくつけてみれば、やっているのは新年を前にしたお笑いの特番だ。

 振り返って台所に立つタキオンを見てみれば、不思議なくらいに上機嫌で──このお笑い芸人、好きなのかな、なんてことを想像しながら、タキオンが来るまでの時間をつぶす。

 ただコーヒーを入れるだけだ。時間にして三十秒ほどしか経っていないだろう。

 

「ここに置くよ」

 

「悪いな」

 

 タキオンは机の上にコーヒーを置くと、自分はそのままベッドの縁に座り、枕元に自分の飲み物を置く。

 そのまま二人の間には会話らしい会話もなく、ただテレビの音だけが場の空気を取り持っていた。

 

 何を口に出せばいいのだろうか。

 そんなことを思いつつ、大人として子どもに気を遣わせるわけにはいかないと、何も考えずに咄嗟に口を開く。

 

「──今回、やっちまったな」

 

 なんでこんな言い方をしたのだろうか。

 すでに反省しているだろうタキオンに、追い打ちをかけるような言い方になってはいないだろうか。

 だが、少なくとも話題に出すなら先日の一件に関することなのは、当然の成り行きなのかもしれない。

 

「そうだね」

 

「……次のGⅠに向けて、改めてデータ収集しないとな。次は鍋パーティーじゃなくて、外に飯でも食いに行くか」

 

「……そうだね」

 

「そういえばさっきカフェに会ったけど、すごい怖かったんだ」

 

「彼女は少し不思議なところがあるからね。怒らせると怖いよ」

 

 いつも通りの会話をしているつもりだが、どうにもいつも通りの雰囲気にはほど遠い。

 普段はこちらの会話に歩み寄ってくれるタキオンだが、今日はどうにもそういった気分にならないらしい。

 まるで初めて彼女に会ったばかりの頃のように、すべての外部要素を不純物とみなし、自分の殻に深く閉じこもってしまっているような、そんな印象を受ける。

 

「……どうしたんだ?」

 

 表情をうかがいながら言葉を投げかけてみると、彼女はほんの少しだけ嫌そうな顔をした。

 踏み込んでしまったのが嫌だったのだろうか。

 

 先ほどまでは「追い出されるならそれはそれで口実に」と考えていたが、いまこの状況では、彼女の精神状態を元に戻さない限り、この部屋から出ることなどできるはずもない。

 

 少し苦いコーヒーを気まずい空気と一緒に流し込みながら飲んでいると、意を決したようにタキオンが口を開いた。

 

「トレーナー君。実験だけど、当面はやめにしないか?」

 

「―――――ッ!!!」

 

 ──手が出そうだった。

 

 担当しているウマ娘に暴力など、あってはならない。

 頭ではそう理解しているし、これまで一度だって手を挙げたことも、考えたことすらなかった。

 だが今、怒りはすべてにおいて先行し、気が付けば手が出る一歩手前まで行ってしまっていた。

 

 そのことに気づいて止まれたのは、単にタキオンが泣きそうな顔をしながら、そんなことを口にしていたからだ。

 

 彼女が泣きそうになっていなければ──きっと自分は、取り返しのつかないミスを犯していたことだろう。

 そのことに気が付くと、手がいつの間にか震えていた。

 過ちを免れた安堵からか、それとも過ちを犯しかけた恐怖からか。

 

「殴られても、文句は言えないだろうね。私から持ちかけた“夢の果てを見よう”という提案を、こんな形で急に反故にされたのだから」

 

「分かってるなら、教えてくれよ。なんで急にそんなこと言い始めたんだ?」

 

 実験の失敗なら、今までに何度だってあった。

 今回の出来事よりもまずいことだって、正直学園長が黙認してくれているだけで何度もあった。

 生徒会の面々の性格を反転させたり、オグリの食事量を倍以上にしたり、王子様系ウマ娘をヒロイン系に変えたり──などなど。

 

 レースの時期と偶然かぶっていなかったり、かぶっていても薬の効力が走りに関係していなかったりで、なんとか黙認されてきた。

 さすがに今回は見た目の派手さも相まって、少々きつめに怒られたが、それだって一般企業でのやらかしに比べれば処分としては相当甘い。

 

 アグネスタキオンというウマ娘に、学園がどれほど期待しているのかがわかる扱いだった。

 だからこそ、個人的には、彼女がなぜ悩んでいるのか、本当に理解ができなかった。

 

「事故の現場を、トレーナー君は見返しに行ったかい?」

 

「いや。最近はいろいろ立て込んでて、まだ行けてないな」

 

 記憶が確かなら、必要な書類や個人的な趣味のゲーム類は多少生き残っていたはずなので、回収しに行こうとは思っていた。

 だが行けるとしても、今週末くらいが関の山だろう。

 ……口ぶりからして、タキオンはもう現場を見に行ったらしい。

 

