「お母さん、無自覚美人です」   作:松田義和

10 / 18
第10話「母、バスで隣になった老人に一目惚れされる」

「今日はちょっと遠くのスーパー行ってみようかなと思って〜」

朝食後、洗い物を終えた母が何気なくそう言った。

 

「どこ行くの?」

「○○モール。最近できたお魚屋さん、評判いいらしいの。

 お刺身安くなってたら買ってくるね」

 

特に特別な用事があるわけでもない。

でも母は、時々こうして“少しだけ足を伸ばす”ことを楽しんでいる。

 

いつもは自転車だけど、今日は荷物が増えそうだからバスで行くという。

 

「なんか久しぶりにバスに乗るわ。ちょっと楽しみ」

「バス乗って楽しみって、変わってんな……」

「ふふっ、そう? 乗り物って、ちょっと旅気分じゃない?」

 

そう言って、母は鏡の前で髪を軽く結い直し、

風になびくリネンのロングスカートに、白いTシャツ、その上から薄い水色のカーディガンを羽織っていた。

 

まるで“絵になる日常”みたいな格好だった。

 

その時はただ、「母らしいな」と思っただけだった。

 

 

午後1時すぎ。

買い物袋を両手に下げて、母が帰ってきた。

 

「ただいま〜」

「おかえり。買いすぎじゃね?」

「安かったのよ〜。ほら、お刺身、三割引!」

 

母はにこにこと嬉しそうだった。

でもそのあと、ぽろっと言った。

 

「……そういえばね、ちょっと不思議なことがあって」

 

ん?

 

「バスでね、隣におじいさんが座ったの。とっても礼儀正しい方で」

「ふーん」

「静かに景色を見てたんだけど、降りるときに“今日は天使が隣でした”って言われたの」

 

──天使!?

 

「最初、冗談かと思ったけど、なんだか詩人みたいな言い方だったわ」

「いやいや、それ完全に口説いてるって……」

 

「え? そうなの?」

母はぽかんとした顔で笑った。

 

どうやら本気で気づいていない。

というか、いつものことだけど“自覚ゼロ”だ。

 

そのおじいさんは、降りるときにも

「よい一日を」って深々と頭を下げて、

母の手にしていた荷物の多さを気にしてくれたらしい。

 

「ああいう風に、誰にでも優しくできる人って素敵よね」

「……うん(それ、向こうは“誰にでも”じゃないよ)」

 

結局、帰り道も数分間だけ話したらしく、

連絡先も何も聞かれなかったと言う母は、

「もう二度と会わないかもねぇ」と笑っていた。

 

 

それから二日後の午後。

ポストに、やや厚めの封筒が届いていた。

宛名は母の名前。差出人は──松本薫。

 

「誰かしら……?」

 

母が封を開けると、出てきたのは和紙の手紙と、

和菓子屋の包みに入った最中の詰め合わせ。

 

筆ペンで書かれた手紙には、こう綴られていた。

 

先日は、わずかな時間でしたが、

あなたの隣に座らせていただき、心が落ち着く思いでした。

 

淡い香りと柔らかな声、それはきっと“心が整う瞬間”だったのだと思います。

 

勝手な気持ちを言葉にしてしまいましたが、

あの時間を忘れたくないと思い、こうして一筆差し上げました。

 

──これはもう、“完全に落ちてる”。

 

母は目を丸くして「まぁ〜……なんて綺麗な字!」と感心していたが、

僕は「そこじゃない」と思わずツッコミを入れそうになった。

 

「……で、これどうするの?」

 

「お礼はした方がいいかしらねぇ。でも住所、書いてないわ。

 あ、“○○橋近くのバス停に夕方5時ごろにいます”って書いてある」

 

──来る気まんまんじゃん!!

 

しかもその日の夕方、

母はちゃんとそのバス停まで“買い物ついでに”行っていた。

 

「でも、いらっしゃらなかったの。すれ違いだったのかも」

 

──そう言って少し寂しそうにするの、やめて。

 

“母、たった一度の隣席で、誰かの人生に詩を書かせる”。

 

それはもう、

美人とか天然とかのレベルじゃない。

 

たぶん母はこれからも、

電車でもバスでも道端でも、

どこかの誰かを“うっかり癒してしまう”。

 

それは僕にとって、ちょっと誇らしくて、ちょっと怖い。

 

来週もまた買い物に出るという母に、僕は言った。

 

「……できれば、乗るバスだけは教えといて。心構えがいる」

 

「ふふ、なにそれ?」

 

母は笑ったけど、

その笑顔はまさに──無自覚な“癒し爆弾”だった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。