「今日はちょっと遠くのスーパー行ってみようかなと思って〜」
朝食後、洗い物を終えた母が何気なくそう言った。
「どこ行くの?」
「○○モール。最近できたお魚屋さん、評判いいらしいの。
お刺身安くなってたら買ってくるね」
特に特別な用事があるわけでもない。
でも母は、時々こうして“少しだけ足を伸ばす”ことを楽しんでいる。
いつもは自転車だけど、今日は荷物が増えそうだからバスで行くという。
「なんか久しぶりにバスに乗るわ。ちょっと楽しみ」
「バス乗って楽しみって、変わってんな……」
「ふふっ、そう? 乗り物って、ちょっと旅気分じゃない?」
そう言って、母は鏡の前で髪を軽く結い直し、
風になびくリネンのロングスカートに、白いTシャツ、その上から薄い水色のカーディガンを羽織っていた。
まるで“絵になる日常”みたいな格好だった。
その時はただ、「母らしいな」と思っただけだった。
*
午後1時すぎ。
買い物袋を両手に下げて、母が帰ってきた。
「ただいま〜」
「おかえり。買いすぎじゃね?」
「安かったのよ〜。ほら、お刺身、三割引!」
母はにこにこと嬉しそうだった。
でもそのあと、ぽろっと言った。
「……そういえばね、ちょっと不思議なことがあって」
ん?
「バスでね、隣におじいさんが座ったの。とっても礼儀正しい方で」
「ふーん」
「静かに景色を見てたんだけど、降りるときに“今日は天使が隣でした”って言われたの」
──天使!?
「最初、冗談かと思ったけど、なんだか詩人みたいな言い方だったわ」
「いやいや、それ完全に口説いてるって……」
「え? そうなの?」
母はぽかんとした顔で笑った。
どうやら本気で気づいていない。
というか、いつものことだけど“自覚ゼロ”だ。
そのおじいさんは、降りるときにも
「よい一日を」って深々と頭を下げて、
母の手にしていた荷物の多さを気にしてくれたらしい。
「ああいう風に、誰にでも優しくできる人って素敵よね」
「……うん(それ、向こうは“誰にでも”じゃないよ)」
結局、帰り道も数分間だけ話したらしく、
連絡先も何も聞かれなかったと言う母は、
「もう二度と会わないかもねぇ」と笑っていた。
*
それから二日後の午後。
ポストに、やや厚めの封筒が届いていた。
宛名は母の名前。差出人は──松本薫。
「誰かしら……?」
母が封を開けると、出てきたのは和紙の手紙と、
和菓子屋の包みに入った最中の詰め合わせ。
筆ペンで書かれた手紙には、こう綴られていた。
先日は、わずかな時間でしたが、
あなたの隣に座らせていただき、心が落ち着く思いでした。
淡い香りと柔らかな声、それはきっと“心が整う瞬間”だったのだと思います。
勝手な気持ちを言葉にしてしまいましたが、
あの時間を忘れたくないと思い、こうして一筆差し上げました。
──これはもう、“完全に落ちてる”。
母は目を丸くして「まぁ〜……なんて綺麗な字!」と感心していたが、
僕は「そこじゃない」と思わずツッコミを入れそうになった。
「……で、これどうするの?」
「お礼はした方がいいかしらねぇ。でも住所、書いてないわ。
あ、“○○橋近くのバス停に夕方5時ごろにいます”って書いてある」
──来る気まんまんじゃん!!
しかもその日の夕方、
母はちゃんとそのバス停まで“買い物ついでに”行っていた。
「でも、いらっしゃらなかったの。すれ違いだったのかも」
──そう言って少し寂しそうにするの、やめて。
“母、たった一度の隣席で、誰かの人生に詩を書かせる”。
それはもう、
美人とか天然とかのレベルじゃない。
たぶん母はこれからも、
電車でもバスでも道端でも、
どこかの誰かを“うっかり癒してしまう”。
それは僕にとって、ちょっと誇らしくて、ちょっと怖い。
来週もまた買い物に出るという母に、僕は言った。
「……できれば、乗るバスだけは教えといて。心構えがいる」
「ふふ、なにそれ?」
母は笑ったけど、
その笑顔はまさに──無自覚な“癒し爆弾”だった。