「鍋の蓋が昨日見つかったんだ。台所でね」

 

「……そりゃよかった。あの鍋、実は結構高くてさ。つっても、さすがに変形してるだろうけど。ちなみにどこにあったんだ?」

 

「台所にあったよ。君が自慢げに話していた防爆仕様のガラスを粉砕して、さっきまで私がコーヒーを入れていたリビング側の壁を貫通して、廊下側の壁でギリギリ止まっていた」

 

「それはなんていうか……運がよかったな」

 

 ゾッとする話だ。

 

 収納スペースを兼ねているため、分厚い壁があったわけではないが、それでも成人男性がちょっとやそっと殴った程度ではリビングの壁はそう簡単に壊れない。

 それを、特性ガラスもろとも粉砕し、貫通し、さらにもう一つ向こう側の壁まで届いていたとは。

 改めて思えば、怪我人が出なかったのは、まさに奇跡と言っていい。

 

 この間、マチカネフクキタルに教えてもらった神社の御利益が効いたのかもしれない──なんてことを考えて、笑ってみる。

 すると、タキオンはさらに表情を暗くした。

 

「分かっているのかい、トレーナー君。もしかしたら……君は死んでいたのかもしれないんだよ!!!!!」

 

 今まで聞いたことがないくらい、大きな声だった。

 

 ……確かに、それはそうだ。

 

 タキオンが言っていた通り、鍋が頭部に当たっていたら即死は免れなかっただろう。

 体のどこかに掠っただけでも、良くて入院。悪ければ一生病院──だってあり得た。

 

 彼女のトラウマになることがなかったのは、ただの幸運だ。

 

「俺のことはいいよ。それよりタキオンに怪我がなくてよかった。それに、もちろん周りのみんなにもね」

 

「―――――」

 

 ハッと驚いたような顔をした後、タキオンは下を向いて黙りこくってしまった。

 

 身近な人間に死の危険が及んだのだ。

 多感な時期にある彼女たちにとって、それは相当にショックが大きい出来事だったのだろう。

 その点についてもう少し、配慮して声をかけてあげるべきだったのかもしれない。

 

 いまだテレビから流れていたお笑い番組を消すと、部屋は先ほどよりもさらに一層、静かになった。

 そんな部屋の中で、聞こえてきたのは──タキオンの押し殺すような声だった。

 

「……っ………ぐっ……」

 

 彼女は泣いていた。

 せめて泣き声は聞かれまいと声を押し殺しながら、表情を見せないようにして、静かに泣いていた。

 

 再びテレビをつけようとリモコンに手を伸ばしかけるが──もしここでテレビをつければ「彼女の泣き声が聞こえていました」と言っているようなものだ。

 頭を撫でたり、優しく抱き留めたり──そんなことをするトレーナーもきっといるのだろう。

 だが、自分には彼女を慰める言葉も行動も、何一つとして浮かんでこなかった。

 

 ただじっと、彼女が泣き止むのを待つことしか。それだけしかできない。

 

 それから、どれくらい経っただろうか。

 タキオンは涙で真っ赤になった顔で、目だけをこちらに向ける。

 

「……トレーナー君、君が一番大切な物はなんだい?」

 

「タキオンの夢の果てを見ること。それが俺の生きる意味だよ」

 

 嘘偽りのない言葉は、すらすらと喉の奥から漏れ出た。

 いつ聞かれたって、これだけは絶対に変わらない──自分の中の一番の目標であり、夢だ。

 

「なら、そこに君がいないとダメだと。そうは思わないのかい?」

 

「もちろん、居られたらいいなとは思うよ。タキオンの隣に立って、夢の果てを見られれば、それが一番だ。でも、夢の果てを目指す道中で、俺が事故でいなくなったとしても──タキオンが夢の果てを見られるなら、それでいい」

 

 最悪、今回の一件で死んだとしても。

 タキオンが夢の果てを見せてくれるなら、それでもいい。

 幸いなことに、オトモダチがいることをカフェが証明してくれているおかげで、なんとか死んでからも彼女の活躍の一端くらいなら見られそうだというのもわかっている。

 

 現場に立って、喜ぶ彼女の姿が見られないのは少し残念だが──それも、彼女が夢を叶えることに比べれば些細な問題だ。

 

「……どうすれば、そこまで覚悟が決まるんだい? 一体なにが君を、そうまでさせるんだ」

 

「きっかけなんて些細なことさ。

 担当になって、最初は難しいことをよく考えてるすごい子だな、くらいに思ってたけど……。

 君の頑張りや走りを見ていくうちに、君のことを心から応援したいって思えるようになったんだ。

 ファンってことで、いいのかな?」

 

「なんでもないことのように言うけど、それだけで命をかけてもいいなんて──君は変わってるね」

 

「多少自覚はあるよ、さすがにね」

 

 そんなことを言いながら笑いかけてみれば、彼女は苦笑いにも近い笑みを浮かべた。

 少しくさいセリフを吐いてしまっただろうか。

 考えてみれば十歳とまでは言わないにしても、五年以上年の離れた人間がこんなことを若い子に言うなんて──なかなか恥ずかしい場面なのかもしれない。

 

 恥ずかしさからなんだかこちらの笑顔もぎこちなくなってしまった、そんなころ。

 タキオンは、決意を決めたような顔を再び見せた。

 

「……本当は、そこまでやる気はなかったんだ。でも今日ようやく分かったよ。夢の果てを見ることができたら──いや、この学園を卒業する時にはきっと言おうと思っていたことを、今ここで私はすることにした。そうしないと、私の手元にいつまで君がいるのか、分からなくなってしまったからね」

 

 その言葉を聞いた瞬間──ドクンと全身が脈打ったような錯覚を覚えた。

 まるで、心臓が強烈な衝撃を受けたような感覚。

 

 いつもタキオンの薬を飲んだときは何らかの副作用があったが、ここまで強烈なものは初めてだ。

 薬の元は、きっとさっき飲んだコーヒーだろう。

 紅茶ではなくコーヒーを出してきた時点で、少し珍しいとは思っていた──風味を消すためだったとは、準備がいい。

 

「体が、まともに動かないだろう?先日作ろうとした“人がウマ娘と同等の身体能力になる薬”、その失敗品がそれだよ。強制的に心拍数を上げる代わりに、体の制御を奪う。

この時、ウマ娘がレースをしている時と同等のドーパミンが脳から大量に発生し、時間経過とともにエンドルフィンやその他快楽物質もあふれ出す。偶然の産物ではあるけれど……今この状況になっては便利なものだね」

 

 声が出ない。

 身体も動かせない。

 

「失礼するよ──っと。さすがに成人男性だけあって、それなりの重量があるね。

 変に力がこもって筋断裂などの症状を引き起こしている兆候もないし、黄疸等の内臓系に異常が出たような症状もないね。我ながら、いい薬を作ったものだよ」

 

 軽々と持ち上げられ、ベッドに寝かされる。

 一つ数百キロを超えるタイヤを砂浜で引きずれる脚力を持つ彼女たちにかかれば、成人男性の体重くらい、なんなく持ち上げられる。

 

 ベッドに寝かされ、不味いと思いながらなんとか体を動かそうとしてみるが、ろくに動かすことができない。

 

 タキオンは先ほどまでと同じようにベッドに腰かけるが──違うのは、さっきよりも随分とベッド側に寄っていることと、今ここに“寝ている人間がいる”ことだ。

 

「や……め……」

 

「驚いたよ、話すことができるんだね。

 さすがトレーナー君だ、薬に対しての耐性が素晴らしい。

 バイオハザードが起きても、君を基にしてワクチンを作れそうだよ」

 

 慣れない冗談を言いながら、タキオンがゆっくりと近づいてくる。

 もしや、唇を奪われるのでは?──そう思い、ない力を振り絞って唇を引き絞るが、彼女はその綺麗な頬をこちらの頬にこすり合わせるようにして当てると、耳元で甘い言葉を囁き始めた。

 

「衝動に身をゆだねるだけで、それでいいんだよ。君は何も悪くない、私に全て擦り付けてしまえばいい」

 

 鼻孔をくすぐる匂いで、脳が震える。

 頬を伝って感じられる彼女の体温で、体がさらに熱くなる。

 ところどころ触れている身体の柔らかさが、彼女の女性的な魅力を強く引き立たせていた。

 

 ほんの一瞬だけ意識が飛びそうになり、もうそれでもいいかと思い始めてしまう──そんな自分がいた。

 

「なぁ、いいだろう? 全部、私に任せたまえ。きっと今度からは、君を何からも守ってみせる」

 

 頬を涙が伝っていく。

 だがそれは、自分の涙ではない。

 

 顔を上げてこちらを見つめていたタキオンの瞳から、溢れ出した涙だった。

 視界いっぱいに彼女の端正な顔が映し出され、世界のすべてが彼女で染まる。

 

 ──だが、そんな状況になって。

 どこか、不思議と今までで一番冷静な頭になれた気がした。

 

 気が付けば、手が動いていた。

 彼女の頬に、そっと触れ、撫でていた。

 

 まさか動くとは思っていなかったのだろう。

 突如現れた腕に、ぎょっとしたタキオンは動きを止める。

 

「ようやく……わかったよ、タキオン。君がどれだけ俺を心配してくれてたのか。ごめんな、分かってやれなくて」

 

 彼女だけが助かってはダメなのだ。

 彼女が夢の果てを見るためには──もう自分は、彼女のそばを離れるわけにはいかないらしい。

 

 気づかないうちに、彼女の中で自分という存在が大きな位置を占めてしまっていた。

 それに申し訳なさを感じながらも、言い表せないほどの幸福感を、どこかで確かに感じていた。

 

 薬のせいだと思ってしまえば、それまでだ。

 だが、そんな言い訳ができないほど──自分は、彼女のことをもう強く意識してしまっていた。

 

 一度考えてしまえば、もう取り返しはつかない。

 つま先から頭の先まで真っ赤になっている自信がある。

 

「遅いよ、トレーナー君。ここまでしないと分からないなんて──朴念仁にもほどがある」

 

「ごめんって、ほんと悪かったよ」

 

「……まあ、いいよ。それじゃあ、トレーナー君。──いいよね?」

 

  先ほどまでよりもさらに熱い吐息を吐き出しながら、タキオンはしなだれかかってくる。

 「いいよね」とは、つまりそういうことだろう。

 

 ソロぴょい歴数年、人生生まれて数十年。

 ついに巡り巡ってきた、うまぴょいの機会。

 逃せば向こう数年はきっとやってこない、そんな絶好のチャンス。

 

 男としてこんな相手を前にして、手を出さずにいられるか? いや、どう考えてもムリだ。

 普通の人間なら、絶対に不可能である。

 

「……いや、ダメだよ。普通に。

 もしできちゃったら、走れなくなるでしょ。少なくとも学園卒業までは、キスもダメです」

 

 ──だが、そんなこと関係ない。

 あくまでも第一目標は、彼女と夢の果てを見ることだ。

 

 そのために、自分が障害になってしまうようなことをするなんて、あってはならない。

 

 ……とはいえ、言われた側のタキオンにしてみれば、そんなことは分かりきったうえでやっている。

 

 女としてのプライドを振り絞り、薬まで使って“手つかず”にされたとなれば、もはやプライドも何もかもズタボロである。

 恥ずかしさからくる顔の赤さではなく、般若のような怒りに顔を染めたウマ娘が、そこにはいた。

 

「――ッ!! 今日という今日は怒ったよ!!!何があっても、絶対に、今日ここでうまぴょいしてみせる!!!!」

 

 まさに「襲い掛かってくる」という表現が正しいと思えるような飛び込み方で突っ込んでくるタキオンを──

 最小限の動きでそのまま手を引いて、ベッドに寝そべらせる。

 

 真横に彼女が寝そべる形になれば、必然的にセミダブル程度のベッドでは、二人の距離はそれなりに近くなるものだ。

 

 やはり自分の魅力に負けて手を出してしまったか。

 ──そんなことを思ったのだろう、タキオンの表情は見る見るうちに満足げなものへと変わっていく。

 

「ついに降参したか……って、なにするんだい!? 離したまえ!!」

 

 そんなタキオンの頭を胸元に抱き寄せ、くしゃくしゃと髪の毛を撫でてやる。

 耳はデリケートなので、たまに触れる程度に。

 片手は手櫛として荒っぽく、もう片方は彼女が撫でてほしそうなところを、優しくなでてあげる。

 

「ふわぁ……と、トレーナー君。やめたまえ、それは……あ……」

 

 タキオンが飲んでいたコーヒーは、先ほどの薬が入っていたポットから注いだもの。

 カップにだけ薬が仕込まれていなかったのだとしたら──彼女もまた、薬の影響下にある可能性がある。

 

 アドレナリンで無理やりごまかしているだけなら、一度落ち着かせれば彼女も無理に手を出してくるようなことはないだろう。

 

「く……私は……そんな……」

 

「ごめん、眠くなってきたから寝るわ。

 また明日、ちゃんと話そうな」

 

 何やらうめいているタキオンをよそに、意識はゆっくりと眠りに向かっていく。

 そうして──同じベッドで、ゆっくりと二人で眠るのだった。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 今回のオチというか後日談。

 次の日、薬の完全に抜けたタキオンと昨日の一件について話をして、いくつかの決まり事を決めた。

 1、今後危険な実験をするときは今までよりもさらに安全マージンを取ること

 2、週に1回以上はタキオンの家に泊まること

 3、学園を卒業するまでは絶対に手を出さないこと

 4、今まで通り果てを目指して頑張ること

 以上4つをもって今回の解決策とし、タキオンとの関係性は元に戻った。

 後日カフェから祝福の言葉と共に、廊下での出来事を忘れないようにとの脅しがあった。

 正直怖い。

 数日後、改めてタキオンとデートに行くことになったので今回の一連の騒動をまとめてみたが、これでいいのだろうか。

 待たせて彼女を心配させてもいけないので、今回はここらへんで終わろうと思う。


